学位論文要旨



No 128573
著者(漢字) 太田,啓文
著者(英字)
著者(カナ) オオタ,ヒロフミ
標題(和) 企業の経営資源と対応する研究開発戦略に関する一考察 : DNAチップ事業におけるケーススタディを通じて
標題(洋)
報告番号 128573
報告番号 甲28573
学位授与日 2012.07.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7801号
研究科 工学系研究科
専攻 先端学際工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 元橋,一之
 東京大学 教授 馬場,靖憲
 東京大学 教授 ロバート,ケネラー
 東京大学 特任講師 ウルガー,リー
 東京大学 特任教授 加納,信吾
内容要旨 要旨を表示する

1.リサーチクエスチョン

企業を取り巻く環境が刻々と変化する現代、企業は持続的発展のために自社の経営資源に応じて事業を多角化し、複数の異なる製品市場で競争を勝ち抜くことがますます求められている。Pateraf(1993)は、価値のある経営資源は、その企業に固有なもの、もしくはその企業に深く組み込まれたものであるため、他社に貸与したり売却したりすることは困難で、移転しづらいとした。これを受けて、コリス・モンゴメリー(2008)は、結果として企業内部に留まるそうした経営資源を、新事業に複合的に利用することで、企業の全体的な収益が増加する場合、それらの資源は事業多角化に必要な基盤となるとしている。実際、事業多角化の契機となり、多角化の方向を与える資源の重要な役割が、実証研究によって示されてきた。例えば、企業内部から創発される多角化は、研究開発比率がかなり高い業界に多いことが実証されており、これは技術資産が多角化に向けての活動を促進することを意味している(Ravenscraft and Scherer, 1987)。また、マーケティング資産も事業多角化の重要な駆動力となることが示されている(Montgomery and Hariharan, 1991)。

これに対して、Christensen(2006)は組織が持つ経営能力、すなわち組織能力に着目し、組織能力と企業の境界との関係に言及している。Christensen(2006)によれば、組織能力には技術的専門能力と統合能力の二つがある。技術的専門能力とは、特定の生産活動のために資源を動員するチームベースの能力であるのに対し、統合能力とは交換可能な資源と能力を、動員、協調、発展させる水準の高い経営能力を反映して、システムレベルで価値と競争優位を生み出す能力である。そして、組織が持つ技術的専門能力は自前推進の中心的資産となる一方、統合能力はオープンイノベーションの中心的資産となるとして、企業の境界が経営資源に応じて異なりうることを指摘した。

本稿の目的は、Christensen(2006)の主張に焦点をあて、新製品開発に対して対照的なアプローチを実践するキヤノン株式会社(以下、キヤノン)と日立ソフトウェアエンジニアリング株式会社(以下、日立ソフト)の二社を取り上げ、なぜ市場参入の実現に違いが生じたのかを、二社のケーススタディに立脚する概念的フレームワークを通じて明らかにすることである。

2.方法論

本稿では、IT企業や電機・機械メーカー等異業種からの参入が相次いでいるDNAチップを対象技術として取り上げた。企業の多角化、すなわち新規事業への進出というケースでは、特に探索と活用の双方の活動が強く求められるのは勿論、二つの活動の絶妙なバランスが重要であるため、その意味でDNAチップは探索と活用のバランスという側面を捕捉できる。また、DNAチップは異業種企業が持つ技術とバイオ技術の融合領域であり、参入企業はDNAチップの研究開発の基礎となる技術ベースを有していることが求められることから、テクノロジープッシュの側面を捉えることができる。その一方で、DNAチップ市場はまだ十分には成熟しておらず、参入企業は市場動向を睨んだ研究開発を推進する必要があるため、デマンドプルの側面も捉えられる。すなわちDNAチップは、探索と活用のバランスという側面に加え、テクノロジープッシュとデマンドプルの両側面についても論じることが可能な技術と言える。

対象企業としては、DNAチップ製造・開発関連特許出願数が2004年現在首位で、DNAチップ事業への代表的な新規参入企業の一つであるキヤノンと、2005年現在のDNAチップ市場シェアで国内企業首位の日立ソフトを取り上げた。キヤノンは、自前開発を特徴として、コア技術をベースに卓越した特許戦略を具備する企業として広く知られている。キヤノンが長年にわたって培ってきた様々な技術の融合から生み出されたコア技術は、DNAチップの研究開発における技術資産(Ravenscraft and Scherer, 1987)であり、自前推進の中心的資産である技術的専門能力(Christensen, 2006)を有するものと考えられる。一方、日立ソフトは、1983年にライフサイエンス事業を開始以来、日本では比較的珍しくオープンイノベーションを活用してこれまで様々なソリューションを提供してきている。日立ソフトの20年以上にわたるライフサイエンス事業を通じて獲得した顧客リレーションは、DNAチップの研究開発におけるマーケティング資産(Montgomery and Hariharan, 1991)であり、オープンイノベーションの中心的資産である統合能力(Christensen, 2006)を有するものと考えられる。このように、DNAチップの研究開発において、自前開発を特徴とするキヤノンと、対照的にオープンイノベーションを推進する日立ソフトを取り上げることは、本稿の問題設定に対する実証研究対象として適切であると言える。

新製品開発におけるプロダクトイノベーションでは、開発着手から市場参入に至るまでさまざまな要素が関係すると考えられるが、本稿のケース比較手法では、DNAチップの研究開発において、キヤノンは市場参入を実現できていないのに対して、日立ソフトは市場参入を果たしたという点がキーとなる。本論においてこの点に焦点を絞ったのは、新製品開発におけるプロダクトイノベーションでは、市場参入が実現できたかどうかが、もっとも理解しやすい企業の多角化の達成条件の一つと考えられるためである。そこで本稿では、理論的背景で俯瞰した種々の要素に留意したうえで、市場参入の実現可否に着目することとした。具体的には、DNAチップ市場への参入可否をキーとなる二社のケースの違いと捉え、技術資産・技術的専門能力を有するキヤノンと、マーケティング資産・統合能力を有する日立ソフトの比較において、企業の保有資産に応じた資源調達、プロセスマネジメント、組織体制に着目した分析を展開した。

分析対象は、独立行政法人工業所有権情報・研修館「H14特許流通支援チャート」(2002)によるDNAチップ関連技術検索FI(=C12N15/00F+G01N37/00, 102)に基づき、出願年ベースで2004年末までの公開特許を抽出後、全件解読し、ノイズを除去したデータとした。そして、このデータから抽出された二社の出願特許をもとに比較分析を行い、分析結果を二社の各技術者へのインタビューにより検証した。

また、上記の分析対象データをもとにした社会ネットワーク分析により、二社の発明者ネットワークに対するトポロジー観察、クラスター分析、クリーク分析、固有ベクトル中心性による集中度に基づく分析を行った。そのうえで、得られた分析結果を二社の各技術者へのインタビューにより検証した。

ここまでの特許データ分析では、日立ソフトのオープンイノベーションの戦略優位性までは突き止められなかったため、続いて本論では、技術者間の知識の蓄積・流通に着目した質問票調査により、日立ソフトの研究開発マネジメントを詳細に分析した。2006年時点で、同社ライフサイエンス本部に所属する技術者56名に質問票を配布し、そのうちの有効回答データを分析対象とした。そのうえで統計処理を行い、その結果を同社技術者へのインタビューにより検証した。さらに、国際IPC分類G01N、C12M、C12N、C12Qのいずれかを含む出願年ベースで2003年末までの公開特許を調査対象として特許データ分析を行い、質問票調査による結果と合わせて再度技術者へのインタビューにより分析結果を補強した。そのうえで本稿では、Danneels(2002)のアプローチを参考に、ケーススタディに立脚する概念的フレームワークによる市場参入の実現可否の理解を試みた。

3.結論およびインプリケーション

Danneels(2002)は、新製品開発に既存能力を活用する場合、既存能力を既存製品から切り離し、新たな能力を既存能力と結合させる必要があるとし、プロダクトイノベーションにおける二段階の活動の必要性を説いている。Danneels(2002)は、キヤノンのように技術活用・顧客探索に分類される企業では、技術を製品から切り離し、技術を新たな顧客に結び付けるという二段階の活動が必要であるとしている。キヤノンは、同社コア技術のインクジェット技術をDNAチップの研究開発に適用しており、Danneels(2002)が指摘する一段目の活動を遂行している。一方、キヤノンはDNAチップ市場に未参入であり、技術を新たな顧客に結び付けるという二段目の活動は行えていない。キヤノンは診断用DNAチップ市場への参入を目論んでおり、そのためには医療機器で培った既存ネットワークとは異なる臨床系とのリレーションが不可欠である。加えて、診断用DNAチップの提供先は同じく医療機関や研究機関などの外部専門機関であることから、新たな顧客知識や販路の獲得という観点においても、市場参入の実現には外部専門機関との連携が求められるものと考えられる。

一方、Danneels(2002)は、日立ソフトのように技術探索・顧客活用に分類される企業では、顧客を製品から切り離し、顧客を新たな技術に結び付けるという二段階の活動が必要であるとしている。日立ソフトは、DNASIS、FMBIO等既存製品の提供先である教育・研究機関などの外部専門機関に対して、同社の技術者を積極的に送り込むなどしてリレーションの構築・維持に努めており、Danneels(2002)の指摘する一段目の活動を遂行している。そして日立ソフトは、培ったリレーションを通じてDNAチップの潜在ニーズを掴み、外部専門機関からDNAチップの研究開発に必要な技術を獲得したうえで、同社のIT技術と融合させることでDNAチップを製品化し市場参入を果たしている。したがって、日立ソフトは、顧客を新たな技術に結び付ける二段目の活動も実施していると考えられる。日立ソフトでは、DNAチップの研究開発に必要な技術を、同社の構築したリレーションを通じて外部専門機関から取り入れている。そのうえで、DNAチップの研究開発のために新たに獲得した若手バイオ技術者と同社の中堅IT技術者の協働を通じて、DNAチップを製品化し教育・研究機関などの外部専門機関に提供している。すなわち日立ソフトにとって、教育・研究機関などの外部専門機関はDNAチップの研究開発において必要な技術、知見・ノウハウ、さらには若手バイオ人材の調達先であると同時に、DNAチップの提供先でもある。したがって日立ソフトでは、Danneels(2002)の指摘する二段目の活動を遂行するために、幅広く外部連携を活用していることが示唆された。

Danneels(2002)は、新製品開発にあたり自社の何らかの既存資源の活用が可能なケースを対象としており、企業が新事業進出に必要な能力を具備していない場合にどのようにその能力を獲得し、新たな顧客・技術にアプローチすればよいのかについては言及していない。そのうえで、Danneels(2002)は外部連携についての検討を今後の課題として挙げている。本稿では、DNAチップ事業におけるキヤノン、日立ソフト二社のケーススタディを通じて、日立ソフトのように技術探索・顧客活用に分類される企業が、新事業進出にあたり自社の既存資源だけでは市場参入が困難な場合には、外部連携の活用がそのための一手段として有効である点を新たに見出した。その前提として、新事業に関する知見を有する新規人材の獲得や、自社技術者を顧客先へ送り込むことによるリレーションの構築・維持とそのリレーションを介した潜在ニーズの把握、さらには外部連携を通じて新たに獲得した技術と自社技術の融合が重要な要因であることを明らかにした。優秀な新規人材の獲得には、顧客先とのリレーションを基盤に企業ブランドの浸透を図り、それをリクルーティングにつなげるという経路依存的取り組み(Dierickx and Cool, 1989)が求められることが示唆された。そして、新たに獲得した外部技術の取り込みには、新たな知識を組織特有の言語・文脈に変換したうえで組織内へ伝播させる新規人材のトランスフォーマー(Harada, 2003)としての役割が重要であり、新規人材と自社技術に精通するベテラン技術者との協業が外部技術と自社技術の融合を進展させるという含意を得た。

審査要旨 要旨を表示する

太田啓文君の学位論文「企業の経営資源と対応する研究開発戦略に関する一考察-DNAチップ事業におけるケーススタディを通じて-」は、新規事業を立ち上げる際に経営資源の強みを「技術的能力」と「マーケティング能力」に分類し、企業の相対的な優位度によって研究開発戦略が異なることを日立ソフト(2010年に日立ソリューションズに改名)のDNAチップ事業を事例として取り上げて分析を行い、技術経営に関する新しい理論的フレームワークを提示したものである。

日立ソフトは、2000年ごろからDNAチップ事業への参入を検討し、2005年には国内企業としては売上高トップメーカーとなった。この日立ソフトの事業展開は、それまで同社が展開してきた研究機関や病院に対する遺伝子解析サービスやITソリューション事業によって、これらの顧客ニーズを的確に把握する「マーケティング能力」をレバレッジとして、技術面では大学との連携やライフサイエンス研究者の採用など外部からの知識の取り入れを積極的に行うことで「技術能力」を高めながら行ってきたものである。

本論文においては、まず特許データを用いることで、日立ソフトとは対照的にインクジェット技術などの「技術的能力」をレバレッジとしてDNAチップ事業に対する参入を目論んだキャノンと比較しながら、日立ソフトの技術経営戦略を明らかにした。その結果、日立ソフトにおいては、(1)よりフォーカスされた技術分野における研究開発が行われてきたこと、(2)キャノンが自前主義であることに対して、外部連携を積極的に活用していること、(3)イノベーションのスピードが速くスムーズに技術的能力の蓄積が行われたこと、などが分かった。また、特許の共同発明に関するデータを用いた社会ネットワーク分析を行い、キャノンが一部のスターサイエンティストを中心とするスター型の構造になっているのに対して、日立ソフトにおいては網の目状の構造になっており、その中には大学やDNAチップ研究所などの外部組織の研究者も多く含まれていることが分かった。

本論文においては、日立ソフトにおいて効率的な研究開発マネジメントが行われた要因についてより詳細な分析を行うため、同社におけるライフサイエンス本部(当時)の研究者約60名に対して質問票調査を行い、当該データを用いた計量分析を行っている。その結果、もともと日立ソフトのコア技術であったIT分野の中堅研究者と、2000年以降に採用したライフサイエンス分野の若手研究者が、相互に技術面で補完関係を保ちながら、ITとライフサイエンスの融合技術であるDNAチップに関する研究開発を行ってきたことが明らかになった。また、ライフサイエンス分野の研究者は、科学的な知見が急速に進展する当該分野において、社外の情報を効率的に社内の研究開発プロジェクトに取り入れるという面でも重要な役割を果たしていることが分かった。

これらの研究結果をベースとして、本論文においては技術経営論におけるDanneelsによる技術と顧客に関する二元論的整理を発展させたフレームワークを提示している。Danneelsは新規事業への参入は、既存の技術をベースとして新規の顧客を開拓する「技術」→「顧客」と既存顧客をベースに顧客ニーズをにらんだ技術開発を行う「顧客」→「技術」の2つのパターンがあるとしている。日立ソフトのDNAチップ事業への参入は、病院や研究機関におけるニーズから研究開発プロジェクトを立ち上げたので「顧客」→「技術」のステップを踏んでいるが、「技術」のプロセスで外部機関の活用やライフサイエンス技術者の採用などオープンイノベーションを積極的に活用していることが特徴的である。また、研究開発のプロセスにおいて顧客ニーズの取り入れは不断に行っており、「顧客」→「技術」というリニアなプロセスではなく、両者がインタラクティブに作用するプロセスの可能性を示唆している。

審査会においては、Danneelsのフレームワークとの違い、新たなフレームワークの有用性に関する検討が主に行われた。その結果、Danneelsにおいては明示的に取り扱われていなかった外部資源の活用(オープンイノベーション)の役割を明確化したこと、社内の組織構造に踏み込んで「顧客」と「技術」の間のインタラクティブな関係の存在を示唆していること、他の事例への応用可能性としてNTTドコモのi-modeへのフレームワークの当てはめを行ったことなどから、本論文は技術経営における新たな学術的進展に大きく貢献するものであるという結論に至った。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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