学位論文要旨



No 128806
著者(漢字) 坂本,邦暢
著者(英字)
著者(カナ) サカモト,クニノブ
標題(和) ルネサンスアリストテレス主義の改革者ユリウス・カエサル・スカリゲル : 『顕教的演習』の研究
標題(洋) Julius Caesar Scaliger, Reformer of Renaissance Aristotelianism : A Study of Exotericae Exercitationes
報告番号 128806
報告番号 甲28806
学位授与日 2012.12.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1183号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 橋本,毅彦
 東京大学 准教授 岡本,拓司
 東京大学 准教授 石原,孝二
 東京大学 准教授 山本,芳久
 埼玉大学 教授 伊藤,博明
内容要旨 要旨を表示する

本論文はユリウス・カエサル・スカリゲル(Julius Caesar Scaliger, 1484-1558)の『顕教的演習 Exotericae Exercitationes』(パリ、1557年)を研究するものである。スカリゲルは1484年にイタリアのパドヴァで生まれ、南仏のアジャンで活動した医師にして人文主義者、そして何よりもアリストテレス主義を奉じる哲学者であった。彼の哲学的主著である『演習』は出版後約100年にわたり自然哲学と形而上学の教科書として広く読まれ、『演習』を読んでいなければ哲学者でないと言われるほどの人気を博した。ヨハネス・ケプラー、ガリレオ・ガリレイ、ロバート・ボイルといった新哲学・科学の提唱者たちも『演習』を注意深く読んでいたことが、彼らの著作や残されたノートからうかがえる。しかし17世紀後半以降、『演習』は急速に評価を落とし、忘れ去れられていった。再び関心が高まったのはようやく20世紀にはいってからのことである。とりわけ近年の科学史研究者たちは、17世紀に粒子論・原子論が構想されたときの着想源の一つとしてスカリゲルの著作を取り上げるにいたっている。こうして長きにわたる忘却を経て、『演習』はいわゆる科学革命期のヒストリオグラフィのなかで逸することのできない位置を占めることになった。

しかし今なお『演習』の理解は不十分な水準にあると思われる。科学史研究者のものを含めこれまでの研究は単一のトピックに焦点を絞って『演習』にアプローチしてきた。結果として理解は断片的となり、同書の全体がいかなる企図のもとに構想されているかが明らかとなっていない。『演習』で表明されている哲学の基本的特徴が把握されていないことは、この著作の歴史的理解を妨げてきた。たとえば『演習』のアリストテレス主義は、ルネサンス期のアリストテレス主義の歴史のなかでいかなる位置を占めるのか。その形成に若きスカリゲルが身を置いていたパドヴァ大学の教育環境はいかに寄与したのか。最後に彼の哲学が新哲学・科学の提唱者を含めて多くの知識人たちにとって着想の源泉になったことを、その思想の特質に即してどう説明できるのか。これらの問いに『演習』の分析の上に立って答えることで、同書を16世紀から17世紀にかけての哲学史・科学史のうちに位置づけることが本論文の目的である。

まず創造と三位一体という主題についてスカリゲルが『演習』で述べていることを検討することで、彼のアリストテレス主義が当時復興をとげていたプラトン主義に対抗する形で形成されていたことを論じた。キリスト教の教義と親和的なプラトンの哲学とは対照的に、アリストテレスは創造と三位一体の教義に反する教えを支持している。このようなプラトン主義者の主張に対し、スカリゲルはアリストテレスの著作からは彼が創世を行った三一なる神の観念を有していたことが分かると反論した(1章)。

神の被造物である世界で諸々の現象がどのようにして生じているかを説明する際にも、スカリゲルはアリストテレスへの挑戦に直面した。スカリゲルの同時代人であり、『演習』における主たる論敵であったジロラモ・カルダーノ(Girolamo Cardano, 1501-76)はあらゆる現象の原因として万物に行き渡る熱を想定し、これを「世界霊魂」と呼んだ。スカリゲルはこの一元論的世界観を批判し、それは経験的事実を説明できず、アリストテレスの哲学と両立しないばかりか、「創世記」の記述とも合致しないと指摘した(2章)。代わりにスカリゲルが提示したのが多元的な能動原理からなる世界像である。神は一つではなく多様な形相を創造し、それらを階層的に整序することで世界に秩序と一体性をもたらしたというのだ。スカリゲルによれば、これが最善でありそれゆえ必然的な世界のあり方である(3章)。

多様な形相の活動から世界は成り立つという基本原理から、スカリゲルは多くの問題についての自説を発展させている。たとえば空虚の存在は世界の一体性を損なうものとして否定される。単一の普遍的な形相が数多くある個別の形相を導いて空虚の発生を防いでいるとスカリゲルは考えた(4章)。スカリゲルは同種の調整者としての役割を天界では第一知性に与えた。第一知性は下位の諸知性すべてが模倣する対象であり、模倣されることにより下位の知性が統一的な天球の運行を引き起こすことを可能にしている。互いに独立した複数の能動原理がいかに世界に秩序をもたらすかを語っている点で、ここでもスカリゲルは自らの世界観に忠実に理論を組み上げているといえる(5章)。

生成と混合についてのスカリゲルの理論は、彼が形相の概念を多元的世界像にそって精緻化していたことを示している。霊魂を四元素に還元する学説を強く否定しながら、スカリゲルは霊魂のみならず形相一般もまた非物質的な第五精髄であり、それゆえ不死であると結論づけた。月下界で生じるあらゆる活動はすべてこのような形相が引き起こす。他の能動原理は必要ない。よってスカリゲルは伝統的な形成力の観念をしりぞける。形成力は霊魂(ゆえに形相)とは独立に生物の体を形成すると考えられていたからである。スカリゲルによれば体の形成を行うのは「自らの家の建築家」である霊魂である(6章)。形相が消滅しないという観念から、スカリゲルは複合的な実体を構成する各部位の形相が実体中で保存されていると考えるにいたった。しかしある実体のうちに複数の形相を認めることは、その実体の単一性を否定することになりはしないか。スカリゲルはこの疑問を、実体中では下位の形相が上位の形相のもとで可能態として存続していると考えることで解消した。実体の単一性を保証しているのは、唯一現実態にある最上位の形相である。したがって(四元素の形相をのぞく)あらゆる形相は、下位の形相の混合からなり、それらは上位の形相の支配のもとで階層的な構造をなしているととらえられる(7章)。

以上から『演習』に現れている哲学の基本的特徴を次のように要約できる。神は世界のはじめに非物質的な形相を数多く創造した。それらは階層構造的に整序され、その活動の総体が秩序と統一性を世界にもたらしている。このような特徴を有するアリストテレス主義に歴史的な位置づけを与えるためには、若きスカリゲルが学んでいた16世紀初頭のパドヴァ大学の状況に目を向けねばならない。当時パドヴァをはじめとするイタリアの諸大学では哲学を神学から切り離す世俗的で自然主義的なアリストテレス主義が台頭しており、知性の単一性を唱えるアヴェロエスの学説や霊魂を四元素に還元するアフロディシアスのアレクサンドロスの学説がしばしば正しいアリストテレス解釈として支持を集めていた。スカリゲルは世俗的傾向を持つ教師たちに教育を受けながらも、アリストテレス哲学とキリスト教の教義との両立を重んじるスコトゥス主義のグループと交友を深めていた。そのため彼はアヴェロエスやアレクサンドロスの学説に現れている一元的で物質主義的なアリストテレス解釈への反発に覚えるにいたった。そこですべての能動原理を熱に一元化するカルダーノの哲学に反論する形で、スカリゲルは『演習』において多元的で非物質的な形相をその基礎に置くアリストテレス主義を定式化したのである(8章)。

以上のようなスカリゲルの哲学の検討は、ルネサンスのアリストテレス主義への新たな視角をもたらす。従来の研究はパドヴァで発展した自然主義的アリストテレス主義解釈と、その後世における受容に着目してきた。これに対して本研究は、パドヴァ大学の環境がスカリゲルの『演習』に現れているような自然主義への強い反発もまたはぐくんでいたことを明らかにした。そこで定式化された物質には還元できない多様な形相というスカリゲルの観念は、17世紀にアルプス以北で台頭した新しい哲学に取り込まれることになる。とりわけ厳密な機械論的説明が有効に機能しないと考えられた化学と生物学の領域で、スカリゲルの形相概念は重要な着想源となった。こうしてイタリアで形成されフランスから発信されたスカリゲルのアリストテレス主義は、新しい自然哲学の構想にあたって不可欠となるような理論的基礎を北方の哲学者たちに提供することになったのである(結論)。

付録として生成と混合に関するスカリゲルの議論の英語訳を収録した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、ルネサンス期の医者であり思想家であったユリウス・カエサル・スカリゲルの著作『顕教的演習』の思想的内容を詳細に分析し、その歴史的意義を論じたものである。スカリゲルは必ずしも科学史上著名な思想家・科学者ではないが、ルネサンスの科学思想を考察する上で、その重要性が近年になり注目されてきている人物である。彼の主著といえるその著作の研究は、ルネサンス思想ばかりでなく、近代科学の成立過程の歴史的検討に貢献することと期待される。

論文はすべて英文で執筆されている。本論文は序章と結論を含む10章からなる。序章ではスカリゲルとその著作『顕教的演習』を取り上げる歴史的意義とともに、スカリゲルの伝記事項と今日に至るまでのスカリゲル研究を紹介する。本論文の中心を構成する第1章から第7章までは、同書の内容を7つの鍵となる重要概念をめぐり分析し、彼の思想・世界観の体系を明らかにする。第1章では、創造や三位一体などの神学的な概念について分析する。『顕教的演習』は同時代の思想家であるカルダーノへの批判が意図された著作であるが、第2章ではカルダーノの主張する世界霊魂という概念に対するスカリゲルの批判を説明する。第3章では、そのような世界霊魂という概念に代わって、多元的な能動原理が多様な形相を生み出し、それらが階層的な秩序を形成し、最善の世界を構成するという彼自身の哲学理論を解説する。第4章ではそのような理論による説明の一例として真空と場所の問題を取り上げ、真空を否定する彼の考えを説明する。第5章では神学で語られる天使の問題に触れ、神学的な知性について第一知性と下位の知性との関係を分析することで、天体の運行などに関する彼の説明を分析する。第6章では生成や発生の問題に関して、ガレノス、アヴェロエスなどの古代中世から同時代のジャン・フェルネルの思想までを追いかけた上で、スカリゲルのフェルネル批判、またその批判を通じて自然発生、発生の根源となる種子の問題、また発生との関連での霊魂の問題などに関する彼の議論を分析する。第7章では混合、または複合的な性質をもつ物体という問題に関して、複数の形相が階層性をもちつつ共存するという議論を展開していることを確認する。以上の7章で、同書の内容分析を通じてスカリゲルの思想は世界観の内容を明らかにしたが、第8章では、そのようなスカリゲルの思想を当時のパドヴァの思想状況や制度的状況の中に関連づけて、それがもつ歴史的な特徴を論じる。最後の終章で、以上の内容をまとめた上で、とりわけアリストテレス主義に関するこれまでの歴史研究に対する本研究の位置づけを述べる。

以上のように、本論文は、これまで十分に分析されてこなかったスカリゲルの主著『顕教的演習』を取り上げ、その内容の分析からキリスト教神学と整合させてアリストテレス主義を新たに解釈したスカリゲルの思想の全体を明らかにしようとしたものである。このスカリゲルの著作は、自然科学の歴史においては今まで科学史との関連においてあまり検討されてこなかったが、ケプラー、ガリレオ、ボイルといった近代科学の成立に関わった科学者が、彼らの重要な業績を生み出す過程で読んだことが明らかにされており、その意味からも研究者から注目を受けてきているところである。

近代科学は、コペルニクスの地動説提唱からニュートンの『プリンキピア』出版に至るまでの科学革命によって生み出されたとされている。近年、このような天文学と力学に焦点を当てた科学革命論、また「科学革命」という概念そのものに対して再考が促され、他の自然科学諸分野(とりわけ錬金術・化学・物質論)に焦点を当てた歴史研究や、科学者や思想家らの影響関係を緻密に追跡する研究が進められている。それとともに、近代科学が生み出される上で乗り越えられるべき存在であったアリストテレス主義哲学に関しても、近代初期において理解されていたその哲学的内容が精査されてきているところである。アレクサンドル・コイレのガリレオ研究以来、近代科学の発達におけるプラトン主義哲学の役割が注目されてきたが、同時期におけるアリストテレス主義哲学に関しても、近代科学の形成にあたってそれがもった多様な関係や役割について再評価されつつあるところである。本博士論文は、このような近代初期におけるアリストテレス主義哲学の一つのあり方、同時代に影響力を及ぼしたスカリゲルの提唱する世界観としてのアリストテレス主義哲学を明らかにしたところが大きく評価されるところである。また特に第6、7章で論じた問題は、近代の物質論、生命論が生み出されていく過程の科学史研究に対しても、重要な寄与をしてくれるものと思われる。

審査は、科学史・哲学を専門とする教員とともに、ルネサンスの思想史を専門とする研究者によってなされたが、いずれも本論文は文献内容に対して優れた歴史的・哲学的分析を達成しており、博士研究論文として高い評価が与えられた。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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