学位論文要旨



No 128793
著者(漢字) 小泉,健二
著者(英字)
著者(カナ) コイズミ,ケンジ
標題(和) 光電子分光による低次元有機導体の電子状態の研究
標題(洋)
報告番号 128793
報告番号 甲28793
学位授与日 2012.12.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第841号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 物質系専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 辛,埴
 東京大学 教授 岡本,博
 東京大学 教授 森,初果
 東京大学 准教授 百生,敦
 東京大学 准教授 中辻,知
 東京大学 准教授 石坂,香子
内容要旨 要旨を表示する

第1章 序論

固体で発現する諸物性はその電子状態と深く結びついており、特に物質のフェルミ準位(EF)近傍の電子状態を知ることは物質の設計や応用にとって非常に重要である。その電子状態を直接観測することのできる手法として角度分解光電子分光(ARPES)がある。この手法は占有状態を直接観測できるのみではなく、電子構造を運動量まで分解して観測することのできるほぼ唯一の方法であり、非常に強力である。

有機導体はその低次元性に基づく電荷密度波(CDW)やスピン密度波(SDW)、エキゾチック超伝導など多彩な基底状態を取りうるとともに、金属相においても次元のクロスオーバーによるFermi液体からTomonaga-Luttinger液体へのクロスオーバーなど、多様な物性を含む独特で魅力的な物質群である。しかし有機導体は試料の取り扱いが難しく、測定が困難なことから、特にARPESの報告は世界的にもほとんどない。

VUVレーザー(7eV)を用いたARPES[1]は、レーザーの単色性により高分解能であるだけでなく、低エネルギーのため光照射による損傷を抑えることができ、また有機導体中で伝導を担うs,p電子に対するクロスセクションが大きいといった特徴を持つ。さらにはバルク敏感性も併せ持つため、有機導体の測定に有利な手法である。そこで、我々はVUVレーザー光電子分光を用いて、典型的なCDW物質であるTSF-TCNQの及び典型的なSDW物質であり次元クロスオーバーを示す(TMTSF)2PF6の電子状態とその温度変化を詳細に調べた。

第2章 低次元有機導体の基礎物性

一次元導体では電子-格子相互作用により、パイエルス転移を示し、電荷密度波(CDW)を生じることが知られている[2]。一般的にCDW転移はフェルミ面をネスティングベクトル(QCDW)だけ平行移動した時の重なりであるフェルミ面のネスティングの良さに支配されている。一次元系では平行な2枚のフェルミ面が実現しており、QCDW = 2kFに対して良いフェルミ面のネスティングを示すため、低温で2kF-CDWを生じる。一方、次元性によって金属相での振舞が異なることが知られている。二次元や三次元ではFermi液体に従う振舞を示し、低エネルギーの電子状態は準粒子励起として振舞う。これに対して、一次元では相互作用の効果が非常に強く現れるために、電子-電子相互作用がたとえ弱くても準粒子励起が抑制され、低エネルギーの電子状態は電荷とスピンの集団励起になり、Tomonaga-Luttinger液体に従う振舞を示す。このため、現実の系で実現される擬一次元導体では一次元伝導鎖間のホッピングにより一次元から二次元へのクロスオーバーが起こり、金属相でTomonaga-Luttinger液体からFermi液体へのクロスオーバーが示唆されている[3]。

このように擬一次元導体では電子-格子相互作用や電子-電子相互作用が競合的に顕著に現れるため、二次元や三次元導体とは異なった独特で多彩な物性を示す。そのためその電子状態を理解することは非常に重要である。しかし、今まで一次元系での電子状態の研究は無機物を中心に行われてきたが、二次元系の中に現れる一次元性を議論しているものが多く、擬一次元導体の研究は少ない。その中で、たとえば典型的な擬一次元CDW物質のK0.3MoO3やBaVS3があるが、前者はCDW転移点が180Kと高く、また後者は多軌道であり複雑な振舞を示すため、それらの研究[4,5]からは、擬一次元導体の電子状態、特に金属相の電子状態に関する知見は得られておらず、擬一次元導体で発現する物性の全容は未だに明らかではない。そこで我々は有機導体に注目した。

第3章 光電子分光

光電子分光は固体の電子状態を直接観測できる非常に強力な実験手法であるが、有機導体では劣化の問題により測定が困難であった。しかし今回7eVのVUVレーザーを用いることでその問題を克服した。これはガスを使わないため吸着劣化が少なく、低エネルギーのため光照射によるダメージが低く抑えられるためである。さらにこのレーザーは有機導体の電気伝導を担うsやp電子に対して高いクロスセクションを有し、さらには光電子が低運動エネルギーであるためバルク敏感性も併せ持ち、効率のよい高精度測定が可能となった。

第4章 TSF-TCNQの角度分解光電子分光

TSF-TCNQは典型的な擬一次元導体であり、低温で2kF-CDWを形成する。さらに電子構造が単純で、CDW転移点は29Kと低く、擬一次元導体の電子状態を明らかにするのに最適な物質であるといえる。このTSF-TCNQはX線散乱実験から室温から温度を下げていくと200K程度で一次元の2kF-CDWゆらぎが生じ、100Kでゆらぎが2次元的になり、55Kで三次元の短距離秩序を形成し、最終的に29Kで三次元の長距離秩序を形成することが知られている[6]。

図1は第1ブリルアンゾーンのEFの強度プロットの温度依存性であり、強度はすべて規格化してある。これからすべて一次元的な形状であることがわかる。しかし、その強度と鋭さに違いが見られる。250Kから60Kでは強度が増大しつつ鋭くなっている。これは60Kにおいて運動量が良い量子数になっていることを示している。また、60Kから6Kでは鋭さはそのままに強度が減少している。これは6KでCDWギャップが開くためである。

このARPES結果においてEF近傍に準粒子ピークが現れるT*=200Kは、ちょうどX線散乱[6]で一次元的な2kF-CDWゆらぎが観測され始める温度T1Dに対応している。このことはT*以下で系のコヒーレンスが良好になりフェルミ面が明瞭になるとともに、ネスティングが効くようになることを示唆しており、CDW転移には準粒子が形成され、運動量が良い量子数になることが必要であることがわかった。

また低温においては0.2eVという大きなスケールの折れ曲がり(キンク)構造を観測した。これは電子分子内振動相互作用や電子電子相互作用の繰込みが起きていることが考えられる。

第5章 (TMTSF)2PF6の角度分解光電子分光

(TMTSF)2PF6は多彩な物性を有するが、今までARPESの測定が困難であり、成功報告はなかった。そこでレーザーARPESを用いて測定を行った。その結果、図3.(a)に示したように(TMTSF)2PF6のバンド分散を世界で初めて観測し、ta=380meVとしたときのTight-binding計算の結果[7]とよく合う分散が得られた。従って(TMTSF)2PF6は弱相関であることがわかった。また(TMTSF)2PF6のフェルミエッジも観測された(図3(b))。これは(TMTSF)2PF6の2次元性を反映していると考えられる。さらには(TMTSF)2PF6のフェルミ面も初めて観測することに成功(図3(c))し、1次元的だがワーピングしているフェルミ面が得られた。ta=380meV,tb=10meVとした場合のTight-binding計算の結果とよく合うことから、得られたフェルミ面は計算結果のtbの値よりも小さく計算結果は2次元性を過大評価していることがわかった。

第6章 次元性と電子状態

2次元や3次元金属では素励起が準粒子であり、フェルミ準位近傍の状態密度に有限のとびが観測される。一方、1次元金属では相互作用がたとえ弱くても準粒子が抑制され、フェルミ準位近傍にはなだらかな立ち上がりになりとびは観測されない。そこで(TMTSF)2PF6とTSF-TCNQ、TTF-TCNQの次元性の違いとフェルミ準位近傍の状態密度を比較してみた。その結果1次元性が弱い(TMTSF)2PF6ではフェルミエッジが観測され、1次元性の強いTSF-TCNQとTTF-TCNQではフェルミエッジが観測されなかった。したがってフェルミ面の2次元性とフェルミ端が対応していることがわかった。

第7章 まとめ

TSF-TCNQ

CDW転移には準粒子が形成され、運動量がよい量子数になることが必要

大きなエネルギースケールのキンク構造が観測され電子分子内振動相互作用や電子電子相互作用の繰込みが起きていることが考えられる。

(TMTSF)2PF6

初めて電子構造を直接観測し、20Kでは2次元か3次元金属であり、フェルミ液体に従うことが示された。

次元性と電子状態

擬1次元有機導体(TMTSF)2PF6とTSF-TCNQ、TTF-TCNQのフェルミ面と状態密度を比較した結果フェルミ面の2次元性とフェルミ端が対応していることがわかった。

[1]T. Kiss et al., Phys. Rev. Lett. 94, 057001 (2005); T. Kiss et al., Rev. Sci. Instrum. 79, 023106 (2008).[2]G. Gruner, Density Waves in Solids (Addison-Wesley, Massachusetts, 1994)[3]S. Biermann et al., Phys. Rev. Lett. 27, 276405 (2001).[4]L. Perfetti et al., Phys. Rev. B 66, 075107 (2002).[5]S. Mitrovic et al., Phys. Rev. B 75, 153103 (2007).[6]S. Kagoshima et al., Solid State Commun. 28, 485 (1978).[7]P. M. Grant, J. Physique 44(1983)C3-847.

図1:フェルミ準位の強度プロットの温度変化強度はすべて規格化してある

図3.20Kの(TMTSF)2PF6のバンド分散(a)とフェルミ面(b)とフェルミ波数のエネルギー分布曲線(C)

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、「光電子分光による低次元有機導体の電子状態の研究」と題し、全6章から成り立っており、真空紫外線レーザーを用いたバルク敏感光電子分光を用いて、擬1次元有機伝導体の電子状態の研究を行っている。

第1章の序論では、有機伝導体の興味深い電子物性を研究する意義について述べている。有機伝導体は、電荷密度波(CDW)やスピン密度波(SDW)、エキゾチック超伝導など多彩な基底状態を取りうるとともに、金属相においてもFermi液体からTomonaga-Luttinger液体への次元のクロスオーバーなど、多様な物性を含み、独特で魅力的な物質群であることを述べている。

第2章では、光電子分光の原理について述べた。また、有機導体は試料の取り扱いが難しく、測定が困難なことから、特に角度分解光電子分光の報告は世界的にもほとんどないことを述べている。真空紫外線レーザー(7eV)を用いた角度分解光電子分光は、レーザーの単色性により高分解能であるだけでなく、低エネルギーのため光照射による損傷を抑えることができ、また有機導体中で伝導を担うs,p電子に対するクロスセクションが大きいといった特徴を持つ。さらにはバルク敏感性も併せ持つため、有機導体の測定に有利な手法である事を述べている。

第3章では、典型的な擬1次元有機導体であるTTF-TCNQのレーザー光電子と、ヘリウムランプを用いた光電子分光を比較した。レーザー光電子が、クロスセクションの関係からTTFバンドを観測していること、及び、そのバルク敏感性から、ヘリウムランプで観測した実験結果と異なり、バンド計算でよく説明できることを示している。表面とバルクで電子状態が異なるのは、表面分子の傾きが異なるためにバンド幅が異なるためであると思われる。

第4章では、TSF-TCNQの角度分解光電子分光の結果を示している。TSF-TCNQは典型的な擬一次元導体であり、低温で電荷密度波(CDW)を形成する。さらに電子構造が単純で、CDW転移点は29Kと低く、擬一次元導体の電子状態を明らかにするのに最適な物質である。ブリルアンゾーンのEFの強度マッピング(Tc以上ではフェルミ面となる)の温度依存性では一次元的な形状であることを示している。高温では、Tomonaga-Luttinger液体的な振る舞いを示しているが、バンド分散は低温になるに従い、バンド分散のバンド幅は鋭くなり、光電子ピークが、フェルミ準位に急速に近づく現象を発見した。これは、有機物の擬一次元導電対特有の興味深い現象であると思われるが、その詳細は今後の研究課題である。運動量分布関数(MDC)の幅は、電気抵抗を比例し、光電子スペクトルは、電気抵抗値をよく説明できることが分かった。一方、Tc以下で、CDWギャップを観測することが出来、他の実験方法で観測されたCDWギャップと大体一致した。また、低温においてはTSFバンドの分裂を観測した。これはスピノンとホロンのバンド分裂と考えられ、1次元ハバード模型の計算からU/t=1.0、t=0.28eV程度であると見積もられ、TTF-TCNQの場合より、弱相関系であることが判明した。

第5章では、(TMTSF)2PF6の角度分解光電子分光について述べている。(TMTSF)2PF6は多彩な物性を有し、大変興味深い物質であることが分かっているが、今までARPESの測定が困難であり、成功報告はなかった。そこでレーザーARPESを用いて測定を行った。その結果、 (TMTSF)2PF6のバンド分散を世界で初めて観測した。また(TMTSF)2PF6のフェルミエッジも観測され、(TMTSF)2PF6が2次元か3次元のフェルミ液体に従う金属であることを示唆している。また、SDW転移点上下のΓ-X方向のkFのEDCの温度変化からリーディングエッジのシフトを観測し、そのシフト量からSDWギャップが3meV程度であることがわかった。これは、STM測定や平均場の理論から求められた値と、コンシステントである。

第6章では、研究の総括がなされている。

以上、論文提出者は、本研究で、これまで不可能であった、有機物の光電子分光に成功し、多様で、魅力的な物質群である擬一次元有機伝導体の研究に大きく寄与することが出来た。電荷密度波(CDW)やスピン密度波(SDW)、エキゾチック超伝導など多彩な電子状態の研究とともに、Fermi液体からTomonaga-Luttinger液体への次元のクロスオーバーなどの研究において、大きな成果を上げることが出来た。

なお、本論文の一部は石坂香子、加藤礼三、木須孝幸、大川万里夫、辛埴各氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験、解析を行ったものであり、また共同研究者全員の同意承諾書が提出されていることに鑑み、論文提出者の寄与は十分であると判断できる。

従って、本委員会は論文提出者に対し博士(科学)の学位を授与できると認める。

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