学位論文要旨



No 128828
著者(漢字) 黄,毓婷
著者(英字)
著者(カナ) コウ,イクテイ
標題(和) 植民地作家翁鬧(オウドウ)再考 : 1930年代の光と影
標題(洋)
報告番号 128828
報告番号 甲28828
学位授与日 2013.03.01
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1189号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 今橋,映子
 東京大学 教授 伊藤,徳也
 東京大学 教授 齋藤,希史
 日本大学 教授 井上,健
 横浜国立大学 教授 垂水(四方田),千恵
内容要旨 要旨を表示する

本稿では、日本という異郷で生きた台湾文学者として、翁鬧(オウ・ドウ)を取り上げる。翁鬧はかなり洗練された日本語で数多くの作品を残した。それらのほとんどが、1934年の上京後に書かれたことから考えるならば、翁鬧の文学は1930年代の都市東京および同時代文学のコンテクストの中で読まれてしかるべきだが、今までの翁鬧論は植民地の文学史に固執するあまり、日本の同時代の文学についての認識を欠いている。翁鬧という台湾人の足跡をたどることによって、従来日本や台湾でそれぞれに記述されてきた歴史を、有機的に結びつける可能性が見出せるのではないかと考える。

翁鬧は闊達な日本語で凡ての創作活動を行っており、作品の質の高さと技法の巧みさは当時の台湾文壇においては稀に見るものだった。それだけに一層、文壇に登場して間もなく、夭折してしまった翁鬧は、あたかも幻のような存在として語られる。故に日本で文学賞を得たという噂を含め、翁鬧にまつわる数々の伝説は、検証もされないまま、長年言い伝えられてきた。本稿では、「文藝第二回懸賞創作入選発表」の記事を確認した上、翁鬧にまつわる賞が、何れの文学賞でもなく、「改造(社)」の賞であったと強調された背景には、朝鮮作家張赫宙が『改造』の懸賞創作に当選し、植民地の作家志望者を大いに鼓舞したことがあると論じた。そして、翁鬧に「モダン作家」、「新感覚派作家」という評価が与えられる出発点となる、同時代作家劉捷の証言を検証した。劉捷の証言の中に三度も出現する「純文学」という言葉の意味は、1930年代の「純文学」が自己区別しようとする対象とともに捉えなければならない。劉捷がいう「純文学新感覚派」という聞き慣れない言葉の内実を問うことなく、それはプロレタリア文学の対極とするばかりの曖昧の「感覚」で鵜呑みにしたことに、今までのモダニズム偏向の翁鬧論の問題があると指摘した。

上京後初めて発表した作品「東京郊外浪人街」において、翁鬧は高円寺界隈に流れる自由放縦な雰囲気を情熱的に語っている。本稿では、この作品で言及した文士の実名を手がかりに翁鬧の伝記的な事実を確認しながら、当時の東京郊外、とりわけ高円寺駅を中心に、なぜ「浪人街」という特殊なトポスが成立したのかについて論じた。「高円寺界隈」という場はすでに文学的記述や同時代の人々の回想録において散見され、あたかも明確な境界を持つ空間のごとく扱われているのである。調べによると、1930年代の大弾圧の下で姿を消していたプロレタリア作家やアナキストたちの棲家は、中央線沿線の中でも西の荻窪や阿佐ヶ谷より、杉並区の高円寺と新宿に近い淀橋区に集中していたことがわかる。必ずしも地理上の「高円寺」周辺とは一致しないにもかかわらず、「高円寺界隈」はそうした浪人達によって初めて社会的な空間として現れ、その空間の想像的位相も彼らの「浪人風情」に付与されるのである。

「東京郊外浪人街」に現れる「落ちぶれ」の意識は、翁鬧が上京してからの心境の変化を示し、その後の創作方向にも影響を及ぼしていた。「モダン作家」という評価とは裏腹に、実際に翁鬧が発表した七篇の小説のうち、農村を背景にしているものが三篇もあることから、翁鬧におけるこの題材の重要性が分かるはずである。本稿では、今まであまり注目されなかった翁鬧の「農村物」を扱う。まず、日本文学における「農民文学」というジャンルの変遷をたどることによって、三十年代に入って突如現れた「農村文学田舎文学の氾濫」という現象に光を当てる。今までの日本文学史の中でもあまり関心が払われていなかったこのジャンルに注目することによって、当時の政治的、社会的な状況がいかにして文学の一時期の現象を作り上げたのかを明らかにする。そこで、三十年代の農民文学は、それまでの農民文学とは本質的に違うものであることを改めて提起したい。

翁鬧の「農村物」を三十年代の農村文学の風潮において検証すると、彼が同時代の関心に呼応していることが分かると同時に、同時代の評論家が彼の作品に求めていたものも見えてくる。本稿では、これらの「翁鬧論」がそれぞれの評論家の思想的な傾向をあらわすだけでなく、同時代の内地(=日本)の特定の陣営に見られる共通のキーワードの使用から、農村を描く文学についての同類の論評が植民地出版物においても再生産される現象を指摘する。その上で、翁鬧の作品「戇爺さん」、「哀れなルイ婆さん」を詳細に読み直していく。翁鬧の「農村物」は、台湾農村の貧しい現実を念入りに盛り込んで構成された物語ではあるが、現実の悲惨さを一方的に強調することはない。読者の道徳的憤激を喚起する目的があるとしても、そのような現実を救済する思想などを安易に提供することはなかった。そして、小説における方言の巧みな使用が目に付く。しかし、翁鬧が使用する方言は、1930年代の日本文壇で「氾濫」していた農民文学における方言の多用の風潮とは同列にすることはできない。というのは、彼の作中人物達が操っている「方言」は、台湾の農村で覚えることのできない日本語圏の地方の言葉なのである。日本語で枠付けした小説の中で、登場人物が台湾語の代わりに日本語圏の方言を操っているという構造からみると、日本語とは別個の起源を持つ「台湾語」が、ここで日本語の下位区分である「台湾方言」のように仕立てられ、小説の中の台湾農民が日本語(標準語であれ方言であれ)を話す瞬間、それ自体がフィクショナルな存在に化してしまう。言葉の次元において換骨奪胎された現実はもはや現実のままではいられないのだ。

1937年1月に発表された「夜明け前の恋物語」は、従来の研究ではモダニズムの代表作とされていた。本論文では、あえてモダニズムの議論の枠組みを切り捨て、この作品が発表された前後の時空について探求することを試みた。左翼に対するものを始めとして1930年代は総じて強力な弾圧が存在するが、1930年代の後半になると、「総動員」という言葉が象徴するように、個体が総体の一部と化し、私的な領域へのさらなる政治力の干渉が強まっていった。同時代のシェストフの受容から、漠然とした不安の感覚は1930年代における多くの日本知識人に共有していることが見受けられるのである。「夜明け前の恋物語」というタイトルは、その前年に出された島崎藤村『夜明け前』の人気を踏まえてのものではあるが、テキスト自体は独りよがりの自閉的な言語空間となっている。「夜明け前の恋物語」では、語り手の「ぼく」の下り坂を転がり落ちてゆくような生が新たな可能性を打開するすべを見失い、「ぼく」は31歳になったら生命を断ちたいと述べている。この作品が発表された1937年1月の時点では、翁鬧は26歳だった。戦争へ駆け足で走っていく時代で、つかの間の恋を結実しようと願望しつつ、心ならずも自分の無能を露呈する「夜明け前の恋物語」は、去勢の一つの形式とも読めるのである。

論文の最後では、近年新しく発見された詩作「征け勇士」と連載小説「港のある街」について論ずる。1938年『台湾新民報』に発表された「征け勇士」において、「国民」に「くにたみ」と一つ一つ振り仮名が付され、「祖国」、「旗の波」、「喇叭」、「熱情」の言葉が繰り返し現れ、昂揚した感情を感じさせるところに戦争翼賛の詩歌のパターンがある。しかし、同じ戦争下といえども、日本内地と植民地がそれぞれ歩んできた歴史を考え合わせてみるならば、違和感を払拭することはできない。というのは、詩作が発表された時点で、台湾人は「天皇の赤子」として兵役にあたることはまずなかったのだ。そうすると、一見、明白な決まり文句で戦意の昂揚を鼓舞する「征け勇士」は、台湾人読者に読ませると、自分たちが「クニタミ」から分別されていることがかえって浮き彫りになるのである。戦争の主体は、「汝(な)が祖(とほつ)先(みおや)」を共有する人間、いわば「われわれ」と「ソセン」を共有しない単なる「汝=あなた」なのだ。「愛国心」を総動員するはずの翼賛詩歌が、一転して日本と台湾、支配者と植民地民の分化を引き立てたのである。

翁鬧生涯の最後の作品「港のある街」について、戦前の新聞、地図、郷土史資料および観光案内書を調べた結果、「港のある街」の至るところに神戸の地理的・歴史的な縁に沿って切り取られた痕跡が存在することを解明した。「港のある街」に潜むもっとも重要な事実は、主人公の谷子の育った「風呂ノ谷」という場所が神戸の被差別部落だったことである。風呂谷という場所の帯びた歴史的・記号的な意味合いにおいて意図されていたことを確認しておく必要がある。そして、感化院から脱走した谷子を庇護し、後に谷子の「ムラサキ・バー」によって引き継がれた「紫団」も、1911年に実在した不良少年団体であり、小説における「紫団」の任侠的なイデオロギーは谷子の復讐によって体現されている。ここに、翁鬧が新聞小説「港のある街」によって、通俗文学作家へ転じる試みが見られるのであるが、早世によって作家としての可能性は閉ざされてしまったのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文「植民地作家翁鬧(オウドウ)再考--1930年代の光と影」は、日本統治下の1910年台湾に生まれ、1940年頃、日本において客死したと推定される日本語作家翁鬧を対象としている。とりわけ彼の小説作品群の徹底的な読解を通じて、1930年代の台湾文学と日本文学の双方を射程に捉えながら、その文学的価値を再解釈しようとする意欲作である。

翁鬧は台湾文学研究の中では決してメジャーな存在ではないが、近年台湾における研究、とりわけその経歴や一次資料に関する研究蓄積は徐々に進み、それなりに彼をめぐる解釈共同体が形成されつつあるといえる。三十歳前後で客死し、わずか六、七年の執筆活動しかできなかった翁鬧に関しては残存する資料が少なく、同時代の関係者が語ったものが、貴重な証言になる一方、それがその後の翁鬧像の定着に大きな影響を与えてきた。とりわけ、同時代の作家・劉捷が翁鬧を「純文学新感覚派」と定義したことによって、その後の翁鬧解釈が決定づけられ、「モダン」や「新感覚派」といった特定の語彙と文学史的文脈に則った解釈が、同語反復のように繰り返されてきたと、黄氏は指摘する。この現象のもう一つの要因は、1987年に戒厳令が解除された後、いわゆる「台湾文学」の自立性を確立するために、戦前の台湾人作家を既成の文学史のキーワードとうまく絡み合わせて、あたかも自明な「台湾文学史」に位置づける作業が急がれたこととも関連する。筆者はこうした翁鬧研究における、とりわけ作品論の問題点を十分に認識することから出発し、以下の論点によって、新たな解釈や資料を提供することを目的としている。

本論は序章と終章を別として、全体が二部(全四章)で構成されており、第I部「翁鬧の生涯」、第II部「作品再考」という部立てにより、ゆるやかに年代を追って作品論が読めるようにも工夫されている。

先ず第I部第一章では、わずか数年で途絶した翁鬧の作家活動の全作品二十四作(小説、詩、随筆、討論会記録、文芸批評等含む)に関して、別途資料集にて現在では入手困難な原テクストを全て提示しながら、その傾向を分析しつつ、翁鬧の複雑で謎の多い生涯と絡めた説明を試みた。ここでは台湾における作家研究の先行成果と問題点も、整理されている。

次に第I部第二章は、1935年4月発表の随筆「東京郊外浪人街」を題材にし、ここに言及される高円寺界隈の様子と文士の実名を手がかりに、当時の東京郊外、とりわけ高円寺駅を中心に、なぜ「浪人街」という特殊なトポスが成立したのかについて論じた好論である。「高円寺界隈」という場はすでに日本の文学的記述や同時代の人々の回想録において散見され、あたかも明確な境界を持つ空間のごとく扱われてきた。しかし筆者独自の調査によって、1930年代の左翼大弾圧の下で姿を消していたプロレタリア作家やアナキストたちの棲家が、中央線沿線の中でも、西の荻窪や阿佐ヶ谷より、杉並区の高円寺と新宿に近い淀橋区に集中していたことが判明した。外地出身の青年・翁鬧だからこそ微妙なまでの筆致で描き得た周縁者の意識とニヒリズム--筆者はそれこそが、その後の翁鬧の作家活動のいわば倫理的立ち位置であることを示すことに、本章で成功している。

本論文第II部第三章は、これまでとかく「モダニズム」あるいは「新感覚派」の作家として評価されていた翁鬧を別の観点から検証するため、実際に彼が発表した七篇の小説のうち、農村を背景にしている三篇(「戇(ゴン)爺さん」、「哀れなルイ婆さん」「羅漢脚(ロオハンカア)」)が扱われる。筆者はこれを「農村物」と呼称し、1930年代日本文学における「農民文学」というジャンルを参照することによって、これまでと全く違う解釈を試みている。小説「戇爺さん」は、改造社の雑誌『文芸』の選外佳作に選ばれた作品であり、翁鬧自身が一時期中央文壇への進出を夢見ていたことも類推される。かといって翁鬧の文学作品の複雑さは、台湾における「郷土文学」にも、日本におけるプロレタリア文学や農村文学にも、最終的には与することのない独自の地平を目指しているという斬新な見方を、筆者は示している。本章後半ではさらに、「農村物」のテクスト内部における日本語方言の使用法について、それが翁鬧独自のいわば言語的実験にもなっていることが、先行研究にはまったく無い視点として論じられた。

最後に第II部第四章で論じられるのは、翁鬧最晩年の作品三編である。とりわけ、近年台湾の研究者たちによって発見された作品--詩「征け勇士」および新聞長編小説「港のある街」に対する精緻な作品解釈は、本博士論文の最後に置かれるにふさわしい。筆者は、初出雑誌が未だに(発見者以外には)非公開である現状の中、中国語訳と共に刊行された翻字テクストの明らかな誤りを丁寧に指摘したうえで、先行研究の解釈に大きな変更を加えた。「港のある街」は、翁鬧が最晩年に潜伏していたと推定される神戸が舞台になっている。「東京郊外浪人街」同様、都市論の手法を一部用い、戦前の新聞、地図、郷土史資料および観光案内書を詳細に調査した結果、同小説の至るところに神戸の地理的・歴史的な事実が溶かし込まれていることが明らかになった。そこに潜むもっとも重要な事実は、主人公・谷子の育った「風呂ノ谷」という場所が、現在では存在しない神戸の被差別部落であり、この長編小説が、周縁者・谷子の復讐劇として読み解けるということである。筆者は、この小説を最後に行方不明となってしまった作家の、あり得たかもしれない方向性の一つに、優れた通俗文学作家としての側面を見いだしている。

審査会ではまず一致して、日本統治下の台湾に生まれ二言語使用者の葛藤を抱えながらも、優れた日本語作家であった翁鬧について、日本で初めてまとまった論考を完成させた点、とりわけ「東京郊外浪人街」「征け勇士」「港のある街」等への新しい作品解釈において、黄氏のすぐれた調査能力と粘り強い読解力が駆使されて得られた成果について、高い評価が与えられた。

ただし、翁鬧がわずか数年の作家活動しか為せなかったことによる難点は、研究にも影響がないとはいえず、例えば「農村物」小説と1930年代日本文学や文壇との関係がより精緻に関係づけられる必要性、最終的に翁鬧の作品群の文学史上の価値付けをどのような符牒で語るべきなのか、翁鬧テクストにおけるリアリズムとフィクションとの関係の査定等々、詰めなければならない課題が山積していることも、具体的に指摘された。

しかし以上の指摘は、あくまでも今後の進展への希望として語られたものであり、本論文の価値を損なうものではない。従って、以上の審査結果を踏まえて、本審査委員会は全会一致で、本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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