学位論文要旨



No 128589
著者(漢字) 吉田,昌弘
著者(英字)
著者(カナ) ヨシダ,マサヒロ
標題(和) 「教育」制度の形成過程に関する歴史的研究 : 文部省の管轄についての制度に着目して
標題(洋)
報告番号 128589
報告番号 甲28589
学位授与日 2012.09.05
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第200号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 今井,康雄
 東京大学 教授 小玉,重夫
 東京大学 准教授 小国,喜弘
 東京大学 教授 橋本,鉱市
 東京大学 教授 大桃,敏行
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、文部省の管轄についての制度を統合する概念が、「学校」から、「教育」を中心とするものへと移行していった過程との関係に着目する観点から、「教育」制度の形成過程を記述するものである。本論文で「制度」とは、国による法令の内容として当事者に受けとられているものを指す。そして「文部省の管轄についての制度」とは、文部省を設置し、又はその管轄を定めるような制度の部分を、「教育」制度とは、「教育」概念によって統合される構造を持った制度の部分を指す。

今日の、「教育基本法」「学校教育法」等による制度は、「教育」概念によって統合される構造をなしており、学校は、このような「教育」制度によって規定されている。

「教育」制度としての統合は、近年、「教育」や学校をめぐって行われているいくつかの議論における問題の基礎となっている。例えば、「教育」機関である幼稚園と、「児童福祉」施設であり「子育て支援」施設とも位置づけられるようになった保育所との関係が、政策上で問題化されている。また、「教育」機関である学校と「職業能力開発」のための施設である職業訓練校との関係について問題が意識され、学問上の議論としても、学校や「教育」と雇用・職業との関係が、問題化されている。さらに、近年大学における「教育」の充実が議論され、それに向けた取り組みが進められている。この動向は、伝統的な大学観に対する批判を含んでおり、すなわち逆に見れば、少なくとも大学全般を「教育」機関とするという前提が問われ得ることを示してもいるだろう。

日本教育史研究では、事実としての教育の古い時代からの存在という論理が、成立当初から方法上の前提に置かれてきた。その前提は、その教育、すなわち事実として通時代的に存在する教育、に関わる制度は「教育制度」であるという見方を構成し、「教育」制度の成立と形成過程という問題を隠蔽する効果を持ち得たと思われる。

田中萬年は、「庶民」「人民」に焦点をあてて、「教育」という言葉の普及とその意味、彼らの文部省理解について論じ、いわゆる「教育勅語」が、国民に、それまで普及していなかった「教育」に関する観念を「決定的に植えつけた要因」であったとしている。田中によって、「教育」と、「学校」や文部省との結びつきを歴史的に検証しようという問題が提起されており、本論文はこの問題を共有する。但し、本論文は、「庶民」「人民」にはほとんど知られなかった、制度の研究である。また、本論文ではむしろ、文部省の管轄の対象範囲や諸法令のテキストといった制約条件に応じつつ、制度上の「教育」に意味が与えられるものとして記述を行った。法令上に「教育」という言葉が置かれたことで、その規定の実質的対象に応じた意味が、制度上の「教育」に与えられたのである。

本論文は、序章、第1章~第5章、終章から構成されている。各章の概略を説明する。

序章では、本論文の課題を設定し、その今日的意義について説明し、日本教育史のそれを含めた先行する諸研究と本論文との方法上の違いを説明した。

第1章では、明治政府の発足から「教育令」下に至る時期について、文部省の管轄についての制度を統合する概念が、「学校」から「教育」を中心とするものへと移行してゆく過程及びそれと同時に「教育」制度としての形式が成立してゆく過程を記述した。

明治2(1869)年に置かれた大学校及びその改称である「大学」を統合し、その管轄を説明したのは、そこに統合され、それに管轄される機関が学校であるという論理であった。「大学」は、中央諸官省の間にあって「学」(学校、学問などの意味を含む)に関わる事務を管轄し得る組織であった。文部省はその「大学」の管轄の実質的範囲を継承した。文部省の管轄規定には、設立当初から「教育」の文言が置かれ、それが、後に文部卿の職掌規定や「教育令」において主要な位置を獲得していった。この過程は同時に「教育」制度としての形式が成立する過程でもあった。その中で「教育」にはいくつもの意味が与えられた。

第2、3、4章においては、学校一般を体系的にとらえる際の制度上の論理を観測し、記述した。第2章及び第3章では、学問塾・手習塾タイプの機関を制度上いかに位置づけるかという制度上の隠れた問題を意識しつつ、それぞれ「学制」下、「教育令」下の時期を対象とした。第4章では、上記の時期を通じて、「専門学校」という学校種別の意味の変遷を通して、学校一般を体系的にとらえる際の制度上の論理を記述した。

「学制」においては、学校を「大学中学小学」の「三等」に区別するとしており、それが学校体系全般を貫く第一の論理であった。(第2章)そしてその後、「教育令」布告の後明治13(1880)年7月に至って、小学校、中学校、大学校、専門学校という学校種別の趣旨は、「教育令」によって国として定めた、それぞれの理念に適合する学校を示したものと解されるようになった。同時に、学問塾・手習塾タイプの機関を含め、これらの理念に基づく基準に合わない学校は全て、「各種学校ノ部類」に収める方針となった。(第3章)

そして、明治13(1880)年中盤頃以降の職業的教育振興の流れの中で、「一家ノ業務」のもとになる「学業」を授ける「専門教育」の理念が強調された。この「専門教育」という言葉について、文部省の管轄が「教育」で規定されていたこととの関係を、明治14(1881)年に始まる農商務省との管轄争議における議論から見て、想定することができる。この「専門教育」は「普通教育」という理念と対になるものであった。すなわち、当時の文部省内部では、「普通教育」と「専門教育」という二つの「教育」理念で学校一般をとらえる論が行われるようになっており、「学制」期以来法令上に定められていた「専門学校」は、その「専門教育」の学校ととらえられた。大学校についても、それを「専門教育」の学校と見てゆこうとする志向が、当時の文部省内にあったことを、窺うことができる。尚「専門教育」は、現に存在した、医学や法律の学校を、農学校商業学校職工学校などとあわせて制度上に体系的に位置づける論理でもあった。(第4章)

第5章では、森文政期における文部省の管轄についての制度及び「教育」制度をめぐる動向を論じた。そこでは、まず森文相の「学政」概念をとらえ、そしてそれを踏まえつつ、森文相にとっての、文部省の管轄についての制度及び「教育」制度について並びに森文政期におけるそれら制度をめぐる動向について、論じた。

森文相は自らの「学政」観に基づき、「教育」と「学問」の「政」を区別すべきことを主張した。「教育令」は、文部省の管轄を統合する「教育」の下に、文部省の管轄下にある、小学校から大学校までの学校全般を規定していたが、森はその「教育令」を批判し、学校種別ごとに「各別ノ条例」を定めるよう主張し、実行した。ここで帝国大学は「学問」に属すものであり、従って森文相は「教育」制度の存在を継承しつつ、「教育」の対象範囲を限局しようとした。しかし森の「教育ト学問トノ区別」論は制度上に根づくには至らず、その後も、帝国大学を「教育」の機関と称し得た。

終章では、本論文の記述の成果を確認し、本論文で行った記述の意義について述べた。

本論文の成果は、上記の課題に沿った記述を行ったことである。「教育」という言葉の意味に対する制約条件を問題にした記述は、「教育」概念の今後の展開の可能性を探るための基盤の意味を持ち得るだろう。またそこでは、学校を「教育」機関ととらえるのでない制度の例のいくつかを、歴史上の事実として、示すことができた。

また、記述の中で、教育史上の具体的事象について、新たに本論文の観点にく歴史的評価が提示された。その例を挙げる。

第一は、「学制」と「教育令」の趣旨について。これらはそれ自体文部省の管轄についての規定という意味を持っていた。就中、「教育令」の第一条は直接には文部卿の管轄を規定する趣旨であり、それを「教育事務」と定めるものであった。そしてそれが同時に、学校それ自体の一般的理念にも及び得る形式となっていたのである。(第1章)

第二は、「学制」の非「複線型」構造についてである。文部省は、「学制」制定当時には、自らの管轄を「学校」でとらえ、他省設置のものを含めて政府内の学校全般に管轄が及ぶことを主張していた。学校の、水平的秩序を基本とした体系は、他官省との対抗関係において、当時の文部省の必要に応ずるものと見ることができる。(第1章、第2章)

第三は、森有礼の「学政」概念と「教育ト学問トノ区別」論についてである。森の言う「学政」は「政治」の一環であった。明治15(1882)年の伊藤博文とのやりとりでは「学政」に大学は意識されていないが、後の森は、文部省の管轄対象範囲にある学校一般を「学政」の対象範囲に含めて考えた。森は「公的な権力関係」と「個人の不可侵な自然権」との二元論に立っていた。政府が個人の「権理」を保護制限する態様や、保護制限される「権理」の主体について、小学校・尋常中学校と帝国大学は同列に扱えないものであった。その違いを論ずる文脈の下、森は「教育」と「学問」の「政」を区別した。(第5章)

審査要旨 要旨を表示する

「教育」概念がそれ自体歴史的な構築物だとする見方は社会史研究・思想史研究において打ち出されてきた。本論文は、同様の方法論的意識をもって制度史研究に取り組み、「教育」を対象とする制度としての「教育制度」の成立を行政実務の過程にまで遡って解明した研究である。

本論文は序章と終章、および本論5章から成る。序章では、「教育」および「教育制度」の通時代的存立を方法論的前提としがちな制度史研究の一般的状況を確認した上で、「教育制度」概念の歴史的成立を研究対象とすることの必要性と、そのために文部省の管轄に関する制度への着目が重要となる所以が示される。第1章では、文部省の設立前後から教育令に至る時期が概観され、管轄の論理が「学校」から「教育」へと変遷した経緯が明らかにされる。文部省は設立当初、前身たる「大学」から引き継いだ学校の一元的管轄の論理を主張しており学制はこの論理を制度化したものと解釈できる。「教育」の文言は文部卿職掌規定などに散見されるものの、管轄の根拠とはなっていなかった。ようやく教育令において、文部卿が教育事務を統括するがゆえに学校もまた文部卿の管轄下に入る、という論理が明文化され、「教育制度」が成立するに至る。続いて第2章、第3章では、それぞれ学制期と教育令期を対象として、管轄の論理が変化したことの含意が、近世から続く私塾系諸学校の処遇に即して分析される。学制の下では、小学・中学・専門学校は教授内容の程度に応じて生徒の等級を区別する概念であったため、私塾もその教授内容に応じて学校体系に包摂された(第2章)。ところが教育令の下では、諸学校が各々の教育目的に即して規定され、私塾はそうした制度規定に適合しないものとして「各種学校」へと括り出されることになる(第3章)。第4章では、学制期から教育令期にかけての「専門学校」の意味の錯綜と変遷が追跡される。普通教育に対する専門教育という教育の論理が、職業教育系諸学校への管轄権の主張と絡めて打ち出されていく過程をそこに読み取ることができる。第5章は教育令を廃して諸学校令を制定した森文政期を対象とする。文相時代の森は、文部省の既存の管轄範囲全体に関わる政務を「学政」と概括した上で、その対象を学問と教育に分けて捉えた。森の学問・教育分離論は、「教育」によって管轄範囲を統合する従来の文部省の論理を崩す可能性を含むものであった。しかし森のこうした「学政」観は、森が主導した諸学校令がその後の教育制度の基盤を築いたのとは裏腹に、管轄制度上に定着することはなかった。最後に終章で本論文において提示された観点の妥当性と意義を検討して本論文は閉じられる。

以上のように、本論文は、文部省の管轄に関する制度の成立・展開過程を緻密に再構成することを通して、方法論的な問題提起を含む新たな視点を近代日本教育史の研究に提示しており、今後の教育学研究に重要な寄与をなすことが期待できる。以上により、本論文は博士(教育学)の学位論文としての水準を満たしているものと評価された。

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