学位論文要旨



No 128565
著者(漢字) 江畑,冬生
著者(英字)
著者(カナ) エバタ,フユキ
標題(和) サハ語名詞類の研究 : 接辞法と統語機能を中心に
標題(洋)
報告番号 128565
報告番号 甲28565
学位授与日 2012.07.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第871号
研究科 人文社会系
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 林,徹
 東京大学 教授 熊本,裕
 東京大学 教授 西村,義樹
 神戸市看護大学 准教授 藤代,節
 東京外国語大学 准教授 渡辺,己
内容要旨 要旨を表示する

本論文はサハ語の名詞,形容詞,副詞についての記述的研究である.本論文ではこれら3品詞をまとめて名詞類と呼ぶ.本論文は4部13章から成る.本論文の特徴は,従来の品詞分類である名詞,形容詞,副詞を名詞類という1つの大きなグループとして捉える点にある.これら3品詞を名詞類として一括する理由の第1は,名詞類に属する語彙素が形態法上の共通性を有するためである.第2の理由は,名詞類に属する語彙素の統語機能が,名詞句,連体修飾句,副詞句にまたがり部分的に重なり合うためである.従来の品詞分類は,このようなサハ語名詞類の形態統語的振る舞いを必ずしも反映するものではない.本論文では結論として,名詞類に属する語彙素をその統語機能から8つのグループへ下位分類することを提案する.この分類は一義的には語彙素の統語機能に基づくものであるが,二語以上から成る句の振る舞いを記述する際にも有効である.接辞法から見ると,名詞形態法と動詞形態法は対照的である.動詞の場合,その統語的環境に応じて動詞語尾が選択され必ず付加される.ところが名詞類には,ある統語的環境に置かれる場合に必ず付加される屈折接辞は無い.逆に言えば,名詞類の語彙素に屈折接辞の何も付加しない語形は,名詞句・連体修飾句・副詞句のいずれにもなる可能性があり多機能性を有している.サハ語は比較的に接辞法の豊かな言語であると言えるが,その一方で屈折接辞を欠く語形が広範囲に用いられる事実は興味深い.本論文では,無人称単数主格形で現れる文の諸要素の成立条件についても記述する.以下では,各部・各章の内容を示す.

第I部では,まず本論文の方針を述べ,次にサハ語文法の全体を概観しつつ,形態音韻的交替および接辞法について包括的記述を行う.第1章で本論文の目的と方針を述べる.第2章で言語の概略を述べる.第3章は形態音韻的交替を記述する.本論文による新たな貢献として,サハ語の見かけ上複雑な形態音韻的交替は,接辞の交替規則および語幹の分類により統一的に説明可能であることを示す.第4章はサハ語形態法の中心をなす接辞法を記述する.接辞は名詞類に付加するものと動詞に付加するものに大別される.通言語的に特異なのは,サハ語の派生接辞の中に極めて生産性の高いものがあり,語の形態的緊密性に反して語基の文法範疇を部分的に保持する派生が可能である点である.例えば名詞語幹からの派生では,複数接辞(屈折接辞の1つ)に派生接辞が後続しうる.動詞語幹からの派生では,語基である動詞部分が依然として対格目的語を支配することが可能である.派生におけるこのような形態法と統語法のミスマッチは,形動詞にも見られる.形動詞は動詞の屈折形式の1つであるが,形態法上は名詞語幹同様に働き,屈折形式でありながら派生接辞が付加することもある.この時に形動詞部分がなおも対格目的語を保持しうるため,やはり形態法と統語法のミスマッチを生む.

第II部では,名詞類に属する語彙素の有する統語機能に着目する.はじめに従来の研究における名詞・形容詞・副詞の分類が必ずしも形態統語的振る舞いを反映するものではないことを示し,これら3品詞の形態統語的振る舞いを再検討する.第II部での主張は主に次の3点である.[1] 名詞・形容詞・一部の副詞は,施しうる形態法が共通している.[2] 名詞・形容詞・副詞という語彙素の分類と,名詞句・連体修飾句・副詞句という統語レベルの分類は一対一に対応しない.これらはむしろ部分的に重なりあっている.[3] 大きなグループである名詞類は,語彙素の統語機能から見ると,相対的に小さな8つのグループに下位分類される.第5章では,先行研究が行う品詞分類は,実際の形態統語的振る舞いを必ずしも反映するものではないことを指摘する.さらに,語彙素レベルにおける品詞分類を困難にさせる要因には,表面上の無人称単数主格形(屈折接辞が付加されない語形)が統語法上の多機能性を持つ点があることを指摘する.第6章では名詞句用法について検討する.名詞と形容詞は名詞句としての用法を十全に持つ.一部の副詞は,名詞の屈折形態法が施され名詞句として働くことが可能である.第7章では連体修飾の構造を記述する.連体修飾の方策には無標示型・所有型の2つがある.名詞類に属する語彙素は,2種類の連体修飾機能の両方ないし片方を持つか,あるいは連体修飾機能を持たない.7章では主として,取りうる連体修飾構造と品詞の相関を検討し,2種類の連体修飾構造の両方が可能な場合について構成要素間の意味的関係を記述する.第8章は副詞句用法を扱うが,名詞形態法を施すことが可能で,かつ副詞句としても機能する語彙素について特に記述する.これに当てはまる語彙素は,従来の品詞分類では名詞でもあり副詞でもあることになってしまい,二重分類になってしまうという問題がある.第9章では第II部の議論をまとめる.先行研究における名詞・形容詞・副詞という語彙素レベルの分類は,これら3品詞に対し共通して名詞形態法を施しうること,統語機能(名詞句,連体修飾句,副詞句として働く能力)が部分的に重なり合うことを考慮していない.本論文ではある語彙素が複数の統語機能を有することを積極的に認め,名詞類全体を包括的に捉え,それらを相対的に小さな8つのグループに下位分類することを提案する.この分類は一義的には語彙素の分類であり先行研究に見られる二重分類を解消するなどの利点を持つが,同時に,二語以上から成る句や節の統語的振る舞いにも合致することから,句や節の有する統語機能の記述にも有効性を持つものである.

第III部では,統語機能に着目した第II部とは対照的に,語形に着目する.本論文で無人称単数主格形と呼ぶ語形(屈折接辞が付加されない語形)は統語法上の多機能性を有する.ここでは格接辞を伴う名詞句との対比を行うことにより,無人称単数主格形の3つの用法について記述を行う.第10章では無人称単数主格形の目的語の成立条件を,他の2つの目的語の形式(いずれも格接辞を伴う)との対比を通して記述する.目的語の3つの形式のうち,対格目的語をデフォルトの形式であると認めることが出来る.分格目的語は,命令・要求を含意する文で用いられ,対象の任意性または量の不定性という語用論的性質を有する場合に用いられる.一方,無人称単数主格形の目的語の成立には,まず形態的要因ないし語彙的要因が強く働き,それを妨げない範囲で語用論的要因も働いている.つまり無人称単数主格形の目的語は名詞句用法の1つであるが,語彙素の統語機能のみからは説明できないものである.第11章では無人称単数主格形の二次述語としての用法を記述する.無人称単数主格形の二次述語は副詞句用法の1つと考えられるが,語彙素自体が副詞句機能を持つ場合とは異なり,副詞句を成立させている要因は語彙素自体の性質ではなくむしろ動詞の種別であると指摘する.第12章では共格名詞句との対比を通して,接尾辞-LEExの付加した句の記述を行う.接尾辞-LEExの付加した句は,意味上では共格名詞句と同様の働きをするように見える.しかしながら,常に述語と直接関係する共格名詞の場合とは異なり,接尾辞-LEExによる派生語はあくまで形態上は無人称単数主格形である.従って統語法上の多機能性(名詞句・連体修飾句・副詞句のいずれとしても働く点)が見られ,また統語的働きに応じてその意味解釈を変える.

第IV部すなわち第13章では本論文の結論をまとめる.本論文の主張は次の4点にまとめられる.[1] 主として形態法から見ると,サハ語の名詞類(名詞・形容詞・副詞)を一括して捉える必要がある.[2] 名詞類に属する語彙素は,その統語機能から見ると8つの小さなグループに下位分類される.[3] 名詞類に属する語彙素の多くは複数の統語機能を持つ.この多機能性は無人称単数主格形において顕著に見られる.[4] サハ語の名詞類においては,機能を標示する接辞法が充実している一方で,その接辞法に頼らない無人称単数主格形に多機能性が見られる.この点はある意味矛盾であるがこの言語の特質でもある.

審査要旨 要旨を表示する

『サハ語名詞類の研究 -接辞法と統語機能を中心に-』は、シベリア東部のサハ共和国(ロシア連邦)で話されるチュルク系言語のひとつであるサハ語(ヤクート語)における、動詞以外の主要な語類(本論文では名詞類と呼ばれる)の形態的・統語的特徴に基づく分類について、形式以外の基準に依ることを極力排除しつつ、かつ可能な限り網羅的に検討した労作である。

第1部(第1章から第4章)では、サハ語の概説、屈折や派生における形態音韻論的交替の解説の後、本論文で扱われる全ての派生接尾辞(44種)と屈折接尾辞(164種)が詳しく説明される。本論文の中心的テーマであるサハ語の名詞類の検討のために必要な基礎的データが余すところなく提示される。

第2部(第5章から第9章)では、従来よりサハ語で用いられている、名詞、形容詞、副詞への3つの語類への分類が、サハ語の実態を捉えていない点が鋭く指摘される。第1部で見た形態的特徴とともに、ここでは特に統語的特徴に重点を置いて論じられる。取り上げられる統語的特徴は、名詞句として働くことができるかどうか、連体修飾要素になれるかどうか(なれる場合はさらに、修飾される要素に所有接尾辞が必要かどうか)、そして副詞句として働くことができるかどうか、という3点である。これらの基準に厳密に従いながら、従来サハ語の研究で名詞(代名詞、指示詞、数詞を含む)、形容詞、副詞とされてきた語は、3分類よりも8分類されるべきであることを主張する。

第3部(第10 章から第12章)では、筆者が「無人称単数主格形」と呼ぶ、何の屈折接尾辞も伴わない語幹そのままの語形と、接尾辞 -LEExの付加した句について扱う。「無人称単数主格形」は、対格接尾辞を伴う語や、分格接尾辞を伴う語と同じように、目的語となることができる。また、二次述語と呼ばれる付帯状況を表す副詞句を形成することができる。このように、「無人称単数主格形」は名詞類に属する語のさまざまな語形の中でも、もっとも多機能な語形であると主張する。また、第2部の結論として提示された名詞類の8分類の基準となった統語的特徴が、語だけでなく句の統語機能の分類に使えることを指摘した上で、proprietiveの接尾辞 -LEExが主要部の語に付加した句は、すべての統語機能を持つことを明らかにする。

第4部(第13章)では、本論文の主張がまとめられ、サハ語の特徴を記述するためには、名詞、形容詞、副詞をひとまとめにした上で8つに下位分類すべきこと、名詞類に属する語は多機能であるが、その多機能性は「無人称単数主格形」にもっとも顕著に現れていることを再度主張して終わる。

伝統的品詞分類に基づくサハ語研究に対する批判が随所に見られるものの、むしろ伝統的品詞分類をある程度前提としながら、膨大なコーパスと調査データを用いて問題点を明示し、それらの解決策を提示している点に、本論文の大きな貢献があると考えられる。サハ語の名詞類の分類について、これまで書かれたもっとも詳細な研究であることは明らかであり、今後本論文を超える研究はなかなか現れないであろう。

以上の理由により、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するに十分値するものと判断する。

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