学位論文要旨



No 128765
著者(漢字) 栗田,岳
著者(英字)
著者(カナ) クリタ,ガク
標題(和) 「事実」と「非事実」を共に構成する言語形式について : 古代日本語における
標題(洋)
報告番号 128765
報告番号 甲28765
学位授与日 2012.10.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1174号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 野村,剛史
 東京大学 教授 大堀,壽夫
 東京大学 教授 品田,悦一
 関西学院大学 教授 大鹿,薫久
 東京外国語大学 准教授 川村,大
内容要旨 要旨を表示する

本論文では、古代日本語において「事実」(=「言語主体によって事実であることが知られている事態」)と「非事実」(=「言語主体によって事実であるとは知られていない事態」及び「言語主体によって事実でないことが知られている事態」)の双方を構成する言語形式について考えた。とりわけ、既説には「事実」と「非事実」を共に構成する形式であるという観点がなく(或いは希薄で)、それゆえ、その形式への理解が行き届かなかったようなケースを対象とした。そうしたケースには次の二通りが認められる。

【A】 「事実」と「非事実」の双方を言語化する形式と認識されてはいたものの、より顕著な性格を示す例の方に注目が集まりすぎて「例外的な」例の扱いが不十分であったケース。

【B】 「事実」と「非事実」の双方を言語化する形式とは認識されていなかったケース。より具体的には、その文に構成されるのが「事実」であったのに、「非事実」として解釈してきたもの。

まず、上記Aに関わるのが本論文の第1章と第2章である。

第1章 文中にモコソ、または、モゾという係助詞の連接を持ち、動詞の基本形(助動詞等を下接させない単独の動詞)で終止する文(「モコソ基本形」「モゾ基本形」と称する)を論じた。既説はこれらを「将来への危惧」の表現と考えてきた。即ち、「非事実」が構成される文ということである。しかしながら、実例の中には「事実」を構成する文も見られる。ゆえに「将来への危惧」という概念は、モコソ基本形・モゾ基本形を説きうる概念ではないことを指摘し、それに代わる規定を示した。まず、モコソ基本形において、その言語主体は、モコソ基本形に言語化される事態への配慮が必要であると考えて、現時点でそれがなされていないことを非難する。モコソ基本形は、そのような言語主体の判断が示される文である。対するモゾ基本形の言語主体は、モゾ基本形に言語化される事態への配慮が必要であると考え、今後それがなされることを求める。かかる言語主体の判断を表す文が、モゾ基本形なのである。

第2章 「過去の助動詞」キの諸活用形のうち、子音がサ行となる未然形セ、連体形シ、已然形シカ(「サ行系」と称する)を扱った。サ行系は「過去の助動詞」の一角を成す。ということは、基本的には「事実」を構成する形式である。しかし、実例には「未来」の事態、つまりは「非事実」を構成するものがある。これは、元来、サ行系が助動詞キとは別語であり、「過去」乃至「完了」といった通行のテンス・アスペクト的意味を表す形式ではなかったことの現れである旨を論じた。具体的には、サ行系とは、現在、言語主体が直面しているリアルな事態と同質であるかぎりにおいて、今ここにはない非リアルな事態を構成するような形式であり、その「非リアル」とは「過去」 / 「未来」の別を問わない。ゆえに、サ行系は「過去」の事態(=「事実」)だけではなくて、「未来」の事態(=「非事実」)をも言語化しえたのである。

一方、先掲【B】に関わるのが本論文の第3章と第4章である。

第3章 助動詞ム・ラム・ケム(「ム系」と称する)を論じた。ム系は、一般に「推量」(乃至「意志」)の形式とされ、即ち、そこに構成される事態は「非事実」ということになる。しかし、ム系の実例の中には、「推量」「意志」とは解釈しにくい例がある。とりわけ、ラムを持つ和歌の中には、眼前の景など「事実」を詠むものが見られ(「らむ留歌」と称する)、それについて様々な言及がなされてきた。また、ム系+ヨで閉じる文(「ムヨ・ラムヨ・ケムヨの文」と称する)にも、らむ留歌同様、「事実」を述べる例が見出される。こうした「事実」が構成される例の言語主体は、その「事実」が本来そう在るはずの姿とは齟齬するものであると考えている。そして、そのような「事実」を簡単には受容できず、一度、自身の内部で思い描く。こうした言語主体の営為に対応してム系が用いられているのである。こういった振る舞いを示すム系とは、本来「設想」(=「事態の現実世界における存在を思い描く」作用)の形式であると考えられる。

第4章 通常の「ずは」と異なり、「否定を含んだ仮定条件」と解釈しにくい「特殊語法ずは」を論じた。これまで、多くの既説がこれらの「特殊語法ずは」からも「否定」の意を読み取り、そこに言語化される事態が「非事実」であると考えてきた。その結果、「特殊語法ずは」への規定には、釈然としないところが残り続けることとなった。第4章は、「特殊語法ずは」が言語化するのは「事実」であると見、一般に「否定辞」とされているズによって「事実」が構成されるに至る理路を提示した。具体的には、そもそも「否定」という概念に「不望」(=事態を望ましからぬものとする判断)と連続する性格が認められ、それゆえ「否定辞」も「不望」の表現へと転じるだけの素地を持っている。そして「否定文」を構成する必要のない環境において、実際に「否定」を離れて、もっぱら「不望」を意味することがある。「特殊語法ずは」もその一例なのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、現在においても論議の絶えない古代日本語の幾つかの重要な文法形式について、「「事実」と「非事実」を共に構成する」という観点から考察した意欲的な研究であり、「序」「おわりに」を含んで6章から構成されている。本論文が主として考察対象とするのは、1章~4章として示される四種類の形式である。

第1章は、「モゾ~基本形述語、モコソ~基本形述語」という中古の係り結び形式を取り扱っている。「基本形」とは、助詞・助動詞を下接させない単独の動詞のことである。これら「モゾ・モコソ~」形式は、例えば「人もこそ聞け」が「他人の耳に入るといけない」のように「将来への危惧」を表すと認められることが多いが、著者は、「モゾ・モコソ~」形式は「将来」という時間性と関わるものではなく、例えば「モゾ・モコソ~」で表される何らかの事態への配慮が必要と判断しているだけであると規定する。それ故「モゾ・モコソ~」形式は、事態が現に存在している場合にも、将来において存在しうる場合にも使用される、と結論する。

第2章は、キと活用系列を構成して過去を表すとされる「シ、セ、シカ」というサ行系の助動詞を考察している。著者は、例えば古事記歌謡の「浮き志脂」の「浮きし」が過去の状態を表すものではなく現在の状態を表すことから、サ行系の助動詞の意味は、時間的過去を表すものではなく、「言語主体が直面している今のリアルな事態」と同質の事態を構成すると規定する。そこで「シ、セ、シカ」という形式は過去の事態(事実)も未来の事態(非事実)も言語化し得た、と著者は指摘している。

第3章は、かねてから議論の多いいわゆる「らむ留歌」を扱っている。ラムばかりではなくム、ケムなどは、古来「設想」(「想定」、「推量」)などを表すものとされてきた。そのことを著者は肯うが、その「非事実」を表すと考えられる形式をもって、場合によっては「事実」事態をも表すことがあると主張している。ただしラム留歌の場合は、事実を言語主体が「簡単には受け入れがたいもの」と感じ、それを改めて「設想」の形式で表現しているケースとする。この解釈により、かねてから議論の多い「久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」歌なども、目前光景でありながらラムという設想形式が現れると、著者は主張するのである。

第4章は、古代語の文法で最も解釈・解決困難と大方に認められている上代特殊語法としての「ズハ」形式、すなわち「かくばかり恋ひつつあらずは高山の岩根し枕きて死なましものを」などのズハを取り扱っている。著者はズハについて、事実事態を言語主体が「簡単には受け入れがたい、望ましからざるもの(不望)」と感受し、そのような不望事態をそのまま言語化しやすい仮定条件節内で、単なる否定辞から「不望」形式の表現へと転換されたものと、主張している。

以上の四章は、それぞれ別々にレフェリー付きの学界誌に採用された論文をもとに構成されている。その点、水準の高い議論として評価されるが、本来著者は、「「事実」と「非事実」を共に構成する言語形式」とまとまるような形で研究を進めていたわけではない。古代語の時制やモダリティ研究の問題点を追究する中で、「事実」と「非事実」という広義モダリティに関わって、古代語研究の問題点が集中的に認められると結論づけたのである。その経緯が「序」で述べられている。また「おわりに」に臨んで、本論で検討してきた課題が「「事実」と「非事実」を共に構成する言語形式」であったことから、これまでの研究における問題点として、「古代日本語に見出されてきた「時間的意味」の再検討」が浮かび上がると指摘し、今後の課題も広義モダリティという観点から見定められた。

「「事実」と「非事実」を共に構成する言語形式」という観点から、古代日本語の広義モダリティを考察してゆこうとする本論文の観点は、極めて問題的かつ刺激的である。

「モゾ・モコソ~」形式が、事態が現に存在している場合にも、将来において存在しうる場合にも使用されるという第1章の結論は、おおむね妥当なものと思われる。一方、第2章の「サ行系助動詞」や第3章のラムの意味解釈、第4章のズハの働きなどについての議論は、未だ他の解釈すなわち通行の解釈を排除して、より高度な地点から自己の妥当性を主張しうるほどの説得力を備えているとは言いにくいところがある。しかし、通行の解釈に匹敵する或いはそれ以上の、一貫した整合的な解釈を示し得ていると述べることが可能である。困難な課題について、「「事実」と「非事実」を共に構成する言語形式」という地点にまで考察を進め得た思考力は、高く評価するに値するであろう。今後の課題の考察にも期待が持たれる。

したがって、本審査委員会は本論文を博士(学術)の学位を授与するのにふさわしいものと認定する。

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