学位論文要旨



No 128723
著者(漢字) 遠山,敦彦
著者(英字)
著者(カナ) トオヤマ,アツヒコ
標題(和) ラベルフリー定量LC-MALDI質量分析法による肺癌血清バイオマーカーの同定
標題(洋) Discovery of serum biomarkers for lung cancer by label-free quantitative LC-MALDI MS
報告番号 128723
報告番号 甲28723
学位授与日 2012.09.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(生命科学)
学位記番号 博創域第826号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 メディカルゲノム専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 松田,浩一
 東京大学 教授 菅野,純夫
 東京大学 教授 古川,洋一
 東京大学 教授 津本,浩平
 東京大学 准教授 尾山,大明
 理化学研究所 チームリーダー 高橋,篤
内容要旨 要旨を表示する

概要

肺癌は日本及び欧米で最も死亡者数の多い癌であり、外科的、内科的治療法が発達した現在においても年間の死亡数が国内だけで67,500人にのぼる。肺癌による死亡数を激減させるためには、喫煙対策や新薬の開発はもちろん、各組織型別の早期診断法確立が必須である。現状で肺癌の早期発見は画像診断に依るところが大きいが、50%以上の5年生存率が見込めるステージIIB以前に診断可能な症例は16%である。本研究では非侵襲的、かつ安価に肺癌の早期診断が可能となる新規血清バイオマーカーを探索、開発することを目的に、血清タンパク質の網羅的な定量プロファイリングを実施した。

血清のトリプシン消化物をナノスケール逆相クロマトグラフィー(nano-HPLC)にて微細分画し、マトリックス支援レーザー脱離イオン化飛行時間型質量分析計(MALDI-TOF MS)にて測定し、そのシグナル強度からタンパク質およびペプチドを定量する、ラベルフリー定量LC-MALDI MS法を構築した。この実験系の至適条件を検討する中で、血清タンパク質の糖鎖修飾がトリプシン消化産物の複雑性を増し、ペプチドのイオン化を阻害することで、網羅性および定量性を損ねていることに着眼した。糖鎖修飾は大多数の血清タンパク質に見られることから、あらかじめ糖鎖を酵素的に除去しておくことで、疾患特異的に変動するタンパク質をより効果的に探索することができると考えられた。この仮説を証明するため、血清タンパク質からN型糖鎖すべてとO型糖鎖のシアル酸を除去した群と未処理群を比較解析し、脱糖鎖処理がLC-MALDI MS法における検出力ならびに分析間再現性の向上に寄与していることを示した。

以上のように最適化した条件により、健常人10例、肺癌患者Stage I, II 10例、Stage III, IV 10例の血清を用いた定量プロテオーム解析を実施し、本邦で最も罹患率の高い肺癌である腺癌を対象にバイオマーカー探索を行った。その結果、健常人と肺癌患者間でP < 0.01の有意差を示す25種類のバイオマーカー候補タンパク質の同定に成功した。さらに追加症例88例を用いて、最も肺腺癌の早期診断に有効と考えられたComplement C3dg fragmentについて半定量的Western blottingによる検証試験を行い、追加症例においても健常人と早期肺腺癌患者の間でP < 0.05 の有意差を確認した。

1.ラベルフリー定量的LC-MALDI質量分析法の構築

本研究のワークフローを図1に示した。血清試料の前処理として、抗体カラム(Multiple-Affinity Removal Column, MARS Hu-14)を用いて血中タンパク質の約95%を占める14種類のタンパク質を除去し、血清中の微量成分を濃縮した。さらに、N-グリコシダーゼおよびシアリダーゼ処理によりN型糖鎖すべてとO型糖鎖のシアル酸を除去し、SDS-PAGEによる精製を経てゲル内トリプシン消化に供した。回収した消化ペプチドをナノフロー逆相HPLCにより分離し、溶出液をステンレスプレートへ直接スポッティングすることでペプチドを細分画した。各スポットをMALDI-TOF MSにより測定し、質量分析データを、横軸に質量(m/z)、縦軸に溶出時間から成る二次元マップに展開した(図1、右上)。複数のサンプルより得られた二次元マップを重ね合わせ、同一座標のピークをマッチングし、ラベルフリー定量解析および統計解析に供した。

2.脱糖鎖処理はLC-MALDI MSによるプロテオーム解析の精度を向上する

標準血清試料を、脱糖鎖処理を行った群と未処理の対照群(各n = 6)に分け、上述の解析プラットホームにより定量プロテオーム解析および統計解析を行った。その結果、全体で4,444本のペプチドを解析対象とし、このうち6回の繰り返し実験すべてにおいて検出された再現性の高いピークの本数は、未処理群で2,610本に対して脱糖鎖処理群では2,984本であった。脱糖鎖処理が再現性よく検出可能なペプチドの増加(+14%)に寄与することを示した。さらに、脱糖鎖処理群と未処理群に共通して検出されたペプチドについて、信号強度の比とt検定によるP値を求めたところ、221本のペプチドにおいて有意な差(P < 0.05)が見られ、このうち188本が脱糖鎖群にて強度が増していることがわかった。脱糖鎖群のみにおいて検出される157本とあわせて、345本(全体の11%)が脱糖鎖処理により検出感度が向上していることをvolcano plotにより示した。興味深いことに、この345本のうち、糖鎖が脱離した形で検出されたペプチド(元々糖ペプチドだったもの)は97本しかなく、脱糖鎖による改善効果が全般に及んでいることから、糖ペプチドの存在が共存している試料全体に対してイオン化を抑制している可能性が示唆された。

3.脱糖鎖血清プロテオーム解析による肺癌バイオマーカー候補のスクリーニング

次に、健常人10例と肺癌患者20症例の血清を用いた脱糖鎖定量プロテオーム解析を行い、肺腺癌のバイオマーカー探索を実施した。合計30症例から6,186本のペプチドピークを集計し、その中からP < 0.01で肺癌患者に特異的なペプチドを対象にMS/MS測定を行った。その結果、40本のペプチド(25種類のタンパク質)を、バイオマーカー候補として同定した。この結果を別の測定系にて検証するため、トリプル四重極型質量分析計を用いた定量性および特異性に特化した測定方法であるマルチプルリアクションモニタリング(MRM)法にて、30症例の再測定を行った。MRMによる分析が成立し、かつMRMによる定量値がLC-MALDIによる定量と相関する(P < 0.05)ペプチドを選定した結果、Ceruloplasmin, Complement C3, Complment component C9, Inter-alpha trypsin inhibitor H3, Inter-alpha trypsin inhibitor H4,ならびにKininogen-1に由来する10本のペプチドを信頼性の高いバイオマーカー候補とした。

このうちComplement C3のペプチド4種類は、すべてC3dgと呼ばれる39kDaのサブユニットに由来していることがわかった。Complement C3は、補体結合反応の過程でサブユニット単位へ断片化されることが知られているが、Complement C3dgがタンパク質レベルで変動していることをWestern blottingにより確認した(図2)。

4.追加症例88例によるComplement C3dgの半定量的検証試験

今回の肺癌バイオマーカーのスクリーニングにおいて、早期肺腺癌患者を区別するうえで最も効果的と見込まれたComplement C3dgについて、追加症例(健常人19例、非癌肺疾患22症例、早期肺癌15症例、進行期肺癌32症例)を用いて、図3B同様に半定量的Western blottingによる検証試験を行った。その結果、健常人と比べて早期肺腺癌症例においてC3dgが有意に減少する結果が、独立した追加症例においても確認された(P < 0.05, t検定)。このバイオマーカー候補は健常人と早期肺腺癌患者を有効に区別しうる一方、非癌肺疾患(慢性閉塞性肺疾患、間質性肺炎、突発性肺線維症)においても、早期肺腺癌症例同様にC3dgの有意な減少が見られたため(P = 0.001, t検定)、この現象が癌特異的ではないことが示唆された。

総論

本研究により構築されたラベルフリー定量的LC-MALDI質量分析法により、脱糖鎖処理が、血清などの糖タンパク質に富んだ試料のプロテオーム解析において、精度を底上げする有効な手段であることが示された。今回同定し、検証した肺癌バイオマーカー候補Complement C3dgについては、早期肺癌の検出力が高く、他のバイオマーカーとの組み合わせによっては有効な診断マーカーとなる可能性がある。他の候補とともに今後も検証試験を進め、臨床応用可能なバイオマーカーの確立をめざす。

【図1】 ラベルフリー定量的LC-MALDI質量分析法による比較解析ワークフロー

【図2】(A)粗血清ならびにMARS Hu-14カラムのフロースルー画分の、抗C3ポリクローナル抗体によるWestern blotting像。 (B)同じ抗体を用いてスクリーニングに用いた30症例の粗血清からWestern blottingにてC3dgを半定量的に検出した。図2に示されたパターンと同じく、早期肺腺癌症例において有意に減少している。(P < 0.05, t検定)

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、一般的な学術論文の仕様に則り、序章、方法、結果、考察、図表および参考文献リストの順番で構成されている。序章にて提起された課題に対して、適切な実験を実施したうえで、結果を評価し考察に結び付ける過程が首尾一貫しており、論文提出者の高い英語力と構成力により完成された論文と認められる。そのうえで、研究内容の妥当性と研究者としての資質を下記のように評価した。

序章では、血清中のタンパク質を網羅的に定量する方法論について概論が述べられている。近年の質量分析機器の発達に伴い、タンパク質の酵素消化ペプチドが非常に高感度に測定できるようになったほか、アミノ酸配列を決定することで元のタンパク質を同定する方法論が一般化されてきた。これに伴い、血清タンパク質を定量する方法も、消化ペプチドの検出量により元のタンパク質の存在量を推定する、ショットガン法がよく用いられてきており、網羅性の高い解析が可能になっている。消化ペプチドを定量する方法論としては安定同位体をペプチドに導入するラベリング法が主流であった。しかし、ラベリング法には限られたサンプル間の比較しかできない制限がある。論文提出者は、ラベリング法による定量精度の高さを認めながらも、臨床的に有意な変化を伴うバイオマーカーを捉えるためには数十サンプル規模の比較を行うことが肝要と考え、ラベルフリー法を採用するに至った。したがって、本論文にて挑戦する課題として、一点目に、ラベルフリー定量による血清タンパク質の網羅的解析の最適化、そして二点目に、最適化された系にて実際に肺癌バイオマーカー候補を同定することが挙げられた。

論文提出者は、ラベルフリー定量の効用を最大化するためには、分析間再現性を高めることが最も重要と考え、そのための検出系として、ナノスケールHPLCにより分画されたペプチドを一旦ステンレスプレートに分取してからマトリックス支援レーザー脱離イオン化質量分析計にて測定する、LC-MALDI法を採用した。この系はロバスト性が高く、数十サンプルを繰り返し測定するうえで分析条件が変動しにくい。また、網羅的解析においては主流であるエレクトロスプレーイオン化法とMALDIでペプチドのイオン化効率が異なることから、これまで報告のある解析とは異なったプロファイルが得られることが期待された。一方で、ラベルフリー定量を可能にするデータ解析プラットホームがLC-MALDIに対応していない問題が生じたが、論文提出者は独自のプログラムにて測定データを編集し、定量可能なデータとしてソフトウェアに読み込ませることに成功した。

次に、論文提出者は、分析系のテストも兼ねた予備実験として、試料の前処理における脱糖鎖処理の影響を調べた。血清タンパク質のほとんどは糖鎖付加修飾がなされており、そのトリプシン消化物には多量の糖ペプチドが含まれる。糖ペプチドはイオン化効率が低いことが知られているため、糖ペプチドの存在は特に分析結果に影響を及ぼさないと予想されていた。しかし論文提出者は、情報量の増加に寄与しない妨害物質は極力除去しておくべきとの分析的観点を重要視し、脱糖鎖の有無のみが異なるコントロール試料をラベルフリー定量LC-MALDIの系にて網羅的に比較することで検証した。その結果、脱糖鎖処理により分析系の再現性が向上し、多少ではあるが感度が底上げされていることが確認された。糖ペプチドの存在が共存している試料のイオン化効率にも影響を及ぼす可能性が示唆された。論文提出者は、分析系が高感度になるほどイオン化阻害の効果が大きくなる観点から、糖タンパク質に富む試料を分析する際には糖鎖を除去する処理をすべからく行うべきと結論づけた。

続く肺癌バイオマーカーの探索研究では、肺癌患者血清20症例および健常人血清10症例をラベルフリー定量LC-MALDIの系による比較解析に供し、40種類の候補分子を同定した。この中からバリデーションの対象を効率的に選別するため、マルチプルリアクションモニタリングと呼ばれる、既知分子の定量に特化した質量分析計により、同定された候補分子の再測定を行った。最終的に、補体C3分子の断片化が早期肺癌症例において抑制されていることを見出し、追加症例を用いたバリデーション試験においても、その現象が再現することを示した。

なお、上記成果は広島大、理化学研究所、滋賀医科大学との共同研究であるが、論文提出者が主体となって全ての分析および検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。特に、分析系の構築において論文提出者は論理的に一貫した基準のもとに系の組み合わせを選択し、生じたトラブルを独創的な工夫で解決しており、その自立的な研究思考は高く評価できるものである。したがって、博士(生命科学)の学位を授与できると認める。

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