学位論文要旨



No 128805
著者(漢字) 上野,伸子
著者(英字)
著者(カナ) ウエノ,ノブコ
標題(和) 食に関する論争のフレーミングと公衆の判断プロセスに関する研究
標題(洋)
報告番号 128805
報告番号 甲28805
学位授与日 2012.12.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1182号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤垣,裕子
 東京大学 教授 開,一夫
 東京大学 教授 植田,一博
 東京大学 教授 渡邊,雄一郎
 東京大学 准教授 廣野,喜幸
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、食品分野を対象とし、論争のフレーミング(第I部)と公衆の判断プロセス(第II部)の二つの研究から構成される。この二つの研究それぞれにおいて、食品に対する人々の認識と、その認識の背後にある前提を分析し、可視化する(図表等で表わす)ことを目的としている。

このような食品分野における人々の認識は、安全性や有効性をめぐる評価に関する議論の中で、ステークホルダーの主張、あるいは公衆の反応や態度として観察される。この食品の安全性や有効性に関する評価の議論には、常に、科学(science)が必要とされ、議論の合意形成に向けて、科学的な専門性や科学知識が重要視される。しかし、議論の論点が、制度や国際関係、文化にも及ぶことから、自然科学のアプローチのみから問題を深堀し、その原因と解決策を検討することは難しい。自然科学のアプローチに、社会科学からのアプローチを加えることも重要である。そこで、本論文は、このような食品の安全性や有効性の議論における人々の認識を、科学技術社会論の視座から論じ、食品の科学・技術に対する人々の認識を、複合領域の問題として扱い、様々な社会科学の研究アプローチから検討する。

科学技術社会論では、このような人々の認識について、論争に直接関与する様々なステークホルダーの認識と、論争に直接関与しないが、問題の解決に影響力をもつ公衆の科学・技術に対する認識に関する研究が蓄積されてきた。食品分野においても、この二つの研究アプローチは重要である。したがって、本論文もまた、食品分野における論争下のステークホルダーの認識に関する事例と、公衆の認識に関する事例の二つの事例を扱うこととした。また、ステークホルダーと公衆の認識は、それぞれの研究アプローチが異なることから、これまで一つの論文の中で論じられてこなかった。本論文は、この二つの認識を一つの論文の中で論じ、二つの認識に関する詳細な分析結果の比較から、認識の前提のレベルの違いについて明示する。

第1章では、本論文の背景と目的について述べ、更に本論文で使う「認識」という言葉の意味を、第I部、第II部それぞれの研究における言葉の使われ方を振り返り定義した。第2章では、ステークホルダーと公衆の認識とその前提に関する研究を概観するために、まず、科学・技術に対する認識とその前提に関してこれまでおこなわれてきた研究をレビューし、次に、食品分野における先行研究に焦点を当ててまとめた。その結果、ステークホルダーの認識とその前提の分析には、フレーミングの手法が有効とされるが、これまでおこなわれてきた研究は政策文書をとおした分析が多く、多様なステークホルダーが自ら公表した資料をとおした分析は、ほとんどおこなわれていないことが示唆された。

次に、公衆の科学・技術に対する認識とその前提に関する分析については、科学の公衆理解、Public Understanding of Science(以下、PUS論)、およびリスク心理学の領域において研究が蓄積されるため、この二つの研究領域を概観した。PUS論では、公衆の認識は、知識にもとづく理性的な認識構造が研究対象とされ、具体的な科学知識や個人の価値観が認識の要因として分析されてきた。感情は分析対象とされてこなかった。これに対し、リスク心理学では、公衆の認識は、普遍的な心理構造が研究対象とされるために、恐ろしいといった感情が認識の要因として分析されてきた。しかし、具体的な科学知識や個人の価値観は分析されてこなかった。

他方、食品分野における公衆の認識とその前提については、遺伝子組換え食品に関する研究に蓄積があるため、遺伝子組換え食品を対象とした研究を中心にレビューした。遺伝子組換え食品に関する研究においては、受容を否定あるいは研究開発推進に反対する認識が研究対象とされ、その要因として、具体的な科学知識や個人の価値観が分析対象とされてきた。感情は、分析対象とされてこなかった。このように、公衆の科学・技術に対する認識に関する先行研究および食品分野における先行研究において、科学知識、個人の価値観、感情の三つが対象に分析されてきた研究はほとんどおこなわれていないことが示唆された。

加えて、食品に対する公衆の認識とその前提を、多面的構造的に分析するために、心理学の判断に関する研究を概観した。更に、科学技術社会論における認識とその前提に関する問題提起をまとめた。

第3章では、このような先行研究の問題点を解決するため、本論文の研究の枠組みについて述べた。その研究の枠組みとは、次のとおりである。第I部食に関する論争のフレーミングに関する研究では、米国を中心とした魚食の安全性に関する論争事例を、フレーミングの手法を用いて、多様なステークホルダーが自ら公表した論文やレポート等の資料をとおして分析する。第II部食に関する公衆の判断プロセスに関する研究では、機能性食品に対する公衆の積極的、消極的な認識とその前提に関する分析を、社会心理学領域の二重過程理論を参考にしておこなう。加えて、第I部と第II部の分析結果を比較し、ステークホルダーと公衆の認識を、認識の前提のレベルで比較する。

続いて、第I部、第II部の研究方法および分析結果と考察について述べた。第I部第4章では、論争のフレーミングに関する研究の方法について述べ、更に第5章において、分析結果と考察について述べた。まず北米を中心とした魚食の安全性に関する論争のプロセスの分析を行い、その後、論文誌等において論争するステークホルダーのフレーミング前提の分析をおこなった。その結果、論争のプロセスの分析からは、論争は時間の経過とともに収束するのではなく、論点を拡大して進展することが示唆された。ステークホルダーのフレーミングの分析からは、ステークホルダーは、所属する組織や専門性の責任からの重視する価値に基づいて、支持する科学的主張を選択して認識していることが示唆された。加えて、対立するステークホルダー間のフレーミングの違いは、重視する価値であることが示唆された。したがって、論争を引き起こす理由は、ステークホルダーそれぞれの社会的な立場における重視する価値の違いであることが示唆された。

次に、第II部食に関する公衆の判断プロセスに関する研究では、機能性食品に対する公衆の認識とその前提に関する質問紙調査を実施した。第6章では、その質問紙設計の全体像と作業仮説、分析方針等について述べた。

第7章では、その分析結果と考察を提示した。分析をとおして、機能性食品は、一般的な食品よりも消極的に認識される。即ち、自然のままと認識される食品ほど積極的に受け止められ、先端技術が応用される食品ほど消極的に受け止められる。このような食品に対する二つの認識があることが示唆された。認識の前提については、一般的な食品の場合、積極的な認識の前提は「栄養学的な知識」であり、消極的な認識の前提は「わからないから」であった。これに対し、機能性食品の場合は、積極的な認識の前提は「生体調節機能成分の知識」であり、消極的な認識の前提は「怖い・なんとなく不安だから」という感情であった。したがって、科学・技術が応用される食品に対する公衆の認識の前提は、積極的な認識については「生体調節機能成分の知識」といった知識であるのに対し、消極的な認識については、「怖い・なんとなく不安だから」という感情であることが示唆された。

第8章総合考察では、以上の第I部と第II部の分析結果を比較し、ステークホルダーの認識と公衆の認識における前提のレベルの違いを明示した。その違いとは、食品の科学的な問題に対するステークホルダーの認識の前提は価値であるのに対し、公衆の認識の前提は価値ではなく、感情であることが示唆された。加えて、ステークホルダーの価値は社会的な立場に基づく価値観であるのに対し、公衆の価値は個人的な価値観であるという、価値の中身の違いについても示した。このように、ステークホルダーと公衆の認識は、前提のレベルで異なることを二つの研究の詳細な分析結果を比較することから明らかにすることができた。

最後に、第9章本論文のまとめでは、本研究の成果、意義、今後の課題について述べた。この中で、本論文の意義を二つの観点から強調している。ひとつは、第I部、第II部の研究、双方とも、先行研究においておこなわれてきた方法に新しいアプローチを加えて分析したことである。第I部における新しい研究アプローチとは、多様なステークホルダーが自ら公表した資料をとおしてフレーミングを分析したことを指す。第II部の新しい研究アプローチは、これまで科学技術社会論において公衆の認識の分析に用いられなかった社会心理学領域の二重過程理論を参考にして、機能性食品に対する積極的、消極的な認識と、その前提(知識、個人の価値観、感情等)を分析したことを指す。

もうひとつは、第I部、第II部の二つの研究を一つの論文の中で論じたことから、論争下のステークホルダーのフレーミングと公衆の受け止め方とを比較することが可能となり、それぞれの認識の前提のレベルの違いを明らかにすることができたことである。科学技術社会論において、これまでステークホルダーと公衆の認識は、個別に研究がおこなわれ、この二つの認識を比較した研究は、それぞれの研究アプローチが異なることからほとんどおこなわれてこなかった。ステークホルダーと公衆の認識の差異は、この二つの認識に関する研究を、一つの論文の中で論じたことから可能となった。したがって、二つの研究を一つの論文の中で論じることは重要である。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、食品の安全をめぐる論争のフレーミング(問題枠組み)と公衆の判断プロセスとを分析した研究である。BSE問題や遺伝子食品組み替え食品の論争を契機として、食品の安全性についての議論が行われている。その際、ステークホルダー(利害関係者)の認識と公衆の認識は、分析対象とされる認識の中身が異なるため、異なるアプローチが取られてきた。しかし、安全性論争の全貌を明らかにするためには、ステークホルダーの認識と公衆の認識を同時に議論する必要がある。そのため、本論文では、1つの論文のなかでこの2つを同時に扱い、安全性に関する認識の特徴を明らかにした。本論文は以下の9章からなる。

第1章では、本論文の背景と目的を述べている。第2章では、広く科学技術全般に対する認識に関する先行研究をレビューし、ステークホルダーの認識に関する研究と公衆の認識に関する研究とか別々の研究潮流のなかで議論されていることを整理した。

第3章では、本研究の枠組みと方法を提示している。本論文は二部構成になっており、第I部では、食に関する論争のフレーミングに焦点をあてている。第II部では食に関する公衆の判断プロセスに関する研究を扱っている。

第4章では、第I部の研究の方法を示した。魚食の安全性をめぐる論争事例を対象とし、魚食をリスクと認識するかベネフィットとして認識するかの違いを、その前提のレベルで明示した。魚食を対象とした理由は、ステークホルダーの主張が端的に分かれており、明瞭な分析が可能なためである。まず科学雑誌上の論争関連文献を抽出し、関連するレポート、声明文なども分析対象とした。さらに内容を分析し、論争プロセスと論点変化を図示し、各ステークホルダーのフレーミングを分析した。

第5章では、第I部の結果を示した。まず論争プロセスを4つのフェーズに分け、中心となる論文の論点変化を図示した。さらに、主要な論者(科学コミュニティおよびステークホルダー)のフレーミングを構成している前提として、(1)何を重視しているか、(2)行為や責任の信念として何を用いているか、(3)信頼する科学的主張として何を用いているか、を整理した。その結果、公共環境問題研究者たちは、発ガン性などの健康保護を重視し、そのための環境対策を最重要視し、リスクを重視する科学的根拠(米国環境保護庁の評価基準)を用いていることが示唆された。反対に魚食のベネフィットの研究者たちは、魚食の健康メリットを重視し、ベネフィット重視の科学的根拠を用いていることが示唆された。これらの重視点の違いは、依拠する科学的根拠の違いを生み、複数の安全摂取基準の解釈の違いを生んでいる。たとえば魚食のベネフィット重視の研究者たちは、耐用一日摂取量TDIを用いるのに対し、公共環境問題研究者たちは参照容量RfDという尺度を用い、TDIより食物摂取の毒性のリスクを厳しく見積もっている。

第6章では、第II部の方法を示した。予備調査結果から、新しく技術開発された食品を積極的に取り入れたい群が科学的知識を重視し、取り入れたくないという消極的な群では個人の価値観や感情を重視する傾向がみられたので、公衆の認識には2つの判断ルートがあるという仮説をたてた。つまり、積極的な受け止め方は知識に基づいてなされ、消極的な受け止め方は価値や感情に基づいてなされるという仮説である。そして受け止め方の前提を質問紙で直接聞くという分析をおこなった。質問紙調査はWebによるモニター調査を用い、回答数は800、男性50.2%、女性49.8%、年齢構成は20代6%、30代29%、40代38%、50代18%、60代8%である。

第7章では、第II部の結果を示した。積極的な受け止め方に相関の強い前提として、栄養学的な知識や生態調節機能成分の知識が用いられていることが示唆された。さらに、消極的な受け止め方に相関の強い前提としては、一般的な食品においては「わからないから」という前提、機能性食品については「なんとなく不安」という感情が用いられていることが示唆された。個人の価値観の項目との有意な相関は検出されなかった。

第8章では、第I部と第II部から得られた結果の総合考察をおこなっている。まず第I部から、ステークホルダーの食品に対する認識において、重視する価値が依拠する科学的根拠の違いを生んでいることが示唆された。また、第II部から、公衆の食品に対する認識において、積極的な受け止め方の前提は科学的知識であり、消極的な受け止め方の前提は感情であることが示唆された。両者を比較考察すると、ステークホルダーの認識の前提としては価値観が大きな違いを生んでいるのに対し、公衆の認識の前提では知識と感情であることが示唆される。したがって、ステークホルダーの認識と公衆の認識とでは、前提のレベルから差があることになる。第9章は本論文のまとめをおこなった。

本研究は、食品の安全性をめぐるステークホルダーの認識と公衆の認識の違いを明らかにし、前提として用いられる知識、価値、感情の重みの違いを明らかにした。今後、他の環境分野、医療分野といった分野間の差の検討や、日本以外の国での質問紙調査の実施、質問紙設計における認識の前提の項目改良などの課題もある。しかし、これまで別々に検討されてきたステークホルダーの認識と公衆の認識を同時に議論することによって、安全性論争の前提の差異を明らかにすることができたことは評価できる。認識の前提として知識以外の価値、感情の扱いが対象によって異なることを示したことは、今後の科学技術社会論および科学技術の公衆理解分野の研究の発展におおいに資するものである。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

UTokyo Repositoryリンク