学位論文要旨



No 128800
著者(漢字) 山口(桑島),薫
著者(英字)
著者(カナ) ヤマグチ(クワジマ),カオル
標題(和) 人権実践に関する人類学的研究 : 日本におけるドメスティック・バイオレンス被害者支援を例に
標題(洋)
報告番号 128800
報告番号 甲28800
学位授与日 2012.12.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1177号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山下,晋司
 東京大学 教授 木村,秀雄
 東京大学 准教授 関谷,雄一
 東京大学 教授 佐藤,安信
 愛知県立大学 教授 須藤,八千代
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、現代社会を創造するための基本原理の一つである「人権」をめぐる実践についての人類学的研究である。

本論文では、女性の人権侵害として国際的に注目されているドメスティック・バイオレンスをテーマに、女性の人権というグローバルな概念が日本固有の文脈において理解、解釈されていったプロセスを、DV被害者支援政策の実施現場に焦点を当てて記述分析する。その上で、本論の主張は以下の3点にまとめられる。ドメスティック・バイオレンスの問題において、(1)人権概念は実践的に検討されなければならない、(2)人権概念は動態的に把握されなければならない、そして(3)今日における人権概念の刷新の可能性は市民団体の実践において見出される、という点である。

従来、多くの社会で容認されてきた妻や恋人への暴力が犯罪として再定義された背景には、女性の人権の進展を目指す国際的潮流があった。遡れば、国際連合の設立直後から国連婦人の地位委員会を中心に、公私の両領域における女性の人権問題への取り組みが始まった。1979年に女性差別撤廃条約が採択され、1990年代には女性の人権に関する国際条約や宣言が次々と制定された。国連の会議では、女性に対する暴力の防止と撤廃に関する意識向上や法律、政策、プログラムの整備に向けた各国政府でのさらなる取り組みが要請された。女性の人権についての概念はトランスナショナルに流通し、NGO活動家や政府代表、弁護士を媒介に、各ローカル社会の文脈へと適用されている。

日本では、1990年代後半に「ドメスティック・バイオレンス(DV)」という言葉が広まり、2001年には「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律(通称、DV防止法)」が制定された。同法は、被害者の支援と暴力の防止を謳い、警察や裁判所、地方公共団体、民間団体などが多角的に被害者の支援に関わることを規定している。都道府県は、婦人相談所などにおいて、配偶者暴力相談支援センター機能を果たし、相談、情報提供、一時保護といった一連の被害者支援を行うことが義務づけられた。暴力から逃れたい、あるいは逃げてきた被害者が自立へ向かう支援が制度化されたのである。

第1章で論じたように、人権の概念に対し、従来の人権研究は法解釈や制度分析を中心にしてきた。その傾向はDVに関する政策研究でも同様にみられ、被害者の人権を守る法制度の構築という目的-手段の枠組みの中で論じられてきた。一方、人類学は文化相対主義を標榜する立場から、人権を人権普遍主義と文化相対主義の対立構図において論じてきた。

だが、人権に関する議論を進展させるためには、人権に対する制度論的および二元論的なアプローチを超える必要がある。その一つとして、人権を、現場の実践から捉え直し、かつグローバルからローカルへと流通するプロセスにおいて捉えることを試みる。

このような問題関心の下、本論文では、人類学者S.E.メリー(Sally Engle Merry)が「翻訳」と呼ぶ分析枠組みに依拠しながら、グローバルからナショナルへ、さらにナショナルからローカルへという、女性の人権問題として定義づけられたDVについての概念の流入と国内の制度的文脈におけるその展開を記述分析する。

第2章では、国連を中心とした国際社会において形成されたグローバルな女性の人権の概念が日本のナショナルな制度的文脈へと翻訳されたプロセスについて記述する。日本の政策レベルでは、(1)加害者よりも被害者救済へ焦点化したこと、(2)被害者が一時避難するシェルター・プログラムは婦人保護の構造へと調整されたこと、(3)政策上、その対象は女性から配偶者へと限定化したこと、しかし実際の対象は(4)福祉的救済の必要な女性へと定位されたこと、が挙げられる。

第3章では、女性の人権というグローバルな概念が、日本のDV被害者支援をめぐる行政的展開において社会福祉を中心とした住民生活再建へと翻訳されていったプロセスを論じる。政策研究が前提とする個人の秩序化や社会の組織化という単線的な展開に回収しきれない、政策が内包する矛盾や葛藤を実施現場の職員の語りや行為の分離・亀裂において捉え、記述する。その上で、行政体はグローバルな女性の人権概念を国内法の枠内で自治体業務へと翻訳し直していることを論じる。

第4章は、従来のDV観とは異なる視点から囲い込む力の作用としてのDVの構造を論じる。DVにおいては、被害者が逃げられないようにする囲い込みと、暴力を隠蔽している囲い込みという二つの囲い込みの機制が働いている。被害者の支援においては、被害者が暴力を振るわれる環境から脱出することを困難にする幾層もの壁による囲い込みがあることを理解しなければならない。複数側面的な囲い込む力の作用というDVの構造を提示することは、実際の被害者支援がこのような複数の囲い込む力のそれぞれに対応を迫られながら形成されてきたことを理解する上で重要な作業と位置付ける。

第5章は、日本で1980年代終わりから始まった市民団体による一時保護施設の開設の背景について述べる。さらに、被害女性に対する一時保護現場での支援実践を基に、市民団体における人権を守る支援実践とグローバルな人権概念との関係について論じる。

第6章は、女性の人権概念の重要な構成要素である自己決定について市民団体の例を基に論じる。一時保護施設では、従来の女性運動が志向してきたような主体的な自己決定を理念として据えながら、実際には自己責任とすり替えるような自己決定でも、パターナリスティックな介入でもない、時間的幅のある緩やかな自己決定が支援者と女性との相互プロセスにおいて生成している。

第7章では、人権の実践を翻訳という分析枠組みで論じる中から浮き彫りになったことを総括し、今後の人権の人類学の可能性について述べる。

本論文では、グローバルな人権概念を国内法制度において一義化する中で支援業務に携わってきた行政体と、グローバルな人権概念と共鳴しつつもそこへと帰結しない柔軟な実践を展開している市民団体の実践が浮き彫りとなった。それを基に、プロセスとしての人権のあり方を捉えることが重要であること、そして、人権を守る市民団体のより柔軟な実践がグローバルな人権の概念を豊かにする可能性を持つことを指摘する。人権概念のローカル的文脈における翻訳をグローバルな場へとフィードバックするだけでなく、翻訳においていかなる新しい人権概念が生まれているかを捉える視点がこれからの人類学に求められる。

本論文は、日本固有の文脈での翻訳プロセスを記述分析する中から、人権概念の翻訳において新たに見えてくることを抽出し、それをグローバルな人権概念と関係づけることで女性の人権についての理解の深化と実現への寄与を目指すものである。

審査要旨 要旨を表示する

山口(桑島)薫氏の論文「人権実践に関する人類学的研究――日本におけるドメスティック・バイオレンス被害者支援を例に」は、ドメスティック・バイオレンス(以下DV)をテーマにした人権をめぐる実践についての人類学的研究である。とくにDV被害者支援政策の実施現場に焦点を当てた記述と分析が行われている。本論文は、山口(桑島)氏が主に2005年12月~2009年9月にかけて、A市とB市において行ったフィールドワーク(参与観察)によって得られたデータに基づいている。

以下に、本論文の各章ごとの概要について述べる。第1章では、序論として、本論のテーマであるDVが解題され、このテーマに接近する本論の理論的枠組み──人権の人類学および政策の人類学──が提示される。第2章および第3章では、S.メリーが呈示した人権概念の「翻訳」の分析枠組みに依拠しながら、グローバルな女性の人権問題として定義づけられたDV概念が日本国内での制度的文脈においていかに展開されたかが記述される。すなわち、第2章では、DVをめぐる国内法と政策について、A市の元婦人相談員の語りをもとに、DV防止法に位置づけられる以前の婦人保護事業とは福祉行政の中でどのような位置づけにあったのか、婦人保護事業がどのようにDV政策に取り入れられ、婦人保護事業に携わる相談員達にいかなる影響を及ぼしたのかが述べられる。第3章では、2001年以降、DV政策が国レベルから地方公共団体へと「下りる」ことに着目し、B市のDV被害者支援施策の実施について検討されている。

第4章では、従来のDV観とは異なる視点から、「囲い込む力」の作用としてのDVの構造が論じられる。現行のDV被害者支援政策は、被害者を加害者から切り離し、自立へ向けて支援を提供するものであるが、実際には暴力の起こる関係から離脱できない、あるいはせっかく逃げてもまた戻っていくということが生じていることが述べられる。第5章では、市民団体プレイスが運営する、暴力被害を受けた女性を一時的に保護する一時保護施設での支援実践の実態が民族誌的に検討される。一時保護施設の最大の目的は、入所している被害者の心身の安定と安全の確保、そのための管理を行うことである。そこには様々な葛藤やジレンマが生じることがあるが、プレイスでは、一方で厳しい管理を行いつつも、他方で女性の自己決定の尊重という原則を取り入れながら、グローバルな人権概念と自らの支援活動の間に一貫性を見出そうとしている。

第6章では、女性の人権の概念を構成する重要な要素である「自己決定」について論じられる。女性の権利運動において早くから謳われてきた自己決定は、自律的かつ主体的な、いわゆる近代西洋的自己観に基づいたものであるが、他方で、職員と被害女性との相互関係において、成長のプロセスとしての自己決定が行われていることが検討されている。第7章では、結論として、人権の実践を翻訳という分析枠組みで論じる中から明らかになったことが総括され、今後の人権をめぐる人類学の方向性が示唆されている。

以上の構成を持つ本論文の意義は、以下の通りである。第1に、従来人権が法解釈や制度分析を中心に研究されてきたのに対して、本論は人類学的なフィールドワークを踏まえて、人権を現場の実践から捉えようとしている点に特徴がある。日本における人権の人類学的研究はこれまでほとんど行われておらず、本論は先駆的な試みである。

第2に、人権という概念は普遍的に捉えられるが、本研究は、人権をグローバルから、ナショナル、さらにローカルな次元にいたる「翻訳」のプロセスとして捉えている。ここで言う翻訳とは、国際的な人権概念のレトリックや構造をローカルな文脈へと調整、適用することを意味し、この翻訳プロセスへの注目を通して、グローバルな人権概念が日本の文脈においていかなる具体的形をとってきたのかを明らかにした。

第3に、女性の人権を構成する重要な要素の一つである「自己決定」について、グローバルな人権概念には収斂しない自己観に基づいた実践が行われていることを指摘した。すなわち、現場の実践においては、自律的で主体的な、近代西洋的な自己観ではなく、相互関係に規定された自己観に基づいた支援が展開されている。このような長期的かつ相互関係における自己決定のプロセスが被害を受けた女性たちが生きる力をつけるための支援としてきわめて重要である点を明らかにした。

審査においては、本論文の調査地の表記法、DV概念、翻訳概念などについて疑問や批判的なコメントも提出された。しかし、本論文の持つ価値は、十二分に高いものがあり、文化人類学の研究に対して重要で貴重な貢献であると判断された。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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