学位論文要旨



No 128618
著者(漢字) 大西,香世
著者(英字)
著者(カナ) オオニシ,カヨ
標題(和) 医療技術の普及と政治 : 麻酔による無痛分娩の導入を事例に
標題(洋)
報告番号 128618
報告番号 甲28618
学位授与日 2012.09.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第266号
研究科 法学政治学研究科
専攻 総合法政
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田邊,國昭
 東京大学 教授 城山,英明
 東京大学 教授 中山,洋平
 東京大学 教授 高見澤,磨
 東京大学 教授 森田,宏樹
内容要旨 要旨を表示する

1994年の国際人口開発会議(カイロ会議)で国際的合意を得た「リプロダクティヴ・ヘルス/ライツ(reproductive health/rights)」は、妊娠・出産・避妊などについて女性が決定権を持つこと(reproductive self-determination)を謳っているが、多くの女性がその人生の過程で経験する妊娠と出産のありかたは、女性の市民生活において重要な役割を果たす。本論文は、「なぜ他国において普及している麻酔による無痛分娩という医療技術が、日本においてはほとんど普及していないのか」という問いに着目する。そして、それは、日本の医療制度が、他の先進工業諸国と異なる発展経路を辿ったためである、ということを歴史的制度論の立場から、比較歴史分析の手法を用いて説明するものである。日本の周産期医療制度が他の国々と異なる発展経路を辿ったことによって、麻酔による無痛分娩の供給とそれへの需要が、日本ではともに抑制される結果となったことは、以下のように説明される。

第一に、プロフェッションの技術形成とインセンティヴの要因が重要である。日本においては、他のヨーロッパ諸国と異なり、助産師に麻酔行為を含めた医療行為が許されていない。なぜならば、明治期に産婆規則が制定されて以来、助産師の医療行為は、麻酔行為も含め、現在においても保健師助産師看護師法の第37条によって禁止されているからである。日本では助産師の医療行為が禁止されていることは、例えば、助産師が笑気麻酔などの簡易麻酔の職業訓練教育を受け、麻酔行為が許可されているイギリスとは異なる。日本において、助産師の麻酔行為が今日でも禁止されているのは、明治期に起源を持つ後発国型の日本の医療供給システムの歴史的な制度遺産である。というのも、日本においては、経済発展の比較的早い段階において近代的な医療供給システムの導入が図られた。そのために、一部の助産師(産婆)の育成および供給は官主導で行われたものの、後発工業化に起因する財政的制約から、大部分の助産師は開業医セクターを中心とした民間部門が、病院や診療所に併設された小規模な産婆看護婦学校において、キャッチアップ的に速成養成し、供給することとなった。民間部門には、助産婦を速成養成するためにその職業訓練教育コストを抑制する必要性があったため、高度な職業訓練教育は助産師に与えられないままであった。

第二次世界大戦後、GHQは医療制度改革の一環として、看護婦や助産婦の地位身分や教育を高度化させる目的で、保健師助産師看護師法(1948)を制定する。しかしながら、高度化された看護婦や助産婦は日本の現状に合わないとして、開業医セクターを中心とした日本医師会が保健師助産師看護師法の法改正を働きかけ、改革以前のような職業訓練教育コストを抑制した看護婦や助産婦を再び養成しようと揺り戻しを図る。その結果、法改正が実現され、職業訓練教育コストの低い准看護婦が設置される。それとともに、GHQの医療制度改革によってひとたび廃校になった産婆看護婦学校が復活し、そこで准看護婦が養成されるという、いわば医療制度の「逆コース」が見られた。

こうしたなか、日本の人口抑制を意図したGHQの地政学的戦略と一部の産婦人科医の利得の一致から、同じくGHQ占領下に、人工妊娠中絶を合法化した優生保護法(1948)が制定される。翌年、同法の指定医によって組織される日本母性保護医協会が結成されるが、同会は、産婦人科医の既得権益を擁護すべく様々な周産期医療の政策決定に関わっていく。そのうちのひとつが、看護婦に対する准看護婦に相当する、産科看護婦(「准助産婦」)の養成である。自らの開業産科診療所における勤務助産婦の不足に直面していた日本母性保護医協会の会員らは、1960年代から、日本母性保護医協会の経営する日母産科学院で産科看護婦をインフォーマルに速成養成するようになる。その結果、助産婦ではなく産科看護婦が主に開業診療所において大きな労働力となるが、第二次世界大戦の施設出産の増加とも相まって、国家資格を持つ助産婦が適正に養成されなくなった。そのために、助産婦制度そのものが、産科看護婦の存在によって周縁化・弱体化していくことになる。

こうして弱体化されていった助産婦、とりわけ勤務助産婦でない開業助産婦をかかえる助産婦会は、自らの職業的存在意義が問われるようになる。そうした時、折しも1970年代後半から欧米先進工業諸国において、過度な医療介入への反動として自然分娩への回帰運動が盛んになる。欧米発信の自然分娩は日本にも輸入され、助産婦は自らの復権をかけて「自然な」お産運動を繰り広げていくことになる。というのも、医療行為が禁止されている助産婦にとって、医療介入を最小限に抑えた「自然」分娩は、今日においても麻酔行為が許可されていない日本の助産師によって麻酔による無痛分娩は反対され、その供給は抑制されることとなった。

第二に、経済的インセンティヴとして、公的医療保険のありかたが重要である。正常分娩は疾病ではないとの理由から自由診療という前提の下、日本において正常分娩は公的医療保険の現物給付から除外されている。それとともに、無痛分娩のための麻酔も公的医療保険の適用範囲から除外されている。このことから、日本においては麻酔による無痛分娩に対する経済的需要が抑制されている。麻酔による無痛分娩の普及率が高いフランスでは正常分娩はもちろん、麻酔も公的医療保険によってカヴァーされているが、このことから、日本においては、正常分娩および麻酔が公的医療保険の適用から除外されているために、需要が抑制されていると言える。

日本において正常分娩が公的医療保険から除外されていることは、日本が経済発展の比較的早い段階においてキャッチアップ的に分娩給付を開始した、という歴史的経緯に起源がある。というのも、日本において分娩給付が初めて規定されたのは、1922年の健康保険法の成立時である。1922年当時、日本では産院における医師の手による分娩介助はおろか、西洋式の新産婆による助産すらそれほど普及している時代ではなかった。そのために、分娩に対しては医師や産婆による助産に対する現物給付ではなく、分娩費として支給される定額金銭給付が大部分であった。

第二次世界大戦後、正常分娩の現物給付化への動きがありながらも、出産の現物給付化が困難であった背景には、戦後のキャッチップ的な出産の施設化により、都市と農村部の間に医師と助産師による分娩介助という顕著な二重構造が形成され、分娩料の価格を統一することが困難な状況であったという歴史的経緯が存在する。それに加え、日本母性保護医協会が現物給付化に対して強硬に反対したことも最大の要因として考えられる。というのも、日本母性保護医協会は、ひとたび正常分娩が現物給付化されると、助産婦による助産を基準として点数化が行われ、自らの技術料が、それより点数の低い助産婦の技術点数になる、と認識していた。そのため、日本母性保護医協会は日本医師会などと保険医辞退の手段などを用いて現物給付化に抵抗し、既存の制度の維持を働きかけたのである。こうして、出産費用と麻酔費用が自己負担である帰結として、麻酔による無痛分娩への需要が抑制されていると言える。

第三に、医療機関の集約化の程度が重要である。日本においては診療所と病院の機能分化が未発達であり、周産期医療が集約化されていない。そのため、日本では今日においても中小規模の診療所における分娩件数が、分娩総件数の約半数を占めている。そして、周産期医療が集約化されていないことに起因する麻酔科専門医の相対的な供給不足が、麻酔による無痛分娩の供給を阻んでいる。

日本において、中小規模の診療所と病院の機能分化が未発達であり、かつそれらが分娩件数を分かち合って競合しているのには、第二次世界大戦直後の公的医療機関の整備の挫折という歴史的背景がある。というのも、戦後、GHQは医療制度改革の一環として、公的医療機関の主流化を図るとともに、診療所が主である私的医療機関を副次的な扱いにしてオープン・システムを発達させることを計画していた。そのために、医療法(1948年)の第13条では、診療所における収容制限の規定が設けられ、診療所と病院の機能分化を図っていた。しかしながら、診療所の収容時間制限は、日本母性保護医協会による撤廃運動によって、実質上、形骸化されることになる。

ひとたび診療所と病院の機能分化が不問に付されると、開業医セクターが中心である日本医師会は、私的医療機関への優遇政策を推し進めていく。明治期以来、日本においては後発工業化に起因する財政的制約から、官立(国公立)病院ではなく開業医セクターによって中小規模の病院・診療所が供給されてきた。第二次世界大戦後も私的医療機関への優遇政策が推し進められていった結果、明治期に起源を持つ民間中心型の医療機関供給制度は、再生産されていくことになる。その帰結として、日本においては中小規模の診療所が分散することになり、周産期医療は集約化されることなく今日に至っているのである。

第四に、市民による要求運動の有無が重要である。日本においては、1980年代から助産婦の繰り広げていた「自然な」お産運動の結果、麻酔による無痛分娩に対する市民による要求運動が起こらなかった。なぜならば、麻酔による無痛分娩が普及しなかったのは、助産師が自らの復権のために「自然なお産」の市民権を獲得しようと、助産師による医療介入を最小限に抑えた助産を、第一に「不自然ではない」こと、第二に女性の「主体性」を尊重するもの、として戦略的に推進していった。このような助産師の運動に女性が共鳴したことから、日本では麻酔による無痛分娩の要求は起こらなかった。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、「なぜ他国において普及している麻酔による無痛分娩という医療技術が、日本においてはほとんど普及していないのか」という問いに着目する。そして、その問いに対して、歴史的制度論の観点から、日本の周産期医療制度が他の国々と異なる発展経路を辿ったため、麻酔による無痛分娩の供給とそれへの需要が、日本ではともに抑制される結果となったことによって説明する。

以下、内容の要旨を説明する。

第1章では、日本における後発国型の医療供給システムの歴史的制度構造について、プロフェッションの技術形成の特質とインセンティブに焦点を当てて、分析される。日本では経済発展の比較的早い段階において近代的な医療供給システムの導入が図られた。そのため、一部の助産婦の育成および供給は官主導で行われたが、後発工業化に起因する財政的制約から、大部分の助産婦は、開業医セクターを中心とした民間部門が、病院や診療所に併設された小規模な産婆看護婦学校において、キャッチアップ的に速成養成し、供給することとなった。民間部門には、助産婦の職業訓練教育コストを抑制する必要性があったため、高度な職業訓練教育は助産婦に与えられないままであった。その帰結として、日本においては、他のヨーロッパ諸国と異なり、助産婦の役割が限定され、麻酔行為を含む医療行為が許されなかった。例えば、助産婦が笑気麻酔などの簡易麻酔の職業訓練教育を受け、麻酔行為が許可されているイギリスとは異なった。

第2章では、このような歴史的制度構造に基づく助産婦の役割の限定が、日本において、第二次世界大戦後、GHQの医療制度改革を超えて持続したことが示される。GHQは、看護婦や助産婦の地位身分や教育を高度化させる目的で、1948年に保健婦助産婦看護婦法を制定したが、高度化された看護婦や助産婦は日本の現状に合わないとして、開業医セクターを中心とした日本医師会が保健婦助産婦看護婦法の法改正を働きかけ、改革以前のような職業訓練教育コストを抑制した看護婦や助産婦を再び養成しようと揺り戻しを図った。その結果、法改正が実現され、職業訓練教育コストの低い准看護婦制度が設置された。

第3章では、日本母性保護医協会のイニシアティブの下での産科看護婦の創設プロセスが分析される。人工妊娠中絶を合法化した優生保護法が1948年に制定され、同法の指定医によって組織される日本母性保護医協会が結成された。そして、同会が主導し、看護婦に対する准看護婦に相当する、産科看護婦(准助産婦)養成システムが構築された。開業産科診療所における勤務助産婦の不足に直面していた日本母性保護医協会の会員は、1960年代から、日本母性保護医協会の経営する日母産科学院で産科看護婦をインフォーマルに速成養成するようになった。その結果、助産婦ではなく産科看護婦が主に開業診療所において大きな労働力となり、助産婦が適正に養成されなくなった。そのため、助産婦制度そのものが、産科看護婦の存在によって周縁化・弱体化していくことになった。

第4章では、経済的インセンティブを規定するものとして、公的医療保険の在り方が分析される。正常分娩は疾病ではないとの理由から、日本において正常分娩は公的医療保険の現物給付から除外されてきた。また、無痛分娩のための麻酔も公的医療保険の適用範囲から除外されてきた。麻酔による無痛分娩の普及率が高いフランスでは、正常分娩や麻酔が公的医療保険によってカバーされているのとは異なり、日本では、正常分娩および麻酔が公的医療保険の適用から除外されているために、需要が抑制されてきたとする。そして、日本における正常分娩の公的医療保険からの除外は、日本が経済発展の比較的早い段階においてキャッチアップ的に分娩給付を開始したという歴史的経緯に起源があるとする。日本で分娩給付が初めて規定された1922年の健康保険法成立時には、出産の大部分は、家族や近隣の女性あるいは旧来の取り上げ婆によって自宅で扱われるという相互扶助的なものであった。そのために、分娩に対しては医師や産婆による助産に対する現物給付ではなく、分娩費として支給される定額金銭給付が大部分であった。第二次世界大戦後は、戦後のキャッチップ的な出産の施設化により、都市と農村部の間に医師と助産師による分娩介助という顕著な二重構造が形成され、分娩料の価格を統一することが困難な状況であった。日本母性保護医協会は、助産婦による助産を基準として点数化が行われ、自らの技術料が、それより点数の低い助産婦の技術点数になることを恐れ、現物給付化に対して強硬に反対し、既存の制度の維持を働きかけた。

第5章では、周産期医療における集約化の挫折が分析される。日本では診療所と病院の機能分化が未発達であり、周産期医療が集約化されていない。そして、周産期医療が集約化されていないことに起因する麻酔科専門医の相対的な供給不足が、麻酔による無痛分娩の供給を阻むことになった。第二次世界大戦後、GHQは医療制度改革の一環として、公的医療機関の主流化を図った。そのために、1948年に制定された医療法第13条では、診療所における48時間の収容制限の規定が設けられ、診療所と病院の機能分化を試みた。しかし、診療所の48時間制限は、診療所において入院を要する人工妊娠中絶ができなくなることを危惧する日本母性保護医協会による撤廃運動によって、形骸化されることになった。その帰結として、日本では周産期医療は集約化されることなく今日に至っている。

第6章では、弱体化されていった助産婦、とりわけ勤務助産婦でない開業助産婦をかかえる助産婦会が、自らの職業的存在意義を示すために、「自然な」お産運動を主導するに至るプロセスが分析される。1970年代後半から欧米先進工業諸国において、過度な医療介入への反動として自然分娩への回帰運動が盛んになっていたが、このような自然分娩が日本にも輸入され、助産婦は自らの復権をかけて「自然な」お産運動を繰り広げていった。医療行為が禁止されている助産婦にとって、医療介入を最小限に抑えた「自然」分娩は、麻酔行為が許可されていない日本の助産師が自らの職業的存在意義を示すことのできるものであった。

第7章では、市民による要求運動の不在が分析される。革新主義時代に一般市民の女性が麻酔分娩を求めたアメリカとは異なり、日本では1980年代から助産婦の繰り広げていた「自然な」お産運動もあり、麻酔による無痛分娩に対する市民による要求運動が起こらなかった。助産婦は、自らの復権のために「自然なお産」の市民権を獲得しようと、助産師による医療介入を最小限に抑えた助産を、第一に「不自然ではない」こと、第二に女性の「主体性」を尊重するもの、として戦略的に推進していった。このような助産婦の運動に女性が共鳴したことから、日本では麻酔による無痛分娩の要求は起こらなかった。

以上のように、後発国型医療供給体制の下での助産婦の役割限定と産科医が主導する産科看護婦の活用、公的医療保険によるディスインセンティブ、周産期医療における集約化の挫折、助産婦の職業的存在意義主張戦略と市民による要求運動の不在の複合的帰結として、日本における麻酔による無痛分娩技術の普及抑制が説明されることになる。

本論文の長所としては、以下の点をあげることができる。

第1に、麻酔による無痛分娩技術というという特定の医療技術に着目し、そのような医療技術の選択・普及のプロセスについて比較政策学的、比較政治学的考察を加えることで、政治学的分析の新たな領域を開拓した。医療技術選択については、従来、経済の発展段階に依存するという収斂理論、文化的価値観が大きな役割を果たすという文化的アプローチに基づく分析が行われてきたが、本論文は、政治学的観点から、歴史制度論の分析視角を用いて、医療技術選択が埋め込まれる医療制度の在り方に注目した。

第2に、医療技術選択が埋め込まれる文脈である医療制度として、日本における私的医療機関を中心とする後発国型医療制度の全体像を包括的に分析した。日本が経済発展の比較的早い段階で西洋医学を導入したことに着目し、そのようなタイミングに規定された私的医療機関が中心となる後発国型医療供給体制の制度的特徴を、医療従事者の人的技術形成の特質に注目して明らかにした。具体的には、安上がりの人材養成を強いられたが故に、看護婦、助産婦、産科看護婦等に関して圧縮的・階層的な技術形成が行われ、これらの医療補助者の医療行為が厳しく制約された。

第3に、このような医療制度の歴史的構造が再生産され、強化されるメカニズムを医療関係者の主張や行動の分析によって明らかにした。分析に際しては、医師等医療関係者の利益団体の公刊物を始めとして、一次資料が幅広く詳細に参照されている。明治期以降に構築された基本的構造は、第二次大戦後のGHQ改革による看護婦等の能力強化や公的病院化が頓挫した結果として、戦後においても維持された。このプロセスを、特に、保健婦助産婦看護婦法の改正にいたる過程の丹念な分析により明らかにした。また、産科医により周縁化されたが助産婦の自己存在意義主張戦略として、戦後の「自然な」お産運動が位置付けられた。

しかし、本論文にも欠点がないわけではない。

第1に、本論文では、私的医療機関が中心となり、圧縮的・階層的技術形成が行われてきた医療補助者に依存する後発国型医療供給体制を、歴史的制度構造を規定する主要な説明変数としているが、この説明変数と、医療保険制度における診療報酬体系からの分娩及び麻酔の除外といった他の説明変数の関係が、必ずしも明確にされていない。

第2に、比較分析をより踏み込んで行う余地があると思われる。本論文では、イギリス、フランス、アメリカの歴史的経験から、麻酔による無痛分娩普及を規定する要因を抽出するというアプローチがとられているが、他国における歴史的制度構造や変化のプロセスが包括的に分析されているわけではない。長期的プロセスに焦点を当てて比較を行うことで、より興味深い比較分析が可能になると思われる。

第3に、近年の少子化に伴う出産奨励、医療における機能分化の重視の中での一定の集約化や医療補助者の役割の漸進的な拡大といった変化が、どれだけ歴史的制度構造を変容させる可能性があるのかについても、分析が期待される。

このような短所があるものの、これらは本論文の価値を損なうものではなく、これらは今後のさらなる研究の展開可能性を示しているものであると思われる。

以上から、本論文は、その筆者が自立した研究者としての高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

UTokyo Repositoryリンク