学位論文要旨



No 128581
著者(漢字) 李,忠澔
著者(英字)
著者(カナ) イー,チュンホ
標題(和) 近世日本における楠正成伝説の出現と展開 : 英雄伝説の受容と変貌をめぐる基礎的研究
標題(洋)
報告番号 128581
報告番号 甲28581
学位授与日 2012.07.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1165号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 ロバート,キャンベル
 東京大学 教授 齋藤,希史
 東京大学 教授 黒住,真
 東京大学 准教授 桜井,英治
 学習院大学 教授 兵藤,裕己
内容要旨 要旨を表示する

楠正成は、「七生滅賊」の誓いを立てた忠臣として戦前・戦中に熱烈に顕彰され、現在では逆に戦時下の国民動員の象徴ともいうべき存在となっているが、前近代においては忠臣・知略家のイメージに留まらず、さまざまな文芸ジャンルに多様な正成像が存在し、多くの日本人がその生きざまに共感していた。本論文では、近世文学における正成伝説を題材にした作品を取り上げ、正成像の多様さと豊富なバリエーションを紹介し、その実体と本質を探る。

まず、序章では『太平記』の正成像の特徴を正成の出自、智将としての活躍、そして、「湊川の戦い」での最期の場面から把握し、正成像の淵源に忠臣とアウトローという二面性が孕んでいる矛盾を指摘した。楠正成は後醍醐天皇の霊夢により初めて登場し、忠臣・智略家として活躍し、智仁勇兼備の名将として顕彰されるが、その一方で正成の出自をめぐる問題も以降の正成伝説の受容に大きな影響を及ぼすことになる。本論では、このような正成像の特徴を基にして展開される正成伝説の受容様相を検討してみた。

第一章「太平記読みと正成伝説 ―『理尽鈔』の文学性」では、『理尽鈔』など太平記評判が正成伝説の伝播に及ぼした影響を検討してみたが、近世初期の『太平記』受容を主導した『理尽鈔』が創りだした新たなエピソードや人物が、以降の近世文学における正成伝説の展開にも多大な影響を及ぼしていたことが分かった。

第一節「『理尽鈔』と近世前期の太平記読み」では『理尽鈔』をはじめ近世初期の「太平記読み」の成立と展開を、文学作品に描かれている太平記読みの特徴とともに考察した。近世前期には太平記読みが舌耕文芸の一種として定着するとともに、多くの専業者が出現することになり、軍談の主流を成したが、その実像は武士階級から脱落した浪人が多くて、低い社会的階層に位置する芸人のようなものであった。

第二節「『理尽鈔』が創りだした正成の周辺人物」では、『理尽鈔』が創りだした正成像の造形に関わる人物たち、すなわち「泣男」杉本佐兵衛に注目し、周辺人物の活躍が正成伝説に豊富な物語性を与えていく過程を考察した。近世文学における「泣男」譚は、戦乱の中で一種の出世を成し遂げた「泣男」を周囲の人々が妬み、「泣芸」を認めないことから物語が展開し、「泣男」の登用は正成の人材登用術の妙を強調するとともに、武士の範疇から離れていた低い身分から、戦乱の下剋上の気風の中で天皇の最側近まで登用された正成の立身出世の物語にも戦乱という非常時においての人材登用という面で関わっていく。そして、これは序章で言及した正成のイメージの二面性にも関わっていると言える。

第二章の第一節「謡曲・古浄瑠璃・土佐浄瑠璃における『理尽鈔』の受容」では、近世初期の謡曲・土佐浄瑠璃・古浄瑠璃作品が取り上げた正成伝説の題材の考察を通して、当時の民衆に流行した謡曲の正成伝説のエピソードが『理尽鈔』から多数受容されていたことが把握できた。『太平記』に取材した謡曲には楠正成に題材を取ったものが多く、その中でも特に恩地左近太郎や「泣男」杉本佐兵衛のような『理尽鈔』だけに登場する人物が登場する曲が多いことが確認できた。

また、『太平記』を題材にした浄瑠璃は古くから語られており、太平記講釈の好んで取り上げた場面である湊川の合戦を描いた土佐浄瑠璃「楠湊川合戦」の場合は『太平記』の中から特定の人物を選び出して脚色しているが、和田・恩地、竹童丸などの異伝は『理尽鈔』によるものであり、全段に渡って『理尽鈔』の「評伝」の記事を引用していることがわかった。一方、太平記ものの古浄瑠璃「楠軍記」の場合は、『太平記』と『理尽鈔』の内容を適切に混ぜ合わせながらストーリーを展開しているのである。この考察から先行研究において土佐浄瑠璃「楠湊川合戦」における作者の創作と見なされてきた部分が、『理尽鈔』からの影響を受けたものであるということが明確になり、古浄瑠璃「楠軍記」との影響関係も再考の余地があることが分かった。

第二節「『理尽鈔』の「評」と「伝」が創り出す新たな物語」では、正成伝説の展開において、『理尽鈔』の「評」と「伝」の記事によって生み出された異伝の一端を解明し、それによって新しく創り出された正成伝説の生成が持つ意義を考察した。正成の舎弟楠正季の人物像はもともと曖昧な点が多いことから、『理尽鈔』はそれを利用して正季と継母の異伝を創り出している。浮世草子『春駒大内鞚』は『理尽鈔』の正季と継母についての記事に基づき、「忠臣」正成の文脈からは逸脱した楠一族の姿が描かれている。このことからは、近世の俗文芸の展開においては、「忠臣」正成の顕彰という文脈から離れた楠家の物語が息づく余地が存在していたことがうかがえ、そこには『理尽鈔』の「評伝」の箇所が伝える異伝・異説が様々な物語の題材として大きな影響力が反映されていると言える。

第三章「「世界」としての『太平記』と「忠義」をめぐる正成伝説の二面性」においては、『太平記』を「世界」としている作品群を取り上げ、正成伝説における「忠」のイメージが近世文学の中にはどのように解釈され溶け込んでいくのかを検討した。人気があった正成のエピソードが謡曲や浄瑠璃などで素材になり、また通俗軍書においては正成の伝記が新たに作り出されるなど正成伝説がますます拡充していく中で、『太平記』を「世界」としている作品群において正成の「忠義」と「智略」の物語は、当時の人々の姿に投影されてその性質を変化させていく。

第一節「近世期における「正成の妻」像の変容」では、正成の妻が活躍する「女楠物」における正成の妻のイメージとその活躍についての考察を通して、正成単独ではなく一族の物語として正成伝説が展開していく一面やその意義を検討した。『理尽鈔』においては重要視されなかった正成の妻の役割は、仮名草子『本朝女鑑』においては息子を訓戒する「楠帯刀母」として描かれ、教訓書に登場することになる。一方、時代浄瑠璃においては『吉野都』では「大力女」という逞しい女性のイメージが付与されたり、『南北軍問答』では女色に溺れる正行や泣男などの新しい構想が見られるものの、『太平記』における良妻賢母としての「正成の妻」の性質に変わりはなかった。しかし、『吉野都女楠』においては「女楠」という詞に結び付くことになり、これは歌舞伎にも受け継がれ、女形のエロチックな演出、面白おかしい語りなどにより、観客にパロディとして正成の妻のイメージを提供して笑いを取っていた。

第二節「太鼓持になった正成 ― 擬似世界における「忠」」では、時代物浮世草子において遊廓の太鼓持ちとして登場し、当世化された正成の忠誠について考察した。『けいせい盃軍談』や『契情太平記』では、正成は活躍の舞台を遊廓に移して機転の働く太鼓持ちとして登場する。このように当時の世態に正成を取り込む中で、楠正成を好色というかけ離れた世界に登場させつつ、本来天皇のために最後まで尽くした正成の智略と忠義を、太鼓持の智略と忠義にパロディー化した形に作り変える。正成は天皇の最側近として、「智略家」や「忠臣」という元来持っていたイメージをそのまま保ちながらも、大衆により親しみやすい人物としてその姿を変容させることになる。

第四章「近世発生の実録と正成伝説の結合―主家復興の物語へ転換」では、正成伝説と実録との綯い交ぜを考察して、正成伝説が近世文学の中で定着していく過程の中で主家復興の物語として変貌していくことを究明した。

第一節「正成伝説と宮城野信夫譚」では、近世文学における正成伝説と実録との関わりの一例として、宮城野信夫の敵討譚と正成伝説が綯い交ぜになった作品の一部を取り上げながら、その特色を検討した。江戸期における正成伝説は強い生命力をもった物語の一素材であり、それは周辺の実録・巷談などの多様な物語と融合して成長していくことになる。正成伝説の場合、その拡散の推進力が衰えてきた時、新しい原動力として結合したのが慶安太平記物や白石敵討物という実録種であった。江戸期において忠孝の象徴として採り上げられてきた正成伝説は、宮城野信夫の敵討譚と結合することによって、その描くところの主従関係を中心とした絶対的な忠孝のイメージも、より現実的なリアリズムを持つ忠孝のイメージに変貌していた。すなわち、時代と空間、登場人物が異なる二つの物語を混ぜ合わせて新しい想像のストーリーとして作り上げられたことによって、正成伝説は大衆の支持を集めるために必要な社会的リアリズムを獲得し、より堅固な生命力を持つ物語として成立していったと言える。

第二節「正成伝説と四谷怪談」では、鶴屋南北作の『東海道四谷怪談』と正成伝説を綯い交ぜにした山月庵主人作の『屏風怨霊四谷怪談』を取り上げ、四谷怪談の伝説と楠家の遺臣たちの物語が融合する過程を考察した。『屏風怨霊四谷怪談』では正成の子孫である楠正元を中心にストーリーが展開するが、これは曲亭馬琴著『松染情史秋七草』からの影響を受けており、『東海道四谷怪談』という人気作に基づきながら、そこに楠家の外伝として物語を展開するにあたって、『理尽鈔』や『松染情史秋七草』から取材した楠家遺臣たちの物語が合体していた。すなわち、歴史的な世界と歌舞伎の『東海道四谷怪談』の世界を結びつけることによって、正成と正行という従来の正成伝説の主人公とは別に新たな人物たちがクローズアップされ、正成父子の忠臣や智略家という面に焦点を合わせて展開した初期読本の正成伝説に、楠家遺臣たちの南朝復興の武勇伝としての新たな展開と流れがもたらされたのである。

終章「近代における正成伝説の変容 ― 尊王攘夷のシンボルから国民英雄へ」では、『日本外史』における俗文芸の利用と、それによって大衆に受け入れやすい平易な漢文文章で書かれていたことから、『日本外史』の正成伝説が天皇制教育の教科書にまで受け継がれていたことを検討した。また、『文明論之概略』における『日本外史』に対する痛烈な批判を通して、福沢諭吉が尊皇論者の正成顕彰の動きを牽制し楠正成を低評価したのは、文明開化という時勢の変革に即して、尊皇論者たちの正成顕彰が文明の進歩を妨げるものと判断していたからであると把握できた。

最後には福沢諭吉の『学問のすゝめ』によって引き起こされた「楠公権助論」をはじめ、前近代における「正成の死」をめぐる論争の考察を通して、楠正成が「忠孝の模範」である一方、「国民動員の象徴」という両側面を持つようになった経緯を明らかにした。福沢諭吉は前近代的な忠誠が近代国家においては非合理的な概念であることを主張する「赤穂不義士論」や「楠公権助論」を巻き起こしており、福沢を批判する人々は福沢が楠正成を意図的に「権助」扱いしていると強く反発する。これに対して福沢は「学問のすゝめの評」という弁明の文を新聞に寄稿し、「楠公権助論」の論争は漸く沈静化するが、福沢は心底では一貫して尊皇論者の国体論を批判しているのである。ただし、実際に福沢が主眼を置いているのは「正成の死」の意義の解釈というよりは、「時勢の変革」における日本の国体の概念のあり方であり、事態の推移を検討するとこの騒動は忠義の是非をめぐる論争というよりも、共和制の導入を訴えて天皇を中心とした国体を動揺させる福沢への反発が中心となっていた。すなわち、本件で楠正成が取り沙汰されることとなった理由は、正成を軽視する福沢の姿勢が、ひいては天皇を軽視する福沢の思想を体現したものとして読者に受け止められたことにあると考えられ、これは一面では当時いかに正成の忠義と天皇という存在が一体のものとして捉えられていたのかを象徴的に示す事態であったとも言える。

以上述べてきたように、近代以前の正成像は、国家に対する忠臣という絶対的なイメージには留まらない重層性を備えており、前近代の人々によって、それぞれのジャンルや立場により正成伝説も取捨選択され、時に正成の智略家としての一面が強調され、また時に忠臣としての一面が強調される。こうした正成受容の流れの中、いったん近代期に入ると国家意識の芽生えとともに「忠孝」の名のもとに取捨選択されていくことによって、国家の英雄としての正成像だけに光が当てられることになったのである。このように戦前までは帝国日本を支える精神的な象徴として「正成=英雄」という図式が確立していた。しかし、戦後には正成は軍国主義日本の残骸として「正成=皇国の亡霊」という形で歴史の表舞台から退けられることになる。このように、近代以降の正成に対する評価は両極端に変化しているが、現在でも、楠正成という人物の評価をめぐっては一通りでは定まらない複雑な背景が絡み合っている。

審査要旨 要旨を表示する

李忠澔氏の「近世における楠正成伝説の出現と展開―英雄伝説の受容と変貌をめぐる基礎的研究―」は、一四世紀に活躍した武将・楠正成およびその一族と家臣のイメージが、江戸時代の通俗文芸と芸能を通してどのように捉えられ、文学を中心とする言説と共にどのような変貌と拡充を遂げたかを考察する。従来変化に乏しいと見なされてきた正成伝説の多様な展開と、同時代におけるその文学史的意義を新たに検証することを目的とする研究である。

楠正成の事跡をめぐる『太平記』の記述は、中世末期から近世初期に成立するいわゆる太平記評判によって大きく書き替えられ、拡充した。太平記評判とは、歴史書『太平記』の本文を提示しながら、『太平記』に含まれないさまざまな伝承と人物評判をこれに付与して講釈種に仕立てたテクスト群である。正成について、とくに後醍醐天皇に対する忠烈のふるまいと、戦において発揮し得たとされる智略について大幅な脚色がなされている。太平記評判の大成として『太平記評判秘伝理尽鈔』という大部の書物が江戸初期に刊行されると、正成伝説は武家社会に向けた教訓という枠組みを超え、同時代に上方で進展した土佐浄瑠璃や浮世草子など通俗文化の中へと取り込まれ、独自の展開を見せる。

本論は近年、政治思想史と芸能史のなかで蓄積された太平記評判に関する先行研究を出発点として、『理尽鈔』の流通を前提とした多岐にわたる文芸ジャンルを丹念にたどり、それぞれのジャンルに適した手法によって考察を加えることを主眼とする。これによって、近世文学ないし芸能研究から全く見落とされてきた豊富な新知見と解釈の可能性を掘り下げることに成功しており、今後の近世文学研究に対し、本質的な示唆を多々与えるものと考えられる。

本論文は、本論二部の合計四章および「はじめに」、「序論」、「終論」、「図表」から成る。以下、本論文の構成にしたがって、内容の概略を述べる。

「はじめに」では、正成をめぐる歴史的評価と表象の過程を先行研究に即して俯瞰した上で、本論の主旨について述べている。「序論」では、『太平記』の正成像の特徴を正成の出自、軍学の奇才としての活躍、そして「湊川の戦い」にみる敗死の文脈を分析することで、正成像の淵源にひそむ忠臣とアウトローという二面性を浮き彫りにする。以後二百数十年にわたる伝説化の方向性を強く規定する基本的な構図を明らかにする本論の導入部として機能している。

第一部「正成伝説と『太平記読み』」は、第一章「『太平記読み』の形成と『理尽鈔』の正成伝説」と第二章「『評伝』によって創り出される『理尽鈔』の文学性」の二章から成る。第一章では、『太平記』そのものではなく『理尽鈔』など後世の太平記評判が正成伝説の伝播にいかに寄与したかという道筋を示している。具体的には、近世初期に太平記読みが軍談など舌耕文芸の一種として定着するにつれて、武士階級から脱落した浪人を中心とする専業の講釈師が各地に現れた。ここで『太平記』の世界を身分の低い社会階層に向けて初めて広めるという歴史的背景が論じられている。『理尽鈔』講釈がどこでどのように演じられ、どのような素材を用いて構成されたかなどを確認することによって、正成伝説の流布を時間と空間という二次元から見通すことに成功している。その上で、第一章の後半において、『理尽鈔』から創り出された正成の周囲人物に目を向け、近世独自の物語としての展開を鋭く指し示している。

その人物とは、身分こそ卑しいものの、どのような状況にあっても泣くことができる、「泣き男」の異名をもつ杉本左兵衛という侍である。杉本は敵陣に送り込まれ、泣き芸を活かして敵をあざむき、正成勢を有利に導くという手柄を立てるが、同輩に疎んじられ、落伍する寸前に正成の評価を得、家中に取り立てられるという出世話を基本形とする物語である。自らも低い地位から天皇の側近に用いられたという正成像と相重なり、その特質を増幅させる効果を上げると同時に、正成がもつ人材掌握の才能と論功行賞に対する武将の深謀遠慮という重要な属性を補う機能を担っていると李氏は指摘する。知謀と機略に長けた指導者を際立たせる脇役として現れる杉本左兵衛は、後続の小説と演劇に頻繁に取り上げられ、その過程で泣き女、あるいは笑い男、笑い女というようにかたちを転換させるが、物語の基層において正成が為政者として示す美徳に重点がおかれていることに変わりはない。この泣き男譚に関する先行研究は皆無であり、李氏は、ここで初めて体系的な調査と分析を行うことによって著しい成果を上げていると言える。本論中、白眉の一節である。

第二章では、まず近世初期に書かれた謡曲・古浄瑠璃および土佐浄瑠璃を精査して、各ジャンルに見られる『理尽鈔』の受容様態を明らかにする一方で、初期芸能における正成伝説の傾向を分析した。謡曲では恩地左近太郎や杉本左兵衛など『理尽鈔』にのみ登場する人物が描かれることが多いが、浄瑠璃では『太平記』と『理尽鈔』の内容を適宜融合させながらストーリーを展開することが見られ、その状況の分析から、たとえば土佐浄瑠璃「楠湊川合戦」において、従来作者の創意と見なされた部分が、実は『理尽鈔』からの借用で成り立っていることを突き止めている。その上で、『理尽鈔』の「伝」と「評」から、正成の兄弟や子孫などをめぐる異伝・外伝を抽出して、浮世草子における「忠臣」正成像から離れた楠家の物語を精緻に描いている。

第二部は、第三章「『世界』としての『太平記』と「忠義」をめぐる正成伝説の裏面」と、第四章「近世発生の実録体小説と正成伝説の結合」から構成されている。第三章では、時代物浮世草子を取り上げ、正成が、遊廓で太鼓持ちになるという当世のパロディ化を共通趣向とする系譜をたどり、分析する。また仮名草子に始まる正成の妻を主人公とするいわば「女楠モノ」を丹念に整理し、時系列に沿ってその展開を追う。第四章は、写本として流布した実録体小説の主筋に、正成伝説が融合するという近世独自の物語手法に新たな光を当ててその意義を問う。末尾には終論「近代における正成伝説の変容」を付す。頼山陽の『日本外史』と福沢諭吉の『文明論之概略』を取り上げ、正成が、幕末には尊王攘夷の象徴、明治期には忠孝一体という国家的イデオロギーを体現する歴史人物として変容するその過程を示し、本論のまとめとした。

以上のように要約される本論文に対して、審査委員からは『太平記』および『理尽鈔』を扱う際に、書誌学的検討を一層徹底させるべきであること、近世初期に比して後期に当てられた考察が総じて作品論に傾き、時代が俯瞰できない構造になっていること、そして「終論」そのものが、幕末・明治日本に関する言語文化論として方法面、記述面両方に不十分な側面を多々含んでいるという問題点があげられた。ただし、以上は、本論文が持つ優れた学問的価値を損なうものではないことも同時に確認された。よって本審査委員会は、李忠澔氏の学位請求論文が、博士(学術)の学位を授与するに相応しいものであると認定することに、全員一致で合意した。

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