学位論文要旨



No 128792
著者(漢字) 山㟁,崇之
著者(英字)
著者(カナ) ヤマギシ,タカユキ
標題(和) 病傷害を受けた樹木辺材の木部細胞内腔に沈着する物質の化学構造分析
標題(洋)
報告番号 128792
報告番号 甲28792
学位授与日 2012.12.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3870号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生物材料科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松本,雄二
 東京大学 教授 山田,利博
 東京大学 教授 鮫島,正浩
 東京大学 准教授 和田,昌久
 東京大学 准教授 横山,朝哉
内容要旨 要旨を表示する

コナラが辺材部でカシノナガキクイムシによる虫害を受け,その共生菌(Raffaelea quercivora)が繁殖すると材は変色し,その周縁部(反応障壁と呼ばれる)では菌の広がりを防ぐ様に木部細胞内腔に閉塞物質が現れる。この閉塞物質はルテニウムレッドで染色されるが,フロログルシン-塩酸反応による呈色を示す為リグニン様物質とも呼ばれている。山田らの検証により,反応障壁では健全辺材や変色辺材と比較してリグニン量が高く,グアイアシル核に富んだリグニン構造である事が示唆された。しかし,反応障壁における細胞壁構成成分の定量値が,菌に対する樹木の防御反応を反映しているかどうか明らかにするためには,二つの点,(1)細胞壁成分の定量値は虫害にかかわらず,部位によってそもそも一定ではなく広がりを示す事,(2)菌に対する樹木の防御反応の結果だけでなく,菌による細胞壁成分の分解の結果として,細胞壁成分自体の一部が変化した可能性がある事,を考慮にいれて検討しなくてはならない。そこで変色領域を細かく分割した試料を分析し,対照試料の分析値の分布範囲と厳密に比較する事によってその検討が可能になると考えた。本研究では,実際にコナラが虫害を受け,変色した辺材の変色領域の一つに着目して詳細な化学分析を行った。

フロログルシン・塩酸及びルテニウムレッドで染まる閉塞物質は,変色領域の外側にのみ確認された事から,Figure 1で示した試料中の外側が菌の侵入を防いだ反応障壁に相当すると考えられた。この反応障壁では,対照試料で得られた分析値の分布範囲を超えてリグニン量が高く,ニトロベンゼン酸化によって得られたシリンガアルデヒド/バニリン比(S/V比)の低い区分が確認された(Fig. 1)。元素分析により得られた炭素/酸素比(O/C比)もリグニン量に対応して反応障壁で低い値であった。中性糖分析により得られたグルコース量,マンノース量も,反応障壁で対照試料の分布範囲を超えた区分が見られた。よって閉塞物質が確認された反応障壁で見られた,対照試料と異なる分析値は,菌の繁殖によって引き起こされたものであると結論づけた。一方変色領域の内側では,対照試料で得られた分析値の範囲に収まっていた。変色の広がり方から,変色領域の中心から菌が広がったと考えられ,その為内側は比較的菌に長くさらされたと考えられる。したがってもし上記の菌の繁殖によって引き起こされる細胞壁分析値の変化が,菌による細胞壁の分解によるものだとすれば,変化の程度は変色領域の内部で著しいであろう。しかし実際には変色領域内部の各種分析値は,対照試料の分析値の分布範囲に収まっていた。したがって変色領域外側の分析値の変化は菌による細胞壁の分解では説明できず,樹木の菌に対する防御反応によるものであると推定した。

このように,変色領域を細かく分割した試料を用いた検討によって細胞壁構成成分の変化が確かにあった事を確認し,さらにそれが樹木側の菌に対する防御反応によるものと推定した。閉塞物質の分布は,これらの分析値の変化に対応しているのであるが,閉塞物質がこれらの変化をもたらしたかどうかはこの検討ではそもそも分からない。何故なら細胞壁構成成分の変化に寄与する樹木側の防御反応には,チロースの生成なども考えられるからである。また閉塞物質が真にリグニンであるかどうかも未だ明らかではない。そこでこれらの課題を検討するために閉塞物質を直接分析する事を試みた。細胞壁における閉塞物質の絶対量はそもそも非常に小さく,上記の検討をいかに厳密に行っても,径10μmの閉塞物質についての構造上の情報を得る事は難しい。有機溶媒を用いて切片中の閉塞物質を単離しようと試みたが,様々な抽出処理によっても,切片中の閉塞物質は残っていた。この事から抽出による閉塞物質の単離によってではなく,非破壊的な手法で閉塞物質をそのまま分析する事で閉塞物質の本質に迫る事とした。

木質試料を顕微IRで測定した例はあるが,そのときに用いられた分析スポットの大きさは50μm程度であった。径10μmの閉塞物質についてIR測定するには,より高分解能の装置が必要だと考えられた。近接場顕微赤外分光装置(Infrared-scanning near-field optical microscopy: IR-SNOM)は,近接場光という波長に依存しない小さなサイズの光を用いる事で,潜在的には1μmよりも小さな分解能でIRスペクトルが得られる装置である。そこで本研究では,閉塞物質をIR-SNOMで直接分析する事とした。下記で用いた近接場IRスペクトルという表現は,IR-SNOMで測定したIRスペクトルの事を指す。

木質試料をIR-SNOMで分析する手法は確立されていない為,まずはIR-SNOM分析に適した試料調製法を検討する事とした。コナラブロック試料のミクロトーム処理面について光学顕微鏡観察とSEM観察を行う事で,IR-SNOM分析に適した試料面を探した。元々褐色の閉塞物質は,光学顕微鏡観察で照明法を変えると白く見えるものがあった。この白く見えるものはSEM観察により,ミクロトームで切断された平滑な面であることが分かった。このことを手がかりに表面がフラットな閉塞物質を探し,さらに,その中からIR-SNOMに付属したAFM機能によって微視的にも平滑性が確認された部分について近接場IRスペクトルを測定した所,SN比の高いスペクトルが得られた。しかし,このスペクトルは細胞壁全体のIRスペクトルに極めて類似していたため,この閉塞物質の一部を,SNOMの測定用プローブ先端に付着させてそのまま測定したところ,明らかに異なるスペクトルが得られた。この事から,上述のS/N比の高いスペクトルは,閉塞物質周囲の細胞壁由来の散乱光の影響を受けた可能性が考えられた。以上の検討から,微小領域そのものの良好なスペクトルを得るには,できるだけフラットな試料面を作成するだけでは十分ではなく,測定ポイント周辺からの散乱光をなるべく検出器に入れない事が重要だと考えられた。

プローブ先端に付着した閉塞物質から良好な近接場IRスペクトルが得られた為,これを閉塞物質の近接場IRスペクトルであると見なした。この閉塞物質の近接場IRスペクトルは,木粉のIRスペクトル(KBr錠剤法)や,後述する各木部組織(木部繊維と放射柔組織)から得られた近接場スペクトルの波形とは異なっており,エステル由来の吸収ピーク(1750cm(-1))が強い反面,C-H結合振動由来の吸収 (3000-2900cm(-1))が殆ど確認できない程弱いものであった。

この閉塞物質由来の近接場IRスペクトルについて,樹木成分に関連した種々の化合物の近接場IRスペクトルと比較する事で,閉塞物質はどのような成分なのかを検討する事とした。各種化合物のIR-SNOM測定においては,それぞれの化合物の溶液あるいはけん濁液をアルミミラー上に塗布して乾燥したものを,分析用試料として用いる事で良好な近接場IRスペクトルを得る事に成功した。閉塞物質由来の近接場IRスペクトルは,磨砕リグニン(MWL)のものとは異なる波形であった。閉塞物質でエステル由来と考えられる吸収ピークが特徴的に見られた点は,ペクチンやタンニン酸に類似していた。また,C-H結合振動由来の吸収ピークが非常に弱い点はタンニン酸やカテキンのスペクトルと共通するものであった。以上のように,閉塞物質の近接場IRスペクトルは,リグニンのそれとは異なった特徴が見られた。

前述した木部各組織の近接場IRスペクトルの測定では,周囲の組織からの散乱光の影響をなくす為に,観測対象の組織を他の組織から分離して分析用の試料を作成する事にした。ミクロトーム処理したコナラブロック面から,極細ワイヤーを切断した先端を使い,実体顕微鏡下で手作業により木部各組織を取り出した。これらをKBrのみからなる錠剤上に軽い力で圧着してIR-SNOM用の分析用試料とした。各木部組織の近接場IRスペクトルは,錠剤法で同種の木粉から得られた通常のIRスペクトルとは低波数側で異なる波形を示した。木粉の通常のIRスペクトルは,試料中の木部各組織を平均したスペクトルである一方,IR-SNOM により得られた木部組織の近接場IRスペクトルは,各組織に特徴的な成分を反映しているかもしれないと考えられた。

Fig. 1. Mapping expressions of analytical data

Arrows represent the data distribution of reference sample.

審査要旨 要旨を表示する

マツ枯れに並んで深刻な森林病被害として、日本海側を中心としたナラ・カシ林に広がっている集団枯死被害(ナラ枯れ)がある。コナラがカシノナガキクイムシによる虫害を受け、その共生菌(Raffaelea quercivora)が繁殖すると辺材部は変色し、その周縁部(反応障壁と呼ばれる)では菌の広がりを防ぐ様に木部細胞内腔に閉塞物質が現れる。この閉塞物質はリグニン様物質とも呼ばれているが、ごく微量しか存在せず、かつ抽出などにより単離することができないため、直接の化学分析によってリグニンと類似した構造を持つことが確かめられているわけではない。本研究では、閉塞物質の化学構造上の特徴を明らかにすることを目的とした。

反応障壁が存在する部位では、その他の辺材部と比較して、リグニン量が高く、芳香核構造は相対的にグアイアシル核に富む事が、先行研究により示唆されている。しかしこの事に基づいて、閉塞物質がリグニンと類似した構造を持ち、かつ、グアイアシル核に富むと結論することはできない。その理由として、(1)細胞壁成分の定量値が部位によって異なる現象は、閉塞物質の存在に関わらず普通に見られるものであること、(2)菌による細胞壁成分の分解の結果としても細胞壁成分の定量値に相違が現れ得ること、の二点があげられる。そこで第二章において、変色領域およびその周縁部を細かく分割した試料を分析し、対照試料である正常材の分析値の分布範囲と比較する事によって、閉塞物質の分布が、細胞壁成分の分析値の相違に対応しているかどうかを厳密に検討した。その結果、反応障壁では、対照試料で得られた分析値の分布範囲を超えてリグニン量が高く、ニトロベンゼン酸化によって得られたシリンガアルデヒド/バニリン比(S/V比)の低い区分(すなわち相対的にグアイアシル核に富む区分)が確認された。元素分析により得られた酸素/炭素比(O/C比)もリグニン量に対応して反応障壁で低い値であった。中性糖分析により得られたグルコース量、マンノース量も、反応障壁で対照試料の分布範囲を超えた区分が見られた。以上により、閉塞物質が確認された反応障壁では、確かに、細胞壁構成成分の分析値が対照試料とは異なることが確認され、この差異は、菌の繁殖と相関したものであると結論づけた。一方変色領域の内側では、対照試料で得られた分析値の範囲に収まっていた。内側は外側よりも菌に長くさらされていたのであるから、もし、菌による細胞壁の分解が細胞壁分析値の相違の原因であるとすれば、相違の程度は変色領域の内部で著しいと言う逆の結果を生んだはずである。したがって変色領域外側に見られた特異な分析値は菌による細胞壁の分解では説明できず、菌に対する樹木の防御反応によるものであると推定した。

以上の検討によって、閉塞物質の存在に対応して、その部位における細胞壁構成成分の分析値が異なっていることが明らかになったが、閉塞物質自体の化学構造上の情報は得られていない。そこで、第三章では閉塞物質を直接分析する事を試みた。近接場顕微赤外分光装置(IR-SNOM)は、近接場光という波長に依存しない小さなサイズの光を用いる事で、潜在的には1μmよりも小さな分解能でIRスペクトルが得られる装置である。本研究では、閉塞物質の分析にIR-SNOMを適用し、得られた近接場IRスペクトルの解析により閉塞物質の化学構造上の情報を得ることを試みた。

植物試料をIR-SNOMで分析する手法は確立されていない為、まず分析法の確立を行った。様々な試みの結果、プローブ先端に付着した閉塞物質を測定することにより、良好な近接場IRスペクトルが得られた。閉塞物質の近接場IRスペクトルは、木部組織の近接場スペクトルとは異なっており、エステル由来の吸収ピークが強い反面、C-H結合振動由来の吸収が殆ど確認できない程弱いものであった。樹木成分に関連した種々の化合物の近接場IRスペクトルと比較した結果、閉塞物質は、リグニン様物質と呼ばれているにもかかわらず、化学構造上の特徴は、リグニンよりはむしろタンニンに近いものであることが明らかになった。

このように本研究では、コナラ材のカシノナガキクイムシによる虫害に伴って観測される樹木辺材の細胞壁構成成分の分析値の相違が、菌による細胞壁の分解ではなく、樹木の防御反応によってもたらされたものであることを厳密な化学分析によって明らかにし、また、植物試料に対して近接場顕微赤外分光法を世界で初めて適用することにより、防御反応として生産される閉塞物質の化学構造上の特徴の一端を明らかにすることができた。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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