学位論文要旨



No 128785
著者(漢字) 林,載桓
著者(英字)
著者(カナ) イム,ジェファン
標題(和) 独裁政治と制度変化 : 文革期中国における軍部統治の形成と消滅
標題(洋)
報告番号 128785
報告番号 甲28785
学位授与日 2012.12.20
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第268号
研究科 法学政治学研究科
専攻 総合法政
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高原,明生
 東京大学 非常勤講師 田中,明彦
 東京大学 教授 松田,康博
 東京大学 教授 森田,宏樹
 東京大学 教授 飯田,敬輔
内容要旨 要旨を表示する

1960年代末から1970年代後半にかけて、中国には極めて異様な政治状況が出現していた。文化大革命が拡大し、激化していく中で、人民解放軍の大規模な政治介入が行われ、その結果、軍隊幹部が中央の国家機構、および地方の党政機関を掌握し、政治過程を主導する未曾有の状況が発生したのである。こうした軍の関与は、党と国家の領域に留まらず、企業から学校、工場から社会団体にいたる、経済と社会のあらゆる領域に及んでいた。中国の国家と社会が、事実上の軍部統治の下に置かれていたのである。

本書は、人民解放軍の全面的な政治関与という、文革が引き起こした数々の政治的変革の中の、おそらく最も逆説的な側面に光を当て、その拡大と収拾のメカニズムを明らかにしようとするものである。具体的に本書は、次の二つの問いに解答を提示することを中心的な課題とする。

(1)なぜ中国において軍の主導する統治システムが出現したか

(2)軍主導の統治システムはなぜ、そしてどのようにして消滅したか

文革期中国に現出した軍主導の政治状況は、動員兵力の大規模さはもちろん、マルクス・レーニン主義を統治原理とする国家では極めて異例の事態であるという点で、従来さまざまな領域の研究者から注目を集めてきた。とはいえ従来の研究は、軍の政治的影響力が拡大し、全国的に「軍政」と呼ぶに相応しい状況が現れていたことに強い関心を示しながらも、この異様な政治状況が具体的にどのような構造によって成り立っており、またその構造は時間の経過とともにどのような変化を遂げていったかという点を問題視することはほとんどなかった。その結果、軍主導の政治状況を発生、持続させた真の要因とは何か、また、そうした状況はいつ、どのような形で解消されたかという問いは、ほとんど未解明のまま残されてきた。

文革期中国における軍と統治という問題が、もとよりさまざまの角度からの多面的な考察を要する複雑な問題であることは言をまたない。そこで、本書では、毛沢東と人民解放軍の関係に焦点を当て、軍主導の統治システムが形成し、変容を経て、消滅していく過程を分析する。その際、分析の理論的土台として、統治制度の選択と運用に当たって独裁者の直面するジレンマ、およびその解決への戦略について理論的考察を試みる。本書の基本的な主張は、独裁者の抱えるこうした問題が、文革期中国における軍部統治の展開を理解する上で、中核的に重要な要素を成していたのではないかということである。

本書の作業を通じては、次の三つの成果が得られることが期待される。

第一に、軍介入の実態の究明である。文革期における政治介入は、人民解放軍にとって、建軍以来の組織史の最も「暗鬱な」領域に属し、それゆえ関連資料の公開や研究の進展が極端に乏しい分野である。そうした状況の下、従来の研究では、例えば中央の党機構に占める軍人の割合などに依拠し、軍部統治の輪郭をつかめようとする試みがなされてきた。しかし、都合約280万の幹部、兵士の政治参加が生み出した複雑多端な現実を、それらの数字がどれほど正確に伝えているかはかなり疑問である。そこで、本書では、最近利用可能になった文革関連の多様な資料集に加え、筆者自身が多年間の現地調査で集めてきた、内部発行の文献を含む大量の軍関連資料に基づき、軍統制下の政治状況を、複数の角度から浮き彫りにすることを目的とする。

第二に、本書の作業を通じて、1970年代の中国政治の推移を理解する一つの一貫した視点が得られることが期待される。人民解放軍の政治関与は、本論の叙述で明らかになるように、文革期における統治機構の変容はもちろん、国内の政治運動の推移、対外政策の展開、そして権力闘争の帰趨にいたるまで、当該時期における中国政治のあらゆる側面に甚大な影響を及ぼしている。なぜ文革は当初の想定より長引いたのか、なぜ対米接近がはかられたのか、なぜ権力継承は鄧小平に有利に展開するようになったか、そしていかなる要因が改革開放への政策転換を促したか、軍の政治介入とその解消をめぐる政治の動きから、これらの問題を考える手掛かりを探ってみたい。

第三に、理論的に本書は「新制度論」に連なる研究であるが、なかでも、独裁政治における制度メカニズムへの理解を深めることを目指している。特に「執行の制度」という概念を提起することによって、社会との関係を含む政策執行の効率性が独裁政治における制度変化の重要な契機となることを強調しようとする。こうした視点は他方で、独裁政治に関する最近の制度研究が、政党や議会といった取り込み(co-optation)のメカニズムに関心を集中させているのに対して、改めてその強制(coercion)のメカニズムに関する注意を喚起する意図をも有している。

審査要旨 要旨を表示する

本論文「独裁政治と制度変化―文革期中国における軍部統治の形成と消滅」は、1960年代後半から1970年代前半にかけての文革期中国にみられた人民解放軍による政治介入の実態を、その形成から消滅に至るまで、新制度論にもとづく著者独自の理論的展望のもとで解明しようとした業績である。中国の文化大革命期の政治については、これまでもきわめて多くの研究業績があるが、人民解放軍による「軍政」の形成から消滅に至る過程を一貫した論理で説明した業績は少ない。本論文は、近年利用できるようになった資料の実証的分析と新制度論の理論的展望を基礎に、独裁者毛沢東の選好と人民解放軍という制度の間でうまれる「独裁のジレンマ」に着目して、文革期中国における軍と統治のダイナミックスを明らかにした優れた業績である。

本論文は、序章、五つの章からなる本論、そして終章から構成されている。序章では、文革期中国で出現した人民解放軍による長期に及ぶ政治介入の特徴が、統治に関与する軍人の比率などのデータをもとに指摘され、その特異性が解明されるべき課題であることが提示される。ついで先行研究を「非常事態説」、「権力政治説」、「体制起源説」という形で整理し、いずれも、長期にわたる軍部統治の形成と消滅を一貫した形では説明しえないと指摘する。著者は、これまでの研究がいずれも独裁者毛沢東の役割を十分に評価しておらず、問題の解明のためには、毛沢東と解放軍の関係を正面にすえ、毛沢東による制度選択としての軍部統治、そしてそれが生み出す新しいジレンマという観点を重視すべきであると論じる。

第1章では、序章で提示した著者の観点を、比較政治学の理論的潮流のなかでの新制度論の中に位置づけ、こうして設定された著者の概念構成によって、文革期中国の特徴づけを行う。本論文の理論面での貢献は、これまで政治社会学的に分析されることの多かった独裁体制について、本格的に独裁者の合理的選択という観点を導入し、政治事象を独裁者の制度選択・制度運用によって引き起こされる現象であるととらえたことである。さらに著者は、論を進めて、この制度選択・制度運用においては、一般的にも深刻な問題となりうる「代理人問題」が、独裁制において、さらに深刻になりうることの理論的検討をおこない、さらに独裁者の意図を超えておこる制度自身の内生的変化の過程についても理論面での先行研究を検討していく。このような理論的検討をベースに、著者は、独裁者としての毛沢東の選好と行動原理を、近年入手可能になった資料をもとに要約し、執行の制度としての人民解放軍の文革前夜の状況を記述し、ついで、文革期の軍部統治変化の大要を提示する。

第2章は、毛沢東の指示のもと軍が政治に登場したことが誰の目にも明らかになった第9回中国共産党大会以降の時期をとりあげ、そこでの党組織の再建、軍支配の拡大、これらを可能にした対外危機、毛沢東の認識、その結果としてできあがった「領導の分散」を特徴とする軍部統治の構造が分析される。軍支配の拡大の事例として、地方における人事が分析されるとともに、軍の内部分裂の兆候も指摘される。この内部分裂を抑制し、政治過程における軍の役割をさらに拡大させた要因として、ソ連との間の国境紛争という対外危機があったことが指摘され、この分析が本章の実証部分の中心として展開される。

第3章は、軍部統治の確立後の中国政治最大の謎ともいうべき「林彪事件」についての考察である。通説的にいえば、そもそも林彪の権力志向こそが、軍部統治をもたらし、さらに進んで「政権奪取への陰謀」につながったと主張される場合が多い(権力政治説)。これに対し、著者は、近年明らかになってきた資料をもとに、林彪が軍部統治を望んでいた証拠がないこと、林彪勢力の組織基盤強化は、むしろ毛沢東の意図であったことを主張する。軍部統治の強化は、そもそも毛沢東の意図するところであり、毛沢東が林彪に対して不信感を募らせていたとしても、排除しようとすればできた人物であった、事件は毛沢東にとっても意外な出来事であり、そのことがかえって、実際の政治過程を遅らせたというのが著者の判断である。

第4章は、軍部統治が完成するなかで生じてきた問題を毛沢東がどのように認識し対処しようとしたかの分析である。自ら軍を政治に導入させた毛沢東であったが、軍幹部の強圧的態度や組織としての軍隊の「多中心」的傾向については、強い懸念を持つようになっていた。当初個別の説得などの穏健な手段で対応していた毛沢東は、徐々に解放軍への攻勢を強め、民兵組織の改造を試み、1973年12月には電撃的な大軍区司令員の異動人事を行い、翌年の批林批孔運動で大々的な解放軍攻撃を行うに至る。著者は、このプロセスを毛沢東の抱くジレンマと現場における軍隊幹部のジレンマとしてとらえ、両用のジレンマの解消の困難さが、この時期を特徴づけ、まさにその課題こそが次章で分析される鄧小平の軍隊整頓の試みであったと論じる。

第5章は、前章で問題となったジレンマを解消した鄧小平の軍隊整頓の試みの分析である。実証的にいえば、これまでの軍統治の実態が、1975年を境にして文民主体の政治にもどっていったことが、人事データなどの体系的分析によって明らかにされる。そして、本章において著者は、鄧小平の軍隊整頓についての役割を強調してきた先行研究の評価に批判的検討を加える。著者によれば、ここでも重要なのは毛沢東の選好であった。軍部統治の実態に強い不満と危機感を抱いた毛沢東が、鄧小平を復活させて自らの代理人としたからこそ、鄧小平が実権を振るえたのであった。

終章では、本論での主張が要約され、文化大革命研究、現代中国研究、そして独裁政治研究についての本論文の含意が簡潔に指摘され、論文がとじられている。

本論文は、以下の3点において高く評価される。

第一は、文化大革命期の中国政治の実態を、きわめて明晰で筋道のはっきりした論理によって描ききったことである。文革初期の大混乱の後に出現した異様なほどの軍部中心の政治体制がどのようにして生まれたのか。その政治体制のなかで、これまた不可解としか言い得ないような林彪事件が発生する。これをどのように解釈するのか。そして、この軍人主体の政治は、1975年前後に収束を迎える。従来の先行研究が、部分部分の局面についての説明にとどまっていたのに対し、本論文は、この政治プロセスを毛沢東という独裁者と彼の行った制度選択(代理人選択)の過程と捉え、そこに生じるジレンマとその解消過程こそが中国政治をダイナミックに展開させたのだと論じており、その主張はきわめて説得的に行われている。

第二に、現代中国政治の分析に、新制度論にもとづく分析視角を全面的に導入したことである。従来、中国政治分析においては、個別問題の実証的解明に注力する地域研究ないし歴史学的アプローチが主流であり、また、近年行われるようになった比較政治学的研究においてもその多くは比較政治体制的研究が多かった。前者の研究の流れからは、普遍的な政治現象として中国政治をとらえる見方が生まれることは難しく、後者の研究からは、具体的かつ重要な政治現象の変化を分析することが困難であった。その中で、本論文は、合理的選択を行う独裁者と、これに対応する代理人としての人民解放軍という理論装置のもと、そこから生ずるジレンマとその解消の試みこそが政治のダイナミクスを生み出しているという図式を導入し、現代中国政治を普遍的かつ比較可能な政治現象として位置づけることに成功している。

第三に、文革期中国の実態を解明するための実証研究としての質の高さである。著者は、近年多数刊行されてきた毛沢東に関連する回想録、これまた近年多数刊行されるようになってきた人民解放軍幹部の回想録、さらには公刊されている人民解放軍関係の年鑑などを徹底的に利用することで、これまで通説として受け入れられてきたさまざまな見解に批判的検討を加えている。本文で展開される、人民解放軍の政治介入の端緒、中ソ間の1969年危機の影響、林彪事件の意義、そして、鄧小平の復活に関する毛沢東の意図などをめぐる実証分析は、著者の理論的立場から離れてみたとしても、説得性を持っている。

このような高い評価にもかかわらず、本論文にも改善すべき点がないわけではない。

第一は、より一層の理論面での精緻化の可能性である。論文中、独裁者と代理人との間に発生するジレンマについての先行研究を含む取り扱いについては、おおむね適切に行われており、実証部分での検討でも有効に利用されている。他方、制度の内生的変化についての理論的検討はやや概括的なものにとどまっており、実証面でも十分明示的に検討されていないようにみえる。また、今後の比較研究の可能性からは、文化大革命ほど激烈な変化を伴わなかった事例についても、今後、視野に入れていくことが有用ではないかと思料される。

第二は、叙述のわかりやすさの一層の向上が求められる。本論文の叙述は、きわめて適切な日本語表現でなされており、論述面における不安定性はほとんどみられない。ただし、本論文の叙述は、読者の側に現代中国政治や文化大革命に関するかなり高い知識があることを前提としており、予備知識のない読者にとっては、わかりにくい議論の展開となっている部分もあろう(たとえば、林彪事件についての概説的記述は本論文にはみられない)。現代中国研究を専門としない読者をも想定した比較政治学の研究としてみると、予備知識的叙述も含めたわかりやすい叙述が望ましかったかもしれない。

しかしながら、これらの点は本論文の価値を大きく損なうものではない。

以上から、本論文は、その筆者が自立した研究者としての高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

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