学位論文要旨



No 128834
著者(漢字) 財吉,拉胡
著者(英字)
著者(カナ) サイジ,ラホ
標題(和) 帝国日本の対内モンゴル医療衛生事業の展開、1900-1945
標題(洋)
報告番号 128834
報告番号 甲28834
学位授与日 2013.03.01
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1195号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 廣野,喜幸
 東京大学 教授 橋本,毅彦
 東京大学 准教授 岡本,拓司
 東京大学 准教授 石原,孝二
 日本大学 教授 坂野,徹
内容要旨 要旨を表示する

本研究は20世紀前半当時の中国領内モンゴル人居住地域、主に現在の地理的範囲で示されている内モンゴル(中国内蒙古自治区)において、近代日本が展開した医療衛生事業の実態とそれと関連した内容を医学史的に考察したものである。その意図は植民地医療衛生の役割と日本国内の近代医学との間の差異、植民地医療衛生と内モンゴル固有の伝統医療との相互作用、植民地における医療衛生行政の制度化がモンゴル人社会の医療衛生にもたらした影響などを明らかにすることであった。

当時の内モンゴルは地政学的に東部と西部との二つの地域に分断されていた。東部地域はいわゆる「満蒙」と呼ばれる中国東北地方の一部であったが日露戦争後に日本の満洲経営の一部となった。さらに満洲事変による「満洲国」の樹立をきっかけに日本の植民地勢力が完全に浸透したことによって、内モンゴル東部地域は中華民国の支配から離脱したが、日本と満洲との二重的勢力の支配下に陥り、民族の自決という主権を余裕もなく失った。一方、西部地域ではモンゴル人有志者が主導した内モンゴルの自治運動が興り、中華民国から主権と自治を求めた動きが頻繁にあった。その自治運動は中華民国の援助を得ておらず、内モンゴル西部へと拡張する日本の植民地勢力と協力せざるを得なく、結局、蒙疆政権を樹立させたのである。しかし、西部のモンゴル人は第二次世界大戦終戦まで独立するといった夢を叶えるために中華民国と日本との二つの勢力を利用しながら主権を求めつつあった。したがって、この二つの地域は地政学的に異なった性能をもっており、日本側はその特徴を利用しながら異なる方法で医療衛生の普及を進め日本の植民地支配の拡大を促進させた。

本研究は日本の植民地医療衛生が展開された実態とそれに対する現地モンゴル人の対応を考慮しながら、最初に本論文の政治的・歴史的背景を分析し、日本の対内モンゴル植民地政策、モンゴル人のナショナリズム、内モンゴル固有の医療衛生について、二つの章を立てて論じる。引き続き、本論として、内モンゴルを地政学的に東西に分け、そのうち東部のモンゴル人居住地域に対しておこなわれた日本の医療衛生事業を事例として日本占領期の内モンゴル東部の医療衛生を考察した。その後、内モンゴル西部地域で実施された植民地医療衛生事業の展開を善隣協会の医療衛生・文化事業と蒙疆政府の医療衛生事業という二つの事例分析を通じて考察した。最後に、日本が内モンゴル東西両地域において展開した医療衛生事業の実態を比較することで、日本の植民地医療衛生事業を内モンゴルの医療衛生の近現代史研究の中で位置づけ、その特質について総括的に分析した。以下では、その構成と内容を概括する。

序論では、本研究の問題提起と問題設定、研究方法を紹介した。

第1章では、近代日本が内モンゴルへ医療衛生事業を展開する前のモンゴル人の社会構造、政治・歴史的背景、モンゴル人のナショナリズム、日本の対モンゴル人支配の動機と政策などを考察した。さらになぜ日本の対内モンゴル医療衛生事業の実態を満洲国支配下の東部モンゴル人居住地域と蒙疆政権領内の西部モンゴル人居住地域との二つの枠組みの中で論じるかについて解明した。日本はモンゴル人社会の在来秩序を配慮しつつ、その政治と社会的構造に対応して植民地統治をモンゴル人社会の内部に逐次浸透させることを試みた。

第2章では、モンゴル人の固有の医療衛生、チベット医学が導入された理由と経緯、及びその体系、日本人から見たモンゴルの伝統医療の実態などを述べることで、近代日本が植民地医療衛生事業を展開するために、内モンゴルの医事衛生を調査し、モンゴル人の宗教信仰、健康観、病気観を理解することを重要視していたことを明らかにし、さらにそれに対する日本人医療団体の対応を考察した。

第3章では、満洲国建国前の内モンゴル東部地域において、満蒙地域を全面的に経営するために参謀本部、満鉄衛生課、満洲医科大学診療班が実施した医事衛生調査と巡廻診療を考察した。以上の三つの機関の医事衛生調査と医療衛生活動の共通点は現地の医事衛生状況を把握し巡廻診療をもってモンゴル人を懐柔することであった。しかし、参謀本部の意図は主に満洲経営のための測量事業と製図をおこなうことであったし、満鉄の目的は満洲経営のための満鉄附属地周辺の経済開発を図り、内モンゴルに対するソ連とモンゴル人民共和国の動きを観測することであった。さらに満洲医科大学の目的は主に医事衛生の調査研究と巡廻診療であった。これらの調査団や診療班は医療衛生活動を通じて、日本側にどのようにモンゴル人社会を理解し、植民地医療衛生事業をどのように展開させるべきかに関する情報を提供したのである。

第4章では、満洲国建国後の東部モンゴル人居住地域において、日本が単独的に或は満州国を通じて実施した医療衛生事業とその制度化を分析し、それが第3章で論じられた医療衛生事業の展開とどのような関連性(継承と断絶)を持っているかを明らかにし、内モンゴルにおける植民地医療衛生が内モンゴルの医療衛生史に残した実績を考察した。

第5章では、日本が内モンゴル西部地域へ実施した医療衛生事業を善隣協会(1933年-1947年)の医療衛生活動の事例分析を通じて考察した。善隣協会は日本人とモンゴル人が同源であるという種族同源論をもって、モンゴル人の医療衛生を改善し、文化を向上し、宗教を改革する目的で内モンゴル西部地域へ医療衛生・文化事業を展開した。しかし、日中戦争が勃発後、善隣協会の諸活動は日本の植民地支配のために関東軍と協力せざるを得なく、当初の意図にずれが生じた。しかしながら、善隣協会が内モンゴル西部地域において設立した診療所・病院・医学養成所は日本占領期の近代医療衛生の普及と制度化を促進した。また善隣協会が導入した牛痘接種法及び病気診療は内モンゴルの医療衛生史に実績を残すものとなった。

第6章では、モンゴル人の民族主義者が日本と協力して樹立させた自治政府である蒙疆政権の医療衛生事業の展開を考察した。自治政府は、善隣協会の診療所、病院、医療衛生養成所を移管しており、各地域に保健所を設立し、駆梅を実現すべく隊員を派遣した。医学教育の面では、従来の喇嘛医に対する近代医学的再教育、モンゴル人医師の養成、保健婦の養成などをおこない、喇嘛医卒業生を各地に日本人公医の代わりに配置したり、他の卒業生を各地保健所へ派遣したりし、医療衛生を社会の末端まで浸透させることを目指した。衛生行政の面では、政府は中央に内政部衛生科、興蒙委員会民政処等を設置し、各地の衛生行政の制度化を試み、官立病院、市県(旗)立診療所、保健所などを設営し、医療衛生の普及を実施し、さらに医事衛生に関する調査をおこなった。また、興蒙委員会は医学教育の事業を担い、指定の衛生村を拠点に診療調査班を送り、生活の改善、保健衛生の向上のために、現地人を指導した。

結論では、日本が内モンゴル東部と西部において展開した植民地医療衛生事業の実態を比較することで、巡廻診療を発端にして伝染病、特に性病とペストの予防と治療、風土病・地方病の調査研究、牛痘接種法の導入、診療所・病院の設営、近代的医学校の運営などを実施した日本の植民地医療衛生事業は日本占領期の内モンゴルの医療衛生史に実績を残したことを総括した。本研究は、日本占領期の内モンゴルの医療衛生を考察したことで日本の植民地医療衛生研究と内モンゴルの医療衛生史研究の空白を埋めることができたと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、内モンゴル医学近現代史の通史的概観に向けて、近現代医療史の画期となった西洋医学の受容過程を解明し、内モンゴル医学近代化の初期相を明らかにした研究である。

モンゴル医学史については、これまで断片的にしか明らかにされていず、その近現代史についても不明な点が多い。日本は19世紀後半に西洋医学を本格的に摂取したが、内モンゴルにおいては20世紀前半の植民地的状況のもとで、西洋から日本や中国などにもたらされた西洋医学が、宗主国となった日本などから植民地医学として導入されるという複層的な歴史的経緯を経た点に大きな特徴がある。したがって、断片的になされてきたこれまでの研究においても、植民地医学論の枠組みのもとで遂行されることが多かった。植民地医学論は「身体の植民地化」など新たで有用な視座を開発し、その点で大いに評価されなければならないが、中には、予め設定された植民地医学論的諸概念に史料を「回収」して事たれりとする傾向も見られるようになった。そこで、本論文は、よりオーソドックスな医学史的アプローチも積極的に試みられている。

本論文の第一の学問的貢献は、植民地医学論の諸概念を活用し、帝国としての日本が、台湾・韓国・南洋諸島で行った医療政策に比して、内モンゴルではどのような異同があったかを明らかにした点にある。次に、正統的な医学史的アプローチで、20世紀前半の内モンゴルにおける医療全般を一定程度明らかにし、内モンゴル医学近代化の初期相を闡明した点が第二の長所になる。また、内モンゴルは地政学的に東部と西部に分けて考えるのが至当である。たとえば、東部の人口は西部よりはるかに多く、また構成も漢人とモンゴル人の雑居状況が増えつつあった。東部地区の職業は農業・半農半牧・牧業であったのに対し、西部は遊牧地域であった。東部は長期にわたり被支配地域であったが、西部地区においては自治政府が樹立された。こうした地政学的・社会的状況と日本の植民地医療衛生事業の相関関係に迫った点が第三の特質である。

本論文の構成は、以下の通りである。

序章・第1章・第2章はいわば予備的議論に当たる。序章で、前述した問題意識(内モンゴル医学近代化初期相の解明、日本による植民地医学としての実情、東西の地政学的相違と医療衛生状況の相関)が表出され、特に植民地医学論における先行研究が、西洋列強によるもの、帝国としての日本によるものに分けて概観される。西洋列強関連では、帝国の技術=道具説、思想=プロパガンダ説、身体の植民地化といった論点が指摘される。日本関連では、上記の論点を踏まえながら、台湾・朝鮮半島・南洋諸島など地域別に、これまでの研究成果が整理される。第1章では、内モンゴル地域をめぐる政治的動向が確認される。第2章では、内モンゴル地域の伝統医療の史的展望が与えられる。

第3~6章が本論に相当する。第3章で1906-32年の東部地区における医療衛生事業、第4章で1932-45年の東部地区における医療衛生事業、第5章で善隣協会が活動した1934-40年の西部地区における医療衛生事業、第6章で自治政府が少なくとも表面上のイニシアチブをとった1940-1945年の西部地区における医療衛生事業ついて、分析考察される。

その結果、日本にとって地政学上重要で、またアクセスもしやすかった東部地区においては、一定のレベル以上の医療システムの構築がなされ、満州国建国以前の前期には、植民地医学論でいう思想説的傾向が比較的当てはまり、満州国建国以後の後期には「身体の植民地化」的傾向が見出せるのではないかと論じられている。

さらに、医療の近代化の初期相として、以下の6点が明らかにされている。(1)モンゴルの伝統的喇嘛(ラマ)医は仏教寺院を中心に遊牧モンゴル人の間で巡廻診療を実施したが、同様に、日本も巡廻診療を行った。日本で漢方医と西洋医が対立したように、喇嘛医と日本医師も対立した。日本では医学上のみの対立であったが、内モンゴルではそれに加え、民族あるいは文化上の対立という要因が加わることになった。にもかかわらず、内モンゴルの人々は、日本のもたらす医学に対し、少なくとも忌避的ではなかった。高額な診療費が必要な喇嘛医に対して、基本的に無料であったことも大きかったと思われる。(2)診療所・病院・保健所・衛生村などの設置によって、医療衛生システムの制度化が推進された。(3)モンゴル人が近代医学を学ぶ場が用意された。一つは従来の喇嘛医の近代的再教育であり、もう一つはモンゴル人民衆に対する医学教育であった。(4)地方病・風土病の調査研究に基づいた予防政策が実施され、地方性甲状腺腫(熱河地方)・地方性皮膚糸状菌病(フルンボイル地方)・克山病等の対策に成果をあげた。(5)モンゴル人の間で特に不足していた性病に対する知識が大幅に改善された。(6)モンゴル人のよるモンゴル人のための牛痘接種システムの普及が用意された。

最後に、東部地区と西部地区のあいだには差異が見出された。東部地区は、日本の影響力が強く、衛生行政の制度化・医学教育等でも日本人がメインであり、モンゴル人は参加しえなかったが、西部地区では、モンゴル人の主体的参加が認められた。一方、巡回診療も調査研究も、一日の長がある日本人が主導的であった東部地区で盛んであり、モンゴル人の関与が強かった西部地区では、巡回診療も調査研究もそれほどではなかった。したがって、この時期に東部地区と西部地区の医療衛生システムは、質的差異が認められるように思われ、その後の進展を追う場合も、こうした地域差に気を配る必要がある点が明らかにされた。

このように、本論文は、医学史研究において、これまでほとんど分かっていなかった時期の内モンゴル医学近現代史の空白を埋めることに成功している。日本側史料に比べると内モンゴルの史料がほとんど見つかっていず、内モンゴル史料がもし残っていた場合、上記の描像が維持できるかについて審査委員会で危惧も表明されたが、少なくとも日本側史料をほぼ網羅した研究結果は、審査委員全員から、博士(学術)に値すると評価された。よって本審査委員会は本論文を博士(学術)の学位請求論文として合格と認定する。

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