学位論文要旨



No 128801
著者(漢字) 李,世淵
著者(英字)
著者(カナ) イ,セヨン
標題(和) 日本社会における「戦争死者供養」と怨親平等
標題(洋)
報告番号 128801
報告番号 甲28801
学位授与日 2012.12.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1178号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 桜井,英治
 東京大学 教授 ロバート,キャンベル
 東京大学 教授 黒住,真
 東京大学 准教授 外村,大
 三重大学 教授 山田,雄司
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、<怨親平等=「敵味方供養」>説を批判的に検討し、「戦争死者供養」をめぐる日本社会の伝統の一端を探ってみたものである。具体的には、怨親平等の文言を介して展開した「戦争死者供養」の論理を「怨親平等論」と想定し、その歴史的変容を跡づけた。また、近代にいたって怨親平等の文言が急浮上した経緯を追跡し、さらに文禄・慶長の役(壬辰倭乱)直後に高野山奥の院へ建てられた高麗陣供養碑をとりあげ、「敵味方供養」の事例研究をも試みた。

仏教典籍に頻出する怨親平等は、古来日本社会にもよく知られていた。たとえば、最澄、空海、明恵、法然など名立たる僧侶たちが様々の文脈で怨親平等を援用したのだが、怨親平等を「戦争死者供養」の場へ持ち込み、「怨親平等論」というべき言説をはじめて説いたのは、渡来僧の無学祖元だった。祖元は、蒙古襲来で犠牲となった「戦争死者」を供養する場で、仏教的原理からすれば敵味方の区別は意味を有さず、したがって「戦争死者」一般が平等に救済されると力説した。

祖元によって打ち出された「怨親平等論」は、祖元の法脈を汲んだ夢窓疎石によって大いにとりあげられた。ただ、その中身には相当の変化が認められる。疎石の「怨親平等論」は、生前の怨念を打ち払うよう「戦争死者」を説得する文脈のものであり、具体的には、後醍醐天皇怨霊を慰め諭す脈絡のものであった。疎石の真意はともあれ、彼の理屈は、当時怨霊鎮魂を導く境遇に立たされた足利将軍家にとって怨霊無害化の論理として読み取れるものであった。

南北朝の成立以来高まってきた、怨霊鎮魂における足利将軍家の位相は、義満時代にいたって「一人」と押し上げられたが、このことと連動し、疎石流の「怨親平等論」は夢窓派禅僧たちに受け継がれ、北条高時、足利直義、山名氏清の怨念を鎮める文脈で説かれ続けた。要するに、南北朝時代の「怨親平等論」は、怨霊鎮魂における足利将軍家の位相変化を背景に、怨霊無害化の論理として展開したのである。疎石流の「怨親平等論」は、中世後期にいたっても「五山文化圏」で記憶されていたが、それが社会一般へ広がることはなかった。

「戦争死者」を軸にする中世の「怨親平等論」は、大坂の陣や島原の乱などで継承されず、長き平和時代の到来とともに断絶する。ただ、怨親平等の文言自体は、近世を通してむしろ幅広く流布していった。中世において怨親平等はまず禅僧たちに馴染みの言葉だったが、近世の場合、祖師信仰、教学振興、出版文化の三つの要素を背景にしつつ、仏教界一般で再三認知されていった。宗派をとわず前触れもなく、怨親平等の文言を援用する近代の僧侶たちの態度は、近世における怨親平等の用例の幅広い流布を背景にする。

近世における怨親平等の用例に鑑みれば、怨・親の対立構図が浮上する明治初期に「怨親平等論」が語られても不思議でない。だが、「怨親平等論」は、西南戦争期になってはじめて復活する。この動向は、官賊の峻別という明治政府の方針や、その方針に追従せざるをえなかった仏教界の境遇によるものであった。

西南戦争期において怨親平等は、供養主体を軸にする文脈で援用されたり、摂受不捨する仏の立場を言い表す文脈で援用されたりした。このことは、<怨親平等=「敵味方供養」>説の淵源が西南戦争期まで遡ることを物語るとともに、近代の「怨親平等論」が複雑な文脈を伴うものであることを示唆する。

怨親平等が西南戦争後にも説教の場でしばしばとりあげられるなか、日清戦争が勃発する。「文明」の戦争を貫き通そうとする政府を方針を踏まえ、仏教界でも「文明」の精神としての怨親平等が爆発的に語られてゆく。近代における怨親平等の急浮上の原因は、赤十字をキーワードとしつつ国際社会へ進出しようとした政府の態度や、それに積極的に対応しようとした仏教界の姿勢にもとめられる。

さて、「敵味方供養」の場で怨親平等は、宗教的文脈で語られる場合もあったが、よく政治的文脈で語られた。「文明」の行為としての怨親平等供養は、天皇の「仁」「慈」へ収斂されつつ、「文明」の戦争を正当化する装置として機能した。一方、怨親平等は味方供養の場でも語られ、「敵味方供養」のニュアンスをもつ挿入句として援用されたり、「戦争死者」への語りかけとして援用された。前者は、生者を軸にする「怨親平等論」が主流たっだことを示唆し、後者は、にもかかわらず、死者を軸にする中世的文脈が生き残っていたことを物語る。日清戦争期に見出される、以上の内容は、日露戦争期にも認められる。

第一次世界大戦が勃発し、日本がドイツと交戦すると、仏教界では再三怨親平等が語られはじめる。この時期の「怨親平等論」のキーワードは、「世界」「平和」だった。仏教界は、世界平和の情勢を踏まえ、「世界」「平和」を祈願する「世界的追悼会」を開催し、自らの存在感を国内外へアピールしようとした。それは、表面上宗教的文脈でなされたものだが、仏教界なりの「政治」とも読み取れる。

近代の「怨親平等論」は、満州事変・日中戦争を経ながら転回する。中国大陸への侵略を繰り返した日本政府・軍部は、「敵味方供養」としての怨親平等を宣撫工作の一環として位置づけていったが、仏教界もこの動向に積極的に対応した。中国大陸での戦線が拡大するにつれ、「怨親平等論」の語りの場は狭まれてゆき、この時期の「怨親平等論」は、もっぱら「日華親善」の文脈で語られた。それは、具体的には、「我々日本人は怨親平等の見地から中国人戦死者をも供養してあげている、あなたたち中国人も怨親平等の立場から日本人への怨みなど捨ててほしい」、という内容のプロパガンダだった。

アジア太平洋戦争期に突入すると、満州事変~日中戦争を通じて浮彫りとなった怨親平等の政治的文脈が一層強調されるが、その過程で脚光を浴びたのが興亜観音である。興亜観音は、昭和戦前期に軍官民一体の形で展開した観音信仰運動と、宣撫工作としての「怨親平等論」が結びついたところで出現した。松井石根による熱海興亜観音の造営を皮切りに、数々の興亜観音が「日華親善」の表象として作られ、日本各地や中国などへ迎え入れられた。

以上のように、「怨親平等論」は、怨霊鎮魂、「文明」、「世界」「平和」、「日華親善」など、日本社会が抱え込んでいた懸案へつながるキーワードを介して展開した。一つ見逃せないのは、中世以来の「怨親平等論」が、ほぼ例外なく、公権力の動向と密接に関わっていた点である。個人レベルの宗教心を丸ごと否定することはできないが、日本社会の「怨親平等論」の場合、それは純粋な形で保たれず、無意識的に政治へ動員されたり、自覚的に政治へ接続された。

さて、本論文では、「怨親平等論」の追跡に引き続き、「敵味方供養」の事例研究として、高麗陣供養碑の建立経緯や、その後の流転ぶりを考察した。高麗陣供養碑は、慈悲と戦功顕彰という二つの文脈が混淆したところで誕生した。戦勝記念碑としての高麗陣供養碑は、生者中心の世界観へ傾きつつあった中・近世人の心性を象徴するモニュメントだった。高麗陣供養碑をめぐる複数性は近世にも受け継がれ、近世人は高麗陣供養碑を慈悲・霊験・戦勝記念碑の視点で眺めていた。

だが、近代に入ると、近世までの複数性は表面上消え去り、高麗陣供養碑は、まず日本社会の慈悲=「文明」を象徴する史跡と位置づけられた。高麗陣供養碑が日本の赤十字条約加入過程で決定的な役割を果たしたという説の流布は、近代日本社会における高麗陣供養碑の立ち所を如実に物語ってくれる。

<高麗陣供養碑=慈悲=赤十字>という認識が通用するなかでも、「敵味方供養」をめぐる前近代的文脈は、日本社会の底流で脈打っていた。高麗陣供養碑は、前近代社会の朝鮮蔑視観などを背景にしつつ、耳塚とともに戦勝記念碑としても目された。同じ頃怨霊への感覚も確認でき、「敵味方供養」をめぐる「執拗低音」は近代日本社会でも響き続けたことがわかる。このことは、「怨親平等論」が近代を境に生者中心のものへと変容を遂げつつも、中世的文脈、つまり死者の目線に沿った論理を保っていたことと符合するものといえる。

怨親平等をめぐって、日本社会の伝統を構想することは不可能でないが、その中身はより慎重に見定める必要がある。怨親平等という文言が「戦争死者供養」の場でよく援用され、「怨親平等論」というべき理屈が繰り返し展開したことが、日本社会の伝統といえよう。ただ、同じく「怨親平等論」といっても時代的変容がみえることは、上記した通りである。通史的に眺めてみれば、近世を軸にして、死者・聖中心から生者・俗中心へ脱却しようとした中世の「怨親平等論」と、生者・俗が死者・聖を圧倒する近代の「怨親平等論」に両分され、近代の「怨親平等論」は、さらに中世的感覚が見え隠れする日清・日露戦争期と、「戦争死者供養」の場に参じる生者たちがクローズアップされる満州事変以降の時期に両分できる。

「戦争死者」をふくめ、ある存在の不在について何らかの意識をもつことは、きわめて重要な感覚である。慈悲であれ、畏怖であれ、単なる後ろめたさであれ、この感覚は、認識主体の現実生活に一定の自己規律を与えるはずである。管見の限り、この感覚は、「執拗低音」として日本社会に生きており、これからも諸方面において日本社会の底力として大いに働くものと信じる。ただ、この貴重な感覚が、政治的文脈で勝手に動員されることについては、強く警戒しなければならないだろう。日本社会の伝統としての「怨親平等論」の生命力も、この感覚の純粋性を必死に保つことによって担保されるだろう。

審査要旨 要旨を表示する

本論文「日本社会における「戦争死者供養」と怨親平等」は、現前の怨敵と親類を平等に扱うという意味の仏教用語に由来し、近代には赤十字事業や軍部の大陸進出におけるプロパガンダの一環として、また現代にも靖国神社批判の論拠のひとつとして言及されるなど、時代によってその相貌を変化させつつも、古代から近現代まで長く命脈を保ちつづけた「怨親平等」概念の歴史について探求したものであり、とりわけこの概念に付帯していた政治性の問題が主要なテーマを構成している。

全体は本論6章と序章・終章よりなる。まず第1章では、古代から中世前期までの「怨親平等」の用例と「敵味方供養」の実施例がそれぞれに分析され、仏教にいう四無量心(慈悲喜捨)のうち捨無量心を説明するものとして古代以来知られていた「怨親平等」概念と、怨霊思想に強く規定された「敵味方供養」とは、本来別個の出自をもっていたが、鎌倉時代後期の禅僧無学祖元が蒙古襲来で犠牲になった「此軍及他軍」の救済に言及した法語において、両者が結合することが明らかにされる。

第2章では、南北朝期の禅僧で室町幕府の宗教政策上のブレインでもあった夢窓疎石のテキストにおいて、はじめて死者に語りかける「怨親平等」の用法が登場すること、それは北条高時・後醍醐天皇・足利直義など、足利将軍家に祟りをなしうる怨霊を鎮めるための論理として展開したことが明らかにされる。このように、拈香文のような死者に語りかけるテキストにおいて、「怨親平等」に依拠しつつ死者を説得し、怨霊を無害化しようとする言説を、本論文は中世における「怨親平等論」の特質として注目するが、これはその後、龍湫周澤や景徐周麟など、夢窓派の禅僧の一部に継承されるものの、より広く展開するにはいたらず、夢窓派に連なる禅僧で豊臣秀吉のブレインとなった西笑承兌においては、死者に語りかける姿勢は消え、その視線は供養主体たる生者に向けられることが指摘される。

「怨親平等」の語は近世に入って戦争がなくなるといったん潜伏し、幕末の戊辰戦争~西南戦争期に再登場するが、第3章では、近世の潜伏期においても、「怨親平等」の語を含む中世の経典注釈書や祖師の語録等が出版を通じて多数流布し、読まれていたこと、それにより「怨親平等」は僧侶たちのあいだに保存されつづけたことが、多数の文献の博捜にもとづいて主張される。近代に入ると、当初、不安定な国内外情勢から賊軍戦死者の供養・祭祀に消極的であった明治新政府は、賊軍戦死者の遺族や同僚たちの要求を入れて、また反政府世論を抑える目的もあって、明治7年(1874)に賊軍戦死者の祭祀を公式に認可するが、賊軍を含めた戦死者供養=「敵味方供養」が本格的に営まれるようになるのは西南戦争後であること、それまで廃仏毀釈にさらされ、沈黙を守っていた仏教界も、西南戦争をさかいにようやく「怨親平等論」を本格的に展開し、それにより「怨親平等」概念は次第に日常の場へも普及していったことが明らかにされる。

第4章では、明治19年(1886)の赤十字条約加入を経て、日清・日露戦争期に「怨親平等」概念が急浮上する過程が追跡される。当該期の「怨親平等」は、敵味方を区別しない赤十字事業と関連づけられ、また政府の方針にも沿いながら、いわば「文明」の精神として語られるようになったこと、日清戦争時、「怨親平等」にもとづく「敵味方供養」は、文明国日本から野蛮な清国への施しと位置づけられるとともに、宗教的文脈においては仏教における摂受、政治的文脈においては天皇の「聖恩」「仁」「慈」に結びつけられてゆくことが指摘され、それが満州事変・日中戦争以降の仏教界と政府・軍部との協調路線につながってゆくことが展望される。

第5章では、第一次世界大戦~アジア太平洋戦争期における「怨親平等」概念の拡大過程が、仏教界の伝道戦略との関連において跡づけられる。第一次世界大戦後の平和ムードのなかで挙行された「世界的追悼会」には各国の領事たちが招待され、仏教の存在感を国内外にアピールする手段として利用されたこと、日中戦争期には宣撫工作としての戦没者供養が日中双方でたびたび催され、親善を演出する訪日/訪中使節団・視察団が組織されたこと、ついで日中に共通する観音信仰に着目した「興亜観音勧請運動」が宣揚され、大東亜観音讃仰会などの翼賛団体のもと、日本およびアジア各地で興亜観音の建立・寄贈がおこなわれたことなどが明らかにされたうえで、いずれも「怨親平等」をプロパガンダとして巧みに動員した事業であったことが解明される。

第6章では、「敵味方供養」の事例研究として、慶長の役(丁酉再乱)後に島津氏によって高野山奥の院に建てられた著名な碑文「高麗陣供養碑」がとりあげられ、この碑文が近世から近代にかけて供養碑としてばかりでなく、ときに戦勝記念碑として、ときに赤十字条約加入の根拠として利用されるなど、時人の思惑に応じてさまざまな評価のあいだを揺れ動いた実態が浮き彫りにされる。

以上の考察を経て、本論文は「敵味方供養」や「怨親平等」を赤十字的な博愛=「文明」の枠組で理解するのはあくまでも近代人の認識であることを強調しつつ、にもかかわらず近代人の認識がすべてそこに収斂するわけではなく、そこには丸山真男のいう「執拗低音」として、さまざまな前近代的文脈が流れこんでいることにも注意を促している。

審査では、仏教だけでなく、天皇・国家・神道(靖国神社)・キリスト教等との関係についてもさらにふみこむ必要があること、近世~明治初期については仮名草子などの文学テキストや仮名読み新聞なども利用する余地があること、各時代の社会全体の動きにもより広い目配りが必要であること、などの指摘が出されたものの、それらはむしろ今後の研究への助言としてのものであり、本論文自体は、外国人離れした卓抜な日本語力と、古代から近現代にわたる壮大なスケールでひとつの概念の歴史を追跡した学術的意義の高さにおいて、すでに申し分ない水準に達していることが全会一致で確認された。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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