学位論文要旨



No 128809
著者(漢字) 角道,亮介
著者(英字)
著者(カナ) カクドウ,リョウスケ
標題(和) 西周時代青銅器の研究
標題(洋)
報告番号 128809
報告番号 甲28809
学位授与日 2013.01.10
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第899号
研究科 人文社会系
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大貫,静夫
 東京大学 教授 佐藤,宏之
 東京大学 教授 設樂,博己
 駒澤大学 教授 飯島,武次
 南山大学 教授 西江,清高
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、古代中国社会における国家成立過程解明のための一環として、青銅彝器に対する検討から西周王朝の広がりを考察する。ともすれば自明のものと捉えられがちな「王朝」としての西周であるが、西周がなにゆえ王朝として他の地域文化圏と区別されうるのか、そもそも西周がどの程度の奥行きを持った社会であるのかという問題については従来あまり顧みられることがなかった。西周王朝とはどの程度の広がりをもった社会で、そのようなまとまりがいかに形成されていったのかを明らかにすることは、王朝という共同体の実像を解き明かすための重要な手掛かりになると信じる。彝器と呼ばれる祭祀用の青銅器は西周期の中国各地から発見されており、王朝と呼ばれる社会の範囲を考察するために格好の材料を提供している。王朝による青銅彝器の製作と諸侯側における青銅彝器の受容の関係に注目して分析を進めることで、王朝と地方との関係性および王朝的世界の広がりを明らかにすることが可能となる。

西周期の青銅彝器は単純な祭器ではない。王朝によって製作された青銅彝器を各氏族が祖先祭祀の場で使用することによって、王朝との関係を再確認させるような、政治的目的が想定される。西周王朝が確立した「礼」という制度は青銅彝器とそこに鋳込まれた青銅器銘文の利用を中心とした祭祀行為であったが、諸侯・服属氏族の側から見れば、王朝の「礼」に則った形で祭祀を行うことで王朝と自身との支配-被支配関係が再確認されるようなシステムが存在していたと考えられる。この観点に立てば、王朝の「礼」を受容することは王朝権力を受容し、その構成員となることを意味するものであった。したがって、西周時代の各諸侯国における青銅彝器の出土状況から、礼制の受容/非受容の程度を検討することは、当時の政治的関係性を理解する上で非常に有用である。

西周時代の中国における青銅彝器の分布範囲は、北は内蒙古自治区から南は広西壮族自治区まで各地に及ぶが、この範囲はそのまま西周王朝の範囲を意味するものではない。青銅彝器組成の地域的な差異を検討した結果、周王朝の中心地域とされる陝西省とそれを取り巻く複数の地では烹煮器と盛食器という食器が彝器の主体を占めていた。その一方で、長江下流域の安徽省・江蘇省では食器と同程度に盛酒器・水器が使用される傾向があり、このような特徴がみられる地域は土墩墓と呼ばれる長江下流域に特有な墳墓の分布域とほぼ重なっていた。同様に、湖南省・江西省では食器や酒器などの彝器は搬入品として出現するのみで、現地では大型の青銅楽器を使用した祭祀が重要視され、周とは全く異なる青銅器文化根付いていたといえる。西周時代には、陝西・山西・河南を中心とする西周の青銅器文化と、長江下流域に広がっていた華東青銅器文化、湖南・江西を中心に楽器との関連がうかがわれる湘贛青銅器文化が、それぞれ別個のものとして併存していた。王朝と地方との直接的なやり取りが想定されるのは、黄河流域を中心とする西周青銅器文化圏の範囲内であることに留意すべきであろう。

西周王朝の中心地域の一つと考えられる陝西省関中平原では西周前期と中期以降の青銅彝器出土地点に大きな変化が見られた。殷末周初期~西周前期における青銅彝器の広範な分布は、王朝の非構成員であった周辺の諸氏族との関係を強化し体制の盤石化を図った王朝が青銅彝器の下賜を広く推し進めた結果であり、このような青銅彝器の使用は王朝によって当時広く行われ、その対象地域は基本的に西周王畿の外であった。逆に、青銅彝器が極めて限定的な豐鎬~周原の区間を西周王畿とみなすことができる。西周王畿内においては、青銅器の所有に対して強い統制力が働いていたことがうかがわれる。青銅彝器の分布状況から見れば、西周王畿内においては豐鎬地区と周原地区とが二大中心地であり、他には政治的な中心地を設定できない。これは邑といわれる共同体の性格を考える際に重要な点であり、おそらく青銅器を利用した祖先祭祀を行う際、王畿内では各邑での個別的な祭祀行為は基本的には認められず、王朝による一括管理がなされていたのであろう。今後の発掘調査によって他地区で青銅彝器の出土点数が増加する余地はもちろんあるが、現状の格差を埋めるような発見は考えにくく、西周時代の拠点が新たに増加する可能性は低い。権力の隔絶した中心地とそれに従う無数の邑という基本構造は変わらないものと思われる

西周後期に、周原地区と豐鎬地区とで青銅器窖蔵と呼ばれる特殊な遺構が多く確認されるが、これは、特に周原においては墓への青銅器副葬行為と入れ替わるようにして増加する。西周後期における窖蔵青銅器の増加は、葬礼の場での青銅彝器の利用を制限し、窖蔵における祭礼を重要視した王朝による強い意向が関わっていると考えられる。儀礼と密接に結びついた、祭祀都市としての周原遺跡群の性格を理解する必要があるだろう。

また周原が祭祀と強い関係を保っていた背景には周人の宗廟が周原に在ったと理解して初めて深く理解される。金文史料への検討の結果、「宗周」と称される地が、一般的に鎬京であると目されるのに反して、周原という祭祀都市と極めて近い性質を有していることがわかった。西周時代の関中平原における祭祀行為の中心は現在の周原一帯に存在し、それは金文中で周と呼ばれ、また宗周とも称される地域であった。豐鎬は王朝の中心の一つではあるものの、祭祀と強い関わりを持つ地ではなかったと考えるべきである。宗周を豐鎬地域の一部に属する祭祀区としてみるよりも、別の地に性格の異なる中心が作られたと考える方が自然な解釈であり、そしてそのような、宗廟の地としての周原の性格は、古代中国の「都」を考える際、極めて大きな意味を持つと考える。

諸侯側の受容形態として、晋国は王朝の変化に忠実に対応していたが、青銅器窖蔵は作られない。そこに、諸侯国と西周王畿のあり方の違いをみることができる。王朝が王畿内に対して発揮したような規制は、諸侯国までには及ばなかった。一方、国の首長層は王朝の青銅彝器の有用性を理解した上で、その機能を自らの内部に再生産しようと試みた。宝鶏は関中から四川への出口に当たり、文化圏の境界を構成していたと考えられる。このような王朝の外延地で周的な要素に浴しながらも独自化を目指した集団が存在していたことは重要である。北京琉璃河燕国墓地や濬県辛村衛国墓地など、王朝の辺縁部で中期以降の器が見られなくなる現象の背景には、彼らの独自化・王朝的社会体制からの離脱という面を十分考慮するべきであろう。

以上の検討によって、西周王朝の範囲を次のように想定することができる。晋国のような王朝と連動した諸侯国を一次的諸侯、国・燕国のような、王朝の影響を非常に強く受けながらも、王朝と必ずしも連動しない諸侯国を二次的諸侯とした場合、西周王畿を中心として、その周囲に一次的諸侯が広がる。洛陽や天馬-曲村がこれに相当し、王朝の主要な構成員と目すことができる。その外側には二次的諸侯がひろがる。彼らは王朝の青銅器をそのまま受容するものの、王朝との通時的な連動性は見られない。二次的諸侯の範囲は時間と共に縮小・拡大を繰り返しながら、王朝の外延を形成していたと考えられる。

筆者は、西周王畿と一次的諸侯を含む範囲こそが、西周王朝の実質的な範囲、つまり王朝の勢力圏であると考える。その外側に広がる二次的諸侯をも含む、王朝の影響圏とでも呼ぶべき範囲は、非固定的で柔軟性を持った範囲だと理解したい。さらには、周原で一般的な窖蔵が晋国では検出されないことから分かるように、一次的諸侯であっても二次的諸侯に変化する可能性を秘めている。そのような動的な王朝の範囲というものこそを、西周社会の特徴としてみなすことができよう。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、中国初期王朝の一つである西周王朝を主に祭祀具である青銅彝器の分析を通じて再検討したものである。

第一章では、本論文の研究主題が考古学の立場から王朝と呼ばれる社会の範囲や、王朝と地方との関係性を明らかにすることであることを述べ、各章の研究意義を説明する。

第二章では、青銅彝器の分布を丹念に集成した上で、西周時代に、長江下流域に広がっていた華東青銅器文化、湖南・江西を中心に楽器との関連がうかがわれる湘贛青銅器文化は、陝西・山西・河南を中心とする青銅器文化とは異なる性質のものとして併存しており、王朝と地方との直接的なやり取りが想定されるのは、黄河流域を中心とする西周青銅器文化圏の範囲内であるとの結論に至る。

第三章では、西周青銅器文化の範囲の中でも、西周王朝の中心地域の一つと考えられる陝西省関中平原では、殷末周初期~西周前期には青銅彝器が広範に分布するが、中期以降になるとその分布はより狭まることに着目しその意味を探る。前期の分布範囲は王朝の中心地域を示すものではなく、王朝の非構成員であった周辺の諸氏族との関係を強化し体制の盤石化を図った王朝が青銅彝器の下賜を広く推し進めた結果であり、その対象地域は基本的に西周王畿の外であったとする。逆に、前期には青銅彝器が極めて限定的にしか出ないが中期以降も分布する豐鎬から周原の区域こそが西周王畿であるとする結論に至る。

また、西周後期に、特に周原において墓への青銅器副葬と入れ替わるようにして青銅器窖蔵(こうぞう)が増加する。この変化は従来、周辺異民族の襲撃の際に西周王朝の人々が隠匿したまま都を去った結果として理解されてきたが、これに反対して、葬礼の場での青銅彝器の利用を制限し、窖蔵における祭礼を重要視した王朝による強い意向の結果であるとする。そして、このような祭祀行為としての窖蔵が集中する周原こそが金文中で「宗周」と称される地域であったという、西周時代の社会組織について独自の理解を示す。

第四章では、周辺の諸侯国での青銅彝器の在り方を検討した上で、西周王畿を中心として、その周囲に王朝と連動した一次的諸侯が広がり、その外側には王朝の影響を非常に強く受けながらも、王朝と必ずしも連動しない二次的諸侯がひろがり、王朝の外延を形成していたと見なした。その結果として、西周王畿と一次的諸侯を含む範囲こそが西周王朝の実質的な範囲であるという、考古学から見た西周王朝の枠組みを提示している。

本論文は近年急増している西周時代の考古学的研究成果を用いて西周王朝の実態の解明に取り組み、これまでとは異なる新たな理解を示している。個々の分析には検討が不十分のところも見られるが、本論文が西周王朝社会を考える上できわめて重要な論点を提示していることに疑問はない。よって、審査委員会は一致して、本論文が博士(文学)の学位を授与するにふさわしいものと判定する。

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