学位論文要旨



No 128593
著者(漢字) ファン ズイ フン
著者(英字) Phan Duy Hung
著者(カナ) ファン ズイ フン
標題(和) グリコシドの酸加水分解におけるカウンターアニオンの役割
標題(洋) Role of counter anion in acid hydrolysis of glycoside
報告番号 128593
報告番号 甲28593
学位授与日 2012.09.07
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3857号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生物材料科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松本,雄二
 東京大学 教授 磯貝,明
 東京大学 准教授 五十嵐,圭日子
 東京大学 准教授 竹村,彰夫
 東京大学 准教授 横山,朝哉
内容要旨 要旨を表示する

1.緒言

グリコシド酸加水分解反応の機構 (Fig. 1、methyl α-D-glucopyranoside (MGPα) による) は20世紀前半に確立され、現在では普遍的に受け入れられている。これによれば、まず環外酸素がプロトン化されて共役酸が生成した後、アグリコンが脱離して環状カチオンが生じる。このアグリコン脱離が、全反応の律速段階である。共役酸のみが律速段階に進めるため、グリコシドの酸加水分解は特殊酸触媒反応の性質を示す。環状カチオンへ水が付加した後にプロトンが解離し、加水分解が完了する。全体としてアグリコン部位が置換されるので、グリコシドの酸加水分解反応は、SN1 型求核置換反応の性質を示す。これらの事実から、プロトン活量、グリコシド化合物濃度、温度、および、溶媒解離力 (溶媒イオン化力) の4つが、反応速度決定因子である。

しかし予備実験において、HBr を酸として用いた MGPα の加水分解反応系に KBr を添加すると、MGPα の分解速度が増大することが確認された。この結果は、HBr のカウンターアニオンである Br- が反応に直接関与すること、すなわち、Fig. 1 以外の未知の機構が存在する可能性を示すものであり、非常に興味深い。本研究ではこれらを背景として、グリコシド化合物の酸加水分解反応におけるカウンターアニオンの役割について詳しく調べることを目的とし、次に記載する実験を行った。すなわち、0.2 mol/l の様々な酸水溶液を用いて MGPα および methyl β-D-glucopyranoside (MGPβ) を 85°C の下で加水分解し、これらの分解速度への酸の種類の影響について詳しく検討した。

2.異なる酸を用いた加水分解によるカウンターアニオンの役割の検討

HCl、HBr そして H2SO4 を酸として用いた場合の MGPα と MGPβ 収率の経時変化を Fig. 2 に、そして、その擬一次反応速度定数を Table 1 に、それぞれ示す。いずれの酸を用いた場合でも、既往の知見通り MGPβ は MGPα よりもかなり速く分解された。MGP (以下、MGPα と MGPβ を区別せずに言及する場合に使用) の分解は、HCl と H2SO4 を用いるとほとんど同速度であったが、HBr を用いると、明らかに速かった。これらの反応系間で MGP の分解速度を比較する場合、緒言に記載した4つの反応速度決定因子のうち、プロトン活量以外は同一と考えられるので、上記の結果は、同じ濃度であっても HBr 系のプロトン活量が他の2つの系よりも高いことを示唆する。しかし、もしこれら3つの系のプロトン活量が異ならない場合には、HBr のカウンターアニオンである Br- が、MGP の加水分解反応に直接関与することが示唆される。これを確認するため、3つの反応系におけるプロトン活量を見積もった。

まず、ハメットの酸度関数の測定時と同様にして、室温での3つの系中における p-nitroanilineとその共役酸 (pKa = 0.99) との濃度比を、380 nm 付近における吸光度から測定した。その結果、どの系でも吸光度がほぼ同じであったことから、3つの酸の系ではプロトン活量が異ならないことが見積もられた。しかし、MGP の加水分解反応と同じ条件、すなわち、85°C においてプロトン活量を比較することがより重要である。85°C で吸光度を測定することは困難であるので、ある化学反応の速度をプロトン活量の基準とすることが合理的である。ただし、この化学反応の速度はプロトン活量のみに依存し、何らかの求核剤の影響を受けないことが条件となる。本研究では、この化学反応としてピナコール転移、すなわち、酸性条件下における 2,3-dimethylbutane-2,3-diol (pinacol) の 3,3-dimethylbutan-2-one (pinacolone) への転移 (Fig. 3) を用いた。この反応では、pinacol 水酸基のプロトン化とこれに続く水脱離によって第3級カルボカチオンが生成し、隣接するメチル基が電子対と共にカチオン中心に転移することによって、pinacolone が生じる。pinacol の共役酸のみが律速段階の水脱離に進めるため、ピナコール転移は特殊酸触媒反応の性質を示す。また、pinacol の持つメチル基の立体障害によって、酸のカウンターアニオンのような求核剤の反応への関与が困難となっている。HCl、HBr および H2SO4 を用いた場合の pinacol 収率の経時変化を Fig. 4 に、そしてその擬一次反応速度定数を Table 2 に、それぞれ示す。これらの3つの反応系において、pinacol の消失速度はほぼ同じであった。したがって、85°C においても、これらの系におけるプロトン活量がほぼ同じであることが見積もられた。この結果と HBr 系で MGP の加水分解が速いことを合わせて考えると、MGP の加水分解反応に Br- が関与し、MGP の分解速度を増大させることが示唆される。Br- が関与する未知機構の詳細は不明であるが、メタノール脱離段 (Fig. 1) で、メタノールの反対側から Br- がその脱離を補助する SN2 型置換反応に類似した機構等を、予想することが可能であろう。

次に、カウンターアニオンの反応への関与に対する溶媒の影響を調べるため、上記と同様の MGP 加水分解反応を、74% 1,4-dioxane 水溶液 (1,4-dioxane/H2O ≒ 0.6 (モル比)) 中で行った。その結果、HBr、HCl そして H2SO4 系の順に MGP の分解が遅く、H2SO4 系ではその他の系よりもかなり遅かった (Table 1)。したがって、もしこれら3つの系におけるプロトン活量が同じであれば、Br- だけでなく Cl- も直接反応に関与することが示唆される。これを確認するため、ピナコール転移の速度を測定すると、H2SO4、HBr そして HCl 系の順に遅かった (Table 2)。また、CH3SO3H を用いた場合には、HCl 系と近い速度であった (Table 2)。CH3SO3H が一価の酸であることを考慮すると、少なくとも一部の H2SO4 分子が、74% 1,4-dioxane 水溶液中では二価の酸として働くことが示唆され、この系におけるプロトン活量は HBr および HCl 系よりもかなり高いと考えられる。しかし、H2SO4 系における MGP の加水分解速度は、HBr と HCl 系よりもかなり遅いので、74% 1,4-dioxane 水溶液中では、Br- だけでなく Cl- も MGP の加水分解反応に直接関与することが示唆される。

溶媒の影響をさらに検討するため、上記と同様の MGP 加水分解反応を、82% 1,4-dioxane 水溶液 (1,4-dioxane/H2O ≒ 1.0 (モル比)) 中で行った。その結果、MGP の分解は HBr、HCl そして H2SO4 系の順に遅かったが、どの系でも水溶液中および 74% 1,4-dioxane 水溶液中での反応と比較してかなり速かった (Table 1)。これら3つの系のプロトン活量を見積もるため、ピナコール転移速度を測定すると、HBr、H2SO4 そして HCl 系の順に遅く、また、CH3SO3H 系では HCl 系に近い速度であった (Table 2)。これらの結果から、74% 1,4-dioxane 水溶液中と同様に、少なくとも一部の H2SO4 分子が 82% 1,4-dioxane 水溶液中では二価の酸として働くこと、そして、ピナコールの立体障害が非常に大きいにもかかわらず、Br- がピナコール転移反応にも直接関与し得ることが示唆される。H2SO4 系のプロトン活量が高いにもかかわらず、この系における MGP の加水分解速度が HBr および HCl 系よりもかなり遅いことから、82% 1,4-dioxane 水溶液中の MGP 加水分解反応においても、Br- だけでなく Cl- も直接反応に関与することが示唆される。

3.共通アニオン塩の添加によるカウンターアニオンの役割の検討

CH3SO3H の系に対して CH3SO3K を加えてピナコール転移速度を測定すると、添加しない場合とほぼ同じであった。この結果と CH3SO3- がほとんど求核性を持たないことを考慮すると、ある酸の系に対して何らかの塩を添加しても、プロトン活量にはほとんど影響を与えないことが示唆される。このことを基盤として、HCl、HBr そして H2SO4 の系に対して KCl、KBr そして KHSO4 をそれぞれ添加し、カウンターアニオン濃度を増加させた後に MGP 加水分解反応を行った。その結果、水溶液中では KBr の添加のみがわずかに MGP の分解速度を増大させたため、上記の塩無添加の場合と同様に、水溶液中における Br- の反応への関与が示唆される。74% および 82% 1,4-dioxane 水溶液中では、全ての系で塩の添加が MGP の分解速度を増大させたが、82% 中での方がその効果が大きかった。H2SO4 の系に対する KHSO4 の添加による分解速度の増大は、HSO4- の解離によるプロトン活量の増大に起因すると考えられる。このように、塩の添加を行った場合にも塩無添加の場合と同様に、74% および 82% 1,4-dioxane 水溶液中では、Br- だけでなく Cl- も MGP の加水分解反応に直接関与することが示唆される。また、1,4-dioxane 濃度が高くなる程、Br- と Cl- の反応への関与の程度が大きくなることが示唆される。

4.結論

MGP の加水分解反応に対して、水溶液中では Br- が、74% および 82% 1,4-dioxane 水溶液中では Br- と Cl- が、直接関与することが示唆される。酸のカウンターアニオンの反応への直接の関与は、これまでには知られていない新しい知見であり、非常に興味深い。

Fig. 1 The universally acknowledged mechanism of acid hydrolysis reaction of MGPα

Fig. 2 Disappearances of MGPα and MGPβ in the hydrolyses using HCl, HBr, or H2SO4 as an acid

Table 1 List of pseudo-first-order reaction rate constants (kobs) of acid hydrolysis reactions of MGP

Fig. 3 General mechanism of the pinacol rearrangement

Fig. 4 Disappearance of pinacol when HCl, HBr, or H2SO4 was used as an acid

Table 2 List of pseudo-first-order reaction rate constants (kobs) of the pinacol arrangements

審査要旨 要旨を表示する

グリコシドの酸加水分解反応は19世紀末から研究されており、20世紀半ばにはその機構が確立され、これが現在でも普遍的に受け入れられている。これによれば、一般的な条件の下で加水分解反応を行う場合には、プロトン活量のみが実質的な反応速度決定因子となる。この事実のためと推測されるが、驚くべきことに100年以上の長い研究の歴史において、酸の種類の相違による反応への影響、すなわち、酸のカウンターアニオンの役割について注目する研究は、全く行われてこなかった。酸のカウンターアニオンはその種類によって求核性が大きく異なるため、この種類は様々な化学反応において、常に反応速度に影響を及ぼす因子となり得る。これらのことを背景として本研究では、グリコシドの酸加水分解反応におけるカウンターアニオンの役割について詳しく調べ、カウンターアニオンの反応への直接的な関与を提案することを目的とした。

グリコシドモデル化合物のメチルα‐およびβ-D-グルコピラノシド (MGP) を、同濃度 (0.2 mol/l) のHCl、HBrまたはH2SO4水溶液中85°Cで酸加水分解反応に供すると、これらの分解速度はHBr > HCl = H2SO4の順であった。この結果および上記の機構から、HBrを用いるとプロトン活量が高くなる可能性が考えられた。85°Cにおけるこれら3つの酸水溶液のプロトン活量を検討するため、プロトン活量のみが反応速度決定因子であるピナコール転移 (酸性下におけるピナコールのピナコロンへの変換) を基準の化学反応として用い、ピナコールの消失速度からこれらのプロトン活量を見積もった。その結果、ピナコールの消失はどの酸を用いた場合もほぼ同速度であったため、3つの酸水溶液のプロトン活量がほぼ同程度であることが示唆された。したがって、HBr を用いるとMGPの加水分解が速いという結果は、未知機構の存在を示唆すると考えられた。この未知機構として、MGPの酸加水分解反応の律速段階であるMGPの共役酸からのメタノール脱離段階において、Br- が脱離のアシストをして反応に直接的に関与することが合理的であることを、提案した。

74% 1,4-ジオキサン水溶液中、上記と同条件下でMGPの加水分解反応を行うと、3つの酸のどれを用いても水溶液中よりもMGPの分解が速く、その速度はHBr ≧ HC1 >> H(2)SO(4)の順であった。反応系のプロトン活量を見積もるため、74% 1,4-ジオキサン水溶液中においてHC1、H(2)SO(4)およびCH(3)SO(3)Hを酸として用いた場合のピナコール転移の速度を比較したところ、H2(3)SO(4) > CH(3)SO(3)H≈HC1の順であった。この結果から、74% 1,4-ジオキサン水溶液中では少なくとも一部のH(2)SO(4) 分子が二塩基酸として働くため、H2SO4 反応系のプロトン活量が高いことが示唆された。なお、HBrのプロトン活量は、HClとは大きく異ならないと考えた。したがって、HC1 およびHBrをH2SO4と比較すると、前2者ではプロトン活量が低いにもかかわらずMGPの分解がかなり速く、これら2つの酸にはMGPの酸加水分解速度を加速する要因が存在することが示唆された。そして、この要因がC1-とBr- の反応への直接的な関与であることを提案した。また、82% 1,4-ジオキサン水溶液中で同じ反応を行ったところ同じ傾向の結果が得られたが、MGPの分解は74% 中よりもかなり速く、C1- とBr- の反応への直接的な関与の程度も、74% 中よりもかなり大きいことが示唆された。

HC1、HBrまたはH(2)SO(4)水溶液にKCl、KBrまたはKHSO(4)をそれぞれ加え、カウンターアニオンの濃度を増加させて同様の反応を行うと、前2者においてMGPの酸加水分解が加速された。一方、これらの塩を添加した3つの水溶液中におけるピナコールの消失は、ほぼ同速度であったため、塩の添加によって反応速度決定因子(この場合はプロトン活量と溶媒解離力)は影響を受けないと考えられた。したがって、C1-とBr- の反応への直接的な関与が示唆された。塩の添加により、水溶液中においてC1- が反応へ直接的に関与することが観測可能となった。

74% および82% 1,4-ジオキサン水溶液中、同様に塩を加えて反応を行うと同じ傾向の結果が得られたが、1,4-ジオキサン含量が高い程C1- とBr- の反応への直接的な関与の程度が大きくなることが示唆された。

このように本研究では、グリコシド化合物であるMGPの酸加水分解反応に、酸のカウンターアニオンであるC1- とBr- が直接的に関与し得ることを示した。したがって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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