学位論文要旨



No 128784
著者(漢字) 松平,一成
著者(英字)
著者(カナ) マツダイラ,カズナリ
標題(和) テナガザルの分子系統・分子生態学
標題(洋) Molecular-Phylogenetics and -Ecology of Gibbons
報告番号 128784
報告番号 甲28784
学位授与日 2012.12.17
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5890号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 石田,貴文
 東京大学 教授 植田,信太郎
 東京大学 教授 黒崎,久仁彦
 東京大学 講師 井原,泰雄
 東京大学 教授 諏訪,元
内容要旨 要旨を表示する

テナガザルは東南アジアとその周辺に生息する小型類人猿である。現生類人猿の中でも多様性に富み、4属およそ17種に分類されている。どの種も樹上での生活に適応した小さな体、長い腕と手などの身体的特徴を持っている。その一方で、毛色や歌の鳴き方に多様性がみられる。また、顕著な特徴として、ペア型の社会構造を形成する。これは哺乳類では非常に珍しく、なぜそのような社会構造を形成しているのか、興味がもたれている。遺伝学的手法、特に野生生物を対象とした分子生態学と呼ばれる領域の手法は、この20年間に非常に発達し、様々な生物に用いられてきた。しかしながら、テナガザルについての研究は他の類人猿に比べて少ない。本研究では、多様性の研究の基盤となる系統関係(1章)、野生のテナガザルを対象とした交雑(2章)、社会構造と繁殖様式(3章)について、遺伝子解析による研究を行った。

テナガザルのミトコンドリアゲノムの分子系統関係(1章)

テナガザルは染色体数の違いにより、Hoolock属(2n=38)、Hylobates属(44)、Symphalangus属(50)、Nomascus属(52)の4属に分けられ、およそ17種に分類されている。その系統関係は、いくつもの研究が行われてきたにも関わらず、いまだ解明されていない。これは先行研究ではミトコンドリアDNA(mtDNA)の一部の配列のみを解析の対象としており、短期間に集中して起きた種分化を明らかにするためには、情報量が少ないからだと考えられてきた。本研究では、Hylobates agilis、Hylobates plieatus、Symphalangus syndactylusとNomascus属の1種、計4種のミトコンドリア全ゲノム配列を決定した。これに既知のHylobates larの配列を加え、3属5種のテナガザルについて非常に高い信頼性をもつ系統樹を、ヒト科の6種と外群として物Macacamulattaの配列を合わせて解析することで、得ることができた(図1)。まずNomascus属が分岐した後、Symphalangus属とHylobates属が分岐したことが示された。またHylobates属の中ではH.pileatusが初めに分岐し、その後H.larとH.agilisが分岐したことが示された。3属の分岐はおよそ700~800万年前の中新世後期、Hylobatesの3種の分岐はおよそ330~390万年前の鮮新世に起きたことが推定された。さらにChan et al.(2010)の塩基配列データも用いてより多くの種について再解析を行った結果、ミトコンドリアDNAのみでは一部の系統関係が明らかとならず、全種の系統の解明には核DNAも用いた解析が必要であることが示された。

Hylobates属2種のテナガザルの交雑地域におけるイントログレッション(2章)

Hylobates属のテナガザルについて、交雑が起きている地域が3ヶ所報告されている。タイのKhao Yai国立公園にはH.larとH.pileatusが生息し、両者の中間的な歌声と体色パターンを示す交雑個体が観察されている。しかし、それらの交雑個体は非常に狭い限られた地域においてのみ観察されているため、2種の間に遺伝的交流が存在するか否かはわからなかった。本研究では、交雑地域に近いMo Signto,Klong E-Tau地域で、2010年6A~2011年5月に観察されたH.lar、68個体を対象にmtDNAの超多型領域I(HVSI)を含む塩基配列を調査し、イントログレッション(遺伝子浸透)の有無を検証した。その結果、11個のハプロタイプが得られ、そのうち1つのハプロタイプ(HKY11)がH.pileatus由来であることが確認された(図2)。このハプロタイプをもつ9個体の内、7個体はひとつの母系家系に属し、3世代にわたって受け継がれていた。それらの形態学的特徴は、雑種第一代や戻し交雑個体とは異なり、H.larそのものであったため、交雑によって生じたイントログレッションの影響が何世代も残っていると考えられる。Khao Yai以外にも交雑地域は知られており、テナガザルの進化において交雑が重要な役割を果たしてきた可能性が示唆された。

テナガザルの社会構造と繁殖様式(3章)

テナガザルはオトナのオス1個体、メス1個体と未成熟個体からなるペア型の社会構造を形成するといわれている。このような社会構造は哺乳類では珍しい。これは、オスは多くのメスと交尾をすることで多くの子どもを残そうとする傾向が強く、特定のメスと常に一緒に生活することは他のメスとの交尾の機会を大きく制限してしまうためだと考えられる。そのため、テナガザルにおいて、どのような要因が交尾機会の減少という不利益を補って、ペア型の社会構造の形成を促しているのか興味がもたれている。社会構造、配偶様式、繁殖様式は互いに密接に関わっているが、常に一対一の対応関係があるわけではない。事実、テナガザルにおいてペア外交尾(EPC)が観察されており、社会的パートナーと配偶パートナーは必ずしも一致しない。そのため、テナガザルの繁殖様式、つまり子どもの生物学的父親が誰であるかを明らかにするには、遺伝マーカーを用いた調査が必須である。これまでに2つの先行研究が報告されているが、いずれも父子判定の数は多くなく(4件と10件)、更なる研究が求められていた。加えて、いくつかの地域では複雄一雌群が安定して存在し、複数のオスがメスと交尾していることも観察されているが、このような社会構造における繁殖様式については全く知られていなかった。本研究では、1979年から観察が継続され、ペア外交尾や複雄群が観察されている、Khao Yai国立公園のNo Singto,Klong E-Tau地域に生息するH.larの17グループを対象に82個体の常染色体STR12座位の遺伝子型を基に父子判定を行い、繁殖様式を調査した(表1)。その結果、ペアでは24個体(88.9%)がペアのオスの子どもで、3個体(11.1%)がペア外のオスの子ども(EPP)であり、ペアのオスはパートナーのメスの繁殖をほぼ独占していた。一方、複雄群では14個体(93.3%)が1位オスの子ども、1個体(6.7%)が2位オスの子どもであり、1位オスがグループ内の繁殖をほぼ独占していた。ペアのオスと複雄群の1位オスによる繁殖の独占の割合には有意な違いは無かった。今回明らかとなったペア外の子どもの頻度は、Khao Yaiで観察されているペア外交尾の頻度(8.7%)と一致しており、また複雄群においては、オス問でメスとの交尾頻度に偏りがあるという観察とも一致している。つまり、テナガザルの実際の繁殖様式は、配偶様式を強く反映していると考えられる。EPPの数が少ないことは、オスが効率的に配偶者を防衛できていることを示唆しており、それがペア型社会構造の形成要因になっている可能性が示唆された。

テナガザルのいくつかの調査地では、ペア以外の社会構造も観察されている。中でも複雄一雌群は、S.syndactylusやH.larなどでペアを除く他の社会構造よりも安定的に存在することが報告されている。複雄一雌群では繁殖可能なメスは1個体のみであり、そのメスの限りある繁殖の機会を巡って、オスの間で競争が存在するため、一般的にこのような社会構造は形成されにくい。そのため、テナガザルにおいては、このようなオスにとっての不利益を補い、複雄一雌群の形成を可能とする何らかの要因が存在すると考えられる。ひとつの仮説として、血縁淘汰が挙げられる。もし、オスの間に父子、兄弟などの血縁関係があれば、オスは自分の子どもを残すことができなくても、それら血縁者の繁殖を介して包括適応度を上げることができる。またオトナオス以外の血縁者であっても、それらの個体の生存率の上昇、繁殖成功度の上昇などによる包括適応度の上昇が期待される。本研究では、Khao Yaiにおいて、2010年6~9Aに2個体のオトナオスを含む複雄群であることが確認されたH.larの6グループについて、Queller&Goodnight(1989)の血縁度を常染色体STR12座位によって計算した(表2)。2個体のオス間の血縁度は、4グループ(J、N、S、NOS)において、血縁度が-0.220~-0.004と低く、オスの間に血縁関係がないと考えられた。2グループ(A、B)では血縁度が0.349と0.647と高く、観察と父子判定の結果と合わせて、それぞれ父子、兄弟の関係が確認された。複雄群に所属する12個体のオスのうち、3個体はグループ内に血縁度の高い個体が全く存在しなかった。加えて、1個体においても、弱い血縁関係が示唆されたが、具体的な血縁関係は確認されなかった。以上のことから、テナガザルの複雄群のオス間の血縁関係は様々であり、血縁淘汰は複雄群の形成に必須の要因ではないことが明らかとなった。複雄群において2位オスがほとんど子どもを残していないという父子判定の結果と合わせると、2位オスが繁殖による利益に関係なく、単独生活よりも複雄群にいることで利益を得ていることが示唆された。このことは、Khao Yaiでは、成熟後の分散までの時間が長いという観察からも支持される。

本研究では、mtDNAと常染色体STRという遺伝マーカーを用いることで、テナガザルの系統から、交雑、社会まで幅広い領域を対象に研究を行った。特に長期にわたる観察の記録が存在する野生テナガザルについて研究を行ったことで、仮説を検証するのに十分な個体数を対象とすることが出来た。他の生物種に比べて、テナガザルについて調査されている課題は非常に少ない。そのため、今後も観察と分子生態学的手法をあわせて用いることにより、テナガザルの生態について更なる知見が得られることは確実であり、期待される。

図1ミトコンドリアゲノム配列による系統関係と分岐年代

図2観察された11のハプロタイプ

表1.父子判定の結果

*本研究の対象個体中に父親が見つかっていない1個体を含む。

表2複雄群のオス間の血縁度

†:Queller&Goodnight(1989)の推定値

審査要旨 要旨を表示する

テナガザルは東南アジアとその周辺に生息する小型類人猿で、現生類人猿の中では多様性に富み、4属およそ17種に分類されるが、それらの系統関係には不明の点が多かった。また、テナガザルの顕著な特徴として、哺乳類では非常に珍しいペア型の社会構造があり、なぜそのような社会構造を形成しているのか興味がもたれている。これまでテナガザルについての研究は他の類人猿に比べて少なく、本論文は多様性の研究の基盤となる系統関係、野生のテナガザルを対象とした交雑・社会構造・繁殖様式について、遺伝子解析による成果をまとめたものである。

本論文の主文は3つの章から構成されている。はじめに研究全体の背景の説明と位置づけがなされ、第1章から第3章に研究成果が提示され、全体のまとめが後置されている。

第1章では、Hylobates agilis、Hylobates pileatus、Symphalangus syndactylusとNomascus属の1種、計4種のミトコンドリア全ゲノム配列を決定し、これに既知のHylobates larの配列を加え、3属5種のテナガザルについて非常に高い信頼性をもつ系統樹を得ることができた。まずNomascus属が分岐した後、Symphalangus属とHylobates属が分岐したことが示された。またHylobates属の中ではH. pileatusが初めに分岐し、その後H. larとH. agilisが分岐したことが示された。3属の分岐はおよそ700~800万年前の中新世後期、Hylobatesの3種の分岐はおよそ330~390万年前の鮮新世に起きたことが推定された。この内容は既に国際誌に発表され、類似研究の先駆けとなった。さらに多くの種について再解析を行った結果、ミトコンドリアDNAのみでは全ての系統関係が明らかとならず、全種の系統の解明には核DNAも用いた解析が必要であることが示され、今後の研究の方向性を示した。

第2章では、観察研究からHylobates属の交雑が報告されているタイのKhao Yai国立公園おいて、2010年6月~2011年5月に観察したH. lar、68個体を対象にmtDNAの超多型領域I(HVSI)を含む塩基配列を調査し、イントログレッション(遺伝子浸透)の有無を検証した。その結果、H. pileatus由来のハプロタイプが浸透していることを確認した。ひとつの母系家系では3世代にわたってこのハプロタイプが受け継がれていること、表現型は全くのH. lar型であることから、初交雑からはかなりの世代が経っていると考えられた。本章の研究は、テナガザルにおいてイントログレッションの事実を初めて示した研究として、霊長類学の国際誌に高い評価を受け受理されている。

第3章では、テナガザルの社会構造と繁殖に関する分子生態学的研究をおこなった。テナガザルはペア型の社会構造を形成するといわれているが、ペア外交尾(EPC)が観察されること、いくつかの地域では複雄一雌群が安定して存在していることから、テナガザルの繁殖様式、つまり子どもの生物学的父親が誰であるかを明らかにすることが求められ、遺伝マーカーを用いた研究をタイ国Khao Yai国立公園に生息するH. larの17グループを対象に82個体の父子判定を行い、繁殖様式を調査した。その結果、ペアのオスはパートナーのメスの繁殖をほぼ独占し、複雄群では、1位オスがグループ内の繁殖をほぼ独占していた。テナガザルの繁殖様式は、配偶様式が反映され、オスが効率良く配偶者を防衛・独占し、ペア型社会を保っている可能性が示唆された。テナガザルのいくつかの調査地では、複雄一雌群が観察され、その形成を可能とする何らかの要因として、血縁淘汰の存在が挙げられている。本研究では、複雄群であることが確認されたH. larの6グループについて、血縁度を計算した。2個体のオス間の血縁度は、4グループにおいて低くオスの間に血縁関係がないと考えられた。2グループでは血縁度が高く、それぞれ父子、兄弟の関係であることもDNAから確認された。以上のことから、テナガザルの複雄群のオス間の血縁関係は様々であり、血縁淘汰は複雄群の形成に必須の要因ではないことが明らかとなった。本章のテナガザルに関する分子生態学的研究は先行研究で明らかにされなかったテナガザルの繁殖構造に光を当てる先進的研究として高く評価された。

本論文は石田貴文他との共同研究に基づいている。石田は指導教員として、その他の共同研究者は現地対応・観察地開拓維持・テナガザル個体情報収集の立場から共著者として参画している。本論文にかかわる野外観察・野外における試料収集・実験・解析は論文提出者が終始主体となっておこない、その論文への寄与は十分と判断される。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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