学位論文要旨



No 128814
著者(漢字) 西川,輝
著者(英字)
著者(カナ) ニシカワ,テル
標題(和) 戦後国際通貨システムの形成とIMF
標題(洋)
報告番号 128814
報告番号 甲28814
学位授与日 2013.02.06
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第315号
研究科 大学院経済学研究科
専攻 現代経済専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊藤,正直
 東京大学 教授 小野塚,知二
 東京大学 教授 荒巻,健二
 東京大学 教授 渋谷,博史
 成城大学 教授 浅井,良夫
内容要旨 要旨を表示する

本稿の目的は、第二次大戦後の国際通貨システムの形成期におけるIMFの政策路線について再検討することにある。アジア通貨危機を契機に噴出したIMFの「変貌」を批判する多くの研究では、本稿が分析対象とする時期のIMFは、国際公共機関として「健全」に機能していたといわれてきた。すなわち市場の失敗を前提とするケインズ主義に立脚し、景気逆循環的なマクロ政策を通して完全雇用と経済成長を図ることこそ政府の役割であるとの認識を有していた。さらに短期的・投機的な資本移動を均衡破壊的なものとみなし、為替自由化における経常収支と資本収支を明確に区別する考え方に立っていた。しかし「健全」という曖昧な評価が示すように、スティグリッツ(Joseph Stiglitz)に代表される論者たちは、IMFの「設立の理念」とアジア通貨危機に帰結するその「現代的な役割」との間の距離感に目を奪われ、「変貌」のインパクトを強調しようとするあまり、自らの主張の前提をなす初期のIMFの役割についてはほとんど検討してこなかった。

一方、同時代のIMFについては国際金融史の領域でも研究が存在するが、それらもIMFの役割に関する検討は不十分であった。ボルドー(Michael Bordo)に代表される研究の多くは、IMF資金利用額の低迷や主要国の14条国時代の長期化を理由に、同時代のIMFがいわば「休眠状態」にあったとの否定的な評価を下すに止まっている。しかしこれらの研究は、ギルピン(Robert Gilpin)ら国際政治経済学の領域の研究が示すIMFは主要国の部分集合であるとの見方をベースにしており、IMF側の視点にまで踏み込んだ分析は行っていない。IMFが主要国の意向に沿う機関であるとしても、「開店休業」という事態の打開を図ろうとするIMFのいわば「組織としての自律性」は存在しなかったのか、IMF側の視点に着目する必要はないのか、という疑問が残る。このように国際金融機関の視点に注目する点は、矢後和彦ら国際金融機関史の領域における研究者たちと共通している。

以上の問題意識に基づき本稿では、ポンドを擁し戦後国際通貨システムが機能する上で枢要な地位にあったイギリスに対する協定14条コンサルテーションを素材として、以下の論点に取り組んだ。IMFは、どのように多角的決済体制の樹立を模索したのか。その方途は、ドル不足の帰趨に代表される国際通貨システムの変容とともにどのように変化したのか。「内外均衡の同時追求がもたらす矛盾を緩和するための融資を加盟国に提供しながら、経常取引に係る通貨の交換性回復を促す」とされた「所期の役割」との関係で、実際のIMFによるマクロ政策調整はどのような特徴を持って展開したのか。

戦時中に始まった英米間の戦後構想を巡る交渉は、ブレトンウッズ協定に一つの妥協点を見出した。しかしIMFは、多角主義の実践方式として必ずしも同時代のコンセンサスではなかったし、戦後過渡期において十分に機能しうるものでもなかった。もっともIMF協定の「過渡期条項」が戦後復興問題へのIMFの不介入を謳っていたことからも、「ERPの決定」に伴う融資の減少や西欧の域内決済多角化に向けた試みへの介入の失敗は、それ自体、IMFの設計者たちの意図を裏切るものではなかったのかもしれない。しかしIMFスタッフたちにとって、そうした「開店休業状態」をIMFコンサルテーションへ連なる息継ぎ期間とみなすことは困難だった。とりわけOEECの下でEPUが成立するプロセスは、為替自由化の推進主体としての自らの役割が脅かされる過程として映った。こうしてIMFは、多角的決済体制の樹立を主導すべく戦後過渡期の諸問題の解決に正面から取り組まねばならなくなった。問題は黒字国アメリカにおける「デフレや失業」がもたらす国際経済の縮小ではなく、赤字国側の「インフレと国際収支不均衡」として顕在化していた。そしてこれらの不均衡は、「調整可能な釘づけとIMF融資の供与」という当初想定されたルールによって自動的に解消しうるものではなかった。IMFは、積極的に加盟国のマクロ政策に注文をつけるという「一国的なマクロ経済管理」の手法を確立させてゆくことになった。

1952年3月にコンサルテーションが始まると、IMFスタッフたちは、早々に多角的決済体制の樹立に着手した。この目的を達するうえでポンドの交換性回復は喫緊であり、IMFは、イギリスの為替自由化を巡る方針―黒字国責任論と金融支援の追求―と親和的な内容の国際政策協調を追求した。イギリス当局の交換性回復計画は、ポンドの復権という理想とドル不足という実態とのギャップを埋めるための措置―ドル差別の維持と管理フロート制の採用―を伴う計画であり、大陸欧州諸国およびアメリカ政府の方針と相容れないだけでなくIMF協定との整合性にも疑義を含んでいた。しかし多角的決済体制の樹立を優先したルースたちは、イギリスの計画を後押しする立場をとった。翻って、マクロ政策運営の役割を巡っては、IMFとイギリスとの間で方針の相違があった。IMFがインフレ圧力の抑制と対外均衡の達成を重視した一方、イギリス側は一貫してマクロ政策を国内均衡の追求に振り向ける立場をとっていた。もっとも1952年に経常収支危機を克服して以降のイギリス経済は、概して良好なマクロ経済情勢を維持していた。またIMFスタッフたちはポンドの交換性回復を優先しており、交換性が回復された後に自ずとインフレ抑制策が採られるものと考えていた。このためインフレに注意を払うようイギリス側に要求したが、国内均衡重視の政策路線の修正を求めるには至らなかった。

1955年に入ると、国際的には引き続きドル不足の緩和が進む一方、イギリスは国際収支危機に見舞われその為替自由化の動きは停滞した。こうした状況の下でIMFスタッフたちがとった政策は、緊縮的マクロ政策を通した国際収支危機への対応と為替自由化の推進をイギリス側に求める内容だった。1950年代前半から一転し、「インフレと経常収支不均衡には緊縮的マクロ政策で対処せよ」というかねてからの方針が示される一方、ドル不足が解消に向かうなかで為替自由化を巡る国際政策協調の必要性は後景に退き、代わりにドル差別の廃止を巡る自助努力が求められるようになったのである。IMFスタッフたちにとって、イギリスの国際収支危機はもはやマクロ政策で対応すべき平時の問題となっていた。実際IMF内部では、主要国の8条国移行およびドル差別の廃止を巡る方針の検討が行われるなど、戦後過渡期の終了を見据えた前進が続いていた。

ところがイギリスは、1956年末と1957年夏、激しいポンド投機に見舞われ、戦後過渡期の終了を目前にしながら、IMFスタッフたちは危機対応に追われることになった。彼らは、引き続き緊縮的マクロ政策へのコミットをイギリス側に求める一方、大規模な対英融資を発動し、また平価の維持を巡る声明を発し危機の鎮静化に努めた。こうした試みは功を奏し、イギリス当局は為替管理の強化に訴えることなく外貨危機を克服することに成功し、同時に通貨安定と対外均衡をも達成していった。他方イギリスの危機は、為替自由化と国際経済取引の拡大という発展の裏側で、国際通貨システム全体の安定を脅かしかねない突発的な資本移動が生じるようになりつつあることを示していた。危機管理における各国のマクロ政策の役割を重視する方針は変わらなかったが、他方でそうした「一国的なマクロ経済管理」の手法だけでは、国際通貨システムの安定を維持することは困難になってきていたのである。

1958年に入ると、戦後長らく為替自由化の障害となってきた西欧におけるドル不足は解消し、ヤコブソンは主要国の為替自由化を急いだ。こうして1958年末には西欧主要通貨が非居住者の交換性を回復し、1961年2月には、西欧主要国がIMF8条国に移行した。しかし国際通貨システムは「ドル不足と為替管理」から「ドル過剰と短資移動」へと変化し始めており、1950年代後半に顕在化した不安定性はその度を増しつつあった。

こうしてドル危機やポンド危機といった新たな問題が生じるにおよび、IMFは、国際通貨システム全体の安定化を目的とした方策を打ち出していった。それらの方策は、トリフィンの「流動性ジレンマ論」が示す根本的な国際通貨システム改革論とは一線を画していた。クオータの増資を嚆矢に、融資制度改革そしてGABへと至る対応は、あくまで既存の国際通貨システムの安定化を図るための措置であった。しかし一連の対応は、短資移動に対する規制ではなく、その存在を所与としたものでもあった。IMFの為替自由化に対する考え方は、経常取引と資本取引とを明確に区別するという設立時の理念から次第に変化し始めていたといえよう。

戦後の国際通貨システムは、その形成過程にまで踏み込むと「調整可能な釘付け、裁量的なマクロ政策、経常取引に限った通貨の交換性回復」というような、現代の国際金融論的な理解で総括できるほど単純なものではなかった。そして初期IMFの役割もまた、「内外均衡を同時達成するための金融支援の供与と通貨交換性回復の促進」といった設立の理念の単純な引き写しにはなりえなかった。IMFの「変貌」を巡る通説が示すところとは異なり、ブレトンウッズ体制下のIMFは、必ずしも当初設定された使命ないし国際通貨システムの運営を巡るルールに対し、受動的に従属する存在ではなかった。組織としての自律性に基づき、協定を柔軟に解釈しながら、独自の政策路線を築き上げていたのである。

審査要旨 要旨を表示する

1.西川輝氏の博士学位請求論文「戦後国際通貨システムの形成とIMF」は、1944年のIMF誕生から1960年代初頭までの時期を対象として、国際機関としてのIMFの制度形成史、政策形成史を、IMFの内部一次資料に即して検討したものである。分析の主たる素材は、IMFの対英コンサルテーションで、ポンドの交換性回復に関わるIMFと英国との意見の相違とその変化を逐年的に追うことを通じ、IMFの政策の変遷、特にその中でIMFが組織としての自律性を徐々に形成していくプロセスを浮かび上がらせている。当該期のイギリスの為替問題については、海外及び国内の若干の既存研究が存在するが、為替自由化についてIMFの活動に則して分析した研究は本論文が初めてであり、多くの新たなファクト・ファインディングとともに、既存の内外のIMF研究史に対しても一石を投じる内容となっている。本論文の構成は次の通りであり、以下、各章の内容の検討を行う。

はじめに―問題の所在と課題の設定

第1章 戦後復興期の国際通貨システムとIMF

第2章 1950年代前半の国際通貨システムとIMF

第3章 1950年代後半の国際通貨システムとIMF

第4章 1950年代末から60年代初頭における国際通貨システムとIMF

おわりに

2.まず、「はじめに」では、本論文の課題の設定と分析方法の提示が行われる。著者は、本論文の課題を「第二次大戦後の国際通貨システムの形成期におけるIMFの政策路線について、その『組織の自律性』と関連付けながら再検討することにある」としている。すなわち、IMFは、どのように多角的決済体制の樹立を志向したのか、また、その方途は、ドル不足の帰趨に代表される国際通貨システムの変容とともにどのように変化したのか、さらに、実際のIMFによるマクロ政策調整はどのような特徴を持って展開したのか、を具体的検討課題として提示する。

次に、分析方法として、「これまでほとんど注目されることのなかったIMFスタッフの視点、すなわち国際通貨システムの帰趨を巡る彼らの問題意識や認識がどのようなものであったか、それらの政策路線への現れ方がどのようなものであったかという観点からアプローチする」としている。また、この分析を行う素材として、協定14条コンサルテーションに着目するとしている。14条コンサルテーションとは、加盟国の為替自由化とIMF8条国への移行に向けた年次協議であり、為替自由化のみならず、その成否と不可分の関係にある財政金融政策の運営についても協議の対象となっており、IMFスタッフと各国通貨当局者によるマクロ政策調整の場であった。IMFの側からその政策路線にアプローチするうえで最適の素材と考えられるからである。

以下、時期を区分して対英コンサルテーションの分析が行われていく。第1章は前史で、1944年のIMF成立から1950年代初めの第2代専務理事ルースの改革までの時期が、IMFとOEECとの関係、EPU設立とIMFの関係等を軸に検討されている。そこでは、「内外均衡の同時追求がもたらす矛盾を緩和するための融資を加盟国に提供しながら、経常取引に係る通貨の交換性回復を促すこと」にIMFの主課題が絞られていくこと、しかし、戦後過渡期の問題(ドル不足/ポンド残高)への対応能力の欠如から、西欧諸国側から双務協定の多角化に向けた試みがなされ、IMFによるそれへの関与が志向されるが失敗に終わったこと、その結果としての為替自由化の推進主体としてのプレゼンスの低下のなかから、国際収支調整におけるマクロ政策の役割(=国内総支出の抑制)を重視するアブソープション・アプローチが登場し、初代専務理事ギュット、第2代専務理事ルースによる融資制度改革が図られることなどが強調されている。

第2章は、1950年代前半が対象である。1952年3月14条コンサルテーションが始まるが、IMFスタッフは、コンサルテーションの場での「為替自由化の条件」について協議を主張、これに対して、イギリス側は、国際収支不均衡の解消に向けた黒字国の努力と責任を要求し、イギリス当局のポンド交換性回復計画(ロボット/共同計画)の是非が争点となっていく。IMFスタッフはイギリスの共同計画を後押しし、ポンドの交換性回復(他国の為替自由化の条件)を梃子とした多角的決済体制の樹立を志向したこと、国内均衡重視のイギリスのマクロ政策運営に対し、IMFスタッフの介入は微温的であったことなどが明らかにされている。

第3章は、1950年代後半が対象である。1955年、経常収支危機と資本収支危機の発生によって、イギリスは共同計画の断念を余儀なくされる。そのなかでポンドの交換性回復に向けた対英スタンドバイ協定も棚上げされ、イギリスの状況如何が西欧全体の為替自由化の帰趨を規定する状況であることがより強く認識されるようになる。IMFは、1955年度コンサルテーションにおいて、緊縮的マクロ政策を通した国際収支危機への対応と為替自由化の推進をイギリス側に要求する。イギリスの国際収支危機はもはやマクロ政策運営で対応すべき平時の問題であるという把握が、IMF内部では強くなり、いわゆるマネタリー・アプローチが登場する。戦後過渡期の終了に向けた方策の検討がようやく始まるが、1956年末のスエズ危機、1957年夏のポンド投機などによるイギリス外貨危機の発生は、「一国的なマクロ経済管理」の手法だけでは対応困難な「新たな問題」の登場を意味し、クオータの増額(増資)と国際流動性の増強に向けた第3代専務理事ヤコブソンの提案を生み出していく。

第4章は、8条国移行により14条コンサルテーションの終了する1961年までの時期が対象である。1958年12月、ポンドは他の西欧主要通貨とともに交換性を回復する。1950年代末には、イギリスの対ドル地域経常収支の黒字化、ポンド相場の強含みでの推移、金ドル準備の増加やクオータの増額(増資)等によって、為替自由化に向けた条件が整備され、1961年2月、イギリスはその他の西欧諸国とともにIMF8条国に移行する。しかし、この時期は、じつはドル危機が発生し、それまでに形成されていた国際通貨システムの動揺が始まった時期でもあった。国際通貨システムは、「ドル不足と為替管理」から「ドル過剰と短資移動」へと移行し、国際通貨システムの安定をめぐるIMFの政策路線も、従来の「加盟国のマクロ経済管理」の手法に加え、国際通貨システムの安定それ自体を目標とする政策の追求が始まる時期でもあった。資本移動に起因する国際収支問題へのIMF融資の利用認可、主要国とのスタンドバイ協定の締結を通したIMFの資金基盤増強(GAB)などがスタートするのである。

以上の時系列的分析をまとめる形で、「おわりに」では、以下のような総括が下される。まず、戦後の国際通貨システムそのものについては、その形成過程にまで踏み込むと「調整可能な釘付け、裁量的なマクロ政策、経常取引に限った通貨の交換性回復」というような、現代の国際金融論的な理解で総括できるほど単純なものではなかったこと、そして初期IMFの役割もまた、「内外均衡を同時達成するための融資の供与と通貨交換性回復の促進」といった設立の理念の単純な引き写しにはなりえなかったことが、結論として強調される。

すなわち、戦後復興期において「為替自由化の推進主体」としての地位が低下するなか、IMFスタッフたちは、戦後過渡期の諸問題、すなわち加盟国のインフレとドル不足に起因する国際収支不均衡の解決に正面から取り組まねばならず、IMFは、積極的に加盟国のマクロ政策に注文をつけるという「一国的なマクロ経済管理」の手法を確立させてゆくこと、インフレとドル不足に起因する国際収支の不均衡が為替自由化の障害になるような状況の下で、マクロ政策介入の方針は、加盟国に経済成長や完全雇用を促すものにはなりえず、総需要管理を基本的な考え方にしながらも、いかにしてインフレと国際収支不均衡を是正するかという方針に基づき、加盟国による裁量的なマクロ政策運営を一定程度制限するものとして展開することになったこと、これが初期の特徴とされる。

また、1950年代後半に入り、為替自由化の進展とともに、国際通貨システムの安定を脅かす短資の移動が生じるようになると、「加盟国のマクロ経済管理を通した国際通貨システムの運営」という手法の限界が顕在化し始め、この「新たな問題」に対し、IMFは、短資規制ではなく緊縮的マクロ政策と国際流動性の増強によって応じようとしたこと、IMFの「変貌」を巡る通説が示すところとは異なり、戦後国際通貨システムの形成期におけるIMFは、必ずしも当初設定された使命ないし国際通貨システムの運営を巡るルールに対し、受動的に従属する存在ではなかったこと、組織としての自律性に基づきながら、独自の政策路線を築き上げていたこと、などが当該期の特徴とされる。

3. 以上が、本論文の要旨である。以下、評価と問題点についてまとめて述べる。

評価すべき第1の点は、従来、通説では「開店休業状態」とされてきた1950年代のIMFに果敢に切り込み、IMF所蔵の一次資料を駆使して多くの重要なファクト・ファインディングを行い、新しい初期IMF像を描き出すことに成功したことである。ブレトンウッズ協定自体は、多角的決済機構の樹立、その前提としての為替の自由化を謳いながらも、実現の道筋を具体的には示さなかった。本論文は、IMFが為替自由化の政策手法を開発し、実際にそれを適用した過程を、イギリスを例にとりながら、詳細に明らかにしている。IMF正史を別にすれば、これまで一次史料に基いて解明されることがなかった、IMF内におけるコンサルテーションおよびIMF融資に関する制度形成のプロセスを明らかにしたことは、本論文の最大の貢献である。とりわけ、1956年にヤコブソンが専務理事が就任する以前の、これまであまり注目されなかったギュット、ルース両専務理事時代のIMFの実態を究明し、この時代にIMF運営の基本となる諸制度の原型が形成されたことを明らかにした点は注目に値する。

第2に、この初期IMF像の提示に関連して、IMFの組織としての自律性、能動性という特性を検出し、国際金融機関の歴史的分析に新たな手法を導入したことである。IMFが融資を行う際には、一般的には、借入国が一定の政策を採用することを条件(conditionality)として課すことが、現在では当然のことと認識されている。しかしながら、こうしたIMF融資の枠組みは協定上決して自明のことではなく、年月をかけて徐々に形成されたものであることを、対英コンサルテーションの分析のなかから浮かび上がらせたことの意義は大きい。

評価すべき第3の点は、国際金融機関の自律性の強調と関連し、IMF内部における経済理論との接合を、意識的に追求していることである。本論文では、IMFの政策の理論的基礎となる国際収支決定に係るabsorption approachやmonetary approachが1950年代以降にIMF内部で発展していったことなどを、原資料に基づき、分析・記述している。休眠状態にあったととらえる向きが多い初期のIMFが、その後の自律性発展の基盤となる様々なステップを、内部での経済理論の探求を行いながらを進めていたことを明らかとした点で、本論文は貴重な貢献をしたものといえよう。

とはいえ、本論文に問題点がないわけではない。その第1は、本論文が、IMF資料に基礎を置き、米国や英国側の資料を用いてはいないことである。主要国、特に米国がIMFに対して、いかなる姿勢で臨んでいたのか、具体的にはIMFを米国の政策ツールとしてどのように用いようとしていたのかという点で十分な分析ができているとは言い難い。IMFの自律性形成もそうした主要国の姿勢と矛盾しない限りで可能となると考えられる。IMFスタッフが形成していった考え方が受容される条件は、その理論的整合性とともに、それが可能になる客観的市場条件あるいはシェアホールダーの意向にあったということができる。本論文ではこの検討がなされていない。

また第2に、イギリス経済史の研究においても、広大なポンド圏の中心としてのイギリスの特殊性、英米関係の強さ、それと裏腹の大陸ヨーロッパ諸国との関係の弱さという特殊性などがこれまで強調されているが、そうした研究の批判的検討が必ずしも十分になされていない。いいかえるならば、イギリスを事例としたことの意味をより自覚的に表現する必要があるということである。具体的には各国のポンド保有と封鎖ポンド勘定の存在、さらに、英連邦特恵関税地域の存在を背景にした「ポンドの特殊な地位」の確保・回復を目指すイギリスの思惑もあって、イギリスはIMFにとって特別な 重要性をもつ国であったと考えられる。そのイギリスを事例とした自律性や柔軟性の検証は、果たしてそのまま一般化しうるのか、イギリスはIMFにとってアメリカとともに「特別な国」であり、一般化するための方法的手続きが必要だったのではないかと考えられる。

第3は、評価の第1点目の裏返しになるが、IMFの独自性、自律性の強調の根拠とされているabsorption approachやmonetary approachの背景にある経済思想や経済理論についての考察が不十分なことである。absorption approachやmonetary approachについての基本的な説明はなされているものの、なぜ、そうした理論をIMFスタッフが案出するに至ったのか、また、そうした理論の背後にある経済思想との関連はどうだったのか、これらについて、本論文では検討が及んでおらず、このことが、1960年代の短期資本移動激化に伴うIMFの「変化」という指摘への説得力を弱めている。

4. 以上のように、若干の課題は残されているといえ、分析の斬新さ、実証の緻密さ、論理的な一貫性の点から見て、本論文はきわめて高い水準にあり、博士論文として十分な条件を満たしていると評価できる。また、残された課題の多くは氏が今後取り組んで行くべきものとも考えられる。以上により、審査員は全員一致で本論文を経済学博士の学位を授与するにふさわしい水準にあると認定した。

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