学位論文要旨



No 128617
著者(漢字) 古城,毅
著者(英字)
著者(カナ) コジョウ,タケシ
標題(和) バンジャマン・コンスタンの思想転換 : 『政治の原理』から『宗教論』へ
標題(洋)
報告番号 128617
報告番号 甲28617
学位授与日 2012.09.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第265号
研究科 法学政治学研究科
専攻 政治
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川出,良枝
 東京大学 教授 宇野,重規
 東京大学 教授 苅部,直
 東京大学 教授 高見澤,磨
 東京大学 教授 飯田,敬輔
内容要旨 要旨を表示する

本稿は、フランス革命期から十九世紀前半にかけてのフランスを代表する思想家として知られるバンジャマン・コンスタン(1767-1830)について、その政治思想を宗教思想との関連において再解釈する試みである。

これまでコンスタンの政治思想の集大成は1806年に執筆した『政治の原理』であるとされ、その後に出版された諸作品は、その抜粋や修正に過ぎないとされてきた。言い換えれば、この時期以降、彼の政治思想は本質において変化しなかったと見なされてきた。しかも、この解釈に従えば、コンスタンは、いたずらに古代を模倣しようとしたルソーのアナクロニズムを批判し、個人の「権力からの自由」を重視し、商業や分業を中心とする近代社会の基本的趨勢を肯定的に評価する自由主義思想家であった。

しかしながら、『政治の原理』を精密に読み直すならば、コンスタンの政治思想がこのような解釈の枠組みには収まり切らない、相互に矛盾し合う多様な内容を含むものであることがわかる。そこから本稿は、『政治の原理』は集大成ではなく、過渡期の作品であり、そこではコンスタンの近代社会に対する評価のぶれが露わになっているという仮説を立てる。そしてむしろ、彼が若き日に構想し、死ぬまで推敲を続けた大著『宗教論』の中にこそ、『政治の原理』において陥った隘路を乗り越えたコンスタンの最終的なメッセージが込められているのではないかと考える。このような見通しの下に、コンスタンの宗教論についての過去の諸研究の成果を政治論に関する知見と接合することによって、あらためてコンスタンの政治思想を総合的に理解することが、本稿の課題である。

以上の課題を追究するために、本稿は『政治の原理』を再読する第一部と、『宗教論』におけるコンスタンの思想転換を検討する第二部から構成される。

第一部は四章から構成される。第一章はまず、コンスタンが何と対決し、その結果、いかなる課題を追ったかを考察する。一見すると、コンスタンは、代議制の正当性を否定したルソーを、それゆえに批判した。しかし、実際には、コンスタンが批判するのはルソーの多数決論の基礎となっている人間不信論であった。そしてコンスタンは、ルソーへの対案として、判断力・憐憫・抵抗精神から成る市民のモラルと、国内の治安および国防に限定された統治権力(治安権力)という構想を提示するが、この構想をどのように現実化するのかという課題を負うことになった。他方、ルソーに対する以上にコンスタンが批判を加えたのは、ナポレオン政権を念頭に置いたエリート統治論であった。コンスタンからすれば、エリート統治論は一方では統治者の知性、善意、および能力への過信に基づき、他方では、被治者の自律性への根拠なき不信に基づく謬論であった。そこからコンスタンは、エリート統治論をよしとする思考様式の基礎にある社会構造を批判し、「啓蒙された利己心」を普及させるような市民社会を構想した。

第二章では、コンスタンの近代社会論を再検討する。従来、コンスタンの近代社会論といえば、商業が統治権を抑制し、社交性モラルを向上させるという、商業社会を基調とするものであると理解されてきた。しかしながら、『政治の原理』を読み直すならば、商業がはたして統治権の肥大化を抑制できるのか、むしろ商人と統治エリートは癒着するのではないか等々、彼が実際には商業社会に警戒的であったことがわかる。そのため、コンスタンは、啓蒙された富裕な地主層と自作農から成る農業社会に期待を抱く。啓蒙された地主層には穏和さ、教養、正義感を、自作農には「保守精神」を期待したのである。しかしながら、彼の農業社会論にも綻びが見られた。何より、商業社会化により、安定した富をもつ地主層は消滅する可能性があった。また、自作農についても投機的な農業経営者になって商人精神に染まったり、農業労働者に転落したりする可能性があった。結論として、商業社会も、また農業を中心とする社会も、コンスタンの理想とする判断力と連帯に基づく市民社会にはつながらなかったのである。

第三章はコンスタンの代議制論を扱う。コンスタンの代議制論を理解するには、治安権力論との関係が重要である。治安権力論とは、治安という明確な権限に限り、統治者に一任するという議論であるが、治安権力の越権を抑止するのが公論と権力分立であり、とくに公論に支えられた議会が権力分立の重要な一角となる。具体的には代議制が被治者の諸利益を濾過するという「利益の濾過論」と、公論に支えられた議会が執行権を監視するという「議会による監視論」が中心になるが、いずれも代議士の指導力に期待した議会主導論であった。しかしながら、コンスタンは代議士の能力を理解し選挙する被治者の能力への不信を拭えず、また議会が執行権を正当化する道具に成り下がる可能性を否定できなかった。そもそも一方で市民の非武装化・非政治化を推進しながら、他方で執行権に武力を独占させるという治安権力論そのものに問題があったのであり、最終的にコンスタンは、統治権をコントロールする政治主体と、討議を行う主体のイメージについて根本的な再検討を余儀なくされた。

それではなぜ、コンスタンの市民社会論や代議制論は破綻するのか。その原因を人間論において探ったコンスタンの思考を、「市民のモラル論」として検討するのが第四章である。外在的な制約によって人間行動を規律していくことに限界がある以上、コンスタンは他律的ではない人間行動の可能性を検討する。彼が候補として示したのが、因果を自律的に辿る能力、自然権を尊重する能力、平等・弱さに基づく近代人のモラル、そして宗教感情であった。しかしながら、誤った前提から推論から出発して絶対主権への委任を導いてしまったルソーのように、因果思考は絶対ではない。自然権についても、時代や社会によって現実化の様態は異なり、安定した原理になりえない。また古代人と違い、判断力には富むが優柔不断である近代人は党派的集団に対抗できないし、恐怖に直面すると私的領域に閉じこもり、他者との連帯を失う。最後にコンスタンが頼ったのが宗教感情であるが、『政治の原理』の段階では、いまだ明確な宗教論の見通しには欠けていた。ここから彼の『宗教論』へと至る知的模索の必然性が明らかになることを示して、第一部は終わる。

第二部ではコンスタンの『宗教論』を論じるが、第一章では予備的な考察として、『政治の原理』に至るまでの彼の思想遍歴を振り返る。不安定な少年時代を過ごし、生きることの意味をめぐって悩んだコンスタンは、この苦悩が来世における救済を最優先するキリスト教に由来すると考え、エルヴェシウスに倣って古代の多神教に着目する。しかし宗教情念を政治的に利用することを認めたエルヴェシウスを嫌ったコンスタンは、思想の自由放任を主張したミラボーに接近し、さらには、公正な社会の実現を目指すものとして、フランス共和政を擁護する陣営に立った。あくまで万人が利己心から知性、さらには公共精神へと至ることが可能であるというテーゼを信じ続けたのである。しかしナポレオン期にコンスタンは、公益のために私益を断念するという論理が、公権力への奉仕論に転化するという危険性に気が付き、共和エリートへの期待論を失う。結果として理論的な袋小路に陥ったコンスタンの苦渋の考察が、第一部で検討した『政治の原理』であった。

第二章は、以上のような袋小路を脱するためのコンスタンの模索を『宗教論』に探る。青年期に着想を得た『宗教論』であるが、その大要が固まったのは1813年のことである。それまで、その評価が二転三転していた古典古代であるが、1813年に至ってコンスタンは古典期アテナイを、自由を実現した輝かしい社会として取り上げ、その自由実現の鍵を多神教の下での宗教感情の開花、そしてその結果としての宗教感情、悟性、利己心の均衡に見出した。この場合の宗教感情とは己の外部にある神への崇愛と懐疑の反復運動の欲求、悟性とは世界を因果関係あるいは論理関係によって理解したいという欲求、そして利己心とは対象を固定して利用可能にしたいという欲求である。コンスタンは悟性と利己心との適切な関係の中でのみ、宗教感情は良い効果を生むと考えた。聖職者宗教の国々と違い、古代ギリシアにおいては武人階層が統治権を握ったが、共和革命が生じた結果、宗教の解釈権が万人に対して開放され、自由な多神教が実現した。そこでイメージされた、自由奔放でありながら、同時に正義を保証する神々こそがギリシア社会の多元性と統一性を支えたというのが、コンスタンの理解である。このギリシアの多神教を支えた、高度なフィクション能力こそが彼の『宗教論』の最大のメッセージであった。

それでは、『宗教論』を執筆したことは、政治論に対していかなる含意を持つのか。『宗教論』を前提として、新たに体系的な政治構想を展開する時間はコンスタンには残されていなかった。そのため、すべては想像の域を出ないが、次の推定は可能ではないか。第一に、ギリシア評価の好転は、コンスタンがフィクション能力の強化を前提にして、『政治の原理』以前の、より共和政に近い政治機構構想へと向かった可能性を示唆する。第二に、コンスタンは代議制の欠陥を認識しつつも、それを分業・利益の論理ではなく、フィクション能力に基づくものに改良することを考えたはずである。そのような彼の構想は、ギリシア神話の神々のごとく、統治者層の自由な競争を維持するような政治制度の構築と、政治に対する強い関心を持ちつつ、同時に政治との距離を保つような市民社会の構想であったと総括できよう。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、フランス革命期から十九世紀前半にかけてのフランスを代表する思想家として知られるバンジャマン・コンスタン(1767-1830)について、その政治思想を宗教思想との関連において再解釈することで、新たな像を描く試みである。

これまでコンスタンの政治思想の集大成は1806年に執筆した『政治の原理』であるとされ、その後に出版された諸作品は、その抜粋や修正に過ぎないとされてきた。言い換えれば、この時期以降、彼の政治思想は本質において変化しなかったと見なされてきた。しかも、この解釈に従えば、コンスタンは、いたずらに古代を模倣しようとしたルソーのアナクロニズムを批判し、個人の「権力からの自由」を重視し、商業や分業を中心とする近代社会の基本的趨勢を肯定的に評価する自由主義思想家であった。

それに対し、『政治の原理』の精密な分析に基づく本論文は、同書がこのような解釈の枠に収まらない、相互に矛盾する多様な内容を含むことを明らかにする。そこから本論文は、『政治の原理』は集大成ではなく過渡期の作品であり、そこではコンスタンの近代社会に対する評価のぶれが露わになっているという仮説を立てる。そしてむしろ、彼が若き日に構想し、死ぬまで推敲を続けた大著『宗教論』の中にこそ、『政治の原理』において陥った隘路を乗り越えたコンスタンの最終的なメッセージが込められているのではないかと考える。このような見通しの下に、コンスタンの宗教論についての既存の諸研究の成果を政治論に関する知見と接合するというこれまでにない試みによって、彼の複雑な思想の全容を解明したのが本論文である。

以下、論文の要旨を述べる。

本論文は『政治の原理』を再読する第一部と、『宗教論』(コンスタンの生前、及び死の直後に刊行された狭義の『宗教論』と、後に編集された『ローマ多神教論』を総称してこう呼ぶ)における思想転換を検討する第二部から構成される。

第一部は四章から構成される。第一章はまず、コンスタンが何と対決し、その結果、いかなる課題を追うことになったかを考察する。一見すると、コンスタンは、代議制の正当性を否定したルソーを、その代議制論ゆえに批判しているかに見える。しかし、実際には、その批判はもっぱらルソーの多数決理解に向けられたものであり、彼の人間不信を問題視するものであった。ここからコンスタンは、ルソーへの対案として、判断力・憐憫・抵抗精神から成る市民のモラルと、国内の治安および国防に限定された統治権力(治安権力)という構想を提示するが、これをどのように現実化するかという課題を負うことになった。他方、ルソーに対する以上にコンスタンが批判を加えたのは、ナポレオン政権を念頭に置いたエリート統治論であった。コンスタンからすれば、エリート統治論は一方では統治者の知性、善意、および能力への過信に基づき、他方では、被治者の自律性への根拠なき不信に基づく謬論であった。そこからコンスタンは、エリート統治論をよしとする思考様式の基礎にある社会構造を批判し、「啓蒙された利己心」を普及させるような市民社会を構想した。

第二章では、コンスタンの近代社会論を再検討する。従来、コンスタンの近代社会論といえば、商業が統治権を抑制し、社交性モラルを向上させるという、商業社会を基調とするものであると理解されてきた。しかしながら、『政治の原理』を読み直すならば、商業がはたして統治権の肥大化を抑制できるか、むしろ商人と統治エリートが癒着するのではないか等々、彼が実際には商業社会に警戒的であったことがわかる。そのためコンスタンは、啓蒙された富裕な地主層と自作農から成る農業社会に期待を抱く。啓蒙された地主層には穏和さ、教養、正義感を、自作農には「保守精神」を期待したのである。しかしながら、彼の農業社会論にも綻びが見られた。何より、商業社会化により、安定した富をもつ地主層は消滅する可能性があった。また、自作農についても投機的な農業経営者になって商人精神に染まったり、農業労働者に転落したりする可能性があった。結論として、商業社会も、また農業を中心とする社会も、コンスタンの理想とする判断力と連帯に基づく市民社会にはつながらなかったのである。

第三章はコンスタンの代議制論を扱う。コンスタンの代議制論を理解するには、治安権力論との関係が重要である。治安権力論とは、治安という明確な権限に限り、統治者に一任するという議論であるが、治安権力の越権を抑止するのが公論と権力分立であり、とくに公論に支えられた議会が権力分立の重要な一角となる。具体的には代議制が被治者の諸利益を濾過するという「利益の濾過論」と、公論に支えられた議会が執行権を監視するという「議会による監視論」が中心になるが、いずれも代議士の指導力に期待した議会主導論であった。しかしながら、コンスタンは代議士の能力を理解し選挙する被治者の能力への不信を拭えず、また議会が執行権を正当化する道具に成り下がる可能性を否定できなかった。そもそも一方で市民の非武装化・非政治化を推進しながら、他方で執行権に武力を独占させるという治安権力論そのものに問題があったのであり、最終的にコンスタンは、統治権をコントロールする政治主体と、討議を行う主体のイメージについて根本的な再検討を余儀なくされた。

それではなぜ、コンスタンの市民社会論や代議制論は破綻するのか。その原因を人間論において探ったコンスタンの思考を、「市民のモラル論」として検討するのが第四章である。外在的な制約によって人間行動を規律していくことに限界がある以上、コンスタンは他律的ではない人間行動の可能性を検討する。彼が候補として示したのが、因果を自律的に辿る能力、自然権を尊重する能力、平等・弱さに基づく近代人のモラル、そして宗教感情であった。しかしながら、誤った前提に基づく推論から出発して絶対主権への委任を導いてしまったルソーのように、因果思考は絶対ではない。自然権についても、時代や社会によって現実化の様態は異なり、安定した原理になりえない。また古代人と違い、判断力には富むが優柔不断である近代人は党派的集団に対抗できないし、恐怖に直面すると私的領域に閉じこもり、他者との連帯を失う。最後にコンスタンが頼ったのが宗教感情であるが、『政治の原理』の段階では、いまだ明確な宗教論の見通しには欠けていた。ここから彼の『宗教論』へと至る知的模索の必然性が明らかになることを示して、第一部は終わる。

第二部ではコンスタンの『宗教論』を論じるが、第一章では予備的な考察として、『政治の原理』に至るまでの彼の思想遍歴を振り返る。不安定な少年時代を過ごし、生きることの意味をめぐって悩んだコンスタンは、この苦悩が来世における救済を最優先するキリスト教に由来すると考え、エルヴェシウスに倣って古代の多神教に着目する。しかし宗教情念を政治的に利用することを認めたエルヴェシウスを嫌ったコンスタンは、思想の自由放任を主張したミラボーに接近し、さらには、公正な社会の実現を目指すものとして、フランス共和政を擁護する陣営に立った。あくまで万人が利己心から知性、さらには公共精神へと至ることが可能であるというテーゼを信じ続けたのである。しかしナポレオン期にコンスタンは、公益のために私益を断念するという論理が、公権力への奉仕論に転化するという危険性に気がつき、共和エリートへの期待を失う。結果として理論的な袋小路に陥ったコンスタンの苦渋の考察が、第一部で検討した『政治の原理』であった。

第二章は、以上のような袋小路を脱するためのコンスタンの模索を『宗教論』に探る。青年期に着想を得た『宗教論』であるが、その大要が固まったのは1813年のことである。それまで、その評価が二転三転した古典古代であるが、1813年に至ってコンスタンは古典期アテナイを、自由を実現した輝かしい社会として取り上げ、その自由実現の鍵を多神教の下での宗教感情の開花、そしてその結果としての宗教感情、悟性、利己心の均衡に見出した。この場合の宗教感情とは己の外部にある神への崇愛と懐疑の反復運動の欲求、悟性とは世界を因果関係あるいは論理関係によって理解したいという欲求、そして利己心とは対象を固定して利用可能にしたいという欲求である。コンスタンは悟性と利己心との適切な関係の中でのみ、宗教感情は良い効果を生むと考えた。聖職者宗教の国々と違い、古代ギリシアにおいては武人階層が統治権を握ったが、共和革命が生じた結果、宗教の解釈権が万人に開放され、自由な多神教が実現した。そこでイメージされた、自由奔放でありながら、同時に正義を保証する神々こそがギリシア社会の多元性と統一性を支えたというのが、コンスタンの理解である。このギリシアの多神教を支えた、高度なフィクション能力こそが彼の『宗教論』の最大のメッセージであった。

それでは、『宗教論』を構築したことは、政治論に対していかなる含意を持つのか。『宗教論』を前提として、新たに体系的な政治構想を展開する時間はコンスタンには残されていなかった。そのため、すべては想像の域を出ないが、次の推定は可能ではないか。第一に、ギリシア評価の好転は、コンスタンがフィクション能力の強化を前提にして、『政治の原理』以前の、より共和政に近い政治機構構想へと向かった可能性を示唆する。第二に、コンスタンは代議制の欠陥を認識しつつも、それを分業・利益の論理ではなく、フィクションの能力に基づくものに改良する方途を模索したと推定できる。そのような彼の構想は、ギリシア神話の神々のごとく、統治者層の自由な競争を維持するような政治制度の構築と、政治に強い関心をもちつつ、同時に政治との距離を保つような市民社会の構想であったと総括できよう。

本論文の長所としては、特に次の三点を挙げることができる。

第一に、商業を中心とする近代社会の擁護者、「権力からの自由」を重視する自由主義者といった既存のコンスタン像に根底的な疑義を突きつけ、それに代わる、近代の両義性を徹底的に考え抜いた思想家としての像を示したことである。これまでにも、コンスタンの近代理解の両義性を指摘する研究がなかったわけではないが、本論文はそこからさらに進んで、彼がそれまで抱いていた進歩への期待を『宗教論』において徹底的に自己批判し、古代/近代の図式を書き換える展望を示したことを明らかにした。

第二に、これまでのコンスタン研究において、けっして融合することのなかった政治論と宗教論を本格的に架橋する見通しを描くことに成功したことがあげられる。コンスタンがその生涯をかけて執筆した畢生の大著である『宗教論』であるが、これまでは政治論としての意義が十分に認識されてこなかった。これに対し本論文は、コンスタンの大部の『宗教論』を丹念に読み解き、それがむしろ『政治の原理』において陥った理論的隘路を乗り越えるためのものであり、彼の最終的な政治理論の方向性を示すものであるという斬新な主張を説得的に展開している。

第三に、あくまで歴史研究として禁欲的に執筆された本論文であるが、自由な政治の基礎にある市民のモラルや、それを支える宗教感情やフィクション能力についての指摘は、現在の新しい市民社会論や市民宗教論に対しても、示唆するところが大きい。弱く孤立する近代人にとって、宗教は人を内向させ孤立させる危険性と、市民間の連帯の基盤となる可能性を併せ持つ。本論文が描き出すコンスタンの苦渋にみちた理論的遍歴は、このような宗教の両側面を明らかにしていると言えるだろう。

もっとも、本論文にも短所がないわけではない。

第一に、内在的にコンスタンを理解しようとするあまり、ときとして、コンスタンの主張なのか、あるいは筆者の理解なのかが不分明な叙述が見られる。本論文で示される『政治の原理』の諸矛盾についても、どこまでがコンスタン自身によって自覚されていたかについて、もう少し慎重な判断が求められよう。さらに具体的な文脈や傍証を示せば、より議論の説得力が増したはずである。

第二に、コンスタンの膨大な文献を読み解くことに努力を集中した結果、彼が生きた時代、他の思想的潮流との関係については、比較的叙述が手薄になっている。テクストを内在的に理解しようとつとめることは直ちに欠点とは言えないが、時代背景や思想的影響関係を示すことで、論文の意義はさらに理解しやすいものになったと思われる。

第三に、コンスタンについての議論が周到であるのと比べると、「啓蒙」、「功利」、「ストア主義」など、思想史上のキーワードについての記述が、ときとして紋切り型もしくは説明不足になっている箇所も散見される。

しかしながら、以上は望蜀の嘆というべきものであり、本論文の価値を大きく損なうものではない。

以上から、本論文は、その筆者が自立した研究者としての高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

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