学位論文要旨



No 128746
著者(漢字) 野田,貴大
著者(英字)
著者(カナ) ノダ,タカヒロ
標題(和) 聴覚野における音脈分凝の神経基盤
標題(洋) Neural basis of auditory stream segregation in auditory cortex
報告番号 128746
報告番号 甲28746
学位授与日 2012.09.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(情報理工学)
学位記番号 博情第403号
研究科 情報理工学系研究科
専攻 知能機械情報学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 講師 高橋,宏知
 東京大学 教授 神崎,亮平
 東京大学 教授 國吉,康夫
 東京大学 教授 満渕,邦彦
 東京大学 准教授 眞渓,歩
内容要旨 要旨を表示する

第一章 序論

研究の背景

ヒトや動物の聴覚系は,カクテルパーティー効果として知られるように,複雑な音響環境から特定の音の知覚的まとまりを抽出できる.この知覚的まとまりは心理物理学的に音脈と呼ばれる.音の時間-周波数情報の変化や時間経過により,音脈が分かれて聴こえる現象を音脈分凝という.周波数の異なるA・B音で構成される交替音系列(ABA-ABA-…;ABA-音系列)は,A・B音間の周波数差(ΔF)や,隣り合う音同士の時間間隔(ITI)により,心理物理的に異なる音脈を誘導する(van Noorden, 1975).ΔFが大きくITIが短いほど,音系列はA-A-A-(A音系列) とB---B---(B音系列)と2つに分かれた音脈として知覚されるが(音脈の分凝),ΔFが小さいほど,ABA-ABA-のように1つの音脈として知覚される(音脈の統合).これまで,ABA-音系列を用いた系列的音脈分凝の神経基盤として,周波数局在反応の空間的解離(Hartmann and Johnson, 1991),前方抑圧(Bee et al., 2004; Fishman et al., 2004; Micheyl et al., 2005),複数秒の順応(Micheyl et al., 2005),といった要因が指摘されてきた.これら3要因は,知覚境界のΔF方向の変化を説明できる.従来研究は,これら3要因を評価する神経活動指標として,単一点計測で一方の音脈(A音系列)の周波数に選択的な神経細胞の,過渡的な応答強度の変化を用いてきた.しかし,このような指標では,A・B音間が時間-周波数的に離れるほど(大きなITI ,ΔF),A・B音に対する各神経応答は分離するため,短いITI,大きいΔFほど分凝するvan Noordenの本来の知覚境界を説明できない.また,そのような過渡的で離散的な応答成分だけが,音脈のような連続的な知覚に関与すると考えるのは不適当である.

近年,視覚野で,同期活動にもとづく神経集団間の相互作用で構成されるセル・アセンブリ(Hebb, 1949)が,視覚オブジェクトの形成に寄与すること(Gray, 1989; Singer, 1995)が指摘されている.また,動物の一次聴覚野でも,発火活動や局所電場電位(Local Field Potentials; LFPs)による同期活動は,単一神経細胞の活動とは異なる様式で,刺激依存的な増減を示す(Ahissar et al., 1992; Eggermont, 2002, 2011).

研究の目的

本研究の目的は,聴覚野の機能構造上で表現される知覚境界の神経相関を見出すことである.特に,LFPにもとづく神経集団間や,マルチユニット活動(Multiunit activities; MUAs)とLFPのような,個々の神経活動と集団の活動の相互作用による音脈の神経表現を精査する.そのために以下の3項目を実施する. I) 実験系の設計・構築 動物モデルを用いた,麻酔下多点同時計測手法・覚醒下計測手法を開発する.II) 音脈知覚の神経表現としての,麻酔下での神経集団間の協調活動による セル・アセンブリ表現を評価する.III) 実際に知覚が生じていると考えられる覚醒下神経活動計測における,神経相関を精査する.

第二章 動物モデルを用いた音脈分凝の神経基盤解明のための実験系の設計と構築

動物モデルを用いた音脈知覚の評価方法の確立

動物モデルとしてラットを用い,ABA-音系列に対する音脈知覚の行動学的評価法として,分凝時の一方の音のリズム(B音系列)だけを報酬と関連付けたGO/NO-GO課題を行った.その結果,GO/NO-GO課題を達成し,探索テストでも,ABA-音系列に対し大きいΔFほどB音系列の検出確率が増大した.すなわち,ヒトの心理物理結果や他の動物の行動実験結果と同様に,ラットでも,ΔFが大きいほどABA-音系列からB-音系列を分凝しやすいことを示した.

麻酔下・覚醒下における多点同時計測手法の開発

微小電極アレイには,2次元状に10×10点配列された,400 μmの電極間隔を持つ剣山状電極(ICS-96)を用いることで,聴覚領域を網羅し,周波数選択性コラムを検出できる分解能を実現した.また,脳表の軟膜を貫通するために製作した専用の刺入装置と,深さ調整のために電極底面に取り付けるスペーサを用いて,所望の深さに電極を刺入した.計測点ごとに特徴周波数(Characteristic Frequency; CF),すなわち最低音圧で発火させられる刺激周波数を推定し,全ての計測点でCFを推定することで周波数局在構造を同定した.

覚醒下において計測部位を固定し安静状態で記録するために,頭部固定用のチャンバーを設計・製作した.計測時には実験台に取り付けられた固定器具にチャンバーを固定する.チャンバーの頭部埋め込み手術後に2,3日の回復期間を置いた後,訓練でラットに固定状態に馴らした.計測時には砂糖水を定期的に供給し,安静状態を維持させた.麻酔下と同様に,CFを推定し,周波数局在構造を同定した.

その結果,麻酔下・覚醒下両方で,各計測点でLFPとMUAから音誘発性の反応を取得できた.それぞれのSN比は,麻酔下でLFP; 3.44±0.37とMUA; 1.24±0.07,覚醒下でLFP; 2.38±0.15,MUA; 1.44±0.07で,いずれも雑音レベルより有意に大きく,またLFPは十分信頼性の高い信号を計測できた.さらに,麻酔下では9個体から計544点,覚醒下では4個体から計278点でそれぞれCFを推定でき,それらすべての個体で周波数局在構造を同定できた.

第三章 神経集団の協調活動による音脈の情報表現

検証すべき仮説

聴覚野は,その機能構造として周波数局在構造をもつ.神経集団間の相互作用により構成されるセル・アセンブリが音脈分凝の神経表現であれば,分凝時では,各音脈の周波数に選択的なコラムが互いに非協調的に活動することで,異なるセル・アセンブリが構成されると考えられる.一方,統合時は,音脈内の各周波数に選択的なコラムが互いに協調的に活動することで,1つのセル・アセンブリが構成されると考えられる.実際のコラム間の相互作用と,各コラムが刺激に対して独立に反応した結果見かけ上両者に相関が生じる場合とを区別するため,刺激に対するコラムごとの時間的な応答特性を評価する必要がある.さらに,音脈のような純音知覚より複雑な知覚情報処理は,皮質-皮質間のフィードバックループの影響も受ける可能性があるため,視床-皮質入力を反映する音刺激直後の誘発成分と,音刺激後の,時間的に遅い誘導成分をそれぞれ区別して,コラム内・コラム間の応答特性を評価する必要がある.

麻酔下の集団応答

音脈を誘発する刺激音系列として,van Noorden の知覚境界に用いられた,異なる周波数のA・B 音で構成されるABA-音系列と,同音系列のA 音だけ,B 音だけでそれぞれ構成されるA 音系列(A-A-), B 音系列(-B--)を採用した.ハイフン(-)は休符を表す.

単一点応答による振幅ピーク値のITI・ΔF依存性は音脈分凝の知覚境界とは相関しなかった.

そこで,ABA-音刺激に対する,周波数選択性コラム間の協調活動の有無を調べるため,誘発反応の空間分布と,振動活動の位相同期の空間パターンの変化を調べた.具体的には,LFPをalpha, beta, gamma 帯域に帯域通過フィルタを通して分割し,帯域ごとに振幅ピークの空間分布と,A1上でA音をCFにもつ点とそれ以外のCFを持つ計測点間の位相同期度(Phase locking value; PLV)の組み合わせから成る空間パターンを求めた.ABA-音系列に対する各空間分布,空間パターンが,統合音脈に相当する条件での神経状態または分凝音脈に相当する条件での神経状態の,いずれに近いかを類似度を用いて評価した.その結果,振幅の空間分布にもとづく類似度は知覚境界と異なったが,gamma 帯域の位相同期パターンが知覚境界と類似した.

覚醒下の集団応答

まず,覚醒下における神経集団の活動と麻酔下の活動との相違を評価した.純音系列(A-A-…)に対する位相同期性では,覚醒下の神経集団間は全体としては麻酔下に比べ脱同期傾向にあった.CFにもとづく同期度の特性を,提示音をCFに持つ神経集団を組み合わせに含むPLVと,含まない組み合わせのPLVをそれぞれ分けて評価したところ,麻酔下では両者に有意差は見られなかったが,覚醒下では後者に比べ前者で有意に高い同期が見られた.このように覚醒下では,刺激音の周波数に選択的な同期的活動が,音の高精度な調整を実現していると考えられる.

次に,ABA-音系列に対し,gamma 帯域の振動の振幅,位相同期,発火-位相結合をそれぞれ,誘発成分・誘導成分で評価した.その結果,誘発成分と異なり,誘導成分では刺激音(A音)の周波数に選択的な神経集団においてだけでなく, B音の周波数に選択的な神経集団において,gamma 帯域の振動,位相同期,発火-位相結合は,短いITI,大きいΔFで増大傾向にあり,とくに刺激音(A音)の周波数に選択的な神経集団では,分凝に相当する条件(短いITI, 大きいΔF)で,統合条件(小さい,ΔF)にくらべ,有意により特定の位相で発火した.このように,分凝に相当する,短いITI・大きいΔF条件で,発火とgamma 振動の位相関係がより高い再現性を示すことで, 離散的な音刺激に対する神経表現を接続する役割を担っている可能性がある.このことが,時間的に連続な知覚形成を可能にし,音脈の形成に寄与していると考えられる.

第四章 考察

知覚境界と類似した挙動を示した,麻酔下の誘発反応における位相同期パターンは,主に視床-皮質入力に由来する音脈の神経表現を反映していると考えられる.一方で,覚醒下の誘導反応における,知覚境界と類似した,gamma 帯域の振動の振幅,位相同期,発火-位相結合の各変化は,主に皮質-皮質間のフィードバック情報にもとづく神経表現であると考えられる.

第五章 結論

麻酔下・覚醒下計測を通して,過渡的な活動の応答強度ではなく, 持続的な振動活動や神経集団間の同期活動で構成されるセル・アセンブリが,心理物理的知覚境界と類似し,音脈表現に寄与することを示した.

審査要旨 要旨を表示する

ヒトや動物の聴覚系は,カクテルパーティ効果として知られるように,複雑な音響環境から特定の音の知覚的なまとまりを抽出できる.本論文では,このような知覚的なまとまりの形成,すなわち,音脈分凝現象に注目し,そのメカニズムを聴覚野の時空間的な神経活動パターンから解明することを目指した.

第一章「序論」では,研究の背景として,聴覚情景分析の分野と音脈分凝の概要を紹介する.これまで得られた心理物理学的知見と生理学的知見を体系的に説明し,現状における音脈の神経表現の問題点を提起する.近年,神経科学分野で指摘されている神経活動の時間パターンや,神経集団間の協調・非協調的活動による感覚情報表現が,音脈の神経表現としても検討するのに妥当であることを,関連文献をもとに主張している.それらに基づき,本研究の目的として,聴覚野の機能構造上で表現される知覚境界の神経相関を見出すことを導出している.

第二章「動物モデルを用いた音脈分凝の神経基盤解明のための実験系の設計と構築」では,動物モデルを用いた音脈分凝の神経基盤を解明するために,まず,行動学的評価と神経活動計測から成る実験系全体を設計し,構築している.行動学的評価では,動物実験により,分凝音脈の検出ができる可能性を示している.また,神経活動計測では,聴覚野の周波数局在構造の面積と空間分解能をみたす微小電極アレイとして,100 点程度の計測点からなる剣山型刺入電極を用いた,麻酔下の多点同時計測手法を設計・開発した.その結果,聴覚野全体から,音誘発性の表面電位,刺入時の皮質深層の局所電場電位・マルチユニット活動を,安定して取得することができ,再現性の高い周波数局在地図を推定できた.さらに,同計測手法を覚醒下でも実現可能にするため,チャンバーの設計・製作と,安静状態で計測するための,実験プロトコルを構築した.麻酔下と同様に,電極刺入時の皮質深層から,音誘発性の神経活動の取得と,周波数局在地図の推定を可能とした.これらの実験系を用いれば,音脈知覚に直接かかわる,聴覚野の神経活動を網羅的に評価できることを示した.

第三章「神経集団の協調活動による音脈の情報表現」では,音脈分凝の神経相関として聴覚野の神経集団間の協調活動が寄与しているという仮説を立て,検証している.前章で構築した多点同時計測手法を用い,系列的音脈分凝を誘発するABA-音系列を提示した際の,ラット聴覚野の神経活動パターンを記録した.麻酔下計測の活動データから,局所電場電位の振動活動による神経集団間の同期性を評価したところ,音脈分凝に相当する条件で,分凝音系列に選択的な神経集団同士の同期が増大する傾向にあった.この傾向は,振動の振幅では陽に観察されず,また,神経細胞間の発火活動の時間相関にも見られなかった.局所的な神経集団の,閾値下の振動現象にもとづく同期活動が,分凝音脈の表現に関わるセル・アセンブリとして構成されていることを示唆する.

第四章「考察」では,これまでの実験結果を総括し,総合的に議論している.構築した実験系に関して,行動学的評価と多点同時計測手法の妥当性・信頼性・有用性を議論し,今後の課題について述べている.次に,実験結果の考察に関して,まず,単一点の神経活動の結果の背後にある神経機序について詳述する.さらに,神経集団の協調活動,特に機能的ネットワークやコミュニティにおける,生理学的な意義を考察し,既存の脳のネットワーク表現との関連性を述べる.また,覚醒下の脱同期活動の神経機序とその役割について議論し,麻酔による,視床-皮質,皮質-皮質回路への影響について詳述する.最後に,音脈分凝がセル・アセンブリとして構成されているとした仮説の妥当性について議論する.

第五章「結論」では,(i) 動物モデルを用いた音脈知覚の評価手法の確立,(ii) 麻酔下・覚醒下における聴覚野の多点同時計測手法の開発,(iii) 機能構造上における神経集団間の相互作用による,音脈分凝の知覚境界に対する表現可能性の評価に関する一連の研究成果で得られた知見をまとめ,結論として知識化している.これらにより,麻酔下・覚醒下を通して,過渡的な活動の応答強度ではなく,持続的な協調活動,または,持続的な誘引性の,振動活動や,神経集団と個々の細胞の相互作用,これらの活動により構成されるセル・アセンブリが,心理物理的知覚境界と類似し,音脈表現に寄与している可能性が高いことを示した.

本研究で注目した神経表現方法は,音脈分凝現象にとどまらず,視覚や体性感覚など感覚野における普遍的な知覚情報処理の一端を解明する手がかりになる.その点で,本研究には,神経科学や認知科学分野において,学際的な学術的な貢献が認められ,今後の発展も期待できる.

よって本論文は博士(情報理工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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