学位論文要旨



No 128763
著者(漢字) 城川,祐香
著者(英字)
著者(カナ) シロカワ,ユカ
標題(和) 珪藻Cyclotella meneghinianaにおける表現型可塑性への影響要因
標題(洋) Influential factors in phenotypic plasticity in the diatom, Cyclotella meneghiniana
報告番号 128763
報告番号 甲28763
学位授与日 2012.10.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5884号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 嶋田,正和
 東京大学 教授 伊藤,元己
 東京大学 教授 寺島,一郎
 東京大学 准教授 野崎,久義
 東京大学 准教授 若本,祐一
内容要旨 要旨を表示する

第1章 総合序論

同じ遺伝子型の個体が、環境条件によって表現型を変化させることを表現型可塑性といい、その適応意義の解明は20世紀半ばのSchmalhausenやWoddington以来、進化生態学の中心課題の一つである。環境に応じた表現型多様性の創出は、新規形質の適応進化を促進すると考えられ(Kirshner and Cehart 2005)、多細胞生物だけでなく、例えば枯草菌による栄養枯渇下での胞子形成など、クローナルな単細胞生物にも表現型可塑性が存在する。さらに同じ環境変動パターンに対してでも、個体間での応答は異なりうる。本研究では、個体が示す応答への影響要因のうち、適応の観点で重要なものを(i)遺伝的な違い、(ii)発生ステージの違い、(iii)社会的相互作用、(iv)個体レベルの確率性の4つに分類して研究した。

本研究では、これらの影響要因を実験で明らかにするために中心珪藻Cyclotella meneghinianaを用いた。本種を含む珪藻はほとんどの生活史をクローン増殖し、わずかな期間のみ有性生殖をおこなう条件的有性生殖(facultative sexual cycle)をもつ真核単細胞生物である。珪藻の新しい殻は細胞内側に形成されるため、親殻よりもわずかに小さくなる。数年間の分裂を繰り返して細胞サイズが閾値まで縮小した個体(性成熟に相当)のみが、有性生殖の環境合図への感受性を持ち、性分化することが知られている。1つの栄養細胞は有性生殖を開始すると1つの卵か4個の精子のどちらかに分化する。

本種を含むタラシオシラ目は、淡水域から汽水域まで幅広い環境に出現する汎存種であり、海水と淡水の間の移入を伴う種分化を数回にわたり起こしたことが系統樹上で示唆されている(Alverson et al.2007)。また海水濃度変化は、有性生殖や殻形態の表現型可塑性の環境合図であることが知られており、海水濃度変化は本種にとって進化生態学的重要性が高いと考えられる。本研究では、本種の生活史をとおして、海水濃度に対しての応答を変化させる影響要因の解明を研究目的とした。第2、3章ではクローン増殖期の殻形態の表現型可塑性を、第4、5、6章では有性生殖期の表現型可塑性を扱う。

第2章 殻形成過程における表現型可塑性と遺伝x環境交互作用

珪藻は綱胞形態形成時の環境を反映した殻を作り、殻は一度形成されると変形することはなく、作られた殻の一部を常に持ち続けることから、殻形成過程での環境応答が適応に与える影響が大きいと考えられる。クローン増殖期の個体の、海水濃度上昇による表現型可塑性と遺伝的な違いによる反応基準の変化を調べた。淡水池と感潮河川から確立したクローン株を用いて株ごとに海水濃度変化に対する応答を比較した。海水下では中心有基突起(キチン質粘液糸の放出器官〕は全ての株で増加する応答が見られた。その他の器官(条線[栄養やガス交換の孔列]、中心域[シリカ薄板状構造]、直径)は株によって異なる応答が観察された。計測した殻形質全てで有意な遺伝x環境交互作用が検出された。反応基準の遺伝的変異は選択されうることが知られており、Cyclotella属での各形質の種間での多様性をもたらした原動力として、海水による表現型可塑性が重要な役割を果たしているかもしれない。

第3章 細胞形態形質の世代間移行様式と表現型可塑性

殻器官の形質値のばらつきや環境への応答様式は個体の適応という観点で重要であると考えられる。機能が推定されている2形質{中心有基突起[キチン質の粘液糸を放出、集塊形成に寄与]、条線[栄養、ガス交換の孔列])について、クローン内での1細胞レベルでの殻器官の形質値のばらつきと世代間での形質の移行様式を調べた。マイクロウェルプレートに1綱胞を単離し1回だけ網胞分裂させ、親由来の殻と娘由来の殻を蛍光試薬で識別して形質値を比較した。その結果、有基突起と条線はともに親殻の形質値に影響されずに娘殻の形質値が決定されていることが明らかになった。海水濃度変化に対して、条線は変化しないが、有基突起は海水に移した次分裂から突起数を増加する表現型可塑性がみられた。同時に作られる2枚の娘殻の形質値のばらつき(発生の安定性)を比較したところ、有基突起数はランダム分布の予測と比べて有意な違いを持っていないが、条線は2枚の娘殻の形質では有意に近い形質値をとっていることがわかった。よって両形質の海水への応答の違いをもたらす要因の一つとして、発生過程の安定性の違いが示唆された。親世代に影響されない環境への迅速な応答は、感潮河川など頻繁な海水濃度変化環境への適応を可能にするかもしれない。

第4章 クローン細胞集団内での表現型可塑性による性比調節

性比調節は最も成功した進化ゲーム理論の適用例である。単細胞生物の個体の性比調節戦略を理解するためには、1細胞レベルでの計測が不可欠である。これまで微小な単細胞生物を1細胞ごとに追跡することは技術的にこれまで困難であったが、本研究では、マイクロフアプリケーション{微細加工技術〕によリカバースライド上に約100μm四方のマイクロ流路を作成し、各チャンバーごとに細胞を開じ込めて海水を還流することにより、顕微鏡下での有性生殖誘発とその1綱胞観察に成功した。各細胞のどのような違いが、クローン細胞集団内での表現型可塑性による性比調節戦略{卵細胞になるか、精細胞になるか、分化しないか)を決めるかしらべることを目的とした。分化過程の一部始終を観察できたことにより、クローン細胞であっても以下の3つの要因(細胞サイズ、細胞系譜、細胞密度)により母細胞は娘細胞での性配分を行っていることが明らかになった。

(a)細胞サイズによる性比調節:細胞サイズが大きいと卵に、小さいと精子になりやすいことがわかった。卵になった細胞のサイズと次世代の栄養細胞のサイズには正の相関があることが知られている(Davidovich 1994)。よって大きい細胞を卵に配分することでより大きな次世代をつくることができるという性比配分戦略上のメリットがあると考えられる。

(b)細胞密度による性比調節:周囲の細胞密度が高いと卵に、低いと精子に分化しやすいことがわかった。低密度下で、遊走可能で数が多い雄性配偶子に資源を多く配分することで、受精成功を確保しうることは単細胞のマラリア原虫の理論および実証研究(West et al 2002)でも報告されている。珪藻を含めた単細胞生物で密度による性比調節は普遍的にみられる現象である可能性がある。

(c)細胞系譜による姉妹細胞の性分化の類似性:各母綱胞から分裂して生じた娘細胞は同じ性に分化する傾向があり、多細胞生物で報告されてきたsplit sex ratio(卵を多く産する親と精子を多く産する親に分かれる)にあたる現象が単細胞生物でもみられることがわかった。細胞分裂により2つに分かれた姉妹綱胞の生理状態の類似がメカニズムとして考えられる。

第5章社会的相互作用による性分化の誘導

集団中の成熟個体の状態により、未熟個体の成熟時期が影響される現象は多くの生物で知られている。海水下で細胞サイズが十分に縮小した性成熟個体とサイズが大きな未成熟個体を混合したところ、成熟個体と混合すると卵に分化することが明らかになった。本種の有性生殖/無性生殖の切り替えには、以前から知られていた環境合図(海水の導入)に加えて、周囲の個体との相互作用が重要となることが示唆された。ポアサイズ0.4μmの膜で両者を隔てたところ、未熟個体の卵への分化は起こらなかったことから、細胞間相互作用による有性生殖誘発は、直接接触できるときのみ起こることが示唆された。予備的な実験から、細胞間相互作用による有性生殖誘発は、遺伝的に近い関係の混合(クローン内で有性生殖でできたF1)に対しては起こるが、遺伝的に遠い関係どうしの混合(異なる産地から確立したクローン2株)では起こらなかった。成熟個体集団は雄偏りの性比になりがちであることが知られており、未熟個体と相互作用して有性生殖を誘発することにより血縁集団の雌不足を解消できるかもしれない。

第6章 性分化タイミングと集国内での同調

性分化タイミングの同調は、体外受精の生物では特に重要となると考えられる。マイクロチャンバーを用いて、海水による有性生殖誘発時から、各細胞の性分化までの時間を計測した。クローン細胞集団内で以下の3つの要因(性、細胞分裂時間、細胞密度)により性分化タイミングが影響されることが明らかになった。性により性分化時間は有意に異なり、精子よりも卵は約15時間遅く分化した。これは他の分類群で観察されているよりも特に長い時間差であった。また、細胞分裂時間が早いと性分化時間も早くなり、細胞密度が高くなると分化時間が有意に早くなる傾向があった。さらに各マイクロチャンバー中で最初に分化した細胞(バイオニア細胞)の分化時間が早くなると、所属する集団の平均分化時間も早くなる傾向が見られた。これらの結果から、細胞の分化時間は周囲細胞の数や分化に影響されうることが示唆された。集団中の細胞分化時間の異質性は、所属する集団の分化時間の決定に重要であると考えられる。

第7章 総合考察

本研究では、中心珪藻C.meneghinianaの海水への応答を用いて、個体の応答への影響要因を検証した。これまでこれらの影響要因は異なる分野で研究されてきたが、本研究では同じ環境変動(海水の導入)に対して表現型可塑性の応答の違いという共通の切り口で、これらの要因を横断的に検証した。

細胞形態での表現型可塑性は、本種の幅広い塩濃度適応に寄与していると考えられる。第2章は、遺伝x環境交互作用を検出した珪藻での初の事例となる。第3章での親の形質に依存しない娘細胞での応答は、感潮河川など短時間で頻繁に変化する塩濃度変化への適応に寄与する応答様式であると考えられる。また本種は、海水濃度変化に応答するだけでなく、生活史の切り替えに「利用」する。第4章は、単細胞生物の個体の表現型可塑性による性比調節戦略を示した初の事例である。性成熟個体中では、たとえ性比調節を行ったとしても全体的に雄偏りの性比であったが、実効性比は集団構造によっては、調節されることが示唆された。第5章では、性成熟個体による、近い関係にある未熟個体の雌への分化誘発を示した。また成熟個体〔大半が雄になる}の密度が高くなると、未熟個体の有性生殖誘発の割合も高くなった。第6章で検証した性分化の同調は、一度に有性生殖個体の密度を高め、血縁個体の有性生殖を効率よく誘発するのに寄与すると推測できる。

海水濃度変化という環境変動に対して、珪藻はそれぞれの状況に応じて異なる応答をとっており、そのいくつかは適応度を高めるうえで重要な戦略であると考えられる。包括的に「応答」に注目し、様々な生物システムで比較を行い共通性と多様性を見いだすことは、表現型可塑性の一般則を導きだすために重要となるであろう。

Figure1.表現型可塑性への影響要因。本研究では同じ環境変動パターン(淡水→海水)に対して応答の違いをもたらす4つの要因f~IV}を調べた。線の傾き(A,B)は各個体の応答(反応基準:遺伝型x環境交互作用の関数)を表す。

Figure 2.中心珪藻Cyclotella meneghinianaの生活史。海水濃度変化に対して異なる表現型可塑性の応答をもたらす要因(i~iv)を各章(§)で調べた。

審査要旨 要旨を表示する

同じ遺伝子型の個体が、環境条件によって表現型を変化させることを表現型可塑性といい、その適応意義の解明は進化生態学の中心課題の一つである。同じ環境変動パターンに対してでも、個体間での応答(反応基準)は異なることがある。本研究は、単細胞生物の中心珪藻Cyclotella meneghinianaの海水濃度変化への応答について、最近発展したマイクロファブリケーションを利用した1細胞培養計測系などを用いて、1細胞レベルでの応答を解析したものである。

本論文は7章からなる。第1章は序論であり、個体が示す応答への影響要因のうち、適応の観点で重要なものを(i)遺伝的な違い、(ii)発生ステージの違い、(iii)社会的相互作用、(iv)個体レベルの確率性 の4つに分類して研究する方針が述べられている。珪藻は一般に、数年間の無性的分裂を繰り返して、細胞サイズが閾値まで縮小した個体(性成熟に相当)のみが、有性生殖の環境合図への感受性を持ち、卵もしくは精子に性分化することが説明されている。

第2章では、淡水池や汽水河川などで採集した細胞から確立したクローン株を用いて、海水濃度変化への殻形質の応答を比較した。淡水培地でクローン増殖期の個体に培地の海水濃度を上昇させたところ、中心有基突起数は全ての株で増加し、直径や条線などは株によって応答が異なった。ここから、細胞の応答をクローン内変異とクローン間変異に分け、全ての殻形質で統計的に有意な遺伝×環境交互作用、すなわち反応基準を検出した。反応基準には遺伝的変異があり、淡水から汽水域まで生息するCyclotella属での種間の多様性の進化の原動力となっていることが示唆された。

第3章は、殻形態の世代間移行様式を分析している。殻形態の中心有基突起と条線について、1つの細胞を単独培養し、クローン内での細胞レベルでの殻形質値のばらつきと世代間での形質の移行様式、発生過程の安定性を調べた。その結果、条線は世代間で変化しないが、中心有基突起数は海水濃度を変えた次世代から数を増やす表現型可塑性を示した。この両形質の違いは、発生過程の安定性の違いによると示唆され、1細胞レベルでの変化を把握できたのは成果である。

第4章は、クローン細胞集団内での表現型可塑性による性比調節を解析している。性比調節は最も成功した進化ゲーム理論の適用例であるが、単細胞生物の性比調節戦略を理解するためには、1細胞レベルでの計測が不可欠である。本研究では、微細加工技術によりカバースライド上に約100μm四方のマイクロ流路を作成し、各チャンバーごとに細胞を閉じ込めて、ステージを自動的に周回移動させることで、顕微鏡下での挙動を自動撮影できる系を構築した。その結果、卵と精子の性分化には、細胞サイズと細胞密度による細胞レベルでの性比調節が発見された。さらに細胞系譜による姉妹細胞の卵・精子の性分化類似性がみられ、多細胞生物で報告されてきたsplit sex ratio (卵を多く産する親と精子を多く産する親に分かれる)に相当する現象が単細胞生物でもみられることが発見できたのは、この分野で世界初の成果である。

第5章では、細胞の個体間相互作用による性分化の誘導を調べている。海水下で細胞サイズが十分に縮小した性成熟個体と大きな未熟な栄養細胞を混合したところ、大きな未熟個体が卵に分化する現象が発見できた。本種の有性生殖誘発には、既知の物理化学的な環境合図に加えて、細胞間相互作用の重要性が示唆された。成熟個体集団は雄偏りであることが知られているが、未熟な栄養細胞が周囲に存在する空間構造により、卵への誘導を介して雄偏りが緩和される可能性が考えられる。この現象は従来には報告されていなかったことであり、世界初の成果である。また、第6章では性分化タイミングと集団内での同調を解析し、クローン細胞集団内で3つの要因(性、細胞分裂時間、細胞密度)により、性分化タイミングが影響されることが明らかになった。

第7章は総合考察で、海水濃度変化という環境変動に対して、珪藻C. meneghinianaはそれぞれの状況に応じて異なる応答をとっており、表現型可塑性は適応度を高めるうえで重要な戦略であることが考察されている。

なお、第2章は狩野賢司・真山茂樹、第4章は嶋田正和と、また第3章、第5章、第6章は嶋田正和・若本祐一との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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