学位論文要旨



No 128826
著者(漢字) 小野,真由美
著者(英字)
著者(カナ) オノ,マユミ
標題(和) 日本人高齢者の国際退職移住に関する文化人類学的研究 : マレーシアの事例から
標題(洋)
報告番号 128826
報告番号 甲28826
学位授与日 2013.03.01
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1187号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山下,晋司
 東京大学 准教授 関谷,雄一
 東京大学 准教授 津田,浩司
 東京大学 准教授 永田,淳嗣
 立教大学 准教授 豊田,三佳
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、退職後の日本人高齢者の自発的なマレーシア移住・長期滞在の事例から、高齢者の国境を越えた日常生活の営みを文化人類学の手法を用いて民族誌的に記述するものである。退職後の高齢者の国際移動を研究対象として取り上げることは、国境を越えた人の移動研究において、二重の側面をもつ。すなわち、一方においては、労働力とはならない、あるいは「労働を目的としない」人の国際移動という側面をもち、他方においては、海外に長期間居住・滞在する消費者の国際移動という側面をもつ。本論文は、このような二重の側面をもつ移動の主体に観光研究と移住研究からアプローチし、移民でもなくツーリストでもない流動的な人々の暮らし方を解明することを目的とする。具体的には、1)観光と移住の中間領域にある退職高齢者の自発的な海外移住の研究枠組みを示すこと、2)国際移動による国境やマクロ構造の利用が高齢者の生活にもたらす質的変化を民族誌的に明らかにすること、3)海外移住の商品化の過程における、移動する主体と市場及び国家の相互作用を検討することによって、トランスナショナリズム論において消費者の国際移住の市場性を解明すること、の3つを主たる目的として設定する。

第1章では、先行研究を検討し、本論文全体の問題設定を行う。国境を越えた人の移動に関する従来の研究においては、労働を目的としない人の移動への関心が向けられてこなかった。国際退職移住の主体となるのは、労働を目的とせずに国外に長期居住する人々であり、移民でもなくツーリストでもない流動的な人々の暮らし方を捉える分析枠組みが必要性となる。そこで、本論文はグローバルな人の移動の人類学における移住研究と観光研究の先行研究を整理し、移住と観光の重複領域にある人の国際移動の研究枠組みの必要性を指摘する。さらに、国際退職移住に関する先行研究を検討し、高齢者の国際移動の先進事例がみられる欧米での先行研究のなかから、「ライフスタイル移住」の概念化という人の国際移動の新たな研究動向が生まれた文脈を整理する。本論文は、日本人高齢者の国際退職移住をライフスタイル移住と定位し、観光と移住の重複領域にある退職高齢者の自発的な海外移住が発生する仕組みを、消費者の国際移動を媒介する移動産業の視点から分析する。さらに、本論文はライフスタイル移住の市場性、つまり、「人の国際移動のマーケット」の視点から、国際移動する主体による国境やマクロ構造の利用が高齢者の生活にもたらす質的変化を民族誌的に明らかにする。ライフスタイル移住としての国際退職移住を、その後の移動を含めた人生の文脈のなかで捉えることにより、日常生活を移動態として捉える視座が必要であることを指摘する。

第2章では、まず、日本から高齢者の国際退職移住が発生する社会、経済、文化的背景を概観し、送り出し社会の文脈を整理する。高齢者の国際移動が発生する背景として、送り出し社会である日本において、少子高齢化の進展に伴う世帯構成の変化や老後の生活に対する不安の増大という社会経済的要因を指摘する。さらに、長寿社会が大量に生み出した健康で「若い」前期高齢者の「いきがい」の創出という文化的要因もまた、高齢者の国際退職移住を発生させる要因となる点を指摘する。

続いて、日本人高齢者の国際退職移住の歴史を遡り、1980年代半ばに日本政府主導で開始された高齢者の海外居住事業が、ロングステイ財団の設立によって民間主導へと移行し、ロングステイツーリズムの商品化によって退職後の海外移住・長期滞在が日本人高齢者に普及する過程を明らかにする。また、メディアによる退職後の高齢者の海外移住の世論形成を分析し、老後のマレーシア移住が高齢者の「自己実現」および家計戦略としてイメージ構築される過程を分析し、これらに通底する「送り出しの論理」を考察する。さらに、日本人高齢者の国際退職移住の類型として、1)日本を生活の拠点とし、ロングステイツーリズムを繰り返す「渡り鳥」型、2)国外を生活の拠点とし、年に1~2回日本に帰国する「定住」志向の長期居住者、3)日本から国外に生活の拠点を移す要介護の高齢者の「ケア移住」型、の3つを挙げる。

第3章では、観光政策として外国人退職者の受け入れ制度を設けているマレーシア政府に視点を移し、国家の経済成長のアクターとして外国人退職者や患者を誘致するマレーシアの「受け入れの論理」を考察する。マレーシア政府は、マレーシア・マイ・セカンド・ホーム・プログラムと称する外国人退職者の受け入れ制度を促進するにあたり、日本を主要なマーケットとみなしており、日馬両国において日本人退職者を対象としたプログラム促進活動を活発に行っている。マレーシア観光省や政府観光局によるプログラム促進活動やその事業を担うエージェントの活動の場における参与観察から、選別化されたゲストとしての日本人退職者を対象とするマレーシア移住の商品化の過程を考察する。

第4章では、数日間から3カ月程度の滞在を繰り返す「渡り鳥」型の長期滞在者が集まる高原リゾートのキャメロンハイランドの事例から、既存の観光地が日本人高齢者のロングステイ滞在地として成立する過程を分析する。キャメロンハイランドに滞在する大多数の日本人高齢者は、日本の気候が厳しい夏と冬に、避暑避寒を兼ねた余暇活動を目的に数日間から3カ月間程度滞在する。このような避暑避寒を兼ねた余暇活動を目的としたロングステイツーリズムは、キャメロンハイランドでの長期滞在を啓発するNPOやサークルなどの任意団体の活動を通じて組織されている。より多くの日本人が「渡り鳥」となり、キャメロンハイランドに繰り返し長期滞在することが、地元社会と日本人長期滞在者にとって相互利益となることを指摘し、ホストとゲストの相互作用によってロングステイツーリズムが成立することを明らかにする。

第5章では、「定住」志向の長期居住者が集まる首都クアラルンプールの事例から、クアラルンプールが日本人高齢者の暮らしの場として成立する過程を分析する。クアラルンプールでは、日本人退職移住者による長期滞在に関する情報提供や啓発・支援活動の活発化に伴い、退職者向けのビザを取得し、マレーシアに定住する「セカンドホーマー」が増加している。増加するセカンドホーマーを背景に、その支援活動は互助組織によるコミュニティづくりとネットワーク化へと展開し、その規模を拡大している。セカンドホーマーのネットワークは、マレーシアで暮らすための知識や情報を共有する相互学習の場として機能するだけでなく、ネットワークを媒介し日本人高齢者同士が交流することによってライフスタイルや生き方自体が創造されていく側面を指摘する。

「定住」環境を整備していく過程において、クアラルンプールの日本人高齢移住者たちは、マレーシア観光省の外国人退職移住者受け入れ促進活動に全面的に協力し、日本人高齢者の誘致のために様々な活動を行っている。セカンドホーマーのミクロな実践からは、受け入れ国と日本人退職移住者の間には、ホストとゲストの互酬関係が成立していることがみてとれる。そこで本論文は、退職移住者が消費者およびゲストとしての自己の「客体性」を戦略的に利用し、政府に働きかけることによって、定住可能な生活環境を整備していく過程を民族誌の手法を用いて明らかにする。

第6章では、日本人高齢者の国際退職移住の普及により、患者や要介護の高齢者の新たなニーズによって生成するケアを求めた国際移動とケアの越境化の展開について考察する。日本人高齢者のマレーシア移住には、「健康な」高齢者だけでなく、ケア労働を必要とする要介護の高齢者の国際移動を伴う国際退職移住の連鎖がみてとれる。外国人退職者の受け入れに加えてメディカルツーリズム振興により外国人患者の誘致政策を実施するマレーシアでは、医療産業が外国人高齢者を対象とする介護の事業化に着手している。また、日本人高齢者のあいだでも、長期居住を念頭にマレーシア国内の介護サービスに対する関心が高まっている。このように、マレーシアにおける日本人高齢者の国際退職移住の事例には、欧米の国際退職移住の先行事例にはみられない、医療や介護を求めたケアを要する人の国際移動の側面があることを指摘する。日本人向け高齢者介護施設や民間病院における参与観察からは、日本人退職者がグローバル化する医療やケア労働を担う人の国際移動というマクロな構造を利用し、要介護となった場合にもマレーシアで生活するための介護環境を整備していく過程が明らかになる。

ツーリストでもなく移民でもない流動的な人の暮らし方の帰結は、死を迎える場所、あるいはは埋葬される場所を必ずしも特定しない生き方である。本論文は、日本人高齢者のライフスタイル移住としての国際退職移住は、国外で死を迎える場を自ら創造していくという、新たな生き方の創造のための運動であると結論づける。

以上をふまえると、本論文の意義は、以下の3点にまとめられる。1点目は、少数の例外を除いて先行研究がなく、これまで日本の人類学のなかで扱われなかった国際退職移住を取り上げ、長期間のフィールドワークをもとに民族誌的研究を行ったことである。2点目は、日本人高齢者のダイナミックな生と日常生活の移動態を記述することにより、個から国際移動を捉える視座を示し、ツーリストでも移民でもない人の国際移動の重複領域を捉える分析枠組みを提供したことである。最後に、3点目は、国境を越えた人の存在論的移動が新しい移動の形態を作り出していく過程における市場性を明らかにしたことである。日本人高齢者のマレーシアへの国際退職移住の事例研究から明らかになったのは、日本人高齢者にとって老後の海外移住とは、自らが追求する生き方を支えるサービスを創り出し、ライフスタイルを創造していく運動であるということであった。この運動によって、個々の移動の物語が生まれ、新たな移動の物語が再生産されるのである。

審査要旨 要旨を表示する

小野真由美氏の論文「日本人高齢者の国際退職移住に関する文化人類学的研究─マレーシアの事例から」は、「ロングステイ」と呼ばれる日本人高齢者の退職後の国際移住について、マレーシアへの移住を事例に取り上げ、文化人類学の観点から解明することを目的としている。本論文のデータは、主に2006年8月から2009年1月にかけて小野氏がマレーシア(クアラルンプール、キャメロンハイランド、ペナン、およびコタキナバル)で行った長期にわたるフィールドワークによって得られたものである。

以下に、本論文の各章ごとの概要について述べる。第1章では、序論として、本論文の視点と分析枠組みの提示を行っている。ロングステイのような、移民でもなくツーリストでもない流動的な人々の暮らし方を捉えるために、ライフスタイル移住という概念に注目し、観光と移民の中間領域にある退職高齢者の国際移動をめぐる先行研究を検討している。第2章では、日本人高齢者の国際退職移住の背景として、少子高齢化が進む現代日本の社会的、経済的、文化的背景を概観し、送り出し側の状況が整理されている。また、1980年代末に日本政府主導で開始された高齢者の海外居住事業が、民間主導によるロングステイの商品化によって、日本人高齢者に普及していく過程を検討している。第3章では、受け入れ側のマレーシアにおける状況が分析されている。とくにマレーシア・マイ・セカンドホーム・プログラムと称する外国人長期居住の受け入れ制度が取り上げられている。これはマレーシア政府の設けた基準を満たす者のみが居住できる選別的移住制度であり、マレーシア政府は日本人退職者を主要な誘致対象とみなし、同制度の促進活動を活発に行っている様子が描かれている。

第4章から6章では、マレーシアでの実態調査に基づいたさまざまなケースが検討されている。第4章では、高原リゾートのキャメロンハイランドにおける事例を検討している。キャメロンハイランドに滞在する日本人高齢者の多くが、日本の気候が厳しい夏と冬に、避暑避寒を兼ねた余暇活動を目的に数日間から3カ月間程度観光ビザで滞在する「渡り鳥」型の移住者であると主張する。これに対し、第5章では、「定住」志向の退職移住者が集まるクアラルンプールの事例が取り上げられる。クアラルンプールでは、近年日本人高齢者の「セカンドホーマー」が増加し、ネットワーク型のコミュニティが形成されている。そこではマレーシアで暮らすための知識や情報が共有され、新しいライフスタイルや生き方自体が創造されていくと論じられている。第6章では、「ケア移住」型の事例として、健康な高齢者だけでなく、要介護者も含めた国際移動が伴っていることが取り上げられる。マレーシアではメディカルツーリズムの振興により外国人患者の誘致政策が展開されており、日本人向け高齢者介護施設や病院などでの調査から、要介護となった場合にもマレーシアで生活するための介護環境が整備されていく過程を検討している。

以上を踏まえて、第7章では、結論として、日本人高齢者のライフスタイル移住としての国際退職移住とは、異境で死を迎えることをも含む新たな生き方の創造のための運動であると結論づけている。

以上の構成を持つ本論文の意義は、第1に、日本人の高齢者の国際退職移住を主題として取り上げ、マレーシアでの長期間のフィールドワークに基づき、詳細な実証研究として提示したことである。ここで検討されたテーマは、超高齢化が進む今日の日本社会において、きわめて興味深く、タイムリーであり、重要である。

第2に、ロングステイに見られるような、ツーリストでも移民でもない人々の移動を取り上げることにより、移民研究と観光研究が交錯する領域に挑戦し、人の国際移動研究における新しい研究領域の開拓に寄与した点である。この点は、今日、人の国際移動のあり方が複雑化している中で意義深い。

第3に、ロングステイをライフスタイル移住と捉えることにより、今日のグローバルな消費社会の展開の中で、日本人高齢者がたんにロングステイを商品として消費するだけでなく、新しいライフスタイルを生産する者でもあることを明らかにしたことである。この点は、観光・移住にかかわる商品市場をめぐる生産と消費の関係を考えるうえで重要である。

審査においては、本論文での論述──先行研究のレビューの仕方、「参与観察」のあり方、欧米での研究成果との関連、移住コミュニティの捉え方、移住者の階層格差の問題、トランスナショナリズムにおける国家の位置づけなど──をめぐって疑問や批判的なコメントも提出された。しかし、本論文の持つ価値は十二分に高いものがあり、本論文は日本の超高齢社会化に伴う国際移動の文化人類学的研究に対し重要な貢献をしていると判断された。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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