学位論文要旨



No 128622
著者(漢字) 手島,崇裕
著者(英字)
著者(カナ) テシマ,タカヒロ
標題(和) 平安時代の対外関係と仏教 : 入宋僧を中心に
標題(洋)
報告番号 128622
報告番号 甲28622
学位授与日 2012.09.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1170号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 桜井,英治
 東京大学 教授 齋藤,希史
 東京大学 講師 徳盛,誠
 東京大学 准教授 杉山,清彦
 東京大学 教授 村井,章介
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、入宋僧の歴史的性格・社会的属性についての総合的検討を第一の課題とする。そこから、平安時代日本と北宋の関係において、さらには広く東アジア世界の対外交渉・国際秩序構築面において、仏教がいかなる意義・役割を持っていたのかを独自に追究していく。

序章にて先行研究の到達点と検討課題を確認したうえで、以下の八章で議論を展開する。

第一章では、平安時代、特に遣唐使派遣時期以降の対外交渉全般について考察する。近年の先行研究が明らかにした、国家(朝廷)主導の一元的な対外交渉管理・統制の構造を確認しつつ、その構造枠内における摂関家(藤原道長―頼通期)の対外交渉に再着目する。諸権門の立場からの積極的対外活動の一事例として評価し、実態論的側面を踏まえた当該期対外交渉の総合像を得たい。当該期には、摂関家に連なる、大宰府管長や中央・現地出自府官層、そして博多に来航する宋商人も含めた相互依存の重層的な人的関係の成長があり、上述の構造枠内における摂関家独自の利の追求を支えていた。その社会的紐帯に、入宋僧の活動も様々に結びついていた。

第二章では、朝廷主導の対外交渉の展開のなかに入宋僧の性格変遷を追い、従来《巡礼僧》と一括されてきた入北宋僧の史的特徴を再検討する。遣唐使停廃以後、渡海僧は、中国との政治外交関係から遠い存在と看做され、上述の構造枠内で文物・文化の移入に従事し、それを通じて天皇―朝廷の対外交渉権独占を確認する重要な役割を担っていた。日本朝廷にとっての《文化交流使節》とでも呼ぶべき性質が、日中関係の進展のなか消滅していく。その原因は、自らの主宰しようとする東アジア国際関係ないし理念的国際秩序の構築のため、仏僧の来朝を積極的に取り込もうとする北宋側の外交姿勢にある。双方の僧侶認識のズレを体感する旅となった奝然師弟の日宋往来が、入宋僧の性格変化の大きな画期となろう。外交問題に直結する可能性を帯びた僧侶の渡海は公認されなくなっていく。ただし、後続の寂照や成尋(密航)も、文物移入の役割を自任し、後援者貴顕の対外的願望を果たすべく活動していた。上述の人的ネットワークがそれを支えていた。

第三章では、上述の北宋の対外姿勢に焦点を当て、当該期東アジア世界における外交上の、また対外秩序形成上の仏教の位置・役割を正面から検討する。東アジア世界において、仏教は、中国が構築しようとする礼的・儒教的世界秩序を補完・補助する機能を持つ。通例、中国が目指す正規の国際秩序をある意味で緩和し相対化するような、仏教の超域性や普遍的側面が重視されるが、本論文では、それを自明のものとせず、仏教の帯びる歴史的個性を重視する。僧侶に即していえば、歴史の普遍ともいいうる僧侶の入中華が、北宋期に至りなぜ外交問題と不可分の関係性を帯び、朝貢使節と同様に取り扱われ、皇帝面見や賜紫衣・賜師号等々の《厚遇》を受けるに至るのかが解明すべき課題となる。唐後半から宋代に至り、中国仏教では皇帝権威のもとへの僧団の秩序編成が完成することが(宗教思想史的側面では、仏教が三教のひとつとして皇帝権威の下に一元的に秩序立てられていくことが)、確認される。中国仏教のこのような展開があればこそ、異国僧は正規の外交儀礼の対象となり、皇帝権威を頂点とする秩序のなかに組み込まれ、それを内外に標榜する役割を付されたものであろう。東アジアにおける仏教の核となる中国仏教が、皇帝の主宰しようとする世界秩序の理念と一体化し、それを支える機能を強く発揮するようになったことを見出す。本章では、著名な版本大蔵経の下賜をはじめとした、奝然師弟の日宋往来事績についても具体的に再検討を試みる。奝然の五臺山供養結縁の経過から、日本僧の《巡礼僧》化もまた、東アジア世界史の展開の一環であることを浮き彫りにしつつ、権力中枢部の代理結縁希求を受けた奝然の聖地巡礼行が、周辺諸国からの来朝僧同様に、皇帝権威の下に統轄されていく側面を確認する。それが、仏教的文物や紫衣師号等の身分標識の下賜という《厚遇》と同一平面上に扱いうるものであることを指摘する。

奝然師弟の巡礼行を通じ、入宋僧の日中を往来しての仏教交流が、前代とは異なり、宋皇帝との現実上ないし理念上の関係構築と不可分の性質を持つようになったことが日本国内に認知されたと思われる。遣唐使停廃以降、中国との政治外交関係を望まない日本にとって、中国仏教は、日中を取り結ぶ東アジア世界の共通言語として常に同期するべき対象ではなくなるだろう。第四章では、日中仏教のズレや対峙の構図を意識しつつ、現実の日中交渉のなかで摂関期仏教がいかに展開したか具体的に探る。前章を踏まえ、皇帝権威のもとに一元統括される宋仏教の僧侶階梯秩序(得度―受戒―紫衣―師号)への異国僧の組み込みについて詳述する。日本僧が中国側から付与された属性をはじめ、仏教に関わる諸交渉の結果が母国へ及ぼす影響とそれへの日本側の反応等について考察する。仏教交渉面とも不可分の中国からの政治的外圧が、中国仏教に比肩すべき日本仏教への自覚・再評価に繋がったのであり、顕密仏教の独自の展開が加速したことを確認する。なお本章は、入宋僧寂照が従僧を一時帰国させた際に、師弟の度縁(得度証明書)が宋に送られたという事例の多面的検討が分析の核となるが、度縁を朝廷総意のもと華美に作成し送致したことなど、摂関期における国内仏教への自負と宋仏教への対抗意識の芽生えについても言及する。その動向は、皇帝膝下都開封を辞し江南に活動の拠点を移した寂照師弟の位置取りを含め、世界情勢を客観的に認識していた藤原道長の主体的な舵取りによって可能となった側面もあった。朝廷や藤原道長には、一面で、宋仏教情報をも参照した国内仏教更新の意思も見られたが、それは挫折に終わる。体制仏教としての顕密仏教は、当該期には既に、公権力からの構造的改変に関わる介入については拒絶する程の厳然性を持っていた。

第五章では、いわゆる寂照の飛鉢説話について考察する。いったん寂照自身の心的葛藤(留宋不帰と引き換えの宋仏教界参入の切望と、日本の後援者各層と共有した対中華意識の併存)にまで踏み込むことで、『続本朝往生伝』所収話と『今昔物語集』所収話との飛鉢の場面の設定変化の持つ意味を明らかにし、前者から後者へと内容が展開したことを予測する。そこから、入宋僧という存在を巡り展開してゆく摂関・院政期の対外意識(本朝意識)の特徴を見て取る。

寂照以下、後続入宋僧には留宋不帰(と終身修道)という特徴が見られる。その史的意義を見極めるべく、入宋僧の在宋活動の実態について史料から跡づける。第六章では、『参天台五臺山記』を用いて、北宋仏教界における成尋の人的交流に着目する。《異分子》でありながら、皇帝との直接的な繋がりと厚遇を得ることができた成尋をめぐる人々の動向とそこに込められた意思、そして、成尋が宋仏教界内で意識的または無意識的に担った役割を明らかにする。日宋両仏教の差異について、実態に即して掘り下げるひとつの試みともなる。

第七章では、異郷を終焉往生の地と見定め、国家的管理下から逸脱し渡海した成尋や後続入宋僧の諸活動を、中国聖地巡礼の帯びる公共性や、仏教と外交の連関構造を念頭にしつつ跡づける。そのうえで、《密航》をも辞さない入宋僧の活動を支援促進し、それに伴う成果を受け入れる社会的基盤について、広く日本社会を見渡して考える。即ち、先に見た、摂関家等中央権門から大宰府に及ぶ重層的な人的紐帯に加えて、顕密仏教界の外縁部とでも呼ぶべき位置にある僧侶達(地方出自の僧や遁世の学僧、京―大宰府を様々な理由で往来する僧侶達等々)のネットワークをも支援母体とする各入宋僧が、奝然(や寂照)のような朝廷―権力中枢部の意思と一体化した形ではなく、その意思にいわば先行する形で渡海巡礼活動を展開したこと、権力中枢部の側でも、入宋活動を渡海時から積極的に公認・支援し全面的に管理することを放棄し、各僧によって国内に齎された入宋活動の諸成果に対し恣意的に接触する形態へと、海外への関わり方が変わっていくことを指摘する。

第八章では、いわゆる三国世界観について考察する。初期入南宋僧までを検討対象とし、《世界》を実際に体感した彼らの動向・述作や、入宋経験者たる属性そのものが、三国世界観確立に至る過程と連動し、相互影響関係にあった可能性はないか考える。中国の仏教外交の盛衰に、日本と天竺との現実的繋がりは左右されよう。南宋を経由しての天竺への到達不可能性を体感した栄西や慶政等は、それを逆手にとって天竺の虚像化をおし進める。それも大きな要因となり、天竺は観念上の虚像となり、中世日本仏教の価値の源として不動の地位に据えられるのではないだろうか。より複雑かと思われる震旦観については、仏説に基づく文殊菩薩現住の聖地、五臺山に着目する。史料類に天竺と併記されることが多いが、十二世紀前半には金の版図に入るなど、やはりその到達不可能性が増すなか、インド観の変容と軌を一にして、五臺山に関する国内言説にも特徴的な変化が見られることを確認する。金峰山等国内霊地への仏教の始源性の吸収(代替地化)などを並行しつつ、国際情勢の変動や緊張を背景にインド、そして五臺山という仏教の始源にかかる聖地を観念のうちに完全に取り込んでしまうことで、中世の体制仏教たる顕密仏教の世界観が、以後国際環境の動静とは関わりなく保ちうるものとして確立・定着したことを展望してみる。

最後に終章で、全体を総括し今後の課題を確認する。さらに、僧侶―仏教に関する検討結果を踏まえると、中世移行期の日本仏教や日本社会は東アジアの展開のなかにいかに捉えられるのか、その歴史的位置について展望する。

審査要旨 要旨を表示する

本論文「平安時代の対外関係と仏教――入宋僧を中心に」は、平安時代の日中交流を担った渡海僧、とくに北宋に渡った入宋僧の活動の分析を通じて、日本中世仏教成立にいたる国際的契機を探ろうとしたものである。近年の日本中世仏教成立史研究はおおむね国際的契機、とりわけ教義面でのそれを重視する傾向にあるが、本論文は、主として政治外交上の契機に注目したところに大きな特徴をもつ。

本論文は、本論8章と序章・終章よりなるが、まず第1章では、入宋僧考察の前提として、遣唐使廃止後の対外交渉全般について整理される。当該期の対外交渉は朝廷により一元的に管理・統制されていたことが近年の研究によって明らかにされているが、本章ではその構造のもとで中国仏教にとりわけ強い関心を示した摂関家の対外交渉活動に注目し、その活動を可能にした摂関家と大宰府、宋商人間の重層的、相互依存的な人的ネットワークの存在が指摘される。

第2章では、前章で明らかにされた遣唐使廃止後の対外交渉の展開のなかで渡海僧に生じた性格変化の問題が論じられる。当該期の渡海僧は、政治外交関係から距離を置いたまま文物・文化の輸入だけを担う、いわゆる「文化交流使節」としての役割をはたし、一方ではその出入国が朝廷によって管理されていた点で、朝廷にとっては対外交渉権が掌中にあることを象徴する存在でもあったが、本章では、北宋が渡海僧を正式の外交使節として利用する姿勢を示しはじめたことにより、渡海僧がたんなる「文化交流使節」にとどまることが困難になっていったこと、その結果、朝廷は彼らの出国を認可しなくなり、渡海僧は密航を余儀なくされていったこと、そして奝然師弟の日宋往来が、そうした性格変化の大きな画期となったことが論じられる。

第3章では、10世紀後半の奝然師弟の入宋に焦点を当てつつ、前章で言及された北宋の仏教および外交政策の内実が明らかにされる。従来、仏教は国境や地域を越えてゆく普遍宗教、東アジア世界の共通言語としての性質をもつことが自明視され、中国が構築しようとしていた礼的、儒教的国際秩序を相対化する面があったと考えられてきたが、本章では、当該期に周辺諸国からの入宋僧が朝貢使節同等の待遇をうけ、皇帝面見や賜紫衣・賜師号等々の厚遇をうけるようになったこと、すなわち東アジア世界において、仏教が宋皇帝の主宰しようとする国際秩序と一体化し、それをささえる機能を強く発揮するようになったことが指摘される。中国仏教では、唐代後半から宋代にいたって皇帝権威のもとへの僧団の従属編成が完成することが観察されるが、中国国内のみならず、周辺諸国からの入宋僧もまたそうした政治的価値体系のなかに包括されつつあったことが本章において明らかにされる。一方、中国との政治外交関係を望まない遣唐使廃止後の日本にとって、皇帝権威に従属した中国仏教は、もはや追走すべき目標とはみなされなくなり、それを契機として日本独自の内実をもつ中世仏教の展開がはじまるとされる。

第4章では、中国僧ばかりでなく、周辺諸国からの入宋僧も出家→得度→受戒→紫衣→師号という宋の僧侶昇進システムに組みこまれていたことが明らかにされたうえで、奝然師弟についで入宋した寂照が、弟子僧を一時帰国させたさいに師弟の度縁(得度証明書)を北宋に送らせた事例が分析され、その度縁が朝廷総意のもとで意識的に華美に仕上げられたこと、その背景として朝廷や藤原道長が自国仏教への強い自負と宋への対抗意識を燃やしていたことが指摘される。

第5章では、寂照の飛鉢説話の場面設定が11世紀末~12世紀初頭成立の『続本朝往生伝』から12世紀前半成立の『今昔物語集』へ大きく変わる事実に焦点が当てられ、そこに摂関期から院政期にかけての対外意識の変化が読みとれることが指摘される。

第6章では、11世紀後半、寂照についで入宋した成尋が著した旅行記『参天台五臺山記』を素材にして、宋皇帝との直接的なつながりと厚遇を得た入宋僧に、さまざまな思惑から接近する宋の人びとの動向が探られ、当該期中国仏教が普遍宗教、東アジア世界の共通言語としての性質を急速に失いつつあった状況が浮き彫りにされる。

第7章では、成尋と同様、密航を余儀なくされた成尋後の入宋僧の動向が追跡され、彼らの密航を助けたのが、大和国多武峰から大宰府管内まで延びる国内寺社・僧侶のネットワークであったことが明らかにされる。

第8章では、日本の対外的諸動向と密接なかかわりをもつ世界観・対外認識について考察される。天竺(インド)・震旦(中国)・日本という、いわゆる三国世界観は、中世日本国家の支配イデオロギーとして機能する顕密仏教確立過程のなかに生成・展開した世界観であったが、それは入宋僧たちが宋で経験した実体験と無関係ではなかったことが指摘される。すなわち、南宋へ渡海した栄西や慶政らは南宋を経由して天竺にいたることの不可能性を体感し、それにもとづいてさまざまな述作をなしたが、それらが大きな原因となって、天竺は観念上の虚像となり、日本中世仏教の価値の源泉として不動の地位にすえられる。一方、震旦観についても、文殊菩薩現住の地、五臺山が南宋期に金の版図に入り、天竺と同様、その到達不可能性が増すなか、金峰山など、日本国内の霊地への仏教の始原性の吸収(代替地化)が進行する。こうして国際情勢の変動や緊張を背景に、インド・五臺山という仏教の始原にかかわる聖地を観念のうちに完全に取りこんでしまうことで、顕密仏教の世界観が以後国際環境の動静とはかかわりなく保ちうるものとして確立・定着したと論じられる。

審査では、2、3の用語上の問題点や、外交を論じたにしては契丹(遼)への言及が少ないなどの指摘が出されたものの、日英中韓の4言語にわたる幅広い先行研究や史料を博捜した力作であり、とりわけ日本中世仏教成立にいたる国際的契機として、北宋の政治外交上の外圧が存在したことを明快に論証しえたこと、および先行研究において明確に関連づけられていなかった摂関期仏教と中世仏教の関係について合理的な説明を与ええたことの学術的意義はきわめて大きいという点で審査委員の評価は一致した。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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