学位論文要旨



No 128624
著者(漢字) 娜荷芽
著者(英字)
著者(カナ) ナヒヤ
標題(和) 近代内モンゴルにおける文化・教育政策研究 1932-1945
標題(洋)
報告番号 128624
報告番号 甲28624
学位授与日 2012.09.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1172号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 村田,雄二郎
 東京大学 准教授 外村,大
 東京大学 准教授 杉山,清彦
 東京外国語大学 教授 二木,博史
 東京外国語大学 教授 中見,立夫
内容要旨 要旨を表示する

1932年から1945年の間、「満洲国」(以下、括弧をはずし、満洲国とする)政府は、国境地域における住民に対する必要な措置として、独自の対モンゴル人文化・教育政策を実施した。それらの政策は、初等教育機構の増設・拡大、中等教育機構の建設・強化、留学生継続派遣事業の運営、モンゴル語の出版事業の促進、対モンゴル人文化・教育機構の法人化、などといった国民統合のために不可欠な内容を含んでいた。他方、モンゴル人は、彼らの究極的政治目標の達成のために、外力を借りて文化の発展、教育水準の向上に努めていた。そして、満洲国政府が進めた上からの近代化が結果的に、内モンゴル社会の文化・教育振興運動の一環となったのである。しかし、この政策の施行過程については、その詳細な実態が把握されていないのが現状であり、その解明は、日本の対モンゴル政策を知るうえで、そして、内モンゴルの近現代史においてきわめて重要な課題である。

考察にあたり、第1章「内モンゴルにおける「興蒙」志向(1900~32年)」では、清末から中華民国期にかけての「教育興蒙」(モンゴルを振興する)の動きについて検討を行った。その理由は、清末のころから、モンゴル人は文化・教育の振興に取り組んできたため、対モンゴル文化・教育振興政策を通して、清朝政府、中華民国政府側とモンゴル人側のそれぞれの思惑が交錯する様子を見ることができるからである。清朝政府が、「蒙藏回地方」学校の振興を図るために、対モンゴル人同化教育政策の推進に乗り出す一方、見識のあるモンゴル王公の主導による近代学校が内モンゴルに導入されはじめた。当時、一部の辺境問題の専門家らは、モンゴル人が運営する上記の近代学校に危惧の念を抱き、漢語教育による言文一致を主張した。これに対し、モンゴル人側は自身の意志による近代化と繁栄を求めたのである。中華民国成立後、様々な対モンゴル政策が発表されたものの、それが実現に至らず、特にモンゴル人に対する教育事業は、各地方政権とモンゴル人との交渉の中で行われていた。これらの過程において、モンゴル人の政治的指導者やエリートたちは多くの経験を積みながら、満洲国時代において手腕を示すのである。

第2章「1932~1945年におけるモンゴル文化・教育政策――内モンゴル東部を中心に――」では、満洲国期における対モンゴル人文化・教育政策の制定過程及びその内容を考察するとともに、同政府の対モンゴル人初等教育の実態について検討を加えた。当時、満洲国政府は独自の対モンゴル人宣伝教育政策を実施し、それが3つの段階を経て完成した。初期段階においては、モンゴル人官吏を主体に文化・教育事業が発足し、中期段階において、モンゴル人側の文化的活動・学校教育の拡大などが図られた。最終段階に入ると、国外の軍事的緊張の高まりや国内のモンゴル人の不満を背景として、同政府は対モンゴル人文化・教育機構の法人化政策に乗り出した。当時、財団法人蒙古会館を始め、対モンゴル人文化厚生団体として、財団法人蒙民厚生会、財団法人蒙民裕生会、蒙文翻訳館、モンゴル語出版社フフ・トグ社などが相次いで設置され、対モンゴル人文化教育厚生事業の窓口となり、中華民国時代に創建されたモンゴル人の文化・教育団体の関係者らを中心に、さまざまな文化・教育支援活動が行われた。それが結果的にモンゴル人の文化の発展・教育レベルの向上に新たな転機をもたらした。また、モンゴル人の初等教育に目を向けると、同政府による対モンゴル人初等教育拡大策の実施に伴い、モンゴル人の初等教育機構が急増する一方、教師の不足問題、卒業年齢の高齢化問題なども存在した。特記すべきなのは、1930年代の末ごろから、興安各省公署、文化団体やモンゴル知識人たちは、社会教育に取り組みはじめたことである。これはモンゴル側の自発的な動きであり、満洲国政府の初等教育拡大策がそれをさらに促したと言える。

第3章「モンゴル人中等・高等教育」では、満洲国政府の対モンゴル人中等教育政策の施行過程およびその実態、対モンゴル人高等教育政策を端的に示すモンゴル人留学事業への取り組みと、これらの過程におけるモンゴル人の動きを考察した。興安学院に代表されるように、満洲国政府は、現地で人材を養成するために対モンゴル人中等教育機構を創り、カリキュラムの内容とそれに見合った教師陣の確保に力を入れていた。当時、これらの中等教育機関の卒業生に対する社会からの需要も大きく、その就職先も非常に多岐にわたっていた。他方、同政府の全般的統制下でありながら、モンゴル人教師や学生の組織、団体を中心にさまざまな活動が行なわれていた。対モンゴル人教育行政の一端を担った日本人教師も一枚岩とは言い難く、これらの中等教育機関はモンゴル人社会において、文化の受信地・情報の発信地という大きな役割を果たしたのである。また、満洲国政府は、日本留学を通じてモンゴル人に対する高等教育を実施するという原則を堅持したため、モンゴル人留学生派遣事業は継続的に行われた。他方、モンゴル人側は留学生派遣事業を自民族の近代化政策の一部として位置づけ、自らも留日学生派遣計画をもっていた。当時、モンゴル人官吏をはじめ、知識人や一般民衆まで、文化の復興、教育の振興に深く関心を持ち始め、文化・教育政策の改善及び拡大を要望するモンゴル側の声も高まりつつあった。

第4章「蒙民厚生会の文化・教育事業」では、研究史の蓄積が薄い満洲国時代における対モンゴル人文化・教育団体の法人化問題を取り上げた。1930年代後半から、満洲国政府は、同政府の政策に対するモンゴル人側の強い不満を収めるため、対モンゴル人文化・教育機構の法人化政策に乗り出した。そして、これら財団法人の資金投入により、モンゴル人に対する文化・教育事業は大きく推進された。また、モンゴル人側は蒙民厚生会などの運営の主導権を握ることに成功し、計画的かつ大規模な公益プロジェクトを展開した。その内容は、教育機関の新設、就学・学習奨励制度の実施、留学生派遣事業の展開、大衆向けの文化・教育宣伝、モンゴル語書籍の出版事業などの五つの分野にわたっていた。次に、ほぼ同じ時期に設立された蒙民裕生会と蒙民振興会を取り上げ、その活動を考察した。当時、蒙民厚生会と蒙民裕生会などは緊密な連携のもと運営されており、モンゴル人側はこのような「法人化」の機会を逃さず、大きな存在感を示していた。最後に、蒙民厚生会中等教育支援事業の一環として、1940年に創設された育成学院に焦点をあて、同学院の特徴を興安学院との比較を通じて明らかにした。興安学院の指導者養成を目指すエリート教育と違って、育成学院は中堅人材の育成及び教育の一般への普及に努めていた。また、さまざまな背景を持つ育成学院教師像により、モンゴル人官吏たちの複雑な社会関係が浮き彫りになった。さらに、このような人脈は、戦後の内モンゴル人の運命を左右したと言える。

満洲国時代、戦争を背景として対モンゴル人文化・教育メディアが普及していった。その結果、高等教育を受けたモンゴル知識人階層が生み出され、そのことが民族自立の空間の形成につながったのである。他方、モンゴル人は、その究極の政治目標を達成するため、満洲国政府の対モンゴル人文化・教育政策の制定やその実施に深く関わり、知識という力を蓄えることによって近代化を果たし、実力を蓄えて次の展開に備えていたのである。

審査要旨 要旨を表示する

ナヒヤ氏の学位請求論文「近代内モンゴルにおける文化・教育政策研究 1932-1945」は,満州国期の内モンゴル東部(興安=ヒンガン)における文化・教育政策の展開を実証的に跡づけ,当該地域における教育近代化の進展やモンゴル人主体意識の創出の過程を,新発見のモンゴル語資料などを駆使しつつ解明しようとした歴史学的研究である。これまでの関連する諸研究では,近代内モンゴルにおける教育や文化の発展について,近代中国の中央政府(中華民国北京政府,同南京政府,中華人民共和国)による統合・包摂を前提とした上からの民族政策として理解し,さらに満州国期における対モンゴル政策は帝国主義の「奴隷化」教育を推進したものとして,否定的に描かれるのが通例であった。本論文はこうした見方を疑い,満州国の政策の策定や執行には,モンゴル人が主体的に参画し,自民族の権益を拡大し,その地位を向上させようとする意図があり,交渉主体間の複雑な関係が働いていたことを指摘する。

論文は,序論と本論4章および結論からなり,巻末に図表・資料・写真・主要人物略歴表・文献一覧を収める。本文はA4版で全192頁あり,字数は約22万字(原稿用紙400字詰めに換算して約550枚)の分量になる。

まず,本論文の内容を紹介する。

序論で著者は,満洲国政府の対モンゴル人文化・教育政策には,初等・中等教育の推進,留学生派遣事業の展開,モンゴル語刊行物の促進など,内モンゴル地域の近代化にとって不可欠の要素が含まれており,そのような政策の策定や施行に多くのモンゴル人知識人が積極的に関わっていたことを指摘し,本論文の問題意識を提示する。

第1章「内モンゴルにおける「興蒙」志向(1900~32年)」では,清末期から中華民国政府統治期の「教育興蒙(教育を通じたモンゴル振興)」の動きが扱われ,清朝・中華民国政府の「同化」政策や漢人移民の増大にもかかわらず,モンゴル王公の中には明治日本にならった近代教育の導入やモンゴル意識高揚のための言文一致などを試みたことが指摘される。政治的・軍事的要因やモンゴルを取りまく国際環境により,それらの試みは挫折や停止をよぎなくされるものの,人的系譜から見ると,満洲国時代の多くの施策において,この時期のモンゴル人エリートの経験が重要な基盤を提供していたことが確認できる。清末から中華民国統治期は,内モンゴル東部に暮らすモンゴル人にとって,言わば飛躍のための雌伏あるいは準備の時期であった。

第2章「1932~1945年におけるモンゴル文化・教育政策──内モンゴル東部を中心に」は,満洲国における文化・教育政策の策定や実施の過程を具体的に検討する。著者はこれを3つの段階に整理し,モンゴル人官吏を主体に各種文化・教育事業が大きく発展したにもかかわらず,戦争にともなう政治情勢の緊迫化やモンゴル側の不満の増大などの理由により,最終段階において,満州国政府が教育・文化機構の財団法人化を採用するに至る経緯をたどってゆく。特筆すべきは,内モンゴル東部地域での初等教育の普及とともに,モンゴル人の民族意識も高まり,やがてそれがさまざまな社会教育活動にも広がっていったことである。

第3章「モンゴル人中等・高等教育」では,満洲国政府の対モンゴル人中等教育政策の施行過程やその実態,およびモンゴル人の日本留学事業への取り組みが考察される。興安学院の設立に示されるように,満洲国時期に対モンゴル人中等教育事業は長足の進歩を見せ,多くの人材を輩出する契機となった。また,高等教育の推進策として採用された日本への留学事業は,モンゴル側も自民族の近代化政策の一環としてこれを歓迎し,継続的にこれを支持した。日本の敗戦とともに,多くの中等・高等教育振興策は頓挫するものの,1945年以降も内モンゴル地域の各方面で活躍する政治・文化エリートを育てたという意味で,これらの教育事業が内モンゴル近現代史の中で果たした役割には無視し得ぬものがあった。

第4章「蒙民厚生会の文化・教育事業」は,従来ほとんど言及されることのなかった法人格の文化・教育団体の実態を実証的に解明する。蒙民厚生会,蒙民裕生会,育成学院など1930年代末から1940年にかけて設立された財団法人は,モンゴル人の権益増大の要求に満洲国政府が対応するための施策であったが,モンゴル人官吏や知識人はこの機を捉えて,教育機関の新設,就学・学習奨励制度の実施,留学生派遣事業の拡大,大衆向けの文化振興,モンゴル語書籍の出版事業の推進など,計画的で大規模な公益プロジェクトを展開していった。

終章では,以上の各章の分析・考察をもとに,以下のような結論が導き出される。第一に,満州国政府は国境地域の保全を目的に,独自の対モンゴル文化・教育政策を実施したが,これにより内モンゴル地域では上からの近代化が進展するとともに,高等教育を受けたモンゴル人知識人階層が生み出され,それがモンゴル大の自立空間を求める民族意識の高揚につながっていった。第二に,モンゴル人は満洲国政府の策定した多くの文化・教育政策に関わっていったが,それは被支配者や協力者としての従属的な立場からそうしたというよりは,教育の発展・民衆生活の向上・地域の安寧といった主体的立場と民族意識に発するものであり,近代的ナショナリズム形成過程の一部と見るべきである。第三に,モンゴル人が主体的に上記のような文化・教育政策に関わったことにより,知の獲得による民族の自立・自治という終局的な目標を実現するため,来るべき時期にそなえて実力を涵養するというこの地域独自の歩みが可能になった。

以上のような構成と内容をそなえる本論文に対して,審査委員はおもに以下の点で高い評価を与えた。

まず,モンゴル語・日本語・漢語の一次資料を丹念に収集・分析し,内モンゴル東部に対する満洲国の文化・教育政策の具体的な内容を体系的・網羅的に記述することに成功していることである。

次に,通説となっている「奴隷化」教育を超える研究の視点を提示し,清末から1945年に至る歴史過程の中でモンゴル人の主体的選択や自立的活動の諸局面を精査し,説得力ある具体的事例を数多く挙げていることである。

第三に,満洲国時代の文化・教育機構の制度的変遷の実態を跡づけ,モンゴル人の自主的活動や法人化による政策変化の実相を丁寧に分析したことである。とくに文化・教育機構が財団法人化される経緯やその実態については,従来ほとんど知られることのなかったところであり,本論文の学界に対する大きな貢献であると言える。

ただ,本論文に若干の欠点や不足がないわけではない。審査委員からは,モンゴル語のトランスクリプションに不適切な箇所が散見されるとの指摘がなされた。また,「内モンゴル」地域概念をアプリオリに設定している点についても,複数の審査員から疑問が呈された。さらに,植民地支配とモンゴル・ナショナリズムとの関係についてもさらなる理論的検討が必要だとの意見も出された。

とはいえ,以上述べたような短所は,本論文の学術的な価値を損なうものではない。

以上の所見から,本論文がモンゴル近代史や満洲国期のモンゴル文化・教育政策の研究に大きな貢献をもたらしたことは疑いない。したがって,本審査委員会は一致して博士(学術)の学位を授与するのにふさわしい論文と認定する。

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