学位論文要旨



No 128757
著者(漢字) 堀田,和義
著者(英字)
著者(カナ) ホッタ,カズヨシ
標題(和) ジャイナ教在家信者の倫理と<布薩> : シュラーヴァカ・アーチャーラ文献を中心として
標題(洋)
報告番号 128757
報告番号 甲28757
学位授与日 2012.10.11
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第895号
研究科 人文社会系
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 丸井,浩
 東京大学 教授 斉藤,明
 東京大学 教授 下田,正弘
 鶴見大学 元教授 矢島,道彦
 大阪大学 教授 榎本,文雄
内容要旨 要旨を表示する

本論文は,ジャイナ教在家信者の倫理と<布薩>を扱った本論(第1部)とSamantabhadra(空衣派,6世紀頃)の著作RatnakaraNDazrAvakAcAra(以下,RKとする)の訳注研究(第2部)という2部から構成される.

そのうちの第1部は,さらに4つの章に分かれている.第1章では,仏教において,在家信者を中心としたものであった布薩が,いつしか在家信者の布薩と出家修行者集団の儀礼としての布薩とに分かれてしまった点に触れ,在家信者と出家修行者をつなぐ宗教行事としての性格を色濃く残しているジャイナ教の<布薩>の研究が重要であることを論じる(1.1).そのうえで,R. C. MitraのThe Decline of Buddhism in India(Visvabharati Studies 20, Calcutta, 1954),P. S. Jainiの"The Disappearance of Buddhism and the survival of Jainism in India"(Collected Papers on Buddhist Studies, Delhi, 2001)などの説を踏まえ,インド仏教の衰退・滅亡とジャイナ教の存続を例としながら,在家信者と出家修行者の関係が宗教の存亡にすら大きな影響を及ぼしかねないという事実を提示する(1.2).そして,インドで存続したジャイナ教が在家信者を教化する際に大きな役割を果たした,一種の教化マニュアルとでも呼ぶことのできる「シュラーヴァカ・アーチャーラ文献」がどのようなものであるのかを解説し(1.3),シュラーヴァカ・アーチャーラ文献を扱った研究の金字塔とも言えるR. WilliamsのJaina Yoga: A Survey of the Mediaeval ZrAvakAcAras(London Oriental Series 14, London, 1963;以下,Williams[1963]とする)の概要を述べ,その問題点を指摘する(1.4).そして,改めて一次文献に当たったうえでWilliams[1963]の見直しを図り,ジャイナ教の<布薩>の内容を解明するという本論文の方法と目的,および対象となるシュラーヴァカ・アーチャーラ文献の範囲を明らかにした後(1.5),論文全体の構成を提示する(1.6).

第2章では,シュラーヴァカ・アーチャーラ文献以前の<布薩>を扱い,河﨑豊『白衣派ジャイナ教聖典に現れる在家信者に関する記述についての基礎的研究』(大阪大学提出課程博士論文)などの優れた先行研究に依拠しながら,白衣派聖典中のアンガ聖典の<布薩>を概観する.最初に,在家信者の12誓戒と11階梯における<布薩>の位置付けを確認し(2.1),その後,アンガ聖典における<布薩>の用例を検討する.そこでは便宜上,posahaとposahovavAsaの用例,posahasAlAとposahiya,posahaniraaの用例といったように,語形や複合語ごとにその用例を検討し(2.2),他にも<布薩>の難易度を示すような用例や<布薩>の違反行為についても検討する(2.3).以上の第2章は,シュラーヴァカ・アーチャーラ文献の<布薩>を知るうえで前提となる知識であると同時に比較の対象となるものでもある.

第3章と第4章は,シュラーヴァカ・アーチャーラ文献における<布薩>を扱い,本論文の中核を成すものである.第3章では,シュラーヴァカ・アーチャーラ文献の<布薩>に関する基本的な情報を扱う.はじめに,シュラーヴァカ・アーチャーラ文献における<布薩>の位置付けを検討するが,まずは第2章と同様,在家信者の12誓戒と11階梯における位置付けを確認する.そこでは,各文献の誓戒に含まれる項目の出入りについても整理,分類する(3.1).そのうえで,<布薩>の原語とその語義,語源解釈を,とりわけ宗派間の同異を念頭に置きつつ検討し,語源解釈を扱う際には,仏教やバラモン教の文献にも言及する(3.2).第4章では,<布薩>の実践に関する規定を具体的に検討していく.ここでは,<布薩>の実践に関する規定を,<布薩>の実践日(4.1),<布薩>の期間(4.2),<布薩>の実践場所(4.3),<布薩>の実践内容(4.4),<布薩>の違反行為(4.5),<布薩>の目的・効能(4.6)という6つの点に分けて扱う.第3章,第4章では,最初に必ずWilliams[1963]の所論を確認し,一次文献に当たったうえで,誤りが見られる場合にはそれを修正する.また,先行研究の出版以降に参照可能となった文献の記述も追加している.そして,たとえWilliams[1963]の所論が正しいことが確認できた場合でも,先行研究で挙げられていない具体的な典拠を挙げるなどして,曖昧な点を排除することに努めている.

第5章は第1部の結論として,第2章から第4章までで明らかになった点を踏まえて,白衣派の<布薩>と空衣派の<布薩>,シュラーヴァカ・アーチャーラ文献以前の<布薩>とシュラーヴァカ・アーチャーラ文献の<布薩>,ジャイナ教の<布薩>と仏教の布薩の対比を念頭に置きつつ,それぞれの共通点,相違点を整理する.そして最後に,近年盛んになっているフィールドワークに基づく研究に依拠して,現代でも実践されているジャイナ教の<布薩>について簡単に触れる.

第2部は,在家信者の行動規範を解説する際によく用いられ,シュラーヴァカ・アーチャーラ文献の中で最も重要なもののひとつと言われるRKの訳注研究から成る.訳注に先立ち,本訳注研究に先行する版本,翻訳の概要や,版本ごとの章立ての違い,RKの詳細なシノプシスを提示し,使用されている韻律などにも言及する.そのうえで,底本となるテキストにその他13種の版本の異読を添え,その日本語訳を作成し,PrabhAcandraの注釈や先行する翻訳の解釈などの情報を含む詳細な注釈を加える.シュラーヴァカ・アーチャーラ文献の日本語による訳注研究は非常に少なく,本訳注研究は,今後の研究の基礎を築くうえでも役立つものと考えられる.また,第1部で扱った<布薩>の誓戒が,実際のシュラーヴァカ・アーチャーラ文献において在家信者の行動規範にどのような形で位置付けられているかを示す具体例としても重要なものである.

審査要旨 要旨を表示する

祭式儀礼を重視したバラモン教とは異なる、沙門(出家修行者)の宗教として紀元前5世紀頃に台頭した仏教とジャイナ教の間には、思想、修道システム、用語などの面で様々な連関性があり、インド宗教史における仏教の位置付けや特異性もジャイナ教との比較分析によって、いっそう明確になる可能性が以前から指摘されていた。しかしジャイナ教研究は原典の解読自体が立ち遅れているため、大きな成果が期待される両宗教の比較研究もあまり進展していない。

こうした状況下で本論文は、バラモン教で祭式主催者の潔斎儀礼だったupavasathaが、両宗教の修道論では「布薩」として受容され展開した点に注目した。仏教の布薩(uposatha)が五戒に衣食住の節制3ヶ条を加えた八斎戒(在家信者の生活規範)全体を指し、かつ出家者の戒律遵守を促進する一儀礼も布薩と呼ばれたのに対して、在家信者の修道体系(シュラーヴァカ・アーチャーラ=SA)の確立に積極的だったジャイナ教では、布薩(初期聖典ではposaha)はもっぱらSAの一部に組み込まれた形で展開した。その事情は夙にR. Williams (1963) が明らかにしたところであるが、ジャイナ教の聖典文献には言及せず、原典の裏付けも必ずしも明確ではなく、またその後新たに出版されたSA文献も少なくない。そこで本論文では、40点以上の空衣派(裸行派)SA文献の精査を中心に、白衣派の初期聖典一部とSA文献15点をも含めた関係資料の分析を通じて、Williams (1963) の徹底的な洗い直しを図った。序論と結論を含む全5章の第1部本論と、空衣派SA文献の代表作『ラトナカランダ・シュラーヴァカ・アーチャーラ』 (RK)の訳注研究である第2部とから成る。

SA文献の分析に先だって第2章では、Williamsが扱わなかった白衣派のアンガ聖典を用いて、布薩はジャイナ教の初期聖典の段階でも、断食をともなう何らかの在家信者の誓戒(仏教の戒律に相当)であった可能性を文献実証的に示した。また在家のまま出家者の厳格な修行に倣い解脱達成を目指した実践形態としての布薩の内容説明を整理している。

第3-4章では、第2章の成果を踏まえつつ、総計60点近くに及ぶ空衣派SA文献と白衣派SA文献の該当資料を分析して、ジャイナ教在家信者の生活規範における布薩の位置付けを解明した。その上で、布薩に関する諸規定を実践日、期間、場所、実践内容、違反行為、目的・効能の6項目に分類し、空衣派と白衣派の記述内容の異同を各資料間の微細な相違に至るまで克明に分析した。この作業を通じて堀田氏は、Williamsが両派の布薩の諸項目に関して概説している説明が、どの程度、実際の資料に即した正確な記述かを逐一検証し、多くの点で重要な補足と訂正を行うことに成功している。

本論文はWilliams (1963) の徹底的な洗い直しを軸とし、膨大な関連資料の分析と論旨明快な論述を通じて、ジャイナ教の布薩に関する総合的な研究として着実な成果を上げ、13版本の異読情報を網羅したRKの本邦初の全訳とともに、ジャイナ教において在家信者が占める位置付けを、仏教と比較考察しつつ明らかにするための重要な基礎を確立した。仏教の「布薩」概念との比較検討が乏しい点などは惜しまれるが、上述した本研究の画期的な意義を決して損なうものではない。審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するにふさわしい業績であると判断する。

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