学位論文要旨



No 128775
著者(漢字) 渡邊,英理
著者(英字)
著者(カナ) ワタナベ,エリ
標題(和) 路地と文学 : 中上健次の文学における遍在化する路地、および歴史のなかで蠢く者たちをめぐる文化研究
標題(洋)
報告番号 128775
報告番号 甲28775
学位授与日 2012.11.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1175号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小森,陽一
 東京大学 教授 石田,英敬
 東京大学 教授 山田,広昭
 東京経済大学 教授 本橋,哲也
 琉球大学 教授 新城,郁夫
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、中上健次の文学テクストに生成された路地という時空を表象として分析対象とするとともに、路地を鍵概念として捉え、それを通じて、高度経済成長期以降の現代文学・文化の有り様を再構成し、描出することを目指したものである。

表象における路地は、現実の時空との対応関係において、高度経済成長期以降の現代文学・文化の有り様を総体として捉え直す視点を設定する。当該時期の文学・文化は、これまで、高度経済成長から消費社会への転調(移行)の物語で象られ、「農村」から、消費文化の都市を背景とする「郊外」への置換(開発)において都市論的に展開されてきたと言える。路地とは、中上の故郷、紀州・熊野の新宮にある被差別部落に触発され、仮構された時空だが、それは、定住農耕民の「常民」からなる「農村」とも、「戦後」の「中流」核家族からなる「郊外」とも異なり、両極の亀裂、両極からこぼれおちる人々を含意する時空として設定される。本論文は、「農村」と「郊外」、両者の亀裂、あるいは、両者のそれぞれに亀裂を与える路地という時空から、高度経済成長期以降の現代文学・文化を考察し、再構成することを試みた。

一方、鍵概念として見た場合、中上文学の路地とは、現場性の時空、非―場所として「発明」されている。路地は、まず、現実のある場所を「描写」した実体論的な場所ではなく、言葉によって仮構され、再構成された虚構の時空である。とはいえ、路地は、非歴史的で、形而上学的、抽象的な概念ではなく、古代以来の長い天皇のことの葉の記憶とともにありながら、固有の場所――他の何物にも取り替えられない私的な記憶が込められた場所、唯一無二の時空に棹さしている。そのうえで、路上であり、中世には「公界」でもあった路地は、普遍性が施され、さまざまな差別・被差別の構造、社会の縁を蠢く者たちの生死が託された装置となっている。こうした路地の理論的な射程に基づき、本論文では、路地を、路地的なる場所へ、そこに蠢く人々へと開き、それら遍在化する路地をめぐる諸テクストを対象に、考察を行った。

以上のような路地の表象/鍵概念から、本論では、高度経済成長期以降の文学・文化に潜在するポストコロニアルな地脈を浮かび上がらせた。とりわけ、本論文では、ノンフィクション作家、芸能ジャーナリスト、ポストコロニアルや対抗運動の知的・運動的実践者、「移民作家」や「女性作家」など、これまで中上との間テクスト性を十分に考慮されてこなかった諸言説との関係性を重視し、言説の布置の再構成を試みるが、その結果として示されるのは、古代以来天皇ともにある日本語のことの葉の記憶の総体に対する複数的な挑戦と、日本の「戦後」に「アジア」や「第三世界」を導入する「世界文学」の中の日本語文学の系譜である。

◆第一部、「激情」から「路地」へ

暴力という主題を分析の視座に据え、表象としての路地を発見し、鍵概念としての路地を「発明」していく中上文学の過程を追究した。

中上文学に刻印されている、禍々しい暴力は、日本の私小説的伝統の中で「無頼」や「文士」がふるう暴力の系譜としてしばしば捉えられてきた。しかしながら、これらの暴力は、路地における「内向する暴力」として解され、路地と不可分な関連の中で再考される必要がある。

本論では、非在の「テロル」を孕む中上の二編の小説―中上の初期小説『十九歳の地図』と、中期の短編連作集『熊野集』の中の一編「石橋」の二編に着目し、この二つの小説間から、暴力を媒介に路地が「発明」されゆくプロセスを導き出した。

中上文学の暴力は、非主体性において兆すが、その非主体は、都市の前衛に対する後衛を含意し、同時代のノンフィクション作家・松下竜一のテクストで問題化された、学生と労働者の紐帯と断絶の喩、あるいは、その両者の亀裂としてある非組織労働者(ルンペンプロレタリアート)の喩として意味づけられる。そこに兆した暴力が、ファノン、ブラック・パンサーらの「暴力の哲学」と結びつき、路地に置換される中で、路地は「発明」されていく。すなわち、中上における路地は、当初より「ポストコロニアル」な問題系で浮上し、やがて遍在化する資本の支配に対する民衆自治的な「コミュニティの防衛」の線において深化される。こうした過程で、テクストから「直接暴力」が後景化する一方、中上は、ファノンの精神分析を、言説の闘争として継承し「対抗暴力」として継続する。記号としての「南国紀州イメージ」や、路地や紀州・熊野を脱歴史化/脱政治化する主流言説に対する、その闘争を、中上は、謡曲、複式夢幻能という世阿弥の芸能の地平を借りて遂行しながら、同時に、その性の政治と不可分な芸能の地平を超越すべく世阿弥への挑戦を企てている。中上が示す、世阿弥の芸能の戦略は、天皇家・摂関家の性政治の盗用を通じて、天皇を頂点とする階層/階級上昇を目指す「模倣」の戦略である。中上は、その世阿弥の戦略の線にそって、天皇家・摂関家の性治を盗用しながら、さらに、被差別民の一家の性の物語の中で、天皇を頂点とする階層秩序そのものを「転倒」させることに成功した。

また、第一部では、「暴力」が派生する諸問題を、中上および他の作家のテクストに追跡し、同時代の「暴力の哲学」を重層的に再構成した。たとえば、言説の闘争が派生する表象やまなざし、文字の「暴力」を、中上の『熊野集』の「鴉」「熊の背中に乗って」に、また、前衛の主体の暴力に対する批判的視座を、村上春樹の『1973年のピンボール』に、奄美「二世」で「中産階級」の「主婦」である「女」という立場性から「暴力」や主体の転化をはかる「ポストコロニアル」な展開を、干刈あがたの『樹下の家族』に、それぞれ見出し、考察を加えた。

◆第二部、「路地」解体の経験

路地をめぐる小説言語が孕む、「歴史認識」の問題を考察した。ここで着目されるのは、本論が主たる分析対象とする『熊野集』の言説上の系譜学的位置である。路地解体の時期、『今昔物語集』に触発されて編まれた短篇連作集『熊野集』は、漢籍の分類法である経史子集に由来する「集」の一字に明らかなように、中国漢字文化圏における「正史」に対する「稗史小説」の系譜にある。その意味で『熊野集』とは、『古事記』『日本書紀』などの天皇の一家の歴史と、『大鏡』など藤原摂関家の歴史、二つの「正史」に挑む『今昔物語』と同位の「稗史小説」に他ならない。その『熊野集』の中で、第二部では、紀州熊野の三重県尾呂志にある金堀部落を舞台とした「葺き籠り」、路地とは異なる平安朝の時空で、歴史上長らく路地的世界を生きてきた女の声や記憶をすくいとる「偸盗の桜」「鬼の話」を分析対象とした。この三編は、いずれも資本、流通、性愛や結婚など、交通と交換の主題で通底し、支配・被支配/差別・被差別の起源や再編を、天皇家と藤原摂関家の性の政治、グローバル化する資本の包摂など、交通と交換の歴史的段階に求め位置づけるが、同時に、交通と交換に必須の媒介・媒体こそを基点とし、構造や秩序の転換、抵抗的な転倒が計られ、「正史」の脱臼が果たされている。

また、これら中上のテクストを、戦後沖縄文学の作家・崎山多美のテクストと対照した。中上の紀州熊野の路地に対し、崎山は、沖縄のシマジマ(islands)や、街の中のシマ(hood)、とりわけ、沖縄中部にある基地の街コザ(現沖縄市)を繰り返し描いている。一九七〇年代末から八十年代にかけて路地=被差別部落を解体させた、資本による支配の再編は、一九七二年に「日本復帰」がなされた沖縄では、九五年以降にさらなる本格化をみるが、この支配の再編に呼応する崎山の小説「くりかえしがえし」「孤島夢ドチュイムニ」「見えないマチからションカネーが」を分析対象とした。

紀州熊野と沖縄のシマ、時差を孕んで、二つの路地から紡がれるテクストからは、日本語文学の書き換え、支配者の言葉を再領有するプロジェクトが示されるが、本論文で示される中上の挑戦が、古代以来のすべての天皇のことの葉の記憶に向けられるのに対して、本論文が分析対象とする崎山のテクストは、近代以降の日本語文学への挑戦を中心化する。たとえば、崎山の『くりかえしがえし』は、交通・交換のモチーフ、「内」「外」の移動、起源の神話/物語の再演・書き換えといった運動性において、中上の「葺き籠り」と通底するが、中上がその書き換えを『古事記』の神武東征の物語に及ぼすのに対して、崎山のテクストは、男たちによって語られてきた恋愛を女が語る物語へと転じ、谷崎潤一郎や夏目漱石など、近代日本語文学の正典の書き換えへと及ぶ。また、崎山は、近代以降のヤマト(「本土」)/ウチナー(沖縄)のヘゲモニーのみならず、それ以前の「沖縄」内部の支配・被支配の関係と、それが纏うジェンダーの問題をも提起している。たとえば、小説『くりかえしがえし』には、琉球王朝で男が唄った琉球古典民謡を、女が唄う怨み節へと転じる運動性が孕まれるが、その変奏は、支配者の文化=「歴史」からそれに取込まれる以前の声=「記憶」を聞き取り、回復させる行為だと言える。

◆第三部、「空き地」をめぐる想像力

「地図」の主題を、「空き地」という場所に着目しながら、分析を行った。古来より、地図は侵略や支配に不可分な道具としてあり続けて来た。王権や天皇のことの葉で書かれた地図や神話・歴史、「新大陸」に上陸した植民者たちが描く地図や冒険物語。現代のgoogle MapやGPS、監視衛星、無人偵察機によって描かれる地図や情報化され計算され尽くされた物語。支配者の言葉による物語や歴史もまた、侵略し支配した土地をめぐって文字で書かれた地図としてあり、それらを通して、文化的に支配は浸透された。

このような支配的かつ支配の地図に抗して、小説の言葉は、物語内容に、別様の地図を描く行為を孕み、また、物語行為として別様の地図を描き出しもする。また、「空き地」とは、路地的なる場所であり、支配の及ばない場所、支配と抗するための根拠地、私有地や不動産化・商品化された土地とは異なる公界、広場、路上など、対抗的なスペースの喩として、「地図」のモチーフと密接に結びつく。

このように、「地図」のモチーフを、「空き地」というスペースに着目しながら、初期小説『一番はじめの出来事』と中期の短編連作集『熊野集』の中の一篇「海神」、二つの中上のテクストで考察した。『一番はじめの出来事』では、少年期の兄の死という出来事、『熊野集』の「海神」では、路地の解体と、かけがえのないものの喪失をめぐって紡がれたこの二編は、いずれも「空き地」を孕んでいる。『一番はじめの出来事』では、子どもから大人への境目にある「僕」にとっての、「海神」では、資本の支配が及ぶ路地の者にとっての、避難所として、また対抗的なスペースとして、「空き地」はあり、そこから描き出される支配的かつ支配の地図とは異なる別様の地図が模索される。

また、これら中上のテクストと対照されるのが、干刈あがたの二つの小説、『予習時間』と『ホーム・パーティー』である。中上と干刈の「暴力」をめぐる思索の同時代性については、すでに第一部で論じたが、被差別部落と奄美、それぞれから移動のルートを有する両者の「重なりあう経験」は、「地図」と「空き地」のモチーフの相関性・対照性で確認できる。

『一番はじめの出来事』が、子どもから大人への境目にある少年の物語だとすれば、『予習時間』は、子どもから大人への境目にある少女の物語である。和歌山県新宮市と東京の西武新宿線沿線の井荻付近と、その舞台と、視点人物の男女のジェンダーを違えながら、いずれの小説でも、大人社会から逃れる避難所として「空き地」はあり、また、二つの小説は、戦争・戦後からの離脱や忘却という転換期、時代の境目を時空とする点でも共通している。さらに『予習時間』では、戦争・戦後の記憶の忘却は「空き地」の喪失という出来事に比喩化されており、「空き地」が戦争・戦後の記憶の風化へ抗う根拠としてある点も『一番はじめの出来事』と通底する。

一方、干刈の『ホーム・パーティー』は、路地の再開発と同じ頃の西新宿の再開発を、ある一家の物語を通じて描いている。グローバルな資本の投下によって改変される土地を私的な地図で描きなおす運動性が家族のメンバーに分担・継承され、小説言語は、グローバルな支配の再編とそれと拮抗しうる地図の描き方を提示する。また、『ホーム・パーティー』における郊外と都市の再開発の並行性・相関性の提示は、中上が「海神」(『熊野集』)において鋭く提起した、無(地)から有(図)を生み出す金融資本や土建業などにあらわとなる資本の運動性の本質とあいまって、路地解体(開発)のジェントリフィケーション(高級化)という文脈と、「私有」の論理の及ばない「公界」としての「路地」とを浮き彫りにするのだった。

◆第四部、芸能の語りと甦り

中上の芸能論、および芸能をめぐる諸テクストを再考した。中上にとっての芸能とは、「声」が紡ぐ「歌」として、古代以来の天皇のことの葉の記憶のすべてを、また、明治以降の日本近代文学の総体を、批判的に再構成するための「語り物文芸」として、まずあると言える。また、理論的には、書かれた文字(歴史)に、書かれぬ声(記憶)を纏わせる、抑圧にも抵抗にも両義的に働く物語の可能性を開く契機として、見出されていたとも言える。だが、小説『枯木灘』における「江州音頭」/「兄妹心中」などの盆踊り歌、中上の都はるみ論などの考察が導き出すのは、芸能が媒介する移動の主題である。すなわち、芸能は、路地という時空を、移動という主題から編み直させる。考察によって、路地という時空を、土着の伝統化された定住の空間としてではなく、移動の軌跡において再文脈化を施した。

さらに、芸能を用いて中上が描く「出稼ぎ労働者」/移住者たちの軌跡は、第一部で提出した都市の後衛や地方の問題の展開として捉えられる。都市の前衛から零れ落ちる後衛・非主体の「暴力」から「路地」の「発見」へと至る過程を、第一部で指摘したが、そうしたプロセスはまた、ジャズから歌謡曲へ、音から「歌」への展開によって随伴され、重層化されていたと言える。「路地」に先駆け見出された「暴力」=都市の前衛の音が鋭く響いて現れた路地とは、「もう一人の母」=「斜め線の引かれた母性」が歌う「歌」、移動者たちによる遍在化された声による歌を聴く場所へと再想像/創造されたのだった。

審査要旨 要旨を表示する

渡邊英理氏の博士(学術)の学位請求論文「路地と文学──中上健次の文学における遍在化する路地、および歴史の中で蠢く者たちをめぐる文化研究」は、中上健次の文学テクストが、「路地」という時空をどのように表象したのかについての分析を軸としながら、同時代の他の作家の小説を比較対照することによって、高度経済成長期以降の日本の文学と文化の在り方を明らかにしている。

「路地」は一方で、中上の故郷和歌山県新宮の、被差別部落の記憶が込められた固有の時空であり、他方で日本と世界で生起する出来事を歴史的に捉え返す時空としても機能しているという認識が本論文の前提となっている。

この理論的前提をふまえながら、本論文では、「暴力」「歴史」「地図」「芸能」という四つの主題を設定し、それぞれの主題との関連で、同時代の他の作家の小説との動的なかかわりの中で、中上の小説表現を分析している。

第一部「「激情」から「路地」へ」では、「路地」がそれとの関係で描き出される「権力」という構造的暴力の問題を抽出し、フランツ・ファノンの「暴力の哲学」を参照項としながら、中上健次の『十九歳の地図』から『熊野集』の「石橋」などの小説テクストを分析している。同時に村上春樹『一九七三年のピンボール』と、干刈あがた『樹下の家族』を、対抗的暴力という観点から関連づけてとらえ直し、中上の小説の主題が文化闘争へと移行していく過程を跡づけている。

第二部「「路地」解体の経験」では、歴史認識の問題に焦点があてられている。中上の短編集『熊野集』を、『今昔物語』との関連において位置づけ、『古事記』や『日本書紀』といった「正史」に対抗する「稗史」の試みとして捉え直している。古代から現代にいたる支配と被支配、差別と被差別の系譜が辿られていきながら、戦後沖縄文学の崎山多美の小説と対照されることによって、規範的な支配する側の文学に、対抗する周縁の文学の可能性が明らかにされていく。

崎山の小説において表現される、もっとも周縁の世界を生きる女たちの声の分析をとおして、支配的な力関係を転倒する文学の可能性が見出されている。

第三部「空き地と地図の想像力」では、侵略や支配の道具としての地図の表象の分析を中心にしながら、中上の小説内部における空間的表象の独自性を、「空き地」の中でとらえ直している。「空き地」は、支配の及ばない場所であり、支配と対抗する根拠ともなり、権力に対峙することのできる空間の喩であることが証明されていく。

中上の「地図」と「空き地」との共振性において、干刈あがたの『予習時間』と『ホームパーティ』が位置づけられ、大人の社会から逃れる避難所としての「空き地」が抽出されている。

第四部「芸能の語りと甦り」においては、中上健次の芸能についてのテクストが分析されている。「語り物文芸」としてある古代以来の「歌」を中心とした声の芸能の系譜についての中上の関心を跡づけながら、都はるみ論に集中的にあらわれる「移動」の主題を前景化し、非定住の文化の歴史的軌跡が記述されている。また芸能に従事する人々が、古くから被差別の扱いを受けてきた、日本の天皇制の固有の差別観にも言及しながら、「路地」から生まれ、そこに根づくのではなく「移動」しつづける芸能の声と言葉について論じられていた。

渡邊英理氏の当該論文は、中上健次『熊野集』を中心とする諸テクストを読み直しながら、言葉を文字と音声の両面から捉え直し、「路地」から生まれ、同時にその「路地」自体を創り出していく文学的想像力の在り方を明確にしている。とりわけ「路地」を消滅させ開発の対象とした、日本における新自由主義的なグローバル資本主義の暴力と、いかに抵抗し対抗していくかという問題意識を読み取りつづけようとした点において、中上健次論としても、その読解と分析は高い水準を示している。

また、村上春樹、干刈あがた、崎山多美など、同時代を生きた作家の小説テクストと、中上のそれとを比較対照して分析することによって、あらゆるモノとコトを、商品化し物象化していくグローバル資本主義の在り方を正確にとらえた一連の文学表現と表現者たちの系譜がこの論文によって明らかにされており、現代日本文学研究としてもきわめて重要な成果をあげている。

しかし、こうした一連の作家たちの小説表現が、必ずしも「路地」という概念が内包している関連性や類比性に収まり切らない側面があり、そのためにそれぞれの部における、中上健次の小説の分析よりも、他の作家の、小説に対する分析の方が説得力を持ってしまっているという批判も、審査の中では出された。また相互の比較における強引さについての指摘もなされた。また天皇をめぐる、熊野と沖縄という地理的関係、演歌と芸能をめぐる文化的関係、ジェンダーとセクシュアリティの倒錯性の問題などについては、折口信夫の「国文学研究」をより精緻にふまえるべきであるという指摘もなされた。

しかし、こうした諸点があるにもかかわらず当該論文は、中上健次とその同時代を共にした村上春樹、干刈あがた、崎山多美の小説表現のそれぞれの達成を明確にし、都はるみも含めた、声と文字による言語表現者たちの協働的表現の文学的達成の成果を十分に明らかにしたことを評価する。

したがって本論文審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものとして認定する。

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