学位論文要旨



No 128832
著者(漢字) 池田,功毅
著者(英字)
著者(カナ) イケダ,コウキ
標題(和) 認知の柔軟性について : 課題切り替えに関する行動ならびに脳皮質電気研究
標題(洋) On the Flexibility of Cognition : Behavioral and Electrocortical Investigations on Task Switching
報告番号 128832
報告番号 甲28832
学位授与日 2013.03.01
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1193号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長谷川,壽一
 東京大学 教授 岡ノ谷,一夫
 東京大学 教授 中澤,公孝
 東京大学 准教授 村上,郁也
 東京大学 教授 開,一夫
内容要旨 要旨を表示する

我々の行動の多くは目的を持ち、計画に従って構成されている。このような合目的的行動 goal-directed behaviorは通常、さらに下位の様々なサブ課題によって構成されており、全体の目標を問題なく遂行するためには、それぞれの課題の間で、行動と認知を柔軟に切り換えていく必要がある。認知心理学では、こうした「認知の柔軟性」について、これまで「課題切り換え task switching」と呼ばれる実験パラダイムを用いた研究が行われてきた。通常、課題を切り換える際に、反応速度が遅くなり、また誤答率が増加する。これらの現象は「切り換えコスト the switch cost」と呼ばれており、これを指標とすることで、課題切り換えの背景にある認知メカニズムの探求が進められてきた。本研究では、この課題切り換えを取り上げ、行動並びに脳皮質電気指標を用いた三つの研究を行った。

研究1:Task confusion after switching revealed by reductions of error-related ERP components(事象関連電位成分振幅の減少によって明らかにされた、課題切り換え後の課題の混乱)

研究1では、「課題切り換えの後では、現行の課題セットが不安定化する」という、長年暗黙の前提とされつつも直接的検証が行われていない仮説を検証した。特に課題切り替えの後には、この課題の不安定性に起因する「課題の混乱 task confusion」と呼ばれる特殊な種類の誤答が生じているのではないかという仮説が提案されているため、これを直接の検証対象とした実験を行った。具体的には、誤答時の活動を反映する二つの事象関連脳電位 (ERP) 、エラー関連陰性電位 the error-related negativity とエラー陽性電位 the error positivity を用い、課題切り換え後にどのような誤答処理が行われているかを観察した。18名の参加者のデータを用いた。参加者には文字弁別と数字弁別の二つの課題の間で切り換えを行ってもらい、反応のタイミングを基準とした事象関連電位を測定した。また「断続的指示パラダイム intermittent-instruction paradigm」と呼ばれる課題形式を用いることで、課題手がかり task cue の見落とし・見間違いによる誤答の増加という交絡因子を除去した。結果、課題切り換えの後、特に、脳での誤答処理が弱まっていることが確認され、課題の混乱による正答・誤答の基準の曖昧化と、その背景としての課題セットの不安定が示された(図1)。

研究2:Dissociating Serial-Response and Parallel-Attention Costs in Task Switching (課題切り換えにおける直列的‐反応コストと並列的‐注意コストを分離する)

切り換えコストの原因に関しては、これまでに二つの主要な仮説が提案されている。第一の仮説では、切り換え後、課題セットを新規に活性化するプロセスが遅れてしまうことによってコストが生じると考えられており、第二の仮説では、コストは提示刺激に由来する課題セット間の干渉によって生じており、この干渉が切り換え後に増大すると考えられている。またこれとは別に、切り換えコストが認知プロセスの上のどの段階で生じているのかについての仮説として、コストが選択的注意の絞り込みの段階で生じていると考えるものと、反応の選択・実行の段階で生じていると考えるものの二つがある。これら複数の要因がどのように分離できるのか、あるいはどのような交互作用を見せているのかという問題は、長年に渡って課題切り換え研究の主要な問いであり続けてきたが、未だ説得力のある証拠が出されていない。そこで研究2ではこの問題に取り組み、直接的な神経活動指標を測定することで解明を試みた。研究2は三つの実験を含み、それぞれ14名の参加者のデータを用いた。参加者は研究1とほぼ同様の課題を行った。実験間で提示刺激の二価性 bivalency を操作することにより、課題セット間干渉の強さを変化させ、その影響が、注意と反応の二つの認知プロセスにおいてどのように生じているのかを検証した。選択的注意プロセスの測定にはERPのN2pc成分を、反応プロセスの記録には偏側性準備電位lateralized readiness potential (LRP) を用いた。結果、まず行動では、課題の指示があった後、最初の試行で見られる切り換えコストと、複数試行間を通じて生じる持続的なコストとの間に乖離が見られ、後者の持続的コストは、課題セット間で見られる干渉の強さに依存している(すなわち干渉があれば生じ、なければ消える)のに対して、前者の第一試行コストは干渉の強さとは独立して生じていた。またN2pcを見ると、持続的な行動コストと同様、複数の課題を通じて生じており、かつそのパターンも課題間干渉に完全に依存していた(図2)。他方LRP測定で観察された、反応における切り換えコストは、干渉とは無関係に生じており、かつ(第一試行での行動コストと同様)切り換え後最初の試行に限定されていた。そのため、これは課題セットの新規活性化に関連するコストであると推定された。これらの結果は、長年提案されてきた仮説 (Meiran, 2000, Koch & Allport, 2006) を支持するものであり、切り換えコスト発生のメカニズムに関する明快な視野を提供することに成功した。

研究3:Multi-Trial Switch Costs and a Mechanism of Ephemeral Task Control(複数試行に渡る切り換えコストと、刹那的な課題制御のメカニズム)

研究2では、行動ならびに注意での「持続的な」切り換えコストが観察されていた。しかしながら先行研究を振り返ると、反応時間に関する持続的切り換えコストに関しては、実は報告が安定しておらず、研究によってはまったく観察されていない場合すらある。そこで研究3では四つの行動実験を通してこの問題の解明に取り組んだ。実験デザインとしては、研究1,2と同様、断続的指示パラダイムを用いた。まず実験1では、持続的切り換えコストの有無が、ある試行での反応と、その次の試行開始までの時間(反応・刺激間間隔)に依存していることが示された。すなわち間隔がゼロであれば反応時間での持続的コストも消えてしまうことが見出された。他方、誤答率での持続的コストは間隔ゼロ条件でも頑健に見出されていたが、これらは実際には、課題手がかりの誤認によって生じる誤答と交絡しており、この因子を除外した場合、反応時間と同様に持続的コストが消えてしまうことが実験2で分かった。残る実験3・4を通じてもこの結果は変わらず支持された(図4)。これらのデータは、単に持続的な切り換えコストが頑健に発生する現象であることを示しただけではなく、反応・刺激間間隔が短い場合に、切り換えコストの発生を抑制する制御機能が存在することを示唆している。この制御機能は、課題切り換えの有無に応じて適応的な制御を行い、また刺激提示に反応して生じ、さらには極めて一時的であり、課題遂行終了と共に急速に消滅するものであると考えられた。

以上の三研究を通じて、本論文は課題切り換え時に働く様々なメカニズムを解明した。すなわち注意の切り換えは短時間で完了するが、持続的に刺激由来の他課題からの干渉にさらされ、脆弱であり、それに対して反応の切り換えは頑健であるが、切り換えの完了までに長い時間を要する。さらに、課題間干渉由来のコストに対しては、それを補完する制御機能が存在する。これらの研究結果は、課題切り換えのメカニズムを詳細に検証することで、注意制御研究や直列的認知処理に関する研究といった、他の研究領域の文脈と結び付けることに成功し、認知制御一般に対する理解を一段と深めることに貢献した。

図1:研究1における、エラー関連ERP成分であるERNとPeの波形。課題切り換え後に両成分とも振幅が減少しており、課題の混乱が生じていることを示している。

図2:研究2におけるN2pc差分波形。第一行が二価刺激を用い、強い課題間干渉を引き起こした条件(実験1)、第二行が一価刺激を用い、干渉を無くした条件(実験2)。Position 1-6は断続的指示パラダイムにおける、課題手がかりが出されて後のトライアル数。実験1では切り換えによる効果が複数の試行に渡って生じているが、実験2でそれらがすべて消えている。* は統計的有意差を示す。

図3:研究2におけるLRP差分波形。ただし正確には一般的なLRPではなく、後側頭葉にまで分布を持つ特殊な課題・反応関連の偏側性電位である。図3-Aが二価刺激を用い、強い課題間干渉を引き起こした条件(実験1)、Bが一価刺激を用い、干渉を無くした条件(実験2)。両条件ともに、課題切り換え後最初のトライアルに限って明確な切り換えコストが見られる。* は統計的有意差を示す。

図4:研究3、実験3における反応時間(上段)と誤答率(下段)の結果。RSI は response-stimulus intervalすなわち反応・刺激間間隔を示し、実験3ではこれがゼロから1600まで、ブロック単位で段階的に変化させられた。横軸は課題指示の後の試行数を示す。RSI増加に伴い、両指標で持続的な切り換えコストが増加していることが分かる。

審査要旨 要旨を表示する

我々は、全体の目標や計画に向かって行動するとき、下位の複数の課題を認知的、行動的に柔軟に切り換えながら事を進める。心理学ではこれを「認知の柔軟性」と呼び、これまで多くの研究が行われてきた。本論文では、認知心理学における「課題切り換え」実験で見られる「切り換えコスト」(課題切り換え時に観察される反応時間の遅延と誤答率の増加)を指標とし、三つの研究を通して、この認知の柔軟性の仕組みと機能を新しい角度から解明しようとした。

まず研究1では、「課題切り換えの後では、現行の課題セットが不安定化する」という、長年当然とみなされつつも直接的検証が行われていない仮説の検証を試みた。課題切り換え後の不安定期に、「課題の混乱」と呼ばれる特殊な誤答が生じるという仮説について、課題切り換え後にどのような誤答処理が行われているかを、誤答時の活動を反映する二つの事象関連脳電位 (ERP) 、すなわち、エラー関連陰性電位 the error-related negativity(ERN) とエラー陽性電位 the error positivity (Pe) を測定し、観察した。18名の実験参加者に、文字弁別課題と数字弁別課題の間で課題切り換えを課した。課題手がかりの見落とし・見間違えによる誤答の増加を、「断続的指示パラダイム」という手続きで除去した。結果、エラー関連ERP成分であるERN、Peとも、課題切り換え後に振幅が減少しており、課題の混乱が脳皮質電気活動レベルで生じていることが示された。

研究2では、切り換えコストの原因に関する二つの主要な仮説について検討した。第一の仮説(活性化遅延仮説)では、切り換え後、課題セットを新規に活性化するプロセスが遅れることによってコストが生じると考えられており、第二の仮説(干渉増大仮説)では、コストは課題セット間の干渉によって生じ、この干渉が切り換え後に増大すると考えられている。また、切り換えコストが認知プロセス上のどの段階で生じているのかについては、コストが選択的注意の絞り込みの段階で生じていると考える仮説と、反応の選択・実行の段階で生じていると考える仮説の二つがある。研究2では、神経活動指標(ERP)を用いて3つの実験を行った(実験参加者は各14名)。実験間で課題セット間の干渉の強さを変化させ、その影響を、行動指標並びに、選択的注意プロセスの指標であるN2pc成分と反応プロセス成分のLRPを用いて測定した。

結果、行動面では、切り換え後の最初の試行でのコストは干渉の強さと無関係であったが、複数試行間で見られる持続的なコストは干渉の強さに依存していた。N2pcは、行動コストと同じく、複数課題を通じて生じ、課題間干渉に大きく依存していた。他方、LRPにより測定された反応における切り換えコストは干渉とは無関係に生じ、かつ切り換え後最初の試行に限定されていた。すなわち、これは課題セットの新規活性化に関連するコストと推定された。これらの結果により、課題切り換えにおける直列的な反応コストと、並列的な注意コストを分離して考えることができた。

研究2では、行動と注意の両面で持続的な切り換えコストが観察されたが、先行研究では反応時間に関する持続的な切り換えコストに関して報告が安定していない。そこで研究3では、4つの行動実験を通して、複数試行にわたる切り換えコストと、刹那的な課題制御のメカニズムを検討した。実験1では、持続的切り換えコストの有無が、前の試行の反応と次の試行開始までの時間に依存していることが示された。間隔がゼロの場合、反応時間での持続的コストは消失した。他方、誤答率での持続的コストは間隔ゼロ条件でも見いだされた。そこで実験2で、課題手がかりの誤認によって生じる誤答の影響を排したところ、誤答率の持続的コストが消失することがわかった(実験3,4でも同様)。

これらの結果より、持続的な切り換えコストが頑健に発生する現象であると同時に、反応・刺激間間隔が短い場合に、切り換えコストの発生を抑制する制御機能が存在することが示唆された。この制御機能は、課題切り換えの有無に応じて適応的な制御を行い、また刺激提示に反応して生じ、さらには極めて一時的であり、課題遂行終了と共に急速に消滅するものであると考えられた。

以上の3つの研究を通じて、1)注意の切り換えは、短時間で完了するが、持続的に刺激由来の他課題からの干渉にさらされ脆弱であること、2)それに対して反応の切り換えは、頑健であるが、切り換えの完了までに長い時間を要すること、さらに、3)課題間干渉由来のコストに対しては、それを補完する制御機能が存在することが明らかになった。

これらの知見は、冒頭で述べた認知の柔軟性の仕組みと機能の解明に大きく寄与するものである。事象関連脳電位 (ERP)を指標として用いたことで、行動指標と微小な脳活動の間を埋める新たな知見を提出することにも成功している。

審査委員会では、実験デザインの精緻さや論旨の展開の明確さが高く評価され、全員一致で学位論文として相応しいとの判定が下された。ただし、博士論文としての価値を一層高めるには、研究の背景の説明や研究の意義、さらに総合考察について加筆が望ましいとの意見が出され、主査の指導の下で小規模の加筆が行われた。

以上の経緯をもって本審査委員会は博士(学術)を授与するに相応しいものと認定した。

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