学位論文要旨



No 128802
著者(漢字) ベルタラニチュ,ボシティアン
著者(英字) BOSTJAN,BERTALANIC
著者(カナ) ベルタラニチュ,ボシティアン
標題(和) 第一次世界大戦期における日本とユーゴスラビアの関係 : アドリア海問題と日本に収容されたユーゴスラビア捕虜問題を通して
標題(洋) THE ADRIATIC QUESTION AND THE YUGOSLAV PRISONERS OF WAR IN JAPAN : AN ASSESSMENT OF JAPANESE-YUGOSLAV RELATIONS DURING THE FIRST WORLD WAR
報告番号 128802
報告番号 甲28802
学位授与日 2012.12.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1179号
研究科 総合文化研究科
専攻 国際社会科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 遠藤,貢
 東京大学 教授 酒井,哲哉
 東京大学 教授 中井,和夫
 東京大学 名誉教授 柴,宜弘
 神戸大学 教授 大津留,厚
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、第一次世界大戦における日本とユーゴスラビアの関係を、パリ講和会議で発生したアドリア海問題と日本に収容されたユーゴスラビア捕虜問題を通して全五章にわたって論じたものである。このテーマは、今まで議論の対象に含まれることはなかった。スロベニアや元ユーゴスラビア諸国のヒストリオグラフィーには第一次世界大戦中のユーゴスラビアと日本の関係がほとんど記されておらず、調査も行われていなかったからである。 テーマの枠の中で特に、初めてユーゴスラビアが誕生した時に、日本がユーゴスラビアに対してどのような態度をとったか、更に、バルカン半島におけるユーゴスラビア国民問題に関して調査したものである。

論文の内容を国家間のレベルで分析した上で、日本に収容された南スラブ捕虜兵の視点からも研究問題を検討した。日本で行われた先行研究は、ここ10年間でかなり進んだが、ドイツ系捕虜以外の民族の収容経験は研究されていなかった。南スラブの捕虜たちに関しての資料が残っていたので、分析し、論文に取り入れた。 方法としては、日本外交資料館や防衛省防衛研究所にある資料を分析するとともに、兵庫県の姫路や千葉県の習志野収容所跡地での現地調査を行い、その結果を論文に盛り込んだ。

パリ講和会議開催時の日本外交は、第一次世界大戦後のヨーロッパの政治体制に対して無関心であると考えられていた。中でもヨーロッパの複雑な国民問題の研究に関しては最小限の注意を払うに留まった。しかし、南スラブの捕虜の外交資料発見を通して日本とユーゴスラビアの関係を直接、二つの視点から観察出来るようになった。二つの視点とは国民レベル(捕虜)と 国家レベル(パリ講和会議)である。これらの観点から研究することが出来たので日本で盛んに行われている捕虜研究に対しても貢献することができた。

中でも第一次世界大戦中、日本に収容された捕虜に関する研究を問題として取り上げた。というのも、ヨーロッパの国民問題が日本に収容された捕虜の間でわき起こったからである。つまり日本は捕虜を通してヨーロッパ国民問題を体験したことになる。更に、第一次世界大戦中日本に収容された南スラブ捕虜を通してヨーロッパ各国の国民問題だけでなく、日本の外交史の大きな課題、例えば、シベリア出兵やチェコ軍救済で、ユーゴスラビア捕虜の帰国を考えた際、日本政府はシベリアまで脱走できたチェコ軍に入れようとした。このユーゴスラビア捕虜をチェコ軍に入れるという帰国方法から、日本政府がユーゴスラビアをどのように見ていたかがうかがえる。

論文は序論に続いて、第二章ではパリ講和会議で重要視されたユーゴスラビア問題やそれに関連したアドリア海問題を取り上げた。まずユーゴスラビアという観念の起源や発展を論じ、その後、第一次世界大戦以前に始まった南スラブ諸民族の政治統一について説明した。

第三章では、第一次世界大戦期の日本の外交政策や日本がパリ講和会議で果たした役割を記述した。まず、1914年から戦争の終結までの主な国際問題に対して(特にアジア諸国に対する)日本の外交の姿勢を解説した。続いてパリ講和会議で取り上げられた問題に対して日本がどのような立場を取ったかを調査した。その結果、パリ講和会議では日本は明確な国益に基づき、かつ厳密に定義された交渉戦略を用いた。日本は米国の新たな世界秩序の計画や国際連盟の提案を慎重に見ていた。日本の交渉の目的は明確であり、ヨーロッパ情勢に対しては何の計画も無かったことを明らかにした。

第四章では、パリ講和会議で発生した問題の中からユーゴスラビアとイタリアの領土問題(アドリア海問題)を取り上げた。まずは外交資料を分析し、パリ講和会議の日本の外交使節団や東京の外交調査会がユーゴスラビア問題に対してどのような姿勢をとったかを解説した。更に日本の姿勢を米国、イギリス、フランス、イタリアと比べた。パリ講和会議で始まったユーゴスラビアとイタリアの領土問題は中央ヨーロッパと南東ヨーロッパの権力政治の観点からと、イタリアとハプスブルグ家の歴史的な対立に基づいて考えられていた。和平交渉の間、日本はイタリアの代表団と良い関係を築けたので、情報交換や意見交換はスムーズに行われた。分析した書類の中で、イタリアとユーゴスラビアの対立に関して日本が注目をしていたことが明らかになった。日本は米国と対立し、アドリア海問題に対しても影響が出るほどイタリアと密接な関係を築いていったことが明らかにされた。

第五章では、日本に収容された南スラブ捕虜に関する外交資料を分析した。捕虜問題は三つの段階に分かれている。初めは、1915年に在日イタリア大使館が オーストリア=ハンガリー兵の間に発生した暴力について日本外務省に情報を 求めた時の捕虜問題が見つかった。次の段階は1916年から始まった。そのとき、 在日イタリア大使館は、オーストリア=ハンガリー兵の中から捕虜13人の移動と引き渡しを日本政府に求めた。最後の段階は、戦争の終結時に始まったもので、パリ講和会議に発生したアドリア海問題と同時に、南スラブ捕虜の国籍や帰国の問題化を含んでいる。上記のそれぞれの段階で捕虜問題を調査することで、捕虜間に現れた諸民族や国籍問題を日本政府が間接的に経験したことを示した。

結論としては、以下のような点が明らかとなった。まず、第一次世界大戦が終わった時に日本とユーゴスラビア二国間の関係は薄く、コミニュケーションを取る際はフランスやイギリスを通して行っていたと言うことである。パリ講和会議でユーゴスラビアの代表たちは、日本と直接コンタクトをとりたかったが、日本側は無反応だった。日本は直接バルカン半島の政治情勢に関心はなかったが、国内に収容されたオーストリア=ハンガリーの捕虜間で発生した政治的かつ民族的な争いに関わった。特に彼らの帰国時期が近づいてきた際に、日本はヨーロッパの問題を直接体験したと気づくことになった。更に、1915年に結ばれたロンドン条約では、在日イタリア大使館がオーストリア=ハンガリー兵を求めたとき、日本が裁決者の役目を果たし、捕虜間の争いを解決するときは、捕虜の望みを優先させた。

第一次世界大戦終結の時、捕虜の国籍問題が複雑化していった。というのは、戦後に国籍が細分化されたからである。国籍の複雑化は日本政府にとって新たな困難に直面することになった。バルカン半島の政情が不安定で、パリ講和会議で誕生した新国家の間の国境が定められておらず、紛争と緊張が高まっていた。このような状況下で人の国籍を定めるのは非常に困難であったことが背景にあった。

日本政府は国籍や帰国ルートに関しては捕虜たちの意見を優先させる行動をしばしばとった。一方で捕虜はこの日本政府の対応を、自分達の都合の良い方向に向かうように利用した。日本政府が国籍問題に対応している最中に、他国、つまりフランス、イギリス、イタリア、スペインも捕虜の帰国方法とルートに関して干渉したかったが日本の目的は捕虜を日本から一刻も早く追い出すことであった。

第一次世界大戦中のオーストリア=ハンガリー兵の忠誠心の欠如から脱走兵が多くなり、ハプスブルグ軍の戦力に影響を及ぼした。この事は今までのヒストリオグラフィーで何度も記されている。しかし本研究では、日本に収容されたユーゴスラビア捕虜はほぼ忠誠心を保持し、チャンスがあっても忠誠心を失う事は数少なかったことが明らかになった。さらに日本政府はバルカン半島の国民問題に関して捕虜を通して直接体験したことで、Kaiserin Elisabeth号で捕虜となったユーゴスラビアの81人の海兵隊に対し、きわめて公平な立場をとったことを示すことができた。

審査要旨 要旨を表示する

ベルタラニチュ ボシティアン氏から提出された博士学位請求論文「THE ADRIATIC QUESTION AND THE YUGOSLAV PRISONERS OF WAR IN JAPAN ―AN ASSESSMENT OF JAPANESE-YUGOSLAV RELATIONS DURING THE FIRST WORLD WAR(邦題: 第一次世界大戦期における日本とユーゴスラビアの関係 ― アドリア海問題と日本に収容されたユーゴスラビア捕虜問題を通して)」は、全六章からなり、全体で164頁である。本論文は、第一次世界大戦期における日本とユーゴスラビアの関係について、パリ講和会議において発生したアドリア海問題と日本に収容されたユーゴスラビア捕虜問題を通して論じたものである。本論文の意義は、スロベニアや旧ユーゴスラビア諸国のヒストリオグラフィーにおいてはほとんど記述されず、調査も行われてこなかった第一次世界大戦中のユーゴスラビアと日本の関係に関して、特に初めてユーゴスラビアが誕生した時の日本の対ユーゴスラビア認識に関わる諸問題を包括的に論じているところに認められる。

論文はイントロダクションに続き、第二章ではパリ講和会議において発生したユーゴスラビア問題やそれに関連したアドリア海問題を取り上げている。ここでは、既存研究によりユーゴスラビアという観念の起源や発展を論じ、その後、第一次世界大戦以前に始まった南スラブの政治統一に関する背景的な説明がなされている。

第三章では、第一次世界大戦期の日本外交政策や日本がパリ講和会議で果たした役割が二次資料に基づいて検討されている。ここではまず1914年から戦争の結末までの主な国際問題に対して(特にアジアに対する)日本外交の姿勢が整理されている。それに続いてパリ講和会議で取り上げられた諸問題への日本の立場が検討されている。結果的には、パリ講和会議において、日本は明確な国益に基づき、かつ厳密な交渉戦略を用いた点、日本が米国の新たな世界秩序の計画や国際連盟の提案を慎重にとらえていた点、そして当時はヨーロッパ情勢に対して具体的な計画が無かった点が明らかにされている。

第四章では、パリ講和会議で発生した問題の中からユーゴスラビアとイタリアの領土問題(アドリア海問題)を取り上げている。外交史料を用いて、パリ講和会議の日本の外交使節団や東京の外交調査会がユーゴスラビア問題に対してどのような姿勢をとってきたかが分析されている。その上で、日本の外交姿勢を米国、イギリス、フランス、イタリアとの関係から提示している。ここで明らかにされるのは、日本がイタリアの代表団と良好な関係を築き、情報交換や意見交換はスムーズに行われた点である。そして、分析した文書の中で、イタリアとユーゴスラビアの対立に関して日本が注目をしていたこと、さらには、日本は米国との対立から、アドリア海問題に対しても影響が出るほどイタリアと密接な関係が築かれていったことが示される。

第五章は、本論文の白眉である。ここでは、日本に収容された南スラブ捕虜に関する未使用の外交史料を分析し、これまで知られていなかった史実を明らかにしている。ここで扱われる捕虜問題はいくつかの段階に分かれている。第一に1915年に在日イタリア大使館がオーストリア=ハンガリー兵の間に発生した暴力について日本外務省に情報を求めた時に捕虜問題が発見された段階。第二は1916年に在日イタリア大使館が、オーストリア=ハンガリー兵の中から捕虜13人の移動と引き渡しを求めた段階。そして最後は、戦争の終結時に始まり、パリ講和会議において発生したアドリア海問題と同時に、南スラブ捕虜の国籍や帰国が問題化された段階、である。上記のそれぞれの段階で捕虜問題を調査する形で日本政府が関与したことで、日本政府として捕虜間に現れる形でヨーロッパで生起してきた民族や国籍問題を経験することになった過程が詳細に描かれている。ここに示されるのは、第一次世界大戦終結時に、国境の引き直しに連動する形で生起していった複雑化する捕虜の国籍問題と連動しながら、日本政府がこの国籍問題という新たな困難に直面し、日本の独自の外交関係を展開する端緒ともなった可能性である。

第六章(結論)では、本論文での議論を的確にまとめているほか、今後の研究展望(捕虜のその後)が示されている。

このような内容を持つ本論文は、以下の点で極めて高い評価ができる。第一に「アドリア海問題」という国境問題を捕虜の問題と関連づけるという問題設定の新しさである。第二に日本と旧ユーゴスラビアの歴史関係の新たな研究の展開への先鞭をつけるものであるという点である。これは、日本の旧ユーゴスラビア外交が欧米追随であったとする従来の見解を否定する挑戦的な視角を有していることに関わっている。第三に日本における南スラブ捕虜に関する未使用の外交史料を用いたオリジナリティーである。欧米の捕虜研究の中では全く見落とされていた問題を提示した点で、極めて高い意義を認めることができる。このように、新しい問題設定と未開拓の外交史料の活用が見事に融合して、新たな日本と旧ユーゴスラビア関係の歴史研究の展望を開いた点で重要な学術的貢献となっている。

しかし、本論文には未だ多くの改善の余地が残されている。第一に、第五章の重要性と成果とは対照的に、第二章から第四章に関しては、主に二次資料が使われているものの、重要な先行研究の参照が十分になされていない点に問題があることが指摘された。そのため、専門的な観点からは論文の前半がやや「薄さ」が感じられるという問題である。第二に、捕虜(とその送還)の問題と深く関連する国際関係への配慮がもう少しなされる必要があるという指摘もなされた。特に、ヨーロッパにおける海軍を取り巻く国際関係と結びつけるといった視座を含めることも分析の上では必要であったという問題である。しかし、このような指摘は、学界に対して大きな貢献となる本論文の学術的価値を損なうものではない。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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