学位論文要旨



No 128824
著者(漢字) 韓,京娥
著者(英字)
著者(カナ) ハン,キョンア
標題(和) 方向性を持った補助動詞に関する日韓対照研究 : 「ていく/くる」「てやる/くれる」と「e kata/ota」「e cwuta」について
標題(洋)
報告番号 128824
報告番号 甲28824
学位授与日 2013.03.01
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1185号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 生越,直樹
 東京大学 教授 坂原,茂
 東京大学 教授 近藤,安月子
 東京大学 准教授 福井,玲
 愛媛大学 教授 塚本,秀樹
内容要旨 要旨を表示する

本研究では、対照言語学という観点から補助動詞構文の中で方向性が含意されている日本語の「ていく/くる」、「てやる/くれる」とそれらに対応する韓国語の「e kata/ota」、「e cwuta」の意味・機能について考察を行った。併せて、移動主体の出発点から到着点へという移動に含意されている方向性と与え手から受け手への対象の移動という授受に含意されている方向性についても考察した。

以下、章ごとに内容を略述する。

第1章 序論では、問題提起及び構成について述べた。具体的には次の3点について問題を提起した。(1)「ていく/くる」、「てやる/くれる」とそれに対応する「e kata/ota」、「e cwuta」の相違点を明らかにする、(2)二つの構文における日本語と韓国語の相違点は、何に起因しているのか、(3)従来の日韓対照研究で一緒に取り上げられたことのない二つの構文を一緒に取り上げることによって移動と授受に含意されている方向性は、補助動詞構文ではどのような様相を呈しているかを観察し、日本語と韓国語の類似点と相違点について考察する。

第2章 先行研究では、「ていく/くる」、「e kata/ota」構文と「てやる/くれる」、「e cwuta」構文に関する先行研究について日本語学における研究、韓国語学における研究、日韓対照研究の順に検討した。先行研究の問題点として(1)日本語学と韓国語学では、「ていく/くる」、「てやる/くれる」と「e kata/ota」、「e cwuta」について早くから研究されているものの、十分に説明されていない現象があること、(2)「ていく/くる」と「e kata/ota」、「てやる/くれる」と「e cwuta」の意味・機能には、大きな相違点があるにも関わらず、従来の日韓対照研究では、両言語の各意味・機能が対応しているかどうかという表面的な対応関係の指摘に留まっていること、(3)従来の研究では、「ていく/くる」と「e kata/ota」構文かあるいは「てやる/くれる」と「e cwuta」構文が別々に取り上げられているが、方向性という特徴を持っている二つの構文「ていく/くる」「e kata/ota」と「てやる/くれる」「e cwuta」を一緒に考察することによって日本語と韓国語の特徴がより明らかになる可能性があることを指摘した。

第3章 日本語の「ていく/くる」と韓国語の「e kata/ota」では、それぞれの本動詞「行く/来る」、「kata/ota」と関連付けて「ていく/くる」と「e kata/ota」について考察を行った。

従来の先行研究の指摘にならい、本動詞「行く/来る」と「kata/ota」の意味・機能を<空間表現><時間表現><心理表現><由来・起因><出現・生起><状態変化>に分類し考察した。その結果、「行く/来る」と「kata/ota」は、共に移動主体の空間移動を基本意味とし、時間表現やその他の意味・機能に変化している。ただし、「行く/来る」と「kata/ota」の基本意味である<空間表現>には、物理的出発点・到着点を重視するのか(「kata/ota」)それとも移動の到着点と話し手の関連性を重視するのか(「行く/来る」)という大きな相違点があることを明らかにした。

補助動詞構文「ていく/くる」と「e kata/ota」については、日本語の「ていく/くる」の意味・機能を軸とし、韓国語の「e kata/ota」と比較・対照した。

「ていく/くる」には、両構文が該当する意味・機能と「ていく」か「てくる」のどちらか一方のみの構文が該当する意味・機能がある。前者の<移動><継続><変化>には、「e kata/ota」が対応するのに対して、後者の<消滅><開始><出現><方向づけ>には、「e kata/ota」が対応しない。

ただし、一見「ていく/くる」と「e kata/ota」が対応し、類似した意味・機能を表すかのように見える<移動><継続><変化>の場合においても両言語には大きな相違点がある。<移動>では、「てくる」は、移動の物理的到着点が話し手にとって重要な場所であるかどうかを重視する。また、移動方向動詞と結合している場合到着点の重要性を意識し、物理的到着点になるかどうかのみを重視しない。一方、「e ota」は、移動の物理的到着点となるかどうかを重視する。<継続>では、「ていく」は、先行動詞の表す出来事の過程を重視しないのに対して、「e kata」は、それを重視する。<変化>では、日本語の方は、韓国語に比べ話し手と関係した出来事の変化であるかどうかを意識するのに対して、韓国語の方は、日本語に比べ時間の流れを伴う変化であるかどうかを意識する傾向がある。また、<消滅><開始><出現><方向づけ>の「ていく/くる」に「e kata/ota」が対応しないのは、本動詞「行く/来る」と「kata/ota」の「移動」の意味が保持されているかどうかに起因しているという従来の指摘と違って、移動という出来事に要する「時間的幅」を保持しているかどうかに起因していることが明らかになった。「ていく/くる」は、過程を重視しないこと、元来本動詞「来る」が話し手の縄張りを重視することから「e kata/ota」より広い意味・機能を持つようになったことを論じた。

さらに、「ていく/くる」は、出来事と話し手の関連を意識した解釈を優先するのに対して、「e kata/ota」は、出発点から到着点へという移動の方向性を重視した解釈が優先され、「ていく/くる」と「e kata/ota」の表す方向性は、異なる性格のものであることを指摘した。

第4章 日本語の「てやる/くれる」と韓国語の「e cwuta」では、 それぞれの本動詞「やる/くれる」、「cwuta」と関連付けて「てやる/くれる」と「e cwuta」について考察を行った。

まず、本動詞「やる/くれる」と「cwuta」の意味特徴を考察した。「やる/くれる」は、対象の移動と恩恵、それから、話し手と与え手、受け手の関係が含意されているのに対して、「cwuta」は、移動のみを表す。

次に、補助動詞構文「てやる/くれる」と「e cwuta」については、日本語の「てやる/くれる」の意味・機能を軸とし、韓国語の「e cwuta」と比較・対照した。

「てやる/くれる」は、両構文が該当する意味・機能の<恩恵>と「てやる」か「てくれる」のどちらか一方のみの構文が該当する<不利益><自己顕示><皮肉>がある。

<恩恵>の「てやる/くれる」には「e cwuta」が対応する。ただし、「てやる/くれる」は、先行動詞の表す出来事への好ましさ、有難さという話し手の恩恵を表すのに対して、「e cwuta」は、先行動詞の表す出来事に対する関与者を表し、恩恵は語用論的に発生する。なお、韓国語の「e cwuta」は、話し手が与え手になる場合と受け手になる場合含意されている関与の表し方に差がある。話し手が与え手となる場合は、関与者と関係を作ろうとする与え手の意図的行為によって関与は表れやすい。一方、話し手が受け手となる場合は、対象が移動する場合、与え手が話し手のためにと思ってわざわざ行う行為や話し手の代わりに行う行為、話し手の強い願いや期待がある場合に与え手との関与を表す傾向がある。

<不利益>の「てやる」にも「e cwuta」は、対応する。ただし、「てやる」は、先行動詞の表す出来事を行おうとする話し手の強い意志を表すのに対して、「e cwuta」は、関与者に働きかける話し手の意図を表す。なお、「てやる」と「e cwuta」の表す不利益は、共に元来先行動詞の表す意味や語用論的解釈によって発生している。

<自己顕示>の「てやる」は、受け手を想定しなくてもよく、先行動詞の表す出来事を実行しようとする話し手の強い意志を表すが、「e cwuta」は対応しない。「e cwuta」は、先行動詞の表す出来事への関与者を想定するためである。

<皮肉>においては、「てくれる」は、好ましくない、有難くない状況に対し、話し手が好ましい、有難いと表現することから皮肉が生じている。一方、「e cwuta」は、先行動詞の表す出来事を行う与え手の意図を皮肉っていることから生じている。

従来の日韓対照研究では、「てやる/くれる」と「e cwuta」が一致しているかどうかという表面的な対応関係のみを述べているのがほとんどで、両言語の違いについて詳細な考察を行っている研究は、皆無といってよいが、本研究は、「てやる/くれる」と「e cwuta」の類似点と相違点を明らかにすることができた。さらに、第三者が与え手、受け手となる場合、「てやる/くれる」は、話し手と出来事の関連性を表すのに対して、「e cwuta」は、与え手と受け手の関係を表す違いも明らかになった。

第5章 結論では、全体をまとめ、本研究の成果・意義と残された課題について述べた。 本研究の成果・意義は次のとおりである。(1)従来の先行研究で指摘されていない「ていく/くる」と「e kata/ota」、「てやる/くれる」と「e cwuta」の相違点を明らかにしている点、(2)従来の先行研究で指摘されている「ていく/くる」と「e kata/ota」の相違点は、本動詞「行く/来る」と「kata/ota」の移動の意味が保持されているかどうかの差ではなく、本動詞の移動にかかわっている時間に起因していることを明らかにしている点、(3)「ていく/くる」と「e kata/ota」、「てやる/くれる」と「e cwuta」における意味変化、いわば、文法化の様相の差を明らかにしている点、(4)日本語の「ていく/くる」と「てやる/くれる」は、話し手と出来事の関連性を重視するのに対して、韓国語の「e kata/ota」と「e cwuta」は、出来事の構成要素を重視する。つまり、日本語の「私」は、出来事の中心であることを表すが、韓国語の「나na(私)」は、出来事の参加者の一人であることを表し、両言語は出来事の把握に大きな差がある。

審査要旨 要旨を表示する

韓京娥氏の博士論文「方向性を持った補助動詞に関する日韓対照研究 ―「ていく/くる」「てやる/くれる」と「e kata/ota」「e cwuta」について―」の審査結果について報告する。

本論文は、補助動詞構文の中で方向性が含意されている日本語「ていく/くる」、「てやる/くれる」とそれらに対応する韓国語「e kata/ota」、「e cwuta」を対象に、対照言語学的な観点から両言語の異同を明らかにしつつ、それらの表現の意味・機能の特徴について詳細な分析を行ったものである。日本語・韓国語ともに、今回対象とした表現に関する研究はこれまでも行われてきたが、これらの表現を対照言語学的観点から包括的に扱った研究は皆無である。本論文は、従来個別に扱われてきた表現を方向性という観点から合わせて分析することにより、日韓の対応する表現間に見られる相違点についてより包括的な説明を試みようとしている。

本論文は5章からなっており、第1章では、具体的な事例を挙げつつ、本論文の目的が日本語「ていく/くる」「てやる/くれる」とそれに対応する韓国語「e kata/ota」「e cwuta」の相違点、およびそれをもたらす要因を明らかにするとともに、移動と授受に含意されている方向性が、それぞれの表現においてどのように反映されているのかを分析し、日韓両言語の特徴を明らかにすることであると述べている。

第2章では、「ていく/くる」「e kata/ota」と、「てやる/くれる」「e cwuta」に関する先行研究について述べ、先行研究の問題点として、これらの表現の使い方について十分に説明されていない現象があること、対照研究では表面的な対応関係の指摘に留まっていて、十分な分析がなされていないことを指摘した。

第3章では、「ていく/くる」と「e kata/ota」の意味・機能について、それぞれの本動詞「行く/来る」「kata/ota」と関連付けつつ考察を行っている。まず、本動詞「行く/来る」「kata/ota」の意味・機能については、共に移動主体の空間移動を基本意味とし、そこから時間表現やその他の意味・機能へと変化している点は共通しているが、基本意味である空間移動に関して、「来る」が到着点と話し手の関連性を重視しているのに対し、「kata/ota」は物理的出発点を重視するという大きな相違点があることを明らかにしている。

次に、補助動詞構文に関しては、日本語「ていく/くる」の意味・機能を軸として、韓国語「e kata/ota」と対照・比較している。まず、「ていく」「てくる」の両者とも該当する意味・機能<移動><継続><変化>では「e kata/ota」が対応するのに対して、「ていく」か「てくる」のどちらか一方のみが該当する意味・機能<消滅><開始><出現><方向づけ>では「e kata/ota」が対応しないことを指摘している。ただし、「ていく/くる」と「e kata/ota」が対応する<移動>に関しては、「てくる」では移動の到着点が話し手にとって重要な場所であるかどうかが重視されるのに対し、「e ota」では移動の到着点となるかどうかだけが重視されることを明らかにした。さらに、<継続>では、「ていく」が出来事の過程を重視しないのに対し、「e kata」はそれを重視すること、<変化>では、日本語がその変化が話し手と関係しているかどうかを意識するのに対し、韓国語は時間の流れを伴う変化として表す傾向があると指摘している。さらに、<消滅><開始><出現><方向づけ>の「ていく/くる」に「e kata/ota」が対応しないのは、従来は本動詞「行く/来る」と「kata/ota」の「移動」の意味が保持されているか否かに起因するとされていたが、それとは異なり、移動という出来事に要する時間的幅を保持しているか否かに起因していることを明らかにした。

以上の結果から、「ていく/くる」は、過程を重視しないこと、さらに本動詞「来る」が話し手の縄張りを重視することから「e kata/ota」より広い意味・機能を持つようになったと考えられること、「ていく/くる」は出来事と話し手の関連を意識した解釈を優先するのに対して、「e kata/ota」は出発点から到着点へという移動の方向性を重視した解釈を優先しており、「ていく/くる」と「e kata/ota」の表す方向性は異なる性格のものであると結論づけている。

第4章では、「てやる/くれる」と「e cwuta」について、それぞれの本動詞「やる/くれる」「cwuta」と関連付けつつ考察を行っている。まず、本動詞「やる/くれる」と「cwuta」の意味特徴を分析し、「やる/くれる」は対象の移動、恩恵、話し手と与え手・受け手の関係の3つが含意されているのに対して、「cwuta」は移動のみを表すことを指摘した。

次に、補助動詞構文「てやる/くれる」と「e cwuta」については、日本語の「てやる/くれる」の意味・機能を軸にし、韓国語の「e cwuta」と対照・比較を行っている。「てやる/くれる」の意味・機能には、両構文が該当する<恩恵>と、「てやる」か「てくれる」のどちらか一方のみが該当する<不利益><自己顕示><皮肉>があり、それらの意味・機能ごとに「e cwuta」との対応を分析している。まず、<恩恵>の「てやる/くれる」については「e cwuta」が対応するものの、「てやる/くれる」が出来事に対する話し手の好ましさ、有難さという恩恵を表すのに対して、「e cwuta」は出来事に対する関与者の存在を表し、恩恵は語用論的に発生することを明らかにした。さらに、<不利益>の「てやる」にも「e cwuta」が対応するが、「てやる」は出来事実現への話し手の強い意志を表し、「e cwuta」は関与者への話し手の働きかけを表しており、両者とも不利益の意味自体は、先行動詞の意味や語用論的解釈によって発生しているとする。一方、<自己顕示>の「てやる」の場合は「e cwuta」は対応しない。この違いは、「てやる」が話し手の強い意志のみを表し受け手を想定しなくてもよいのに対し、「e cwuta」は必ず出来事への関与者を想定するためである。また、<皮肉>の「てくれる」には「e cwuta」が対応するものの、「てくれる」の場合は好ましくない、有難くない状況に対し、話し手が好ましい、有難いと表現することから皮肉が生じているのに対し、「e cwuta」は出来事を行う与え手の意図を皮肉っていることから生じている点で、両者には差がある、と指摘している。

最後に、第三者が与え手、受け手となる場合、「てやる/くれる」は話し手と出来事の関連性を表すのに対して、「e cwuta」は与え手と受け手の関係を表すことを示し、これは第3章の「ていく/くる」「e kata/ota」と同様の傾向であることを指摘している。

第5章では、全体をまとめ、本研究の意義として、以下の4点を挙げている。(1)先行研究で指摘されていない「ていく/くる」と「e kata/ota」、「てやる/くれる」と「e cwuta」の相違点を明らかにした。(2)「ていく/くる」と「e kata/ota」の相違点は、本動詞が表す移動の時間に起因していることを明らかにした。(3)「ていく/くる」と「e kata/ota」、「てやる/くれる」と「e cwuta」における意味変化、つまり文法化の様相とその差を明らかにした。(4)以上のことから、日本語の「ていく/くる」「てやる/くれる」は、話し手と出来事の関連性を重視するのに対して、韓国語の「e kata/ota」「e cwuta」は、出来事の構成要素を重視している、つまり両言語では出来事の把握の仕方に差があること、言い換えると、日本語の「私」は、出来事の中心であるが、韓国語の「나na(私)」は、出来事の参加者の一人であるに過ぎないことを明らかにした。

本論文の特徴は、まず第一に、日本語「ていく/くる」、「てやる/くれる」と韓国語「e kata/ota」、「e cwuta」の意味・機能を詳細に分析し、類似していると見られていた意味・機能が実はかなり異なる性格を持つことを明らかにした点にある。特に、移動や恩恵に関して明らかにした日韓の違いは、今後これらの表現を対象とする研究がまず参照すべき分析となるであろう。さらに第二に、従来個別に分析されていた移動の「ていく/くる」「e kata/ota」、授受の「てやる/くれる」「e cwuta」を方向性の観点から合わせて論ずることにより、日本語と韓国語の表現の特徴をより包括的な形で提示できている点にある。これらの成果は、「ていく/くる」と「e kata/ota」、「てやる/くれる」と「e cwuta」の対応について、従来表面的な比較に留まっていた日韓対照研究の水準を大きく引き上げただけでなく、日本語、韓国語の分析においても新たな指摘を行うことにより、日本語学、韓国語学においてもその研究の進展を促すものである。そういう点で、日韓対照研究だけでなく、日本語学、韓国語学、さらには日本語教育や韓国語教育においても大きな貢献をなしうる研究と言えよう。

審査においては、繰り返し言及されている話者との関連性という言葉について、その指し示す概念が不明確であり、特に従来よく使われている視点という用語との違いが明確でないこと、補助動詞に比べて本動詞の分析が不十分であり、両言語の本動詞の意味・機能についてはさらに分析の必要があること、収集した用例の中に原文と翻訳文が対応していないものがあること、今回の意味分析の結果と文法化の関係が十分述べられていないこと、今回の成果と「てもらう」など他の表現との関係について言及がないことなど、今後検討すべき様々な課題も指摘されたが、それらが本論文の価値を損ねるほどのものではないことが確認された。

したがって、本審査委員会は本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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