学位論文要旨



No 128571
著者(漢字) ユー,ブルラン
著者(英字)
著者(カナ) ユー,ブルラン
標題(和) 文明・キリスト教・独立-尹致昊における「開化」の模索
標題(洋)
報告番号 128571
報告番号 甲28571
学位授与日 2012.07.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第264号
研究科 法学政治学研究科
専攻 総合法政
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 平野,聡
 東京大学 教授 苅部,直
 東京大学 教授 宇野,重規
 東京大学 教授 飯田,敬輔
 東京大学 教授 石川,健治
内容要旨 要旨を表示する

本稿の目的は、19世紀後半の開化期に於ける「<文明>の受容者側を中心とした<キリスト教的文明化>の発想」の解明である。そのために1886年から1906年まで書かれた尹致昊(ユンチホ)『日記』の前期を主な分析の対象とする。

ここで問題になるのが、現在とは全く異なる理解に基づいていたキリスト教と文明との絡み合わせである。またその上に、今度は両者とも外から伝わったものとして、元々の発信者側に於けるその意味合いと、それを受け入れた受信者側の理解とのズレの問題が重なる。したがって本課題を解明するには、当時に於ける<文明>やキリスト教の含意を分析し、それを踏まえつつ、両者を昨今の生存の危機を打開するための唯一の道として位置付けた、受容する側の構想を理解する必要がある。尹致昊、そして彼の『日記』はそのための手掛かりである。

そこで本稿では、先ず尹致昊に於ける<文明(論)>とキリスト教のそれぞれの定着や、その結合による<キリスト教的文明化>の形成過程を追跡した。彼の関心は理論的探求より目前の危機を如何にして解決するかに重点が置かれており、故にその考察も現状に於ける病弊を探り出すこと、その解決のための手段を模索することに傾いていた。そしてこの時彼が着目したのが、当時帝国主義の拡大と共に欧米全般に亘って多大な影響を及ぼしていた、一種の男性的エネルギー論とも言うべき「気力」論であった。尹致昊はこの議論を積極的に活用し、一方では彼が病根として指目した儒学に対する批判を、同時に他方ではその克服の方案としてキリスト教-文明(論)の分析を行いながら、その上に自らの文明化の企画を構築していた。

このような文明(化)観が形成・定立されたのは、10年にも及ぶ彼の亡命-留学の時期であり、それはちょうど甲申政変(1884)から日清戦争(1894)までの、すなわち清によって朝鮮の主権が脅威にさらされた時期と一致する。その時、事実上の亡命客として先鋭化された彼の意識は、当時の圧倒的な西洋体験によってさらに急進化し、結局のところ、彼に於ける清と日本、朝鮮と欧米との極端的な対比を生み出す主な原因となった。

これを背景に、帰国したばかりの彼の目の前で広げられた、今度は日本とロシアとの角逐によって各政派が目まぐるしく浮沈する混乱状態の政局は、朝鮮に対する彼の認識を悲観的にさせるに十分であった。そこで以上の模索から実際の適用へ、そしてその推進の主体を探していた彼は、期待を寄せた朝鮮国内の各勢力に次々と失望を覚えた時、自力で文明化する力量がないなら、代わりにそれをしてくれる文明国の何れかに自らを「委託」するという(思想的)極端に流れてしまう。

その過程で彼からは二つの特徴的な傾向性、すなわち<無理>と「寧不若」が現れる。例の儒学批判で端的に表れるように、彼は思弁的探求を非難し、実践を強調していた。だが問題は、彼にとって<文明>は、そして特にキリスト教は絶対的な規準として位置付けられていたことである。そうである以上、現状の問題に対する方案は、中でも文明化は正しいものでなければならない。ところが、彼は長い外国経験から、文明化の大義に於ける理念と現実との乖離を十分に熟知していた。では、以上のように理論的な分析への道を自ら閉ざそうとしていた彼は、この矛盾を如何に克服し、どのように文明化を進めようとしただろうか。

そこで、当時を直ちに対処せねばならない緊急の状態だと判断していた彼は、矛盾の解決ではなく、既にある選択肢のそれぞれから期待できる効用の<計算>に入ってしまう。当然のことにその間で生じる絶え間ない疑問に彼は非常に苦しんでいたが、このような<計算>との路線では事実上その解決は望めなかったため、終に彼は疑い自体の放棄にまで至る。「寧不若」とは、その問題点を承知しつつも敢えて選択しようとした時、その<無理>を正当化するための論法に他ならなかった。

そして「独立新聞」や独立協会活動を通じた一生一大の改革への挑戦が失敗に終わり、失脚して事実上地方に流された時、今度は彼の企画の根幹である<キリスト教的文明化>そのものを激震させる事件を経験する。それが義和団の乱から触発された「北京略奪事件」である。勿論略奪という行為自体も問題になったが、それ以上に文明国が、しかも正しさの象徴ともいうべき宣教師(団体)が自らの蛮行を擁護する過程で<文明>に反する議論を公然と強弁した点で衝撃を倍加させた。そして、この類の主張は当時急速に発達していた通信ネットワークを通じて文明世界の各地に波及され、終には<キリスト教的文明化>の意義そのものをめぐる論争を巻き起こした。

言うまでもなくこのような「宣教師の略奪」は、19世紀後半以降激化一路の「宣教師問題」に悩みつつあった東アジアのキリスト教-文明論者一般に、中でも前述の通りの矛盾に陥っていた尹致昊にとって、これまでの路線に深刻な疑問を抱かせる問題であった。ではここで、果たして<文明>、文明、そして文明化とは、受容する側にとって如何なるものであっただろうか。弊害を認知したにも関わらず受け入れ、しかも適用に赴く最中、ついに矛盾までを経験した場合では。

興味深いことに尹致昊はこれに答えようとするより、さらなる<無理>を選んだ。それはなぜだったのか? 一見不合理に見えるこのような歩みは、しかし、当時文明化の発想から想定された、文明と野蛮、そして半開までを包括する世界の「学校」化の中で、あくまで真の生徒でなろうとし、そして生徒としてあり続けようとした彼にしてはむしろ自然な選択であった。これを理解するには、今までの思想的伝播に於ける内容の理解中心の観点とは全く異なる、適用と実践からの新しい観点を必要とする。そこで本稿は、文明論者であり、それ以上に文明化論者であった尹致昊という人物の分析を通じて、<文明>の受容する側を中心とした新しい「開化」の思想史を試みる。

審査要旨 要旨を表示する

尹致昊(ユン・チホ、1865-1945)は、朝鮮王朝の末期に、西洋を先駆者とする「文明化」の道に国を導こうとした知識人として知られる。尹は日本・中国・米国での海外生活とキリスト教への入信をへて、19世紀の末から朝鮮の言論界と官界で活躍した。この思想家については従来、「開化派」知識人にしてキリスト教受容の先駆者という側面、あるいは後年、日本統治下でのいわゆる「親日派」的言動ばかりが有名であった。しかし本論文は、尹が青年時代から書き残した厖大な英文日記と、さまざまな雑誌論説を手がかりにして、その前半生における精神生活を深く掘りさげ、キリスト教と密接に結びついた、その文明化の構想を描きあげるとともに、その意義と限界を明らかにしようとする。序章と終章を含め、全部で七章からなる論文である。

序章では、尹致昊が抱えていた「文明化」の課題を、19世紀東アジア思想史の広い文脈の中に位置づけながら、本論文の分析視角について説明している。尹にとって「文明」とは、物質的側面で生活が快適で便利になることにとどまらず、道徳的成熟や個人の人格の完成をも含む、全人類が必ず進むべき「道」であった。そして西洋思想に早い時期から触れ、キリスト教に入信した尹にとって、朝鮮という国が「文明化」を達成する手段は、この時代においては西洋の文化に学ぶことであり、本当の意味でそれをなしとげるには、「文明」の土台をなすキリスト教までをも受容しなくてはいけない。しかし、キリスト教と東アジアの伝統文化との間に現実に起きている軋轢を見すえながら、「文明化」によって国家の「独立」を確保するという課題意識をどうやって貫くか、早い時期から苦悩することになる。

しかし、しばしば誤解されるように、尹を含む「開化派」知識人は、現実にある19世紀の西洋諸国を理想化し、それとの同化を自己目的としたわけではない。尹致昊が滞日時代に親交をもっていた福澤諭吉と同じように、彼らはすでに、アジア人への偏見や植民地支配といった、西洋諸国の行動の負の側面をも知り、それに対する批判意識を抱いていた。「文明」の極致には、西洋諸国もまだ到達していないのであり、自国の現状が「文明化」の過程ーーcivilizationは「文明」であるとともに「文明化」でもあるーーのなかでどの程度に達しているのかを見極めながら、当座の戦略を考えることが、東アジアの「文明化」論者にとって、共通の思考様式だったのである。とりわけ尹致昊の関心は、<キリスト教的文明化>をめざす方針に基づいて、朝鮮の現状における病弊を探り出し、解決のための手段を求めることに向いていた。

第一章と第二章は、1880年代から19世紀末まで、その「文明」と「文明化」の観念が形成され、定着した時期の言説を分析している。それは甲申政変(1884年)から日清戦争(1894-1895年)に至る、清・ロシア・日本によって朝鮮の主権が脅威にさらされ、それぞれの外国と結びついた政治党派が国内で抗争を続ける、激動の時期であった。その間に、亡命者・留学生として米国と中国(上海)で長く暮らした尹致昊は、みずから西洋文化を生活のなかで体験することを通じて、「文明化」を通じての国家の「独立」という課題を熱烈に追求するようになっていた。

尹が注目したのは、「文明」を支えるのに不可欠とされる「気力(energy)」である。「気力」をめぐる言説は、豊かになった社会で、人々が柔弱になり「女性化」している現状への批判として、英米の知識人や政治家が当時盛んに唱えていたところであり、社会ダーウィニズムの影響を受けながら、国家間の優勝劣敗の競争を正当化する機能も果たしていた。この「気力」論において強調されたのは、同時に「男らしさ」であり、武人の息子として育った尹致昊にとって、それは「文明化」への熱意を強く支えるものであった。キリスト教についても、朝鮮の人民に精神の規律をもたらし、「男らしき気性」を回復させる信仰として、尹は期待していたのである。

しかし当時、朝鮮の政府・人民双方の精神を支配していたのは儒学である。その文化のどこにキリスト教信仰との接点を見いだすか、どこまで現地の習俗に妥協するかは、欧米から来た宣教師たちによって真剣に議論されていた。「愛国」の発想を持たず、形式化された儒学道徳と儀礼に縛られた朝鮮の人民と王室に関して、尹致昊もまた、ほとんど絶望的な感慨を日記に書きつけている。とりわけ、「男らしさ」を欠き、決断力も責任意識も見せない国王(のち改称して皇帝)の高宗(コジョン)に対し、「開化」のための助言をじかに与えながら、日記のなかでは厳しく批判したのである。こうした暗い状況に対して尹がひとまず選んだのは、現状に見あった「計算」を働かせ、「文明化」の補助手段として儒学を部分的に用いようとする戦術であった。

第三章では、朝鮮の「開化派」知識人たちが初めて大衆教化にとりくんだ、独立協会の運動(1896年~1898年)に尹致昊が中心人物として加わり、挫折した過程を描いている。朝鮮では初めての日刊新聞である『独立新聞』を韓国語・英語の二種類で刊行し、政治改革のための大衆集会を開くなど、独立協会は「文明化」にむけて人民と政府を啓発する活動にとりくんだ。しかしその過程では、高宗と近臣たちの暗愚、協会の方針を理解しないまま暴力行為に走る大衆、さらには協会に集まった知識人自身の道徳的腐敗といった問題がいっそう続発し、協会も解散を命じられてしまう。トーマス・マコーレーの著作により英国の革命史を学んでいた尹致昊は、同じような君主専制への批判が、体制改革と安定した「文明化」の歴史につながった英国との落差に、絶望することになる。

第四章・第五章・終章では、こうした絶望の深まりから、自力で「文明化」する力量が現状では未発達な朝鮮は、そのための指南役を果たしうる「文明」先進国にみずからを(筆者の表現によれば)<委託>した方がよいという結論に、尹致昊が至った思考の筋道を分析している。尹はマコーレーやJ・S・ミルら英国の知識人による著作から、インドの植民地化それ自体は悪ではあるが、現地の自治に任せていれば、人民の生命・財産の保護や、医療・教育のための体制はもっと劣悪だったであろうという、「必要悪」の発想を受容することになる。

こうして、「教師」としての「文明」国に朝鮮を委ねた方がよいと考え始めていた尹致昊を、日清戦争とそれに続く義和団事件とが、逡巡の末の苦い選択へと導くことになる。日清戦争は尹にとって「文明戦争」であり、日本の指導によって「文明化」に必要な「気力」や愛国心を朝鮮が学べると期待したが、戦争後の日本政府の自己中心的な態度を見て、いったん失望することになる。

しかし、義和団事件におけるロシア・フランスなどの軍隊による蛮行は、欧米の「文明」国に対する不信を呼びおこした。とりわけ尹致昊にとって衝撃だったのは、中国で布教活動を行なっていた宣教師による略奪行為である。この宣教師問題については、英国・米国の雑誌から、日本の英語新聞までを含めて、国境をこえて是非が論じられており、尹もまた論評を記している。キリスト教の宣教活動が、非欧米地域の人々に対する根本的な蔑視と結びつく現実を直視したことは、尹致昊の<キリスト教的文明化>の構想を大きくゆるがし、義和団事件で人道的な態度を示したと国際的に評価されていた日本に対する、再びの着目へ導いた。日本による大韓帝国の併合の前後の数年間については、その日記が現存していないが、1920年代以降の日記や論説に見られる尹の見解は、朝鮮が「独立」のための実力を養っている間は、学校の内で教師から学ぶ生徒のように、日本の支配下にとどまるのがやむをえないというものであった。

以上が、本論文の要旨である。本論文の長所としては、特に次の三点を挙げることができる。

第一に、尹致昊という人物の思想の分析を通じて、19世紀の東アジアの知識人が共通に抱いていた「文明化」の課題が、思想的な深みをもっており、しばしば論じられるその限界も、むしろその葛藤の激しさに由来することを明らかにした。すでに彼らは、社会ダーウィニズムや植民地支配をめぐる賛否両論の議論をふまえながら思考しており、「精神」の深みの次元に至るまでの「文明化」を求めたことが、たとえば尹致昊を、挫折と日本支配の容認という結論へ導いたのである。西洋文化の模倣をこえた、当時の東アジアにおける「文明化」論者の議論の背後にある思考を明らかにしたことで、この時代の特に朝鮮における政治思想の理解を、格段と深化させた。

第二に、「主体性」を欠いた「親日派」か、それとも民族の自主独立を求めた抵抗者か、という二分法でしか語られない傾向のある、韓国の近代政治思想史に関して、それに回収されない新たな視角を提起した。厖大な日記を書き遺したという点で、尹致昊は特異な思想家ではあるが、それを分析することによって、植民地化をめぐって朝鮮の知識人が抱えていた思想の大きな振幅を明らかにしえたのである。

第三に、英語新聞というメディアに着目することにより、19世紀の世界における、欧米・アジアの区別をこえる議論の空間が存在することを示すことができた。植民地支配や義和団事件をめぐって、マーク・トウェインや内村鑑三といった有名人を含む知識人たちが、英語の論説を発表し、少なくとも朝鮮や日本の論者の側では、それをふまえながら再び英語で書くという回路が成立していたのである。これを描きだした点で、19世紀の政治思想史研究に新しい方法を提示したと評価できる。

もっとも、本論文にも短所がないわけではない。

第一に、尹致昊自身の言説と、その背景をなした英米の論争状況とに分析を集中させた結果として、尹の思想が当時の朝鮮の政治状況や言論空間においていかなる位置にあったかが、いくぶん不分明になってしまった。歴史に通じていない読者のための配慮が、もう少しあってもよかったであろう。

第二に、英語による日記やさまざまな英文論説を、本論文は英語のまま引用している。翻訳に伴う意味の曲解を避ける工夫ではあるが、引用文と論旨との関係がよくわからない箇所も散見される。筆者自身の言葉で趣旨説明を補う工夫がもっとあればと思われる。

しかし以上は、望蜀の嘆というべきものであり、本論文の価値を大きく損なうものではない。

以上から、本論文は、その筆者が自立した研究者としての高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

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