No | 128564 | |
著者(漢字) | 春日,翔子 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | カスガ,ショウコ | |
標題(和) | 視覚運動学習における行為 : 結果連関の潜在的な構築過程に関する研究 | |
標題(洋) | The Implicit Development of Causal Relationships between Actions and Consequences in Visuomotor Learning | |
報告番号 | 128564 | |
報告番号 | 甲28564 | |
学位授与日 | 2012.07.11 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(教育学) | |
学位記番号 | 博教育第199号 | |
研究科 | 教育学研究科 | |
専攻 | 総合教育科学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 【研究の目的】 ヒトは、多様かつ不確実性に満ちた環境で、自身も発達や成長によって変化する身体を操って意図通りに運動することができる。このような動作を自在に獲得する運動学習能力は、古典的には、スポーツ動作や複雑な順序のボタン押しのような新奇な運動課題を対象として研究が行われてきた(Newell and Ranganathan, 2009)。トレーニング回数・時間間隔・フィードバック方法のような要因が運動学習成績に及ぼす影響について一定の知見はもたらされたものの、こうした研究方法の欠点は、対象としている運動課題が特殊で一般性を欠いており、行動変化の背後で働いている具体的な脳内の運動学習過程と対応づけることができない点にあった。運動制御・学習研究で近年、一般的に用いられている上肢の到達運動は非常に単純な運動課題でありながら、複数の関節(肘と肩)を同時に制御するという適度な複雑さを持ち、さらに、運動の計画、座標変換、運動指令生成といった随意運動の構成に必要な要素をすべて兼ね備えている。このような単純な運動課題遂行時に、新奇な環境を課したときにヒトの身体運動に生じる適応過程を、神経生理学的・計算論的な方法を援用することによって明らかにしようというアプローチが現在では主流になってきている(Shadmehr and Wise, 2005)。 中でも、到達運動学習の脳内過程を計算論的な方法で記述する試みは成功をおさめ、行動学的実験結果を非常に良く説明することが知られている(Wolpert et al., 1998)。現在の運動学習の枠組みは、まず運動計画に基づいて筋骨格系を動かすための運動指令が出力され、運動実行後には計画した運動と実行された運動の間に生じた誤差が、視覚や固有感覚を介したフィードバック情報として受容され、次の試行における運動指令の修正に用いられる、というものである。この機序により、たとえ新しい環境に曝されて既存の脳内制御器がうまく働かなくても、運動誤差に基づく逐次的な運動指令の修正が生じると、最終的には新環境に適した新たな運動制御器を獲得することができるのである。 この運動学習過程が適切に働くには、どの脳内制御器が運動誤差を引き起こしたのかという対応付け、いわゆる適切な「信頼割り当て(credit assignment)」(Houk et al., 1996)が必要である。片手による到達運動課題のような単純な課題においては、脳内の運動制御過程とそれが引き起こした運動誤差の間には一対一の関係が成立しており、運動誤差によって修正を受けるべき脳内過程は一意的に決定するという自明性を持っていた(図1A)。ところが、脳が実際に直面する状況はもっと複雑である。たとえば、両手で単一の物を操る場合では、二つの効果器(腕)への運動指令が単一の運動誤差を引き起こす。あるいは逆に、単一の効果器の運動が例えばビリヤードの玉突きのように複数の運動誤差を引き起こす場合も多い。運動学習の一連のプロセスは、意識に上らず潜在的なレベルで進行することが知られている(Mazzoni and Krakauer, 2006)。このような潜在的な運動学習プロセスは、複数の運動指令と複数の誤差情報を果たしてどのように関連付け、それぞれの運動指令を修正するのだろうか。本論文は、運動指令と視覚からの誤差情報が一対一に対応しない状況における運動学習メカニズムを解明することを目的とした。 研究1では、まず同時に両腕を動かした結果単一の運動誤差が生じた場合、その運動誤差がそれぞれの腕の運動学習に与える影響を検証した(図1B)。また、研究2では逆に片腕を動かした結果同時に複数の運動誤差が生じた場合、それぞれの誤差情報が運動学習に与える影響を検証した(図1C)。 【研究1:両腕運動中の潜在的な運動誤差割り当てにおけるクロストーク】 (1)実験1 本研究では、到達運動課題を用いてさまざまな視覚的外乱に対する運動の適応動態を調べることで、脳内過程の変化を検証した。被験者は自分の腕が見えない状態でハンドルを操作し、右腕の手先運動方向を表すカーソルを、コンピュータ画面上に呈示された前方のターゲットに到達させる。また、手先運動を視覚的には呈示しないものの、左腕も右腕と同時に前方へ動かし続けるよう教示した。運動中、カーソルには被験者が気づかない程度に漸増する、始点を中心とする回転変換を加えた。視覚情報は右腕または左腕の真上に呈示した(図2A)。 この状況でカーソルをターゲットに到達させるには、漸増する回転変換を打ち消す向きに右腕の運動方向が変化する学習が生じる必要がある。実験の結果、被験者は右腕でカーソルを動かしていることを事前に知っていたにもかかわらず、右腕だけでなく左腕にも運動方向の変化が観察された(図2B、C)。ただし、こうした左腕の適応は視覚情報を左腕の真上に呈示した場合のみ観察された。一方、カーソルに回転変換を加えるのではなく、ターゲット自体を徐々に回転させた場合には、見かけ上右腕の運動は回転変換を加えた場合とほぼ同じように変化するにもかかわらず、左腕の運動方向は変化しなかった。このため、回転変換により左腕運動方向が変化したのは、右腕運動方向の変化に連動した力学的作用ではなく、左腕の脳内過程が誤差情報を自己の運動結果として誤認したことが原因であると考えられる。 (2)実験2 実験2では、両腕の手先位置をカーソルで呈示するが、左右のカーソルに対して逆方向あるいは同方向の回転変換を加えることによる運動学習への影響を検討した(図3A)。実験1同様、回転変換量を漸増させ被験者がその存在に気づかないようにした。同方向の回転変換が加えられたときに比べ、逆方向の回転変換が加えられた場合には、運動学習成績が低下した(図3B)。これは、互いに逆方向の運動誤差に対する二種類の運動修正が同時に起きたことで、双方の学習効果が打ち消し合ってしまったことに起因すると考えられる。つまり、両腕の運動を行った結果、同時に二つの誤差情報が呈示されると、各腕の脳内過程は潜在的にその両方を参照してしまうことが明らかになった。 【研究2:視覚運動変換学習における潜在的な複数の運動誤差処理過程】 逆に、片腕運動を実行したときに二つの運動誤差が生じた場合には、運動学習系はこれら複数の誤差情報をどのように運動修正に用いるのだろうか。研究2(実験1、2)では、被験者が片腕で到達運動課題を行う際、5-6試行に一度だけ、回転変換したカーソルを一つ、または二つ、呈示した(各条件の回転角度は±45°、±30°、±15°、±10°、±5°:図4)。各カーソルが及ぼす運動学習系への影響を、回転変換の次の試行における運動修正方向として定量化した。線形モデルを仮定することにより、各カーソルの運動誤差情報が誤差の修正に活かされる割合(参照率)を求めた。 カーソルが一つだけ呈示された場合には、回転角度が小さい(運動誤差が小さい)ほど参照率が高いというパターンが観察された(図4B)。これは、小さい誤差、すなわち予測に近い結果の情報ほど脳内過程と関連付けられやすいことを示唆している。興味深いことに、このような誤差の増大に伴う参照率低下のパターンは、二つのカーソルが同時に呈示された場合にも保持された。しかし、参照率の値は、各カーソルが単独で呈示されたときの39%に減少した(図4B)。カーソルを三つ同時に呈示しても(実験3)、各カーソルの参照率は、実験1、2同様のパターンを示したが、その値はさらに19%まで減少した。これらの結果から、複数の運動誤差情報は一つの脳内過程に同時に割り当てられ、すべての情報が次の試行の運動指令修正に活かされること、ただし、各運動誤差への応答は呈示される誤差情報の数に依存して減少することが示された。 【結論】 従来の運動学習研究は、行為の主体(脳内運動制御器)とその結果(誤差情報)が一つずつ存在し、互いの対応関係が比較的自明な場合を対象としてきた。本論文では、両者が複数存在する場合、運動学習系が互いの対応関係をどのように構築するのかを検討した。そして、行為の結果同時に起こる複数の視覚的な運動誤差情報は、行為の主体に同時に参照されることが明らかとなった。このような対応付けは、被験者の明示的な知識や誤差の存在の主観的知覚に依らず、潜在的なレベルで自動的に行われる。このような運動誤差情報を運動学習系が参照するときの「混線」の存在は、本研究によって初めて示された(図5A)。 ただし、日常動作において運動学習系が直面する問題はさらに複雑である。行為と結果が多対多の関連性を持つ状況、互いに様々な時間的前後関係や空間的関係を持つ場合、複数のヒトによる共同運動、多感覚統合などの問題に、運動学習系はどのように対応しているのだろうか(図5B)。本研究で得られた行動学的実験結果を踏まえて、このような脳内過程と運動誤差に関するさらに多様な状況の信頼割り当てのメカニズムを、計算論的・神経生理学的視点から解明する必要がある。 本論文の結果は、実行する運動についての運動誤差情報の与え方によって、運動学習を潜在下で様々に操作し得る可能性を示唆する。そこで、たとえばフィードバックする視覚情報を操作することで、スポーツ技能の習得や脳疾患による運動機能障害のリハビリテーション効果を促進できる可能性がある。加えて、いくつかの精神疾患に見られる運動学習の障害は、自己の行為と運動結果との不適切な関連付けに起因するため(Frith et al., 2000)、このような病態に対する治療や診断法の開発につながることも期待できる。 図1 研究内容の概観 図2 研究1(実験1)の方法(A)・結果(B、C) 図3 研究1(実験2)の方法(A)・結果(B) 図4 研究2(実験1、2)の方法(A)・結果(B) 図5 結論(A)と展望(B) | |
審査要旨 | 多様な環境下で身体運動を自在に遂行できる我々の能力は、運動の実行結果に応じて運動指令を修正する脳の運動学習の働きに支えられている。この運動学習系の作動機序を理解することは、身体教育学における重要課題の一つである。本論文は、運動指令を生成する脳内過程と運動実行結果の情報との間に一意的な関係が成立しない場合、脳が両者の因果関係をいかに構築し、運動指令の修正を行うのかを明らかにしようとしたものである。 第1章では、本論文が、運動学習の中でも、運動指令を環境に応じて変化させる「運動適応」を取り扱うという立場が表明された後、画面上のカーソルをハンドル操作によりターゲットまで移動させる到達運動を運動学習研究に用いることの様々な長所が述べられる。この方法によって明らかにされてきた運動学習の潜在性などの特徴が概説されるとともに、適切な運動指令修正が生じるためには、運動指令を生成した脳内過程と、運動実行結果の情報とが適切に対応づけられることが重要であると特に強調されている。これを受けて、従来の研究では、両者の間に一意的な対応関係がある場合のみが取り扱われてきたが、実際には、例えば両腕を同時に動かす時のように、複数の脳内過程が複数の運動実行結果を生み出すような状況が起こりうることが指摘され、多対多の対応関係が存在する状況での運動学習系の振る舞いを解明するという本研究の目的が述べられる。 第2章では、両腕で同時に到達運動を行う課題中、右手の情報だけがカーソルとして呈示されたとき、その単一の運動情報が両腕各々の脳内過程にどのように対応付けられるかが検討されている。右手・カーソル間の位置のずれを少しずつ増加させると、ずれを補償するために右手運動方向が無意識のうちに修正されていくが、右腕がカーソルを動かしているという明示的知識を被験者が持っていたにも関わらず、このような修正運動が、カーソルの動きに無関係な左手にも生じることが見出された。このことから、両腕2つの運動実行の脳内過程が、単一の運動誤差の情報を元に修正されることが示された。 第3章では、逆に、単一の運動実行脳内過程が複数の運動誤差情報を引き起こす場合が検討されている。到達運動中の手の動きと同期して複数のカーソルが動き、複数の運動誤差情報がもたらされるという新奇な状況を経験すると、引き続き行う到達運動において、複数の運動誤差情報を同時に加味した運動方向の修正が生じること、すなわち、複数の運動誤差情報が、単一の運動実行の脳内過程に同時に関連づけられることが明らかにされた。 第4章では、以上の結果に基づき、複数の運動実行脳内過程と複数の運動誤差情報を潜在的なレベルで複雑に関連づけるという、本研究によって新たに明らかにされた運動学習系の特徴が議論され、その神経基盤や今後さらに取り組むべき課題が考察されている。また、運動実行結果の情報を操作することによる効率的な運動スキルの獲得法の開発等、身体教育、リハビリテーション現場への応用可能性が述べられている。 本論文は、複数の運動実行の脳内過程が、複数の運動実行結果を引き起こす場合、それらの間に多対多の因果関係を潜在的なレベルで構築するという運動学習系の性質についての新しい知見を明らかにした点で特に意義が認められる。よって,本論文は博士(教育学)の学位を授与するに相応しいものと判断された。 | |
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