学位論文要旨



No 128780
著者(漢字) 林,潤一郎
著者(英字)
著者(カナ) ハヤシ,ジュンイチロウ
標題(和) 精神的不健康に至る先延ばしの認知行動モデルの構築と検証 : 先延ばし前後の認知プロセスに着目して
標題(洋)
報告番号 128780
報告番号 甲28780
学位授与日 2012.12.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第202号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 下山,晴彦
 東京大学 准教授 高橋,美保
 東京大学 講師 石丸,径一郎
 東京大学 教授 南風原,朝和
 東京大学 准教授 遠藤,利彦
内容要旨 要旨を表示する

先延ばしは多くの学生にみられる一般的な行動である。しかしながら,慢性化するにつれて学業生活の遂行に支障をきたすだけでなく,心身の不健康にもつながる自己破壊的で不適応的な行動になるという問題点が指摘されている。その一方で,先延ばしが適応的であるという指摘もあり,現時点では先延ばしの実態が充分に明らかとされていない。およそ半数の学生が自らの先延ばしに問題を感じているという報告を鑑みると,先延ばしがいかなる場合に精神的不健康を強める影響を有するかについての示唆を得ることは,先延ばしによる不適応的な影響を予防および低減させるために重要な課題と考えられた。

そこで,本論文では,先延ばしがどのように行われることによって精神的不健康を強めるのかに関する示唆を得ることを目的として,先延ばし前後の認知に着目し,先延ばしがどのような認知によって生じるのか,また,先延ばしをしたあとにどのような認知が生じることによって精神的不健康を強めるのかに関するモデル化を行い,検証を実施した。こうした目的に準拠して,本論文は7つの研究を実施しており,その成果を5部構成の全10章でまとめたものである。以下に,部ごとの内容を示す。

第1部では,第1章と第2章を通して,研究の展望を示した。第1章では,先行研究を整理し,本論文の目的に至るまでの過程を説明した。先行研究を概観した結果,先延ばしの影響を検討する際に整理すべき要因として次の3点が示された。第一に,先延ばし概念の混乱とそれに伴う測定尺度の非一貫性であった。第二に,本邦では,学業領域に限定されない一般的な先延ばしを測定でき,充分な妥当性と信頼性の支持された尺度が準備されていないという問題点であった。第三に,これまでの研究では,先延ばしと精神的不健康との直接的な関連性に基づく検討が重視されてきた点であった。そのため,認知などの媒介要因についての検討が充分になされておらず,どのようなプロセスを経て先延ばしが行われるのか(先延ばしに先行する認知プロセス),また,どのようなプロセスを経て先延ばしが行われた後に精神的不健康に至るのか(先延ばしに後続する認知プロセス)について,充分な検討が行われていないという限界があった。そこで,こうした3つの要因に関する著者の立場及び見解を示した上で,取り組むべき課題を整理した。その結果,本論文では,まず先延ばし尺度を準備し,その上で,その尺度を用いて先延ばし前後の認知プロセスを明らかにすることが重要であると考えられた。そこで,以下に示す7つの研究を実施する必要性について言及した。第2章では,本研究の目的と依拠する方法論を説明し,本論文の全体構成を示した(なお,7つの研究の全体構成を俯瞰できる図をFigure 1に示した。この図は,各研究で扱う主な変数および変数間の関連性を記すとともに,"精神的不健康に至る先延ばしの認知行動モデル"の全体像を示すものである)。

第2部では,研究1と研究2を実施し,先延ばし尺度の作成過程を示した。研究1では,先行研究から選定されたGeneral procrastination scaleの日本語版(以下,GPS日本語版)の作成過程を示し,その尺度の妥当性と信頼性を検証した。また,研究2では,GPS日本語版の更なる妥当性の検証を行った。その結果,13項目1因子で構成されるGPS日本語版が完成した。これにより,本邦においても信頼性と妥当性が支持された尺度を用いて,学業領域に限定されない一般的な先延ばしの程度を測定することが可能となった。

第3部では,研究3を実施し,先延ばしに先行する認知プロセスのモデル化を試みた。研究3では,なぜ先延ばしが元来の意図に反する形で行われるのかについての示唆を得るために,完全主義に着目し,先延ばしに先行する認知プロセスをモデル化し,検証を行った。その結果,完全主義の多次元認知が相互に関連する形で先延ばしに複雑な影響を及ぼしていることが示唆された。要因間の関連性および先延ばしへの影響をモデル化した結果から,先延ばし前の認知プロセスについて次の示唆が得られた。まず,完全でありたいという完全欲求を出発点として,先延ばしに至る思考には主に以下に示す3つのプロセスが想定され,それぞれが先延ばしに対して正負の異なる影響性を有する可能性が示唆された。第一に,完全でありたいという完全欲求が直接的に先延ばしを抑制するプロセスであった。第二に,完全欲求が高目標設定や行動疑念や失敗過敏を経ることで先延ばしを促進するプロセスであった。第三に,完全欲求が高目標設定および失敗過敏を経ることで先延ばしを抑制するプロセスであった。こうしたプロセスが想定されたため,同程度の完全主義者であっても,どのような認知プロセスが経験されるかによって,結果として先延ばしが促進される場合もあれば,抑制される場合もあることが示唆された。こうした知見は,完全主義者がどのような認知プロセスを経ることで,先延ばしが抑制もしくは促進されるのかに関する予測が可能となるだけでなく,元来の意図に反して行われる先延ばしの典型例を示した点で意義があると考えられた。

第4部では,研究4,研究5,研究6,研究7を実施し,先延ばしに後続する認知プロセスのモデル化を試みた。その際,主に自動思考に着目し,どのような認知が先延ばし後に経験されることより,精神的不健康が強まるのかを検討した。研究4では,精神的不健康の指標として抑うつを用い,先延ばしと抑うつとの関連にみられる自動思考の影響を検証した。その結果,先延ばしが抑うつに及ぼす影響には,先延ばしそれ自体の影響だけでなく,肯定的および否定的自動思考の双方が媒介しており,こうした自動思考の程度によって,抑うつの強さが調整される可能性が示唆された。しかしながら,研究4では,一般的な自動思考尺度を用いている点や変数間の因果プロセスに関して充分な示唆が得られないという限界があった。また,先延ばしが精神的不健康を強めるのは,主に先延ばし後であるという指摘があるため,続く研究5,6,7では,自動思考の中でも,精神的不健康と関連する可能性が高いと考えられる先延ばし後に生じる自動思考に着目し,その影響性について検討した。研究5では,先延ばし後に経験される自動思考を収集し,思考内容の検討および分類を行った。その結果,精神的不健康に影響を持つ代表的な思考として"自己行為批判"および"達成困難"が選定された。そこで,研究6では,研究5で得られた知見をもとに,先延ばし後に生じる自動思考を測定するための尺度作成を行った。その結果,先延ばし後に生じる自動思考として"自己行為批判"と"達成困難"を測定可能な尺度(先延ばし後自動思考尺度:以下ATL-DB)が作成され,妥当性と信頼性も支持された。そこで,精神的不健康の指標として抑うつと不安を用い,先延ばし後自動思考をATL-DBによって測定する形で,研究7を実施した。なお,研究7は,因果についての示唆が不十分であった研究4の課題を踏まえて,先延ばし後の思考および感情を測定する形での研究デザインに改定した。具体的には,先延ばしが精神的不健康に及ぼす影響における先延ばし後自動思考の媒介効果を評価するために,先延ばしに後続する認知プロセスモデルを構築し,当てはまりを検証した。あわせて,先延ばし後に経験される思考内容の違いによって,その後に生じる精神的不健康の種類を予測することができるとする自動思考の内容特異性仮説も検証した。その結果は,先延ばし後の認知プロセスについて,次の示唆が得られた。まず,先延ばしが精神的不健康に及ぼす影響は,先延ばし後に生じる自動思考が完全媒介している可能性が示唆された。さらに,先延ばし後に"自己行為批判"を経験しているほど,抑うつと不安が強く,"達成困難"を経験するほど,不安が強いことが示唆された。以上の知見から,先延ばしが精神的不健康を強めるのは,先延ばし後に"自己行為批判"や"課題達成"といった特定の自動思考が生じるためであり,こうした自動思考の内容および強さによって,精神的不健康の程度が予測できる可能性が示唆された。

第5部では,本論文の総括を示した。まず,各研究で得られた知見をまとめた。その上で,各研究の結果から示唆された"精神的不健康に至る先延ばしの認知行動モデル"の全体像を示し,その特徴と意義について言及した。さらに,本論文で得られた知見に基づく臨床的示唆をまとめた。最後に,今後の課題について論じた。

以上の内容で構成される本論文は,先延ばしが精神的不健康に至るプロセスについての典型的なモデルの一つを示すことができ,それにより,先延ばしによって生じる精神的不健康の増悪を予防もしくは軽減するための示唆が得られた点で有益であると考えられた。

Figure 1 研究の全体像および各研究で扱う変数とその関連性

審査要旨 要旨を表示する

先延ばしは、学生において一般的にみられる行動ではあるが、慢性化するにつれて、様々な精神的不健康につながるという問題点も指摘されている。そこで本論文は、学生を対象として、先延ばしがどのような場合に精神的不健康に至るのかに関して、影響要因及びそのプロセスを認知行動モデルの観点から明らかにすることを目的としたものである。論文は、関連論文のレヴューによって研究課題を明らかにした第1部(1章と2章)、研究の基礎となる先延ばし尺度を作成した第2部(3章と4章)、先延ばし前の認知プロセスのモデル化を試みた第3部(5章)、先延ばし後の認知プロセスのモデル化を試みた第4部(6章、7章、8章 9章)、最後に研究を総括する第5部(10章)から構成されている。

第1章では、先行研究を概観し、先延ばし概念の混乱、本邦における標準化された測定尺度の欠如、先延ばしと精神的不健康との間の媒介要因(例:認知変数)の未検討という3つの問題点を明らかにした。そして、本研究における操作的定義を明確化した上で、本研究で用いる先延ばし尺度の作成、先延ばし前後の認知プロセスの検討、を課題とした研究を実施する必要性を論じた。第2章では研究の目的と方法および全体像を示した。

第3章では、先延ばしの測定尺度として、General Procrastination Scaleの日本語版(以下、GPS日本語版)を作成し、その妥当性と信頼性を検証した。第4章では、更なる妥当性の検証を行い、最終的に13項目1因子で構成されるGPS日本語版を完成した。

第5章では、先延ばしに先行する認知プロセスとして完全主義に着目し、課題取組時における完全主義の多元的認知がどのようなプロセスを経ることで、元来の意図に反する先延ばしに至るのかを共分散構造分析を用いて検討した。その結果、完全欲求と高目標設定は先延ばしの抑制要因としての側面をもつが、それが行動疑念や失敗過敏を媒介した場合には先延ばしの助長要因になる傾向があることが明らかとなった。

第6章以降では、先延ばしに後続する認知プロセスとして自動思考に着目し、精神的不健康に及ぼす影響を検討した。第6章では、一般的な自動思考の媒介効果を検討した。第7章では、先延ばし後に特徴的な自動思考を収集し、精神的不健康と関連性が強い思考内容を明らかにした。それを受け、第8章では先延ばし後自動思考尺度を作成し、信頼性と妥当性を検証した。第9章では、同尺度を用いて先延ばしが抑うつと不安に至るプロセスを検討した結果、先延ばし後の自動思考として自己行為批判が強いほど主に抑うつと不安が強く、先延ばし後の自動思考として達成困難が強いほど主に不安が強いことが示唆された。

本論文は、先延ばしの測定尺度を作成したうえで、先延ばし前後の認知プロセスをモデル化したものである。完全主義および自動思考という媒介変数に注目することで、先延ばしが抑うつや不安といった精神的不健康を強めるプロセスを認知行動モデルとして実証的に示し、臨床的な予防や問題解決に寄与する示唆をもたらした点で特に意義が認められる。よって、本論文は、博士(教育学)の学位を授与するに相応しいものと判断された。

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