学位論文要旨



No 128821
著者(漢字) 櫛橋,明香
著者(英字)
著者(カナ) クシハシ,サヤカ
標題(和) 身体の処分に関する法的枠組みについて
標題(洋)
報告番号 128821
報告番号 甲28821
学位授与日 2013.02.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第269号
研究科 法学政治学研究科
専攻 総合法政
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 河上,正二
 東京大学 教授 大村,敦志
 東京大学 教授 樋口,範雄
 東京大学 教授 石川,健治
 東京大学 教授 森田,宏樹
内容要旨 要旨を表示する

日本の民法には,本人による身体の処分に関する明示的な規定は存在しない。19世紀末から20世紀初めころのいわゆる死体論の多数は,財産法の理論によって本人による身体の処分の問題の分析を試みた。現在,この問題は,主に民法総則の分野において,人体の保護と本人の意思の尊重を基調とした,物の処分とは異なる法的枠組みとして整理されつつある。このような状況を踏まえた本稿の課題は,フランス法の議論を参照しつつ,人体及び分離物そのものの法的性質のみならず,身体に関する自己決定に検討の対象を広げ,身体の処分行為及びその法的権限の性質に着目するとともに,身体の処分,身体の侵害及び身体の保護の相互の関係を明確にすることを通じて,身体の処分の問題を解明する一端をつかむことである(序章)。

権利主体としての人と権利の客体としての物を分けるという二分法は,ローマ法から続く基本的な法的思考の枠組みである。フランス民法典においては,意思に人格の本質を見出す精神主義哲学の影響の下,人の概念は,抽象的な権利義務の帰属主体とされ,物の概念は,人以外のすべての存在を表すことになった。そこで,この二分法を前提とすると,人又は物に類比するという方法で,人体及び分離物の法的性質の検討を進めるという発想が生じうる。そこで,第1章では,そのような議論の具体例を通じ,人又は物の概念からのアプローチの適否を検討した(第1章第1節)。

人体の不可処分性原則は,人体の法的性質を人に類比する方法により成立した原則である。すなわち,フランス民法典において,奴隷制度と民事死亡の制度が廃止されると,法人格と身体の所在が一致しているという法状況が生じ,これに法主体である人は契約の目的とはなり得ないという人の取引対象外原則が結合し,人体の不可処分性原則が出現した。ところが,血液等の分離物の取引が適法に行われている状況を同原則により説明することは困難で,判例でも同原則が援用されるのはほぼ代理出産の事案に限られている。1994年の生命倫理法の立法の経過を見ると,同原則は,最終的には非財産性原則に転化した形で採用される。これは,議論の過程で,人体の不可処分性原則の趣旨が,人体と分離物を有償契約の目的として商品のように扱うことを防ぐことにあると理解されたことによる(第1章第2節第1款)。

胚,胎児及び死体に法人格を認める見解は,胚,胎児及び死体の法的性質を人に類比することにより,その保護を実現しようとする立場である。動物や自然物に法人格を拡張する主張に対しては批判があるが,このような批判の理由を,従前の法人論を参照しつつ検討すると,法人格の拡張とは,自然人の利益に資する場合に,自然人相互の関係同様に権利義務を負う資格を認めることを意味することが明らかとなる。したがって,死後に義務を負う可能性のない死体や,廃棄されるか研究に用いられるか胎内に移植されるか不確定な胚を人と認める必要性や許容性はない。他方,不測の事態がない限り,出生後権利義務の主体となる胎児を一定の場合に人と認めることには合理性がある。実定法上も,胚や死体には,人としてではなく,時間的に人に連なる存在として特別の考慮が行われている(第1章第2節第2款)。

不融通物又は財産の概念による人体及び分離物の法的性質の検討は,物の概念又は所有の対象となる物としての財産の概念によって,人体及び分離物の特殊性を明らかにしようとする方法である。不融通物(取引対象外の物)の概念は,ローマ時代から存在し,公物理論の分野で発展した後,近時は人格に関する非財産的権利・利益の譲渡の可否に関して援用されている。このような経緯に着目し,不融通物(民法典1128条)を,人と結びつく存在に関する物のカテゴリーとし,生体は人そのものであるから不融通物には含まれないが,死体及び分離物は不融通物に含まれるとする見解がある(第1章第3節第2款)。また,民法典における財産は,もともと物理的な占有を可能とする有体物であり,取得可能性を要件とすると考えられていたが,これを再構成し,取得可能性のみならず差押可能性をも財産の要件に含め,生体にはいずれも認められず,死体と分離物には取得可能性は認められるが差押可能性は認められないとする見解がある。このように,人体及び分離物の特殊性を表すために不融通性や差押可能性の概念を用いることは巧みな方法ではあるが,不融通性や差押可能性の概念そのものを追究することによっても人体及び分離物の処分の限界は明らかにならない(第1章第3節第3款)。

このように,身体の処分の問題に対する人又は物という概念からのアプローチには,限界がある。そこで,第2章では,人体及び分離物という対象からのアプローチを試みた。まず,歴史的に人体及び分離物がどのように扱われてきたかを概観した。ローマの十二表法やゲルマン法に見られるように,身体は,古くは法的な責任と結びついていたが,次第に法的な場面,特に私法における役割を減じていった。その一方,身体は,教会法や世俗法としての行政法規の規律と保護の対象とされてきた。ところが,産業革命以降,主に人身損害の問題を通じて,身体の侵害に対する保護が再び私法,特に民法の大きな課題となり,さらに,20世紀半ばころから,生命倫理学の影響の下,臓器移植や実験への参加等,身体の処分に関する個別の立法が始まり,1994年に生命倫理法が成立した。こうして,身体の侵害も処分も,再び民法学のテーマとなった(第2章第1節)。

次いで,現在,1994年の生命倫理法によって改正された民法典及び民法典の諸原則を具体化した公衆衛生法典においてどのような対処が行われているかを検討した。1994年の生命倫理法は,民法典において公序として人体及び分離物に関する諸原則を定め,公衆衛生法典においてこれらの原則を具体化している。これらを検討する限り,身体の処分に当たり,同意の存在,意思の表明又は拒否の不存在が,人体及び分離物の利用を正当化するために最も重要な要件として位置づけられている(第2章第2節)。

このように,同意又は意思の表明によって積極的な身体の処分を行うことが法的に認められていることに注目し,第3章では,今度は身体を処分する行為とその法的権限に着目するという意味での概念からのアプローチを試みた。

身体を処分する権限の法的性質論は,人が物を所有するという関係が人と身体の間にも成り立つかという問題意識から論じられはじめ,現在では身体の人格の属性としての特殊性に着目した人格権又は身体の処分の本質を重視した人格の自由のいずれかが問題となっている。人格権説と公的自由説を対比すると,その結論の最大の分かれ目は,権利が特定の客体に対する特権であり,客体と内容が明確であるのに対し,自由は自己決定を本質とし,その内容は確定することができないという,主観的権利と公的自由の基本的な相違に行き着く。すなわち,身体の処分行為の法的性質を分析し特定することができれば,人格権と構成できる。他方,人と身体が不可分であることを重視すると,公的自由説に傾く(第3章第1節)。

民法典,刑法典及び公衆衛生法典に存在する人体に関する規定の総体は,一体として新たな公序(身体的公序)の出現と考えられている。その中心に据えられた概念は尊厳である。尊厳の概念の特定は困難であるが,実定法の状況によれば,人間の尊厳の概念は,個人のみならず集団をも対象とし,第三者はもちろん自分自身をも,物ではなく人間として扱うことを求めるものとして,客観的に把握されている(第3章第2節)。

このような身体を処分する権利又は自由が人間の尊厳を内容とする身体的公序により制約されるという枠組みをさらに具体化すると,例えば次のようになる。身体の処分とは,本人の意思に基づく身体の完全性の侵害である。これはさらに,自らの手で身体の実質を変更したり破壊したりする身体の事実上の処分と,第三者に対する身体の完全性の侵害の許可として主に同意によって行われる身体の法的な処分に分けられる。この同意は,その自由かつ明確である必要性,撤回可能性及び一定の場合の要式性が示すように,財産の処分のための契約の成立要件としての同意とは異なる性質のものである。身体の法的な処分が適法となるためには,利益と危険の均衡,医学的必要性又は他人の治療的利益の存在,無償性及び匿名性の確保が必要であり,これらは公序としての人間の尊厳の要請によるものである。このように,第三者による身体の侵害と本人による身体の処分は,身体の保護を目的とする身体的公序を中心にした表裏の関係にある(第3章第3節)。

以上のとおり,第1に,フランス法においては,人体及び分離物の処分に対する制限は,人の処分不能性や物の処分可能性からではなく,権利又は自由を制約する公序として説明されるべきである。人体の不可処分性原則が転化した人体の非財産性原則,胚や死体に対する実定法上の特別の考慮,人体及び分離物に関する不融通性や差押可能性の実質は,いずれも公序としての人間の尊厳の内容として理解できる。第2に,人体及び分離物の処分行為は,財産の処分行為とは異なる性質を持つものである。身体を処分する権限に基づいて身体を処分する行為とこれに対する身体的公序による制約を全体としてみたとき,フランス法における人体と分離物の処分の法的な枠組みは,人が物を所有するところから始まる財産法とは異なっている(第4章第1節)。

このような視点は,わが国においても,ヒト胚の法的性質論,不融通物の概念による分離物の法的性質の理解,分離物の提供行為の解釈及び身体を処分する法的権限とその制約原理の考察に一定の示唆を与えるものである(第4章第2節)。

審査要旨 要旨を表示する

民法は、従来、財産の帰属や処分に対する規律に焦点をあわせてきた。人に関するルールは、家族関係に関するものを別にすれば、十分には発達しなかった。むしろ、権利義務の帰属点として抽象的な法人格を措定することが近代法の課題とされた。日本においても、19世紀末に制定された現行民法典において、人の身体は不法行為法による保護の対象とされてはいたものの、人身損害に対するルールが飛躍的な発展を見たのは20世紀に入ってからであった。また、身体の処分に関する明文の規定は置かれておらず、学説上も、20世紀はじめに「死体論」をめぐり議論がなされたことはあったが、その後、最近に至るまで目立った展開を見ることはなかった。

ところが近年では、世界的に見て、臓器や血液、さらには生殖のための配偶子など(以下、分離物という)の売買や提供が問題とされるようになっており、様々な法規制がなされるとともに、生命倫理と呼ばれる分野も確立しつつある。日本でも、一定の法規制はなされてはいるが、不十分な点も少なくない。また、近年、民法総則の概説書類には、物の処分とは異なる法的枠組の構築を模索するものが現れているが、理論的な観点からの検討はなお萌芽的なものにとどまっている。本論文は、身体及び分離物の法的性質だけでなく、自己決定による身体の処分の法的性質にまで検討対象を広げることによって、身体の処分に関する民法上の枠組を措定すること、そして、このことを通じて、本人の意思の尊重と身体の保護という二つの理念の関係を明らかにすることを試みるものである。

本論文は、そのための方法としてフランス法を参照し、複数の観点からこれを検討することを通じて、その課題を実現しようとする。フランスでは、1994年の生命倫理法によって、身体に関する包括的な立法を実現したが、そこでは身体に関する一般原理が提示されるとともに、身体の利用に関する個別問題への対処もなされた。また、この立法を機縁に生じた学説の新たな展開も含めて、一定程度の研究の蓄積もあるからである。

本論文は、序章のほか、フランス法に関する第1章から第3章と、結論にあたる第4章からなる。

第1章では、筆者は権利主体としての人と権利客体としての物と峻別する二分法から出発し、人または物に類比することによって身体及び分離物の法的性質を検討しようという試みを追跡し、このようなアプローチ(筆者はこれを「概念からのアプローチ」とも呼んでいる)の当否を検討している。

第1章第2節では、「人からのアプローチ」につき、一方で、身体の「不可処分性indisponibilite」の原則が出現し変容する過程が辿られる。すなわち、フランス民法典の成立後に奴隷制度と民事死亡が廃止されると、法人格と身体の所在が一致するという法状況が生じるが、これに法主体である人は契約の目的とはなりえないという人の「取引対象外extracommercialite」の原則が加わって、身体の不可処分性の原則が出現した。ところが、この原則によっては、血液等の分離物の取引が適法とされてきたという実定法の状況を説明することは困難であった。また、判例がこの原則が援用するのはほぼ代理出産の場合に限られていた。結局、1994年の生命倫理法の立法過程において、不可処分性の原則は「非財産性extrapatrimonialite」の原則に転化することとなった。

他方、胎児・死体に法人格を認める見解が取り上げられる。筆者は、自然人の利益に資する場合に限って法人格の拡張が認められてきたとした上で、死体や胚に法人格を認めることは必要でなく許容されないとする。他方、不測の事態がない限り、出生後に権利義務の主体となる胎児に関しては、一定の場合に人と認めることに合理性があるとする。

以上の検討を経て筆者は、人体及び分離物を人に引きつけまたは人と同視するアプローチは、処分の可否を決する基準として有効ではないとする。

第1章第2節では、「物からのアプローチ」が検討に付される。最初に、「不融通物chose hors commerce」の概念を人と結びつく存在に関する「物」のカテゴリーとし、人そのものである生体は別として、死体及び分離物は不融通物に含まれるとする見解が紹介される。続いて、「財産bien」の概念に取得可能性だけでなく差押可能性を付加することによって、生体にはいずれも認められない、死体及び分離物には取得可能性は認められるが差押可能性は認められないとする見解が紹介される。筆者は、これらは巧みな方法ではあるが、不融通性や差押可能性といった概念そのものを追究することによって、処分の限界が明らかになるわけではないとする。

第2章では、前章で「概念からのアプローチ」には限界があるとした筆者は、歴史の中で、人体及び分離物が具体的にどのように扱われてきたかのかを概観する(筆者はこれを「対象からのアプローチ」と呼んでいる)。身体は、古くは法的な責任と結びついていたが、次第に、法的な意義(特に私法における役割)を失っていく。他方で身体は、教会法や世俗法としての行政法規の規律・保護の対象とされるようになる。ところが産業革命以後は、人身損害の問題を通じて身体の保護が再び私法の大きな課題となり、20世紀の半ばころからは、臓器移植や実験への参加など身体の処分に関する個別立法が始まり、1994年の生命倫理法に至る。生命倫理法は、民法典を改正して公序としての身体及び分離物に関する諸原則を定めるとともに、公衆衛生法典を改正してこれらの諸原則を具体化した。生命倫理法によれば、同意の存在、意思の表明または拒否の不存在が、身体及び分離物の利用を正当化するための中核的な要件として位置づけられていることがわかる。

第3章では、前章を通じて、同意または意思の表明によって身体の処分が法的に認められるようになって来ていることに注目した筆者は、身体を処分する行為とその基礎となる法的権限に着目する(筆者によれば、再び「概念からのアプローチ」に転じることになる)。

身体を処分する権限の法的性質に関しては、人が物を所有する関係が人と身体の間にも成り立つかという問題意識から議論が始まったが、現在ではこの権限は、人格権であるのか(身体が有する人格の属性としての側面を重視)、人格の自由であるのか(身体の処分の本質を重視)が問われている。筆者は、この議論は、主観的権利(権利は特定の客体に対する特権である)と公的自由(自由は自己決定を本質としその内容は確定できない)の相違に行き着くとする。

他方、民法典・刑法典・公衆衛生法典に存在する人体関連規定の総体は、一体として新しい公序(身体的公序)の出現と考えられている。この公序の中核には「尊厳dignite」が据えられている。「尊厳」は特定の難しい概念ではあるが、実定法の状況に照らして見れば、人間の尊厳の概念は、客観的に、すなわち、個人のみならず集団をも対象とし、第三者はもちろん自分自身をも、物ではなく人間として扱うことを求めるものとして、把握されている。

身体を処分する権利または自由は、人間の尊厳を内容とする身体的公序によって制約される。この基本的な枠組をさらに具体化すると、次のようになる。第一に、身体の処分とは、本人の意思に基づく身体の完全性の侵害である。これはさらに、自らの手で身体の実質を変更したり破壊したりする事実上の処分と、第三者に対する身体の完全性の侵害の許可としての同意によって行われる法的な処分に分けられる。ここでの同意は、それが自由かつ明確であることが必要とされ、また、撤回可能性が確保されるとともに、一定の場合に要式性が求められる。このことは、この同意が財産の処分のための(契約の成立要件たる)同意とは異なる性質のものであることを示す。第二に、身体の処分が適法となるためには、利益と危険の均衡、医学的必要性または他人の治療的利益の存在、無償性及び匿名性の確保が必要とされるが、これらは公序としての人間の尊厳の要請による。これらの要件は、財産の処分には必要とされない。以上のように、身体の処分は財産の処分とは異なる法的枠組に服すると解される。

第4章第1節では、前章までの3つの章でフランス法の考察を終えた筆者が、その成果を総括する。第一に、フランス法においては、身体及び分離物の処分に対する制限は、人の処分不能性や物の処分可能性からではなく、権利または自由を制約する公序として説明されるべきである。身体の非財産性の原則や胚・死体に対する実定法上の特別な考慮、身体及び分離物に関する不融通性や差押不能性の実質は、いずれも公序たる人間の尊厳の内容として理解できる。第二に、身体及び分離物の処分行為は、財産の処分行為とは異なる性質を持つ。身体を処分する権限(人格権または人格的自由)に基づいて身体を処分する行為とこれに対する身体的公序による制限を全体として見るならば、フランス法における身体と分離物の処分の法的枠組は、人が物を所有するところから始まる財産法のそれとは異なっている。

最後の第4章第2節で、筆者は、フランス法から抽出された視点から日本法への示唆を引き出そうとする。すなわち、一方で、総合科学技術会議生命倫理専門調査委員会におけるヒト胚の法的性質論、民法における不融通物概念の継受状況をとりあげ、その中に見られる人・物二分法的なアプローチを払拭しつつ、筆者の枠組による再構成の可能性を示す。他方、現代における若干の解釈論的な試みを、財産法をベースにするものとそれ以外のものとに分けて、それらを整理・方向づける上で、筆者の枠組が有効なのではないかとする。

以上が本論文の要旨である。

本論文には、次のような長所がある。

第一に、これまで日本では、散発的な検討がなされるだけで体系的な位置づけも明らかではない萌芽的な問題、しかし、社会的に見ても理論的にも見ても極めて重要な問題につき、フランス法に関する資料を広く丹念に収集して、一定の観点から整序し、今後の議論のための確かな基礎を確立した点は、大きな貢献であると言える。

筆者の言うように、確かにフランス法には「身体の処分」に関する相当程度の議論の蓄積が存在するものの、それらを総括した研究が存在するわけではない。筆者は、今日における立法や判例の動向、数多くの学位論文の主張を詳細に検討するだけでなく、可能な範囲で、近代以前の法状況に遡り、社会の実態を考慮に入れるとともに、必要に応じて教会法や行政法令、刑事法や憲法にも言及し、「身体の処分」という問題に関する法の全体像を提示している。

第二に、当面の対応の指針を提示するだけにとどまらず、問題の性質を明らかにし理論的な枠組を獲得しようと試みていることも、評価に値する。フランス民法学の重要な概念枠組である「人」「物」の概念による解決の道を丁寧に辿った上で、「行為」とそれに伴う規制という枠組の内実を双方の根拠を問う形で明らかにし、財産の処分とは異なる「行為」を抽出するという方略は、賛否両論はありうるものの今後この問題を議論する際の一つの出発点となるものと思われる。

第三に、直接に課題とされた問題にとどまらず、隣接する問題の性質を照らしだし、今後の研究を促している。その意味で波及効果の大きい研究であると言える。筆者が必要に応じて取り上げた様々なトピックス(身体の「不可処分性」の原則、「法人格」に関する分析、「不融通物」の法理、「財産」の概念、衛生学と身体、産業化と身体、「権利と自由」の関係、「人間の尊厳」など)は、従来、日本の民法学では必ずしも十分に理解されていたとは言えないものであり、本論文には、これらの諸問題に関する興味深い知見が含まれている。またそこには、民事法的な立場からの研究であるとしながら、問題の性格の必然性からであろうが、民事法を超えた法律論を志向する、理論的であるばかりでなく実践的な契機を伴う研究姿勢が示されており、そのことの意義は重要である。

その結果、特に、本論文は、「人」「物」の概念の再検討、「行為」概念の新たな分節化という理論的な課題の存在を、これまでにない広い検討の素材・方法とともに提示する結果になっている。

なお付言すれば、文章は平明であり叙述は丁寧であり、要所要所でそれまでの論旨が要約されている。博捜された資料も巧みに利用されており、筆者の扱う問題と周辺の諸問題の意外な結びつきに、興味を覚えることも少なくない。そのため、300頁を超える論文であるが容易に読み進むことができる。

もっとも本論文にもさらなる改善を望みたい点もないではない。

第一に、検討の対象が広汎であり包括的である反面、歴史的な考察や社会的な事実に関しては、主として内外の二次的な文献に、刑事法や憲法など民法以外の法領域に関しては、主要な概説書類に、それぞれ依拠している。そのためであろうが個々の問題に対する掘り下げが十分でないと感じられる箇所も散見される。これらの点についてはさらに立ち入った資料の探索と検討とが望まれる。

第二に、先駆的な研究であるために、問題の設定、資料の捜索、分析方法の提示に重点が置かれており、結論が暫定的なものにとどまっている。そのために、日本における解釈論との接合にもなお不十分な点が残る。また、「人」「物」二分法の再編可能性についても見解は留保されている。この点は今後の補充とさらなる検討が期待される。

以上のように改善すべき点がないわけではないが、これらは本論文の価値を大きく損なうものではない。以上から、本論文は、その筆者が自立した研究者として高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

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