学位論文要旨



No 128582
著者(漢字) 三牧,聖子
著者(英字)
著者(カナ) ミマキ,セイコ
標題(和) 制裁なき平和の追求 : 両大戦間期アメリカにおける戦争違法化運動
標題(洋)
報告番号 128582
報告番号 甲28582
学位授与日 2012.07.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1166号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 遠藤,泰生
 東京大学 教授 酒井,哲哉
 東京大学 教授 石田,淳
 東京大学 教授 西崎,文子
 東京大学 准教授 小川,浩之
内容要旨 要旨を表示する

本稿は、大戦間期のアメリカに隆盛した戦争違法化運動(outlawry of war movement)の研究である。この運動は、第1次世界大戦の惨禍に衝撃を受けたシカゴの弁護士サーモン・O・レヴィンソンによって開始された。レヴィンソンの「戦争違法化」の最大の意義は、国際連盟で進められた「侵略戦争の違法化」を批判し、あらゆる戦争の違法化という「もう1つの戦争違法化」を追求したことにあった。連盟規約で違法とされた戦争は、「侵略」戦争に限定されており、「自衛」戦争、及び侵略国に対する連盟の「制裁」は合法的な武力行使として認められていた。これに対し、レヴィンソンは、「侵略」戦争のみならず、「制裁」や「自衛」戦争を含む「あらゆる戦争の違法化」を掲げ、軍事制裁や罰則への恐怖ではなく、国際法及び国際世論に支えられた秩序をあるべきものとして追求した。レヴィンソンの運動とその「制裁なき平和」の理想は、1920年代、上院議員のウィリアム・E・ボラーや哲学者のジョン・デューイらを含む多くの賛同者を生みだし、その成果は1928年のパリ不戦条約に結実していった。しかし1930年代以降の国際秩序の動揺の中で、戦争違法化運動は批判にさらされていき、第2次世界大戦の勃発によって終焉を迎えた。今日、大戦間期における戦争違法化の推進について語られる際、レヴィンソンの運動や思想が顧みられることはほとんどない。

しかし21世紀の世界において、軍事制裁の正当性、その平和への貢献はもはや自明のものではない。今日ますます多くの人々が、侵略国を巨大な暴力で「懲罰」することによって平和を維持する刑罰的な世界観に疑問を提示し、オルタナティブの平和を模索している。レヴィンソンの「制裁なき平和」の理想と、その理想の実現に向けた格闘を再評価する作業は、こうした意味で、極めて今日的な課題でもある。

本稿は序章、1~6章及び終章の全8章によって構成されている。

第1章では、戦争違法化運動の思想的起源を探究するために、アメリカ平和運動の黎明期から20世紀初頭の平和主義の基調を概観する。戦争違法化「運動」の起源は第1次世界大戦でも、その中核となる「思想」の起源はその遥か以前、19世紀の平和運動の黎明期に遡る。特に本章では、後に戦争違法化運動にも引き継がれていく伝統的な平和思想として、次の2つの思想を明らかにする。1つは、国際法の発展、それを適切に運用する国際法廷の創設こそが国際平和の最善の方途であるという「法と裁判による平和」に対する信念である。もう1つは、国際法秩序を究極的に支えているのは、法の侵犯国に対して行使される物理的制裁ではなく、国際世論という「道義的制裁(moral sanction)」であるという信念である。本章ではこの2つの理想主義が、アメリカ平和運動の黎明期から、多くの人々に共有されてきたことを明らかにし、大戦間期に戦争違法化運動が隆盛することになる思想的・歴史的背景を明らかにする。

第2章では、第1次世界大戦が、「法と裁判による平和」及び「道義的制裁」という伝統的な2つの理想主義に、両義的な影響を与えたことを明らかにする。一方で、世界大戦を目撃し、一部の平和主義者は、国際平和は究極的には軍事制裁によって支えられなければならないという思想に傾倒していった。そのことを象徴していたのが、平和強制連盟(League to Enforce Peace)の創設であった。他方、「戦争を終わらせるための戦争」であったはずの大戦が、懲罰的なヴェルサイユ条約に帰結し、連盟規約に軍事制裁条項が盛り込まれたことに失望した平和主義者たちは、アメリカ平和主義の伝統の正しさを確信し、平和は軍事制裁ではなく、国際世論という「道義的制裁」のみに依拠して実現されねばならないという決意を新たにしていった。第1次世界大戦は、「法と裁判による平和」と、国際世論という「道義的制裁」というアメリカ平和主義の伝統に大きな挑戦を突き付けたが、その終焉をもたらすことはなかった。

第3章から第5章は、戦争違法化運動の開始から没落までの過程を考察する。

第3章は、1920年代におけるレヴィンソンの思想と運動の発展を、もう1人の「戦争違法化」の唱導者であり、レヴィンソンの最大の論敵であったカーネギー平和財団のジェームズ・T・ショットウェルの思想と対比させながら考察する。両者は、連盟規約に盛り込まれた軍事制裁をめぐって激しい論争を展開した。レヴィンソンは、軍事制裁の役割を肯定し続けてきたことが、世界が戦争から解放されていない根本原因であるとして、「制裁」を目的とする武力も違法化されねばならないとした。これに対してショットウェルは、国際秩序を維持するために行使される「制裁」と、国家が利己的な目的のために遂行する「戦争」とは厳密に区別されねばならないとして、侵略国に対する軍事制裁を合法とする国際連盟こそが、「真の戦争違法化」の道を示していると主張した。

第4章は、1928年に成立したパリ不戦条約が、レヴィンソンとショットウェルの2つの「戦争違法化」論において、それぞれどのような意義付けを与えられていたかを考察する。レヴィンソンにとって、制裁を規定していない不戦条約は、「制裁なき平和」の実現に向けた重要な端緒であった。もっともレヴィンソンも、諸国家が不戦を誓約することによって戦争が廃絶されると楽観していたわけではない。レヴィンソンは、不戦条約の成立が「半分の勝利」に過ぎないことを強調し、次なる課題として、連盟規約の軍事制裁条項の撤廃と、アメリカの連盟及びハーグ常設国際司法裁判所への加入を掲げた。これに対してショットウェルは、制裁条項の欠如に不戦条約の致命的な欠陥を見出していた。ショットウェルは、不戦条約に制裁規定を付け加え、ヨーロッパのロカルノ条約(1925)をモデルとする「アメリカン・ロカルノ」体制へと発展させる道を模索した。もっとも不戦条約成立直後にあっては、ショットウェル流の懲罰的な「戦争違法化」論は多くの支持者を得られなかった。ハーバート・C・フーヴァー大統領は軍事制裁を嫌悪していた。ジュネーブの連盟総会では、戦争を原則的に否定する不戦条約が成立した今、一定のケースにおける戦争を合法なものと認める連盟規約も、不戦条約の精神に沿って改正されるべきだという機運が高まっていた。こうして不戦条約締結後、「制裁なき平和」というレヴィンソンの理想は、一部の急進的な平和主義者のみならず、国内外に広く共鳴を生み出しつつあった。

第5章は、戦争違法化運動が1930年代の国際秩序の動揺の中で、批判にさらされ、第2次世界大戦を決定的契機として没落するまでの過程を考察する。1931年9月に中国東北部で起こった満州事変は、戦争違法化運動に重大な挑戦を突きつけた。レヴィンソンは、国際社会は今こそ一致団結して、日本に道義的非難という「平和の制裁(sanctions of peace)」を行使しなければならないと主張した。このような彼らの主張は一見、ヘンリー・L・スティムソン国務長官が表明した不承認政策と重なり合うものであった。しかし国際世論という「道義的制裁」への評価において、両者の間には重大な差異があった。スティムソンは、不承認政策の実効性に疑問を抱きつつ、日本に対するそれ以上の制裁がフーヴァー大統領やアメリカ国民に受け入れられることはおよそ考えられないという理由で、それを消極的に支持した。不承認政策が目に見える効果を表わさない中で、スティムソンは不承認政策への露骨な懐疑を示すようになっていく。これに対してレヴィンソンは、不承認政策が効果を表わさない理由を、その非強制的な性質にではなく、諸国家が一致団結してそれを行使できていない現状に求めた。レヴィンソンは、世界は今、不承認政策の漸進的な効果にしびれを切らして再び武器をとり、「戦争システム」を再生産するか、諸国家の団結によって世界規模の「平和の制裁」を実現させ、「戦争システム」を乗り越えるための一歩を踏み出すかの岐路にいると訴え続けた。

第6章は、戦争違法化運動が終焉を迎えていく過程を描き出す。第2次世界大戦の勃発後、アメリカ国民の間には「平和の強制」という観念が急速に広まり、非軍事的な手段で平和を構築しようとする主張や運動の余地は急速に狭められていった。さらにその後、米ソ冷戦が急速に進行していく中で、デューイらかつての戦争違法化論者も、ソ連という「侵略」国に対する「制裁」としての軍事行使を肯定するようになる。こうして戦争違法化運動は、「思想」としても放棄されていった。米ソ冷戦という国際環境に直面したアメリカで、新たな外交指針として注目されたのは、ハンス・J・モーゲンソー、ジョージ・F・ケナン、ラインホルド・ニーバーらを主要な唱導者とする現実主義外交論であった。彼らは、従来のアメリカ外交の「法律家的・道徳家的アプローチ(moralistic-legalistic approach)」への傾倒を批判し、国際平和に向けた本質的課題は、国際法をいかに運用し、発展させていくかという「法」の次元ではなく、パワーと利害の調整という「政治」の次元にあると主張した。このような主張は、戦争違法化運動の思想的前提を根本的に否定するものであり、現実主義外交論の台頭と普及は、戦争違法化運動の最終的な終焉を告げるものであった。

終章は、戦争違法化運動の正の遺産と負の遺産について総括する。レヴィンソンの戦争違法化運動は、その精神を忘却してきたアメリカ外交、それとは対照的に、戦争違法化運動にひたすら肯定的な眼差しを向けてきた日本の平和主義に、それぞれどのような示唆を投げかけるものだろうか。本章では、戦争違法化運動の意義とともに、限界にも目を向けながら、その両面の遺産を明らかにする。

審査要旨 要旨を表示する

本論文「制裁なき平和の追求―両大戦間期アメリカにおける戦争違法化運動」は、第1次世界大戦中にシカゴの弁護士サーモン・O・レヴィンソンが開始した戦争違法化運動(Outlawry of War Movement)の歴史をたどりながら、アメリカにおける平和主義運動が抱える緊張と矛盾を思想史的に整理し、侵略国に軍事制裁を加えることで平和を維持する懲罰的な世界観が支配的となった現在の国際秩序の問題点を明らかにするものである。

論文は序章、1章から6章、終章の全8章から成る。

まず第1章は、戦争違法化運動の思想的起源を、19世紀のアメリカ平和運動の黎明期にまで遡り考察する。20世紀初頭アメリカの多くの平和主義運動には、次の2つの信念が共有されていた。すなわち、国際法の発展とその法を適切に運用する国際法廷の創設こそが国際平和の最善の方途であるという「法と裁判による平和」に対する信念、および、国際秩序は物理的制裁ではなく国際世論という「道義的制裁(moral sanction)」によって支えられなければならないという信念、この2つである。19世紀初頭の平和主義運動を1つの起源とするこの2つの伝統的な信念が、20世紀初頭の戦争違法化運動にまで受け継がれていた点を本章は確認する。

第2章は、第1次世界大戦後も、「法と裁判による平和」と「道義的制裁」という2つの伝統がアメリカの平和主義運動に根強く受け継がれたことを明らかにする。その一方で、世界大戦を契機に、平和は究極的には軍事制裁によって強制されねばならないという主張が台頭した点にも本章は注意を促す。その変化を象徴したのが、平和強制連盟(League to Enforce Peace)の創設であったが、「戦争を終わらせるための戦争」であったはずの大戦が、懲罰的なヴェルサイユ条約に帰結し、連盟規約に軍事制裁条項が盛り込まれたことに失望した従来からの平和主義者たちは、平和は国際世論という「道義的制裁」に依拠して実現されねばならないという決意を新たにした。本論文の主たる分析対象であるレヴィンソンもその1人だったことを本章は明らかにする。

第3章は、1920年代における戦争違法化運動の展開とその思想的発展を考察する。考察の主眼は、「戦争違法化」をめぐるレヴィンソンとカーネギー平和財団のジェームズ・T・ショットウェルとの論争に置かれる。両者は、国際連盟の規約に盛り込まれた軍事制裁規定をめぐって激しい論争を展開した。レヴィンソンは、軍事制裁の役割を肯定し続けることが、世界が戦争から解放されない根本原因であるとし、制裁を目的とする武力をも違法化することを主張した。他方ショットウェルは、軍事制裁は平和の必須要件であり、違法化の対象は侵略戦争に限定されるべきだとして、国際連盟の軍事制裁を合法とする「戦争違法化」を主張した。両者の見解の相違を一次史料に基づきながら本章は明らかにする。

第4章は、パリ不戦条約(1928)をめぐるレヴィンソンとショットウェルの論争を考察する。レヴィンソンにとって、制裁規定を具備しない不戦条約は、軍事的制裁を伴わない平和への重要な端緒であった。もっともレヴィンソンも、諸国家の不戦の誓約によって戦争が廃絶されると楽観していたわけではない。レヴィンソンは、次なる課題として、連盟規約の軍事制裁条項の完全撤廃とアメリカの連盟及びハーグ常設国際司法裁判所への加入を掲げていた。対照的にショットウェルは、不戦条約に制裁条項を追加し、ヨーロッパのロカルノ条約をモデルとする「アメリカン・ロカルノ」体制を築く道を模索した。この両者の論争と平行して、国際社会における「力の共同体」を構想したウッドロウ・ウィルソンと共和党諸大統領とが、ともにアメリカ建国の歴史にモデルを求めつつ、戦争の無い世界秩序を求めて論争を展開していたことが詳述される。

第5章は、1930年代の国際危機に対するレヴィンソンの応答を考察する。満州事変(1931)に際し、レヴィンソンは、武力に依存しない平和的対日制裁を主張し、スティムソン国務長官が打ち出した不承認政策を支持した。世界は今、侵略国に対する軍事制裁を再び行い、「戦争システム」を再生産するか、それとも世界規模の「道議的制裁」を実現させ、「戦争システム」を乗り越えるための一歩を踏み出すかの岐路にいるとレヴィンソンは訴え続けたのである。しかし1930年代後半になると、戦争違法化運動がその関心を国際法と国際法廷の整備に集中させ、国際政治の現実への働きかけを欠いてきたことをレヴィンソンは反省し、既存秩序の諸矛盾を解決するための経済的宥和を模索するようになる。この現実主義への接近をレヴィンソンの平和主義の成長の表れと本章は評価する。

第6章は、第2次世界大戦を契機に戦争違法化運動が最終的に失墜し、レヴィンソンの思想が否定されていく過程を描き出す。大戦の勃発を受け、武力で平和を強制することへの支持がアメリカ国民の間にはひろがり、非軍事的な手段で平和を構築しようとする主張や運動の余地は急速に狭められた。米ソ冷戦という国際環境で新たな外交指針として注目されたのは、モーゲンソー、ケナン、ニーバーらの現実主義外交論であった。彼らは従来のアメリカ外交に見られた「法律家的・道徳家的アプローチ(moralistic-legalistic approach)」を批判し、国際平和への模索は、国際法の運用による法の次元においてではなく、国益とパワーの調整という政治の次元において展開されねばならないとした。こうした主張は、戦争違法化運動の前提を根本的に否定するものであり、現実主義外交論の普及は、戦争違法化運動が運動としてのみならず、思想としても支持を失ったことを告げるものだった。

以上の論考を踏まえ、終章は、戦争違法化運動の今日的意義について考察する。国際法と国際世論による道議的制裁で平和を実現することを目指したレヴィンソンの運動は、国際法を軽視し、軍事力による紛争解決に傾倒する21世紀アメリカ外交への重要な警鐘である。他方、戦争違法化運動は日本に対する示唆にも満ちている。レヴィンソンは、不戦条約は戦争廃絶への第一歩に過ぎないと強調し、アメリカ一国の戦争からの隔離ではなく、世界規模の戦争違法化を追求し続けた。その現実主義とグローバルな視座は、今後の日本の平和主義のあり方にも多くの示唆を与えるものとして評価できる。

以上が本論文の概要である。本研究の学術的意義については以下の審査結果が得られた。

第一に、国際政治学の分野では忘れ去られたに等しかったサーモン・レヴィンソンの思想に新たに光を当てることで、合法の戦争と違法の戦争を区別する20世紀における戦争概念の転換を「進歩」とみなす従来の評価に疑問を投げかけた点が高く評価できる。国際社会の意思を十分に反映しない戦争が「制裁」の名の下に正当化され、「侵略」行為に及んだとされる相手を妥協の余地のない殲滅の対象とみなす負の側面を、現代における戦争概念はたしかに持つ。そうした戦争概念が定着するまでにアメリカにおいても思想的葛藤があり、より具体的には、国際連盟規約(1919)から国連憲章(1945)へと継承された軍事制裁の考え方が、単線的に成長を遂げたわけでは決してなかったことを、レヴィンソンらが残した未刊行史料をもとに、本論文は明らかにした。それにより、国際社会が現在維持する平和秩序が何を失うことで獲得されたかをも本論文は読者に合わせて問うことになった。

第二に、アメリカ外交史の近年の流れは「国際主義」の「孤立主義」への勝利として第2次世界大戦以降のアメリカ外交を評価する傾向が強い。しかし、正しくない戦争と正しい戦争の存在を当然視する現在の戦争概念に支えられたアメリカ外交には、思想としての多国間主義が貫かれていないという批判が研究者の間で繰り返し説かれてきた。その点、手段としての多国間主義は確保しつつも思想としては孤立主義に陥りがちな現在のアメリカ外交を作り上げた20世紀前半の歴史的経緯を、戦争概念をめぐる様々の知識人の言説、運動に焦点を絞りながらあらためて浮き彫りにした本論文の意義は大きい。真の国際主義の模索はそれらの経緯の批判的検討からしか始まり得ないからである。

第三に、国際政治の現状を踏まえないナイーブな理想主義という評価を従来受けがちであったレヴィンソンらの戦争違法化運動が、1928年不戦条約の不足を自覚し、世界政治の現状を改変する戦争に代わる制裁手段を両大戦間期に模索していた可能性を史料に基づき明らかにした意義は大きい。E.H.カーが『危機の20年』で強調した「現実主義」への自覚がレヴィンソンらの戦争違法化運動にも存在していたことをそれは物語るからであり、従来の研究史上の評価に重要な変更を迫るものといえる。

これらの諸点は審査委員会委員によりとくに高く評価された。

他方で、本論文には改善の余地が無いわけではない。とくに、戦争に代わる法的現状改変手段を十分には提示し得ないまま戦争違法化を主張し続けたレヴィンソンへの評価が、本論文ではまだ十分に鮮明でないという指摘が複数の審査員からなされた。世界における「正義」の達成と「暴力」の行使との間に生まれる緊張に自覚が薄い平和主義は、平和主義に名をかりた思考停止とも批判されかねないというのが、それらの質問の主旨であった。また、アメリカ外交史研究の枠を超えた平和研究全般に本論文がどのように接続され得るのかさらに踏み込んだ論述が欲しいという希望も別の審査委員から出された。これらの問題は本論文をさらに発展させるうえで今後取り組まねばならない問題であることは間違いないが、現時点における本論文の達成および学術的意義を損なうものでは全くない。

したがって、本審査委員会は、本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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