学位論文要旨



No 128693
著者(漢字) 棚田,法男
著者(英字) Norio,TANADA
著者(カナ) タナダ,ノリオ
標題(和) 神経細胞の分散培養系に嗅覚受容体を発現させた匂いセンサーの開発
標題(洋)
報告番号 128693
報告番号 甲28693
学位授与日 2012.09.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7867号
研究科 工学系研究科
専攻 先端学際工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 講師 高橋,宏知
 東京大学 教授 神崎,亮平
 東京大学 教授 生田,幸士
 東京大学 教授 浜窪,隆雄
 東京大学 教授 神保,泰彦
内容要旨 要旨を表示する

1. はじめに

近年、匂いバイオセンサーの開発が注目されている。その背景として、匂いの品質管理や評価は、人の感覚による官能評価によるため、嗅覚疲労や低い再現性に問題点を有する。現在までに実用化されている代表的な匂いセンサーには、金属酸化膜半導体、導電性高分子、水晶振動子などが利用されている。しかし、これらの性能は、生体の嗅覚系と比べると、感度、識別できる匂いの種類、及び応答時間の点で大きく劣る。

このような問題点を克服するために、生体材料を感材料として利用した匂いセンサーの開発が試みられている。これらの生体材料を用いた匂いセンサーは、従来の匂いセンサーと比べ、感度・応答時間で優れているが、センサー寿命が数時間~数日程度と非常に短いことに欠点を有する。この主な原因は、生体材料である細胞や組織の寿命が短いことにある。

2. 神経細胞の分散培養系に嗅覚受容体を発現させた匂いセンサーの提案

本研究では、生体材料を利用した長寿命のセンサーを実現するために、昆虫の嗅覚受容体をラットの培養神経細胞へ発現させることを提案する。

昆虫の嗅覚受容体を用いる利点は、容易に機能発現を実現できる可能性が高いことにある。これは、昆虫の嗅覚受容体がイオンチャネルと一体型であるという最近の知見による 。一方、哺乳類の嗅覚受容体はGタンパク質結合型で、匂い物質の受容部とイオンチャネル部が分離している。そのため、イオンチャネルを開くためには、複雑な細胞内カスケードを経なくてはならない。

本研究は昆虫の嗅覚受容体として、カイコガBombyx mori のフェロモン受容体に注目した。同受容体の機能は、アフリカツメガエル卵母細胞で詳細に調べられている。カイコガのフェロモン受容体はBmOR1とBmOR3の2種類で、それぞれ、フェロモン物質のボンビコールとボンビカールに対して高い選択性を示す。なお、これらの受容体は、共受容体のBmOR2と複合体を形成し、非選択的陽イオンチャネルとして働く。

また、本研究は、嗅覚受容体を導入する培養細胞として、神経細胞の分散培養系を用いる。その利点として、第一に、神経細胞の寿命は通常の細胞より長いため,センサーの寿命を長期化できる可能性がある。神経細胞の多くは、一個体の一生を通して置き換わらないため、個体と同程度の寿命を有する。実際に、ラット培養神経細胞は1年以上の寿命を保持できることがわかっている。一方、通常の細胞は、一個体の一生を通して何度も置き換わるため、数日から数週間と比較的短い寿命しかもたない。第二の利点として、神経細胞は、嗅覚受容体が発生した微弱なイオン電流から、容易に計測できる活動電位へと、匂い信号を増幅するプリアンプとして利用できる。これまでにも、神経系の細胞の分散培養系をプリアンプとして利用したバイオセンサーはいくつか提案されている。しかし、嗅覚受容体を遺伝子工学的に発現させ、通常では反応しない物質に対して、反応特性を持たせた試みはない。

本研究では、昆虫の嗅覚受容体をラットの培養神経細胞へ発現させた匂いバイオセンサーを提案し、その実現可能性を示す。具体的には、まず初めに、嗅覚受容体が細胞膜上で発現していることを確認するために、共焦点顕微鏡(LSM510, Zeiss)による蛍光観察を行った。次に、免疫化学染色を用いた蛍光観察によってトランスフェクション効率を見積もった。さらに、RT-PCR反応によりm-RNAレベルでの嗅覚受容体の発現を確認した。最後に、Caイメージングにより、発現した嗅覚受容体が機能的であるかを調べた。

3. 方法

〈3・1〉トランスフェクション

トランスフェクションにはリポフェクション法を試みた。プラスミドDNAとlipofecta mine 2000 (Invitrogen(株)) をそれぞれ低血清培地Opti-MEM (Invitrogen(株)) に溶解し、室温で5分インキュベートした。その後、それらを混合し、さらに15分インキュベートした。培養7日目の神経細胞から6割の培地を取り除き、そこへDNAとLipofectamine2000の混合液を滴下し、撹拌した。DNAベクター、pEF-EGFP-BmOR1とpEF-DsRED-BmorOrcoは同時にトランスフェクションした。

〈3・2〉DNA ベクター作成

終始コドンを除いたEGFPは、制限酵素EcoRIとNotIを含む特異的プライマーを用いてPCRにより増幅した。増幅した部位はEcoRIとNotIで切り取り、pEF-EGFPの制限酵素切断部位へ導入した。続いて、BmOR1とBmorOrcoをそれぞれの遺伝子配列を含むpBluescript SKから制限酵素NotI とXbaIを含む遺伝子特異的プライマーを用いてPCRによって増幅し、pEF-EGFPの制限酵素切断部位へ導入することで、N末端にEGFPたんぱく質を融合させたBmOR1とBmorOrco、pEF-EGFP -BmOR1とpEF-EGFP-BmorOrcoをそれぞれ作成した。

終始コドンを除いたDsREDは、制限酵素EcoRIとNotIを含む特異的プライマーを用いてpCMV-DsRed-Express Vector (Takara, 6324 16)かPCRにより増幅した。増幅した部位はEcoRIとNotIで切り取り、pEF-EGFPの制限酵素切断部位へ導入した。続いて、BmorOrco をPCRによって増幅し、pEF-DsREDの制限酵素切断部位へ導入することで、N末端にDsREDたんぱく質を融合させたpEF-DsRED- BmorOrcoを作成した。

pEF-BmOR1とpEF-BmorOrcoを作出するために、BmOR1とBmorOrcoのコード領域を制限酵素KpnI とXbaIを含む遺伝子特異的プライマーを用いてPCRにより増幅した。増幅した断片は制限酵素KpnI とXbaI で処理し、pEF-EGFPの制限酵素切断部位へ導入した。

〈3・3〉カルシウムイメージング

培養10日目に、BmOR1とBmorOrcoを共発現している細胞がフェロモン物質に対し機能的であるかどうか、確認するため、Caイメージングを行った。カルシウム感受性色素として、EGFPとの蛍光波長の重複が尐ないX-Rhod1 AM (Invitrogen(株)、X14120)を用いた。神経細胞を37℃で1時間, 4 μMのX-Rhod-1 AMを含む平衡塩溶液 (NaCl 130 mM、 グルコース 5.5 mM、KCl 5.4 mM、 CaCl2 1.8 mM、 HEPES 20 mM、 pH 7.4) 中でインキュベートした。1時間後、培地をX-Rhod1を含まない平衡塩溶液へと交換し、さらに37℃で30分インキュベートした。

カルシウム感受性色素の蛍光は、正立顕微鏡 (オリンパス(株)、 BX51WI) に取り付けた10倍レンズ(Olympus, UPlanF1)と冷却CCDカメラ (浜松ホトニクス(株)、C9100-02) で計測した。計測視野は400×400 μmで、同視野を500×500 pixelで計測した。また、蛍光画像は2×2 pixel毎に平均し、14 bit colorで測定した。各フレームの露光時間は1 sとし、90s測定した。カルシウム感受性色素の蛍光強度変化は、HiPic 8.1.0(浜松ホトニクス(株))と Pythonで作成したコードを用いて解析した。

フェロモン刺激には、実験直前に、1MのDMSOに溶解したフェロモン溶液をBSSで希釈し適切な濃度に調整した。フェロモン物質は、マイクロピペットの先端から30s 投与した。

4. 結果

Fig.1(a)(i)と(ii)はpEF-EGFP-BmOR1とpEP-DsRED-BmorOrcoを共導入した神経細胞の蛍光画像を示した。重ね合わせた画像Fig.4(a)(iii)はEGFPの蛍光パターンと、DsREDの蛍光パターンがほとんど一致していることを示し、BmOR1とBmorOrcoが高確率で共発現してることを示唆する。さらに、共焦点顕微鏡を用いたトランスフェクションした細胞の蛍光観察(Fig.1(b)(i-iii)では、BmOR1とBmorOrcoの共発現が明確に確認できる。また、これらの受容体は細胞膜上へ移行してることが観察され、機能的な発現をしていると考えられる。

Fig.1(b)に各DNAコンストラクトの導入効率を示す。EGFP-BmOR1+ BmorOrcoでは8%、BmOR1+ EGFP- BmorOrcoでは12%程度の導

Fig.1(d)にはEGFP、 BmOR1とBmorOrcoの特異的プライマーを用いて、RT-PCR反応を行った結果を示した。

EGFP、 BmOR1とBmorOrcoのバンドはトランスフェクションした細胞には確認され、トランスフェクションしていない細胞には確認されなかった。この結果は、EGFP、 BmOR1とBmorOrcoそれぞれの遺伝子がトランスフェクションした細胞で発現していることを示す。

Fig.2(a)は位相差顕微鏡画像とEGFPの蛍光画像を重ね合わせた画像で、これらの神経回路に対してCaイメージングを行った。 Fig.2(b)は、マイクロピペットで局所的に100μMのBOL(Bombykol)をEGFP蛍光ポジティブな細胞;すなわち細胞#1にたいして投与した場合の匂い応答のカルシウムイメージ画像である。Fig.2(c)(i)は、複数回のBOLの投与に対して、細胞#1が高い再現性で50%以上のカルシウム応答を示していることを示している。

一方で、Fig.2(c)(ii)に示したように、通常のBSSを投与した場合、細胞#1はカルシウム応答を示さなかった。これらの結果は、細胞#1のカルシウム応答は機械刺激によって誘発されておらず、BOLによって誘発されたことを示す。最後に、50-μMのグルタミン酸投与後、カルシウム応答が示され、細胞#1の生存を確認した(Fig.2(c)(iii))。

Fig. 2 (d)には、Fig.2(b)でEGFP蛍光ポジティブな細胞#1に加え、EGFP蛍光ネガティブな細胞;すなわち細胞#2~#10までのカルシウム応答の経時的な変化を示した。細胞#1を除き、EGFP蛍光ネガティブであるにもかかわらず、これらの細胞は複数回のBOLの投与に対して、同期的なカルシウム応答を示した。それゆえに、嗅覚受容体を導入した神経活動がシナプス結合を介して、導入されていない神経細胞へと活動を伝搬させたと推測できる。

5. 考察

本研究でトランスフェクションに用いたリポフェクション法は、ウイルスフェクション法に比べ導入効率は劣る。しかしながら、リポフェクション法を用いる利点は、簡便であること、迅速であること、及び細胞へのダメージが低いことである。HEK-293細胞などの、神経細胞以外の細胞を用いたセンサーでは、高導入効率が必要である。一方で、本研究で提案するセンサーでは、8%の導入効率は十分に高いと考える。すなわち、低導入効率でも、嗅覚受容体を導入した細胞の活動がシナプス結合を通じて神経回路の活動パターンに増幅される。

6. おわりに

本研究では、初めに共焦点顕微鏡によって、嗅覚受容体が細胞膜へ移行していることを示した(Fig.1)。第二に、免疫化学染色を用いた蛍光観察によってトランスフェクション効率を8%程度と見積もった(Fig.1)。第三に、RT-PCR反応によりm-RNAレベルでの嗅覚受容体の発現を確認した(Fig.1)。最後に、Caイメージングにより、発現した嗅覚受容体が機能的であることを示した(Fig.2)。これらの結果は提案した匂いセンサーの実現可能性を示す。

Fig. 1 Transfection of odorant receptors.

(a) Fluorescent microscopic observation of a neuronal culture co-transfected with pEF-EGFP-BmOR1 and pEF-DsRED-BmorOrco constructs: (i) EGFP, (ii) DsRED and (iii) overlaid image. (b) Direct confocal observation of a living transfected neuronal cell with BmOR1 and BmorOrco targeted onto the plasma membrane. (c) Transfection efficiency of odorant receptors RT-PCR.(d) Transfected cells (TC); (e) non-trasfected cells (NT): (i), BmOR1; (ii), BmorOrco; (iii), EGFP. The bands at 600 b.p. indicate the presences of mRNA of BmOR1, BmorOrco and EGFP, respectively. Two lanes at the center are size markers.

Fig. 2 Ca++ imaging in response to odorant stimulation.

(a) Neuronal culture under test. BmOR1, BmorOrco and EGFP were simultaneously co-transfected onto this culture. A differential interference contrast microscopic view (DCM) and EGFP fluorescent view were overlaid. (b) Spatial pattern of Ca++ signal in response to 100-μM bombykol (BOL). Odorant responsive cells (#1 - #10) were labeled. BOL was administered to Cell #1 (red circle). Ca++ signals were quantified as fractional changes of fluorescence (ΔF/F). (c) Time courses of Ca++ signal in cell #1. Triangles indicate the time of administration of test substances: (i), 100-μM bombykol (BOL); (ii), BSS; (iii), 50-mM glutamate. Each trajectory is obtained from different trials. (d) Time courses of Ca++ signal in cells #1 - #10. Only cell #1 was GFP-positive, while others cells (#2 - #10), negative.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、バイオ材料を利用した化学センサーに関するもので、生体の優れた匂い識別機構に注目し、昆虫の嗅覚受容体をラットの神経細胞へ発現させた匂いセンサーを提案し、その実現性を実験により検証している。

第一章「序論」では、従来の匂いセンサーの動作原理と特徴を述べ、それらの問題点を抽出し、本研究の目的を導出している。現在実用化されている代表的な物理化学匂いセンサーは、金属酸化物半導体、水晶振動子、導電性ポリマーである。これらの匂いセンサーは、感度、多様性、応答時間などの点で生体の嗅覚系には大きく劣る。そのような欠点を克服するべく、近年では生体-シリコンハイブリット型匂いセンサーが研究されている。このような匂いセンサーの性能を向上させるために、嗅覚受容体、糸球体、一次嗅皮質からなる生体の嗅覚系の情報処理メカニズムの知見を要約し、どのように高感度な嗅覚受容が実現されているかを考察している。

第二章「神経細胞の分散培養系に嗅覚受容体を発現させた匂いセンサーの提案」では、生体の優れた匂い識別機構に注目し、昆虫の嗅覚受容体をラットの神経細胞へ発現させた匂いセンサーを提案する。このような昆虫の嗅覚受容体を用いる利点は、容易に機能発現を実現できる可能性が高いことにある。また、本研究は、嗅覚受容体を導入する培養細胞として、神経細胞の分散培養系を用いる。その利点として、第一に、神経細胞の寿命は通常の細胞より長いため,センサーの寿命を長期化できる可能性がある。第二の利点として、神経細胞は、嗅覚受容体が発生した微弱なイオン電流から、容易に計測できる活動電位へと、匂い信号を増幅するプリアンプとして利用できる。第三の利点として、微細な匂い物質の変化を、神経回路の活動パターンとして増幅するメインアンプとして利用できる可能性がある。

第三章「実験方法」では、提案した新規匂いセンサーの実現可能性を検証するため必要な実験手順の詳細が記述されている。まず、嗅覚受容体が細胞膜上で発現していることを確認するために、共焦点顕微鏡による蛍光観察を行った。次に、トランスフェクション効率を見積もるために、免疫化学染色を用いた蛍光観察を行った。さらに、m-RNAレベルでの嗅覚受容体の発現を確認するために、RT-PCR反応を調べた。最後に、発現した嗅覚受容体が機能的であるかを調べるために、Caイメージングを行った。

第四章「実験結果」では、提案した新規匂いセンサーの実現可能性を実験的に検証している。第一に、共焦点顕微鏡によって、嗅覚受容体が細胞膜へ移行していることを示した。第二に、免疫化学染色を用いた蛍光観察によってトランスフェクション効率を見積もったところ、同効率は8%程度だった。第三に、RT-PCR反応によりm-RNAレベルでの嗅覚受容体の発現を確認できた。最後に、Caイメージングにより、匂い物質に対して、神経細胞に有意なCa濃度上昇が認められたことから、発現した嗅覚受容体が機能的であることを示した。

第五章「考察」では、検証実験から得られた知見、提案したセンサーの特徴を要約し、今後の展望を述べている。提案したセンサーでは、他のセンサーに比べ遺伝子導入効率が低くても、嗅覚受容体を導入した細胞の活動がシナプス結合を通じて神経回路の活動パターンに増幅することが可能である。さらに、ウイルスフェクション法いて作成したセンサーは限定された場所でのみしか適用できないのに対し、リポフェクション法を用いて作成したセンサーはいかなる場所でも適用可能である。今後の課題として、センサー寿命に関する問題がある。提案した匂いセンサーの機能的な期間は、発現した嗅覚受容体の機能的な期間のみならず、神経細胞の寿命にも依存する。そのため、発現した嗅覚受容体の機能的な期間を制御する技術が必要になる。さらに、センサーとしての定量性解決案の模索、効率的な匂い識別のために、嗅覚受容体の発現パターンの制御も必要である。また、長期的なセンサーの利用については、ニューラルネットワークのシナプス可塑性についても考慮する必要がある。

第六章「結論」では、本研究で得られた知見が要約されている。本研究では、ラットの神経細胞内に発現させた昆虫の嗅覚受容体が機能的であることが示されており、したがって、提案センサーの実現可能性が原理的に示されている。提案センサーで用いたバイオ材料の組み合わせは、従来のバイオ-シリコン・ハイブリッドセンサーの様々な問題点を解決しうる可能性を秘めている。これらの知見は、バイオ材料を利用した生体-シリコンハイブリット型匂いセンサーの研究分野に対して、工学的、および、学術的に顕著な貢献が認められる。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク