学位論文要旨



No 128596
著者(漢字) 渡部,由香
著者(英字)
著者(カナ) ワタナベ,ユカ
標題(和) 日本の新薬開発における遅れのメカニズムに関する研究
標題(洋)
報告番号 128596
報告番号 甲28596
学位授与日 2012.09.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第1470号
研究科 薬学系研究科
専攻 生命薬学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松本,則夫
 東京大学 教授 長野,哲雄
 東京大学 教授 入村,達郎
 東京大学 教授 楠原,洋之
 東京大学 特任教授 津谷,喜一郎
 東京大学 准教授 小野,俊介
 東京大学 特任准教授 樋坂,章博
 東京大学 教授 橋本,英樹
 理化学研究所 特別招聘研究員 杉山,雄一
内容要旨 要旨を表示する

【背景と目的】

日本において新薬の上市が欧米に比較して遅いことが,いわゆる「ドラッグ・ラグ問題」として話題となって久しい。行政におけるドラッグ・ラグ問題の議論において,審査期間の問題治験を実施する医療機関の問題に焦点が当たり,医薬品の開発主体である企業側の行動が十分に議論されていなかった。一般にドラッグ・ラグ問題とは,上市時期の差により日本の患者が治療機会を逸失していることを指すが,この時間差は先行する海外から得られる情報・経験(規制当局による決定を含む)の蓄積ともっながっており,先行地域から得られる情報・経験を日本での開発に活かそうとする企業の意図がドラッグ・ラグとして顕在化している可能性が考えられた。本研究においては,まず,新薬の開発における企業行動に焦点をあて,日本における新薬申請の遅れと企業の開発戦略に係る諸要因との関係を探索的に明らかにすることを目的に解析を行った。続いて,国内における臨床開発の成功確率と開発着手ラグの関係を直接的に明らかにすることを目的に解析を行った。

【方法】

1.申請ラグと企業の国内開発戦略との関係に関する分析

ドラッグ・ラグ問題における企業行動に着目するため,本研究においては日本と欧州・米国のうち先行した申請時期の差を申請ラグと定義し,2000年1月から2006年12月の間に日本及び米国または欧州(centralized procedure)で承認された新有効成分含有医薬品を対象とした136品目のデータベースを構築した。申請ラグと関係する開発の要因を推計するにあたり用いた回帰分析モデルを図1に示す。モデル1:申請ラグの長短に関連する要因を探索するため,申請ラグを目的変数とし,企業特性(国内申請企業の内資・外資の別),開発特性(ライセンス戦略,ブリッジング戦略の有無,国内臨床試験被験者数),薬剤特性(薬効分類,希少疾病用医薬品・優先審査指定の有無),市場性(予測売上規模),政策・時間特性(新GCP,審査センター前後)を説明変数とする回帰分析モデルを作成した。モデル2:ライセンス戦略に関連する要因を探索するためにライセンス導入の有無(有=1,無=0)を目的変数として,モデル1と同様の説明変数を用いた回帰分析モデルを作成した。

2.新薬開発の成功確率と開発着手ラグの関係に関する分析

1995年から2009年までに目本で着手した第II相開発品目として261品目,同時期に日本で着手した第III相開発品目として157品目からなるデータベースを構築し,日米の開発情報を収集した。日本における第II相あるいは第III相の相移行成功確率を,日米の開発着手ラグ,創出企業特性,薬剤特性,市場性を説明変数とするCox比例ハザードモデルを用いて推定した。

【結果と考察】

1.申請ラグと企業の国内開発戦略との関係に関する分析

表1に示すように,外資企業及びライセンス導入品目では申請ラグは有意に長かった。ブリッジング開発品目では申請ラグは短かった。国内における臨床試験に時間がかかり,コストが高いことがドラッグ・ラグの一つの要因として議論されていたことから,「国内臨床試験被験者数」を開発コストの代替変数として用いたところ,申請ラグと有意な関係は認められなかった。また,予想ピーク売上と申請ラグの関係も有意ではなかった。さらに,申請ラグと強く関係するライセンス戦略について,ライセンス導入されやすい品目の特徴をロジスティック回帰分析により明らかにした。表2に示すように,海外で開発した企業が国内に関連企業を持たない品目でライセンス戦略がとられやすく,また,ライセンス導入して国内開発を実施する企業は,その疾患領域を得意とする企業であることが示された。先の解析の結果ライセンス戦略は申請ラグの増大と関連していたが,日本で上市され難い新薬が適切なライセンスにより初めて開発着手される可能性,すなわちライセンスは潜在的なラグを改善していると評価すべきかもしれないことが示唆された。本解析において,開発品目や開発戦略の選択に関する変数が申請ラグと強く関係することが示された。

2.新薬開発の成功確率と日米の開発着手ラグの関係に関する分析

表3に示すように,日本が第II相入りした年に,米国が申請中あるいは上市後であった場合には,米国も第II相入りあるいは第II相実施中であった場合に比べ,ハザード比は2.08倍であり,開発着手ラグを年換算した場合には,日本における第II相試験着手が米国・より1年遅れると,成功確率が15%上昇することが明らかになった。また,候補品を発見した企業(創出企業)の地域別で見てみると,日本を本拠地とする創出企業の品目で日本での成功確率が高いことが示された。一方,第III相の成功確率には米国との開発着手ラグの関係は強くないことが明らかとなった。一般に第III相の成功確率は第II相よりも高く,また,第III相の段階においては,前相の試験成績を含め,開発品の情報は格段に増えており,先行する他地域の開発により得られる追加の情報の価値が第III相では第II相より相対的に低くなっていると考えられる。第III相の成功確率との関連を示唆した変数として,企業規模がある。規模の大きな企業では,そうでない企業に比べ,ハザード比はLgl倍となる。臨床開発の後期においては,開発品の情報・経験の蓄積よりも企業の一般的な経験の蓄積あるいは財務力がより影響することが示唆された。

【まとめと今後の課題】

本研究において,申請ラグが企業の開発品目及び開発戦略の選択といった要素と強く関係していることが明らかになった。さらに,第II相の成功確率とラグは正の関係にあることが示された。日本における開発の遅れ(ラグ)は,その間に先行する開発品の情報・経験の蓄積と根本では密接に関係しているために,日本で一定のドラッグ・ラグが生じていると考えられる。また,ラグが成功確率と正の関係にあったことは,本研究の観察期間において,かかる先行情報・経験を活用した日本向けの開発戦略が功を奏していることの表れである可能性がある。いわゆるドラッグ・ラグ対策に係る施策として,新薬の承認の要件や海外データの取扱い要件といった開発の「成功・失敗」に直結した施策が相対的に強い効果を有する可能性が示唆される。本研究では,過去の開発環境における企業行動に着目し,日本と欧米との間の開発の遅れが生じるメカニズムについて分析した。近年,世界の新薬開発活動はますますグローバル化し,国内ではドラッグ・ラグ問題の解決に向けた施策が提案されている。本研究の成果は,そうした施策の評価や今後立案,実施されるべき政策を考える上で,新薬開発の一義的な主体である製薬企業の行動をいかに織り込むべきかについて具体的な材料を与えるものである。さらに国民の厚生を我々の本来の目的とするならば,政策目的を「ドラッグ・ラグの解消」ではなく「新薬アクセスの改善」とする発想の転換を求めるものである。

【投稿論文】

HhaiY,Kinoshita H,Kusama M,Yasuda K,Sugiyama Y and Ono S. Delays in new drug applications in Japan and industrial R&D strategies. Clin.Pharmacol.Ther.87,212-218(2010).

HiraiY,Yamanaka Y,Kusama M,Ishibashi T,Sugiyama Y and Ono S. Analysis of the success rates of new drug development in Japan and the lag behind the US. Health Policy104,241-246(2012).

図1回帰分析モデル

表1申請ラグを目的変数とした重回帰分析における怪奇係数(目的変数二申請ラグ[月])

表2ライセンス導入を目的変数としたロジスティック回帰分析におけるオッズ比(目的変数=0,導入がない場合:1,ある場合)

表3日本における第II相成功に対するCox比例ハザード分析(目的変数=1,開発相移行成功;0,不成功)

審査要旨 要旨を表示する

近年、抗がん剤等のドラッグラグが日本の患者における新薬アクセスの不足・遅れという観点から社会問題化している。行政的な対応においては、承認審査の事務処理期間の遅れ、及び治験を実施する医療機関の問題に主として焦点が当たり、医薬品の開発主体である企業の行動に係る要因は十分に議論されていない。日本での上市時期の遅れは日本の患者にとっては治療機会の逸失を意味するが、一方でこの時間差は、上市が先行する海外各国から得られる情報・経験(他国の規制当局による決定を含む。)の蓄積を生む。こうした先行地域の情報等が新薬開発の成功確率の向上に寄与するならば、上市の遅れによる直接的な期待利益の減少とのトレードオフが企業の意思決定における問題となりうる。新薬開発というきわめて不確実性の高い領域で期待利益の最大化を図る製薬企業にとっては、先行地域から得られる情報等を日本での開発で活用して戦略オプションを選択している可能性、すなわちドラッグラグがいわば必然的に生じている可能性がある。

本研究では、まず、新薬の開発における企業行動に焦点をあて、日本における新薬申請の遅れと企業の開発戦略に係る諸要因の関係を明らかにすることを目的とした探索的な分析を行った。続いて、上述の仮説をより直接に検証するため、国内における臨床開発の成功確率と開発各相における遅れの関係を解析した。さらに、得られた実証的な分析結果が期待利益最大化モデルからの理論的含意によって支持されるかを検討した。

1.申請ラグと企業の国内開発戦略の選択に関する分析

ドラッグラグを構成する要素のうち企業による承認申請ラグに着目して、ラグと関連する諸要因の分析を行った。日本と欧・米のうち先行した申請時期の差を申請ラグと定義し、2000年1月から2006年12月の間に日本及び米またはEUで承認された新有効成分含有医薬品136品目を分析対象とし、申請ラグと関係する要因を回帰分析モデルにより探索した。モデルでは、申請ラグを目的変数とし、企業特牲(国内申請企業の内資・外資の別)、開発 特性(ライセンス戦略、ブリッジング戦略の有無、国内臨床試験被験者数)、薬剤特性(薬効分類、希少疾病用医薬品・優先審査指定の有無)、市場性(予測売上規模)、政策・時間属性(新GCPの実施、審査センターの設立)を説明変数とした。

分析の結果、外資企業の申請品目及びライセンス導入品目では申請ラグは有意に長いこと、ブリッジング開発品目では申請ラグが短いこと等が明らかになった。一方、国内臨床試験被験者数など開発費用と深く関係する変数や予想売上高などの変数は、申請ラグと有意な関係は認められなかった。さらに、申請ラグと強く関係するライセンス導入品目の特徴をロジスティック回帰分析により探索したところ、日本国内に関連企業を持たない海外開発企業、及び当該品目の疾患領域に販売戦略上の重点を置いている企業において、ライセンス導入という戦略を採用しやすいことが示された。以上から、予想売上高等の一般的な品目の属性ではなく企業の新薬開発戦略の選択によってラグが説明されること、また、ライセンス戦略は申請ラグの増大と正に関連しているが、日本で上市され難い新薬がライセンス契約の締結により初めて開発着手される可能性、すなわちライセンス戦略は潜在的なラグを改善していることが示唆された。

2.新薬開発の成功確率と開発着手ラグの関係に関する分析

1995年から2009年までに日本で着手した第II相開発品目として261品目、日本で着手した第III相開発品目として157品目を分析対象とした。日本における第II相及び第III相の相移行成功確率を、日米の開発着手ラグ、候補品を発見した企業・薬剤特性、市場性を説明変数とするCox比例ハザードモデルを用いて推定した。

分析の結果、日本が第II相入りした年に、米国が申請中または上市後であった場合(米国が先行している場合)には、米国も第II相または第II相実施中であった場合(米国が日本とほぼ同じ進行にある場合)に比べ、日本での第II相成功に係るハザード比は2.08倍であった。開発着手ラグを年換算すると、日本における第II相試験着手が米国より1年遅れると、成功確率が15%上昇することが明らかになった。候補品を発見した企業の地域別で見てみると、日本を本拠地とする企業が創出した品目で日本での成功確率が高いことが示された。一方、日本での第III相の成功確率と米国からの開発着手ラグの関係は強くないことも明らかとなった。一般に、第III相の成功確率は第II相よりも高く、また、第III相の段階においては、前相までの試験成績を含め開発品の情報は格段に増えており、先行する他地域から得られる追加情報の価値が限界的に低くなっている可能性が考えられた。第III相の成功確率は企業規模と正に相関していた(ハザード比1.91倍)。臨床開発の後期においては、開発品そのものの情報の蓄積よりも企業の一般的な開発経験の蓄積、あるいは財務力が限界的により影響している可能性が示唆された。

3.期待利益最大化モデルによる理論的考察

ドラッグラグが企業の期待利益最大化行動において果たしている役割について理論的な枠組みから考察を行った。企業(意思決定者)が開発候補品目の期待利益の和の最大化を図るというモデルを想定し、現実の制約条件を踏まえたモデル分析を行ったところ、予想される成功確率の向上というメカニズムを介して日本での開発の遅れが生じ得ること、ラグと成功確率が正に関係している状況下では、売上高が大きい品目をより早く開発するはずという一般的な予想は必ずしも成り立たないことなどが示された。これらの結果は、おおむね1.及び2.に記した実証分析の結果を支持するものであった。

以上、本研究では、ドラシグラグ問題の中核にある製薬企業の開発戦略の選択に着目し、複数の地域・国を跨いだ新薬開発戦略の普及、及び近年ますます低下する新薬開発成功確率の下で、企業の期待利益最大化行動としてドラッグラグが生じている可能性があることを実証的に、及び理論モデルを使った分析で示した。本研究の成果は、現在のドラッグラグ対策の評価や今後立案・実施されるべき産業政策において、製薬企業の開発選択行動をいかに考慮すべきかについて具体的かつ定量的な指針を与えるものであり、医薬品のレギュラトリーサイエンスの観点からの価値も高い。これらの業績は博士(薬学)の学位の取得に値する優れた研究と評価された。

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