学位論文要旨



No 128770
著者(漢字) 佐藤,健太郎
著者(英字)
著者(カナ) サトウ,ケンタロウ
標題(和) 近代日本における「平等」と政治 : 税制改正と地域
標題(洋)
報告番号 128770
報告番号 甲28770
学位授与日 2012.11.15
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第267号
研究科 法学政治学研究科
専攻 総合法政
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 苅部,直
 東京大学 准教授 五百旗頭,薫
 東京大学 教授 谷口,将紀
 東京大学 教授 石川,健治
 東京大学 教授 高見澤,磨
内容要旨 要旨を表示する

本稿は、正義観念に基礎を持つ「平等」の問題を、近代日本政治史の視角から分析したものである。本稿の課題は、戦前における政党政治の時代を中心に、個人、制度、地域のそれぞれのレベルに現れる「平等」の問題を、その理念と政治過程に着目しながら論じることにある。

第一章「神戸正雄と河上肇―自由と平等、国家と個人の思想空間―」では、明治末から大正中期までを対象とし、のちの税制改正案で大きな役割を果たす神戸[かんべ]正雄の思想形成過程を、河上肇を軸とするほかの思想家と、社会政策、社会主義に着目しながら論じた。

第1節では、神戸正雄を河上肇との対比で捉える視角を示し、租税学者神戸正雄の初期の歩みを素描した。それは、道義性を重視し、社会主義への親和性を持つ、国家を結節点とする折衷(調和)主義の色彩を有するものであった。

第2節では、ベルゲマン、山路愛山、北一輝らと共鳴し、河上肇に集約される各思想を分析しながら、河上の『貧乏物語』を中心に論じた。そこに見られるのは、民衆の「輿論」に支えられる公共的存在としての天皇像であり、自由を尊重し強制を排する河上の姿であり、日本人の高い精神性による「分化的進化」に可能性を見出すメッセージであった。

第3節では、まず社会政策学会における神戸正雄の位置づけを論じた。神戸の社会政策への関わり方も折衷主義的なものであった。本節では次に、小川郷太郎と田中穂積を中心に、社会政策的税制論をめぐる論理の展開を分析した。そして神戸正雄は、租税における社会政策の適用を、副次的目的として認めながらも、給付能力説に基づいた説明を行っていた。これは、社会主義との関係を不問に付すための一つの方策であった。

第4節では、第一次大戦前後の神戸の評論をいくつか取り上げ、その禁欲資本主義的経済政策論と、平等それ自体の価値に立脚した社会評論の展開を見た。そして神戸が、各種の政治的"場"に参加し、現実の政治過程のなかで活動していく様を描いた。これが神戸に自信を与えるものであったとすれば、萎縮という形で転機を与えたのが森戸事件であった。これらの経過を経て、神戸は臨時財政経済調査会へと参加していくことになる。

第二章「税制改正案をめぐる思想と政策―財産税と地租委譲―」では、大正中期に問題となった、臨時財政経済調査会での税制改正案(財産税と地租委譲)の問題を検討した。

第1節では、財調で税制整理案が審議される以前の政治過程を論じた。とくに高橋是清が、地方の平等な教育費の支出を画一主義として批判し、身の丈にあった教育費の支出を念頭に、委譲論の抱負を持つにいたった経緯を実証した。また、教育費削減の問題が原敬にも認識されており、その対応が図られたこと、その中で税制改正論が主張されていた状況を、国民党の主張に着目しながら描いた。

第2節では、神戸正雄の財産税論主張の経緯と論理を分析した。それは給付能力に基づく、禁欲的資本主義の発想に基づいたものであった。また本節では次に、原内閣における審議の展開を、省レベル、政党レベルに着目しながら論じた。税制整理の方向性は、政府が諮問した際の枠組みによって規定されており、それゆえ大蔵省が財産税の実現を目指しながら、委譲案には消極的であったことを明らかにした。また政党レベルでは、政友会内で議論が分かれていたこと、国民党が徹底的な財産税案の実現を主張していたこと、憲政会浜口雄幸が緩和的な財産税を容認する姿勢を見せていたことを明らかにした。また、小委員会側と浜口の間では妥協の可能性があったが、給付能力に応じた国民の負担を求める神戸の姿勢がそれを阻んでいたこと、そして中産階級の負担を認める神戸の姿勢が、反対派に有力な論拠を与えていたことを明らかにした。

第3節では、高橋内閣において、財調の審議が終息していく様を描いた。本節ではまず、高橋内閣が委譲案に取り組む意思を垣間見せていたことを確認した。次に臨時教育行政調査会において、原首相が進めようとしていた教育費減額路線を引き継いだ高橋が、調査会の審議をうまくリードできず、財調との連携もなされない中で、義務教育費増額路線へと流されていく様を描いた。また、財調の審議の展開を分析し、委譲案と財産税案の優先順位に関して、小委員会側の態度が一致しないなかで、高橋内閣が根本的税制改正論から個別的税制改正へとシフトチェンジしていく過程を明らかにした。加藤友三郎内閣での、財調案の結末は、これらの過程の結果として現れたものであった。

第三章「政党政治と地域の平等― 画一性と特殊性―」では、政党政治のなかで展開された、地域の「平等」に関する諸課題を分析した。時期的には、昭和初期の田中内閣をひとつの中心として分析した。この時期において、「画一主義」批判は行政や租税における批判となって現れた。

第1節で取り上げたのは、知事公選問題であった。田中内閣期に焦点が当てられる公選問題であるが、その沿革は大正期からの野党による公選論であり、それは野党の立場から唱えられる性質のものであった。そして公選を実行する際に、既存の府県を超える国政機関が必要になるということも、この時期から認識されていたことであった。

いくつかの例外を除き、公選論は野党のものとしてあった。政友会が知事公選を掲げたのは、野党時代に起きた長野事件の「時勢」を捉えてのものであった。しかし野党政友会の主張は、そのすぐ後に成立した田中内閣の下で、与党の公選論としての意味を持つようになる。政友会政権は公選論に消極的な姿勢をとるし、政友会内で公選論を唱えた者たちも、公選論の理念に基づいた有効な対応策を打ち出せなかった。

第2節では、地租委譲論の展開を分析した。まず、46議会における政友会の地租委譲案採用の経緯を、第二章での知見と合わせて分析し、農村救済の財源付与として期待されるようになった委譲案が、府県「内」の公平に加えて、府県「間」の公平をも担保するものとして現れたことを論じた。

次に、この地租委譲案が、新聞論調や政界で一定の期待を持って受けとめられていたこと、そして菅原通敬の反対論が、「国体」論的委譲反対論の形を取りながらも、その視点が、財源という手段の問題ではなく、制度それ自体の「正しさ」を問うものであったことを述べた。

そして、田中内閣における委譲論の展開を簡潔に分析し、それが選挙において有効な政策とはなっていなかったことを明らかにした。

最後に分析したのは、56議会における委譲論の結末であった。床次竹二郎との提携を目指す中で、田中内閣は、委譲案の「好意的審議未了」を目指す。田中内閣は、委譲案で貴族院と全面対決し、敗北に終わったのではない。それは、床次との提携を契機に、貴族院との関係強化を目指すものだったからである。そして政友会が委譲論を事実上放棄したのは、政府が金解禁を決断したからではなく、政友会と床次の間に、暗黙の政策協定が結ばれたからであった。

第3節は、政党政治のなかで実現が図られた地域の問題を、本稿全体の関心である租税の「平等」に留意しながら、「画一」と「特殊」の視角から論じた。まず、雪害運動を展開する松岡俊三の政治的経歴を、それが後に重要な政治的資源となることに触れながら論じた。次に、雪害運動の特徴と性格を分析し、租税の「平等」を援用した画一主義打破としての地域平等論であること、運動には、超党派的志向と、党派性の両面が見られること、そして地域性の観点では、日本海側の東北振興論であること、北陸では超党派的な雪害の認識があり、松岡がそれに方向性を与えたことを論じた。また、松岡が地元有力者の支持を集め、雪害運動を天皇の意向と位置づけ、宮中や貴族院議員に働きかけていた姿を描いた。

そして分析の対象は沖縄へと移った。これは、沖縄における行財政制度の展開を、二つの「画一」主義から論じるものであった。沖縄はその特殊性を理由に、行政面では特別制度が敷かれており、沖縄側はその撤廃による「画一制」の実現を目指していた。それは政友会の党勢拡張策と結びつき、実現するに至る。しかし「ソテツ地獄」下の沖縄救済論では、税財政における「画一」主義が批判され、その特殊性に応じた対策が主張されるようになる。この二つの「画一」は沖縄の「ジレンマ」であり、それゆえ沖縄側は、内地と同等の行政制度の下で、植民地を参考にした特殊な税財政制度を主張することになる。

本節は最後に、地租法改正法案の展開を論述した。これは、全国一律の税率で地租を徴収することへの批判、すなわち画一的税制の問題であった。同案は、やがて東北、沖縄、北陸が共同して主張するものになる。そして中間内閣斎藤實内閣の性格上、それは衆議院を通過し、貴族院で審議未了となるのが常態となっていく。同案は、貴族院ではもっぱら東北の問題として扱われ、沖縄と北陸は、その後同案の主張から離脱することになる。また、沖縄の「特殊」性の主張や、松岡による画一主義批判は、地方の特殊事情を理由に、特殊な対応を求める論理として広がり、地方財政調整制度に接近していったことを指摘した。

そして今後の課題を示した上で論をしめくくった。

審査要旨 要旨を表示する

本稿が研究対象とするのは、主に第一次世界大戦後から1920年代にかけて、日本で本格的な政党政治の展開が見られた時代における、思想(理念)と政治過程との相互作用である。筆者によればこの時期には、言論の自由化と政党の活性化とを背景にして、「平等」の理念に基づく政治主張が活発に行なわれ、それを議会と内閣のもとに集約しながら実現する回路が機能していた。そうした「平等」をめぐる思想空間が、税制、地方自治、地域特有の課題解決に関する政策の形成をどのように支えていたか。本稿はその過程を、知識人の議論と政党政治の構造との両面から検証している。「はじめに」「おわりに」と全3章とによって構成された、約32万字(四百字づめ用紙に換算して八百枚)に及ぶ論文である。

第一章「神戸正雄と河上肇」では、のちに税制改正案の形成に大きな役割を果たすことになる財政学者・租税学者、神戸正雄の思想形成過程に即して、「平等」に関する構想が現実の政策論へとつながるようすを、知識人個人について明らかにしている。その出発点をなすのは、日露戦争直後の時期における思想空間である。そこでは、河上肇、山路愛山、北一輝といった論者たちによって、国内に生じた経済格差の是正と、そのための国家の役割とが盛んに論じられていた。

そのなかでも神戸に大きな影響を与えたのは、ほぼ同年代の経済学者であり、京都帝国大学の同僚でもあった河上肇である。著書『貧乏物語』で河上が示したのは、個人の道徳的な向上による社会の調和であり、民衆の「輿論」に支えられる存在としての天皇像であり、自由を尊重し強制を排する態度であった。神戸はそうした問題関心の多くを河上と共有し、社会主義にも一定の共感を示す。しかし、あくまでも現在の「私有的経済組織」の維持を前提にして社会の調和を実現する、折衷の態度を選んでいた。

同時期の社会政策をめぐる論争においても、神戸はそうした折衷主義をとる。累進税制度に基づいた社会政策的税制論を展開した小川郷太郎と、国際経済競争のために中産階級を保護すべきであり、経済への国家の介入は小さい方がいいと説く田中穂積との間の立場を神戸はとる。神戸は給付能力に基づいた租税制度を通じて、財政収入と社会政策の両者の観点を統合した税制を確立しようとする。そして給付能力は享楽費の大小によって示されるとし、一般支出税を導入すれば奢侈品の需要を減らし、生活必需品の増産と価格低下を導けると説いた。

こうした主張の背景には、豊かな「上流人士」こそが禁欲的な態度で生産活動に励み、「公共」のために財産上の犠牲を払うべきだとする神戸の思想がある。第一次世界大戦期から日本では社会問題を論じる雑誌が多く創刊され、神戸もそうしたメディアで健筆をふるい、「平等観」に基づいた社会改造をさまざまに唱えることになる。その主張は独自の普通選挙制度の導入や、朝鮮人・台湾人への選挙権付与にまで及び、政府の調査会や民間経済団体にも積極的に関わり始めるが、森戸事件をきっかけにして、神戸はみずからの実践活動を政府の臨時財政経済調査会(略称「財調」。1919年、原敬内閣により設置)における論戦に限定するようになってゆく。

第二章「税制改正案をめぐる思想と政策」は、臨時財政経済調査会において審議の焦点となった税制改正案、すなわち財産税の導入と地租の地方財源(府県もしくは市町村)への委譲をめぐる政治過程を検討する。もともと財調の設置を要求した野党国民党の意図は、営業税を軽減し地租を増徴することで、みずからの政治基盤である都市中下層民の「公平」要求に応えようとするものであったが、政友会の内部でも原敬と高橋是清が教育費の削減を目的として、しだいに地租移譲論に近づいてゆく。とくに高橋が、明治以後の「中央集権」と「画一主義」を排し、地方独自の財源と責任によって地域の教育を行なわせようと考えていたことに筆者は注目する。

財調の審議においては、大戦景気による「成金」の跋扈が「平等観」を傷つけていると説く神戸正雄が、財産税の創設を強く支持した。さらに政友会内の高橋是清蔵相を中心とするグループが、地租・営業税の地方移譲を課題に加え、神戸もまたそれに同調したことで、両税の移譲と財産税創設の両者を含む税制整理案が、財調内の小委員会案として固まってゆく。これに対し、憲政会から委員として加わった濱口雄幸は、両税移譲案には反対しつつ財産税の創設は支持する態度をとったが、社会政策の観点を二の次とする神戸との間の溝が埋まらない。他方、国民党はより徹底した財産税の実現を求め、経済界からは反対の声が止まらず、税制改正をめぐる議論は停滞に陥った。

続く高橋是清内閣のもとでは、高橋首相が府県に教育費の財源を与えるため地租移譲にとりくむ姿勢をとったが、臨時教育行政調査会において江木千之らが主張した教育費増額論と衝突し、接点を見いだせなくなる。また財調のなかでも移譲案と財産税案との優先順位について意見の一致が生まれず、濱口もまた財産税の否定に転じた。その結果、高橋は根本的な税制改正を断念し、続く加藤友三郎内閣のもとで、財調の税制改正案は政府の参考案という位置づけにとどめられたのである。

第三章「政党政治と地域の平等」は、政党政治のなかで展開された、地域の「平等」に関する諸課題を分析する。田中義一内閣期を中心とする時期において、行政や租税における「画一主義」批判が政党政治の焦点になったのである。

すでに原内閣の時代から、野党の国民党・憲政会が「画一的の制度」を批判し府県知事の公選制を主張していたが、政友会もまた、若槻内閣の野党であった時代、1926年の長野事件をきっかけにして同様の主張を唱えるようになる。しかし、田中内閣のもとで再び与党に転じると、地方官更迭の権限を握った以上、公選論をとるメリットがなくなり、知事公選による地方分権の推進は実行されずに終わってしまった。

また地租移譲論は、加藤友三郎内閣の時代から政友会の看板政策としていったん確立することになる。それは地方自治を重視する高橋の路線よりも、農村救済のために地方財源を確保しようとする路線が主になって進められ、都市型府県に対して農村型府県を重視することで、府県の間の公平を実現しようとするものであった。これは新聞論壇や政界からは一定の期待をもってうけとめられたが、田中内閣の時期には、反対派である新党倶楽部の床次竹二郎を入閣させ、貴族院との関係強化を図ることが優先され、移譲案は事実上放棄される結果となった。

さらにこの時代、争点になったのは、地域の事情に即した政策をとることで、画一主義を批判し、実質上の平等を確立しようとする運動である。山形県出身の政友会の政治家である松岡俊三は、雪害に苦しむ東北地方や北陸地方には特殊な配慮がなされるべきだとし、全国一律の租税制度と義務教育費の分配方法とを批判して、雪害地が「落伍者」となるのを防ぐための救済措置を求め、政党政治家だけでなく宮中や貴族院議員にまで働きかけていた。

他方、沖縄県においては、政友会の党勢拡張政策の結果、旧慣温存の方針をとりやめ、ほかの地域と同様の府県制・町村制と自治制度を布くことが、原内閣期に定められた。しかしそれ以後は、慢性的な困窮という「特殊の事情」に対する救済策を、沖縄出身の国会議員が要求するようになってゆく。そこでは、植民地行政を参考にして、砂糖消費税の軽減・地元還元など、特殊な税制の導入が唱えられた。

松岡俊三もまた、齋藤實内閣の時代には、運動の重点を地租法の改正に置くようになる。それは東北・北陸・沖縄の連携のもとに、地租の税率をこれらの地域に関しては低くするよう求めるものであった。齋藤内閣は政友会・民政党の協調の上に成り立つ挙国一致内閣だったため、改正案は政争の具とならず、何度も衆議院を通過するが、政党側にはその実行の責任を負おうとする姿勢がなかったので、いつも貴族院で審議未了に終わってしまう。しかも貴族院ではもっぱら東北の問題として扱われたため、沖縄と北陸が運動から離脱した。しかし、地域固有の問題への特殊な対応を求める松岡らの論理は、政党各派による地方財政調整制度論に合流する形で、存続していったのである。

以上が、本論文の要旨である。本論文の長所としては、特に次の三点を挙げることができる。

第一に、1920年代には租税・地方自治・地方振興策といった各種の問題に共通して、「平等」の理念を追求する政策主張が展開され、政治を動かしていた力学を詳細に分析することを通じて、政策理念の政治史と言えるような、新たな分析枠組を提示することに成功した。これは、戦前日本の政党政治を理解するための重要な視角として、今後、学界に共有されることになるだろう。

第二に、神戸正雄の思想を詳しく分析し、濱口雄幸などほかの論者と対比することを通じて、非政友会系の政党政治家が抱いていた政策志向を、明確に描きあげている。政友会の財政拡大路線に対し、節約と平等を唱える非政友会系の志向について、理論の言葉を与えたのが神戸の主張だとも解することができ、この時代に関する理解が一段と深められた。

第三に、政策の形成過程と立法化の過程を表面的に追うだけでなく、政党・官僚・財界の思惑が交錯するなか、それぞれの主体がいかなる選択を行ったのかを、ダイナミックに叙述している。これは筆者の政治史研究者としてのすぐれた力量を存分に示すものである。

もっとも、本論文にも短所がないわけではない。

第一に、第一章・第二章については、租税制度における「平等」をめぐる政治過程という形で一貫性が見られるが、第三章においては議論が拡散している印象を受ける。この点を整理し、それぞれの政策課題どうしの関連を、もっと明らかにする工夫が望まれる。

第二に、高橋是清のような、明治初期以来の思想をひきずった世代の論者と、神戸正雄や河上肇のような新しい世代との違いに、より注目して分析すれば、本論文が対象とする時代の特色を、もっと鮮明に描きえたであろう。

しかし以上は望蜀の嘆というべきものであり、本論文の価値を大きく損なうものではない。

以上から、本論文は、その筆者が自立した研究者としての高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

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