学位論文要旨



No 128842
著者(漢字) 張,馨元
著者(英字)
著者(カナ) チョウ,シンエン
標題(和) 中国吉林省におけるトウモロコシ産業 : アクターの変化と地域経済の発展
標題(洋)
報告番号 128842
報告番号 甲28842
学位授与日 2013.03.06
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第316号
研究科 大学院経済学研究科
専攻 現代経済専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 末廣,昭
 東京大学 准教授 矢坂,雅充
 東京大学 教授 田嶋,俊雄
 東京大学 教授 丸川,知雄
 東京大学 教授 髙橋,昭雄
内容要旨 要旨を表示する

本論文の目的は、中国吉林省におけるトウモロコシ産業の発展過程とそのメカニズムを検討することによって、同産業の発展が地域経済に与える影響を明らかにし、中国における農業・農村の経済問題を考える上での手がかりを見出すことである。

ここではトウモロコシを単なる農産物ではなく、生産から加工まで、さまざまな部門で取引される商品として捉える。トウモロコシという商品を扱っているのは政策、生産、流通、加工の4つの部門であり、トウモロコシ産業はこれらの部門によって構成される。この4部門にはさまざまなアクターが活動している。ここでいう「アクター」とは、産業内において主要な活動を担う経済主体を指す。各部門の主要なアクターを具体的にあげると、生産部門はトウモロコシ生産農家が、流通部門は「経紀人(ケイキニン、jing ji ren)」と呼ばれるトウモロコシの仲買人と食糧流通企業が、加工部門はデンプン産業やアルコール産業に従事する加工企業が、そして政策部門は吉林省の地域政府が、それぞれ活動するか参与している。

分析にあたっては、筆者が実施した現地調査の結果を主たる材料として使用する。そして、4つの部門における主要アクターの変化および各アクターがそれぞれの目的を達成するためにとった行動を分析することによって、トウモロコシ産業の発展過程を明らかにする。さらに、各部門を代表する主要アクターの相互関係を解明することによって、同産業が地域経済に如何なる影響を与えたかを最終的に検討する。

各章の内容は以下のとおりである。

第1章では研究の視角と方法を示す。ここでは、本論文に関連する先行研究を3つのグループにまとめたうえで、本論文の分析枠組みと検証すべき3つの問題を提示する。

第2章では中央政府と地域政府(省政府)によるトウモロコシ政策の変遷を考察する。前半では、中央政府による農業政策の変化を説明する。1990年代までの食糧増産という農業政策の目標が1990年代後半に農家の所得支持へ徐々にシフトし、2004年には食糧流通体制改革によって主産地においても農産物市場が自由化された経緯を跡づける。章の後半は、中央政府の農業政策が変化する中での地域政府における行動の変化、吉林省の地域経済の問題点及び地域独自のトウモロコシ政策について検討する。

第3章では吉林省におけるトウモロコシ加工部門の発展過程を明らかにする。加工部門を製品別で分けると、(1)食品や飼料を製造する伝統セクター、(2)デンプンやアルコールを生産する新興セクターの2つのセクターに大別できる。この章では、加工部門全体の発展過程を4つの段階に分けて分析したあと、2つのセクターで活躍する主要な企業の発展状況を探る。第3章補論においては、トウモロコシとトウモロコシ産業の加工製品の貿易状況について補足的な説明を行う。

第4章では加工部門の発展と関連して、その前後の時期における生産農家の行動と農家所得の変化について検討する。章の前半は、他の農作物と比較した場合のトウモロコシ生産の収益状況と農家所得水準の変化を明らかにする。後半は、筆者が実施したアンケート調査の結果を用いてトウモロコシ生産農家の経営方式の特徴を明確にし、農家経営におけるトウモロコシ生産の位置づけについて検討する。

第5章では流通部門における変化の状況を分析する。2004年の食糧流通体制改革以降、トウモロコシの流通経路は多様化した。一方、生産農家の販売方式も、食糧企業に出向き、直接トウモロコシを販売するという従来の方法から、庭先まで買付に来る「経紀人」(農村の仲買人)に販売するという方法に変わった。本章では、2004年以降に定着したトウモロコシの流通経路とそこにおける「経紀人」と各種食糧流通企業の役割を明らかにする。

第6章では、第2章から第5章において明らかになったそれぞれの部門の展開が、地域経済の発展とどのように関連しているかについて考察する。

終章では、第1章で提起した3つの問いに対し回答を出すと同時に、本論文ではほとんど触れることのできなかった外的要因、具体的には、全国レベルでの食糧需給構造の変化とトウモロコシ産業の地理的分業関係の変化が、吉林省のトウモロコシ産業に今後どのような影響を与えるのかについて若干の見通しを述べ、その詳しい分析は今後の研究の課題であることを示す。

本論文の主な結論は以下の3点にまとめることができる。第1は、吉林省のトウモロコシ産業が短期間に発展を遂げた理由は何かについての問いへの回答である。トウモロコシ産業の中に「政策的連関」と「市場的連関」が同時に成立するのは、ある部門のアクターの行動が同部門の他のアクター、または他部門のアクターの目標実現を妨げないことが前提となる。そして2004年以降、「政策的連関」と「市場的連関」が同時に成立することによって、トウモロコシ産業は急速な成長を遂げ、地域経済の発展に本格的に貢献できるようになった。つまり、この時期にそれぞれのアクターの行動は他のアクターの目標実現を妨げることなく、むしろ互恵的に働くようになった。このような産業発展を促す互恵的なアクター問関係の形成と継続こそが、トウモロコシ産業の発展を促したといえよう。

第2、トウモロコシ産業の発展を促すアクター間関係が形成された理由は何かという問いへの回答である。この問いについては、2004年以降、2つの条件がトウモロコシ産業に関わる主要なアクター全員にとって形成された点に注意すべきである。1つ目の条件は、各アクターが経営目標を実現するために多様な選択肢を持ち、これらの選択肢を自由に組み合わせることができるようになったことである。2つ目の条件は、アクターたちが競争的な環境に置かれたことである。言い換えれば、トウモロコシ産業内に「代替案を選択する自由」と「競争的な環境」が存在するようになったということである。

「代替案を選択する自由」と「競争的な環境」という2つの条件が同時に存在する環境であれば、トウモロコシの需要拡大による価格の上昇は流通部門を通じて農家所得の引き上げにつながる。一方、それぞれのアクターは常に取引相手の利益を妨げないことを前提に、自らの利益を最大化できる道を探し実践してきた。その結果として、吉林省ではトウモロコシ産業の発展を促すアクター問の関係が定着していったといえる。

第3は、農村地域の経済発展に対して、吉林省のトウモロコシ産業の事例はどのような示唆を与えているかについての問いへの回答である。この問いについては、本論文での分析結果から、同省の事例は他の地域の農業・農村問題の解決策を考えるうえで、2つの示唆を与えているように思われる。

1つ目の示唆は、食糧作物を扱うアグロインダストリーの発展と小規模農家の経営方式との関係を明らかにした点である。アグロインダストリー全般に共通するメリットは、生産農家の農業収入を引き上げるだけでなく、農村の余剰労働力に就業機会を提供し、農家の賃金収入も同時に引き上げる点にある。他方で、食糧作物に関連するアグロインダストリーの場合のメリットは、農家に安定的な所得を与えるのみならず、農家経営におけるリスクへの対応力を高めたことにある。他方で食糧作物を扱うアグロインダストリーの場合、第6章で説明した「市場的連関」を成立させることで、経営規模を問わず、より多くの生産農家がこれらのメリットを享受することを可能にした。吉林省で農家の半数以上がトウモロコシ生産を選好しているのは、トウモロコシの生産と販売を通じて安定した農業収入を得ることができ、しかも彼らの農業収入は、農家の基本的な生活費と農業再生産の費用の双方をとりあえず補償する水準に達しているからである。

2つ目の示唆は、農業・農村政策の策定に関するものである。2004年以降、「代替案を選択する自由」と「競争的な環境」の2つの条件が成立したことによって、吉林省のトウモロコシ産業は急速に発展し、地域経済の発展に対する影響も大きかった。しかし、トウモロコシ産業を対象とする産業政策、とりわけ「農業産業化」政策は、当初の段階ではその効果を十分に発揮できなかった。その主な理由は、政策支援の重点を加工企業に置きながら、加工部門の成長にとって不可欠である生産部門と流通部門のアクターに対しては、有効な支援政策を行わなかった点にある。また、「農業産業化」政策において、生産、加工、流通の3部門の主要なアクターに対して、仮にそれぞれに対し個別の支援政策を策定したとしても、それらが農業農村問題を解決する上で必ず望ましい結果をもたらすとは限らない。むしろ、アクターを特定した個別政策ではなく、すべてのアクターに対して、より多くの代替案を選択できる自由をまず与え、同時に適当な競争関係が存在する市場環境を維持していく方が、政策的には重要だと考える。またそうすることによって、農業・農村問題を解決する新たな力が農業セクター内部から生ずることにもなろう。

本論文は、急速な成長を遂げた吉林省のトウモロコシ産業の発展メカニズムと、それが地域経済に与えた影響を、主として省内のアクターたちの活動(内的要因)に焦点を当てつつ明らかにした。しかし、全国の「トウモロコシ産業の地理的分業関係」と、「長期的な食糧需給の趨勢」というマクロ的な外的要因が、今後の吉林省のトウモロコシ産業、さらには地域経済の発展に大きな影響を与えるものと思われる。同産業に活動するアクターたちが、これらの外部要因の変化に対してどのような行動をとり、アクター間でどのような関係を新たに結んでいくのか。これらの点を全国レベル、さらには国際的な食糧需給の動向も視野に収めながら具体的に分析することが、本論文に残された今後の課題である。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、吉林省のトウモロコシ産業を事例に、同産業が2004年の農産物流通体制自由化以降、短期間のうちに成長を遂げた理由を、政府の政策だけではなく、生産農家、加工業者、流通商人・企業の個々の主体的な活動と相互の有機的関係の構築に求め、これを詳細な文献調査と現地での実態調査をもとに実証した研究である。

中国経済は1980年代以降、目を見張る発展を遂げてきた。この過程で中央政府が目指したのは、工業化の推進と産業構造の高度化だけではなく、いわゆる「三農問題の解消」(農業における増産体制の確立、農村と都市の格差是正、農民の所得向上)であった。この「三農問題」については、すでにいくつかの優れた研究が日本でも存在する。本論文で著者は、この問題を検討するにあたって、全国レベルではなく吉林省という特定の地域を選び、また、食糧としてのトウモロコシではなく、加工産業を含めたトウモロコシ産業全体を研究の対象としている。

著者がトウモロコシを選択したのは、その生産量がコメに次いで第2位になっていること、作付面積は小麦、コメを抜いて、2007年以降は中国最大の作物になっていること、さらにトウモロコシの消費は食用だけでなく、飼料や燃料エタノールなどの工業部門の原料として、近年急速な伸びを示していることによっている。また、吉林省は全国有数のトウモロコシ生産地であり、トウモロコシ産業は自動車産業、石油化学産業と並んで吉林省の地域経済を支える主要産業のひとつでもある。したがって、吉林省のトウモロコシ産業を取り上げることは、決して特殊な事例研究に留まるものではなく、特定産業の発展と地域経済の発展の相互関係を考察する上で、一定の普遍性を有する課題設定であると言えよう。

本論文の大きな特徴は、トウモロコシ産業を政策、生産、加工、流通の4つの部門からなる産業と捉え、その産業の発展を各部門の経済主体(アクター)の活動、すなわち政策の担い手としての地域政府(省政府)、トウモロコシ栽培農家、飼料やエタノールの生産に従事する加工業者、経紀人と呼ばれる仲買人や国有・民間の食糧流通企業の4部門のアクターたちの経済活動と、各アクター間の相互関係に焦点をあてて明らかにしようとした点にある。とくに、従来十分紹介されてこなかった加工業者や流通業者の実態を、度重なる現地での聞き取り調査やアンケート調査で明らかにした点は、高く評価することができる。また、中央政府が提唱するアグロインダストリーの振興(「農業産業化」経営の推進)が、地域でどのような展開を示しているのかを理解するうえでも、重要な情報と示唆を与えている。

本論文は中国の農業と地域経済の発展の研究に対して独自の貢献を行っており、審査委員会は、著者が十分に高い研究能力を有しており、博士号(経済学)を授与するにふさわしいという結論に達した。

以下、本論文の内容を章ごとに手短に紹介する。なお、本論文は序章、本文(5つの章)、終章の計7章と第3章に付された補論からなる。

序章では、本論文の問題関心と、なぜ吉林省のトウモロコシ産業を取り上げるのかが示される。トウモロコシが、生産、作付面積、消費のいずれをとっても中国農業の中で重要な地位を占めているだけでなく、1990年代以降の需要構造の変化の中で、飼料、デンプン、アルコールの原料としての需要が増え、これがトウモロコシの生産を一層促してきたこと、したがって、トウモロコシを研究対象とする場合には、穀物ではなく加工業を含む「トウモロコシ産業」として、その発展を検討する必要性があることが指摘される。

第1章では、本論文の研究視角と方法が提示される。まず、著者は本論文に関係する3つの分野の既存研究を整理し、批判的に紹介する。具体的には、(1)中国の農業・農村問題に関する研究、(2)中国以外の諸国のアグロインダストリーの研究、(3)中国におけるアグロインダストリー(農業産業化)に関する研究である。著者が関心を寄せるのは(2)の研究であるが、これらの研究は、もっぱら輸出向け農畜産物の加工産業(ブロイラーなど)の研究であり、国内に市場を持つ中国の事例とは異なっていること、したがって、中国におけるアグロインダストリー研究は地域経済との関連をより重視すべきであると指摘する。

その上で著者は、本論文の研究課題として、小規模経営を主たる担い手とするトウモロコシ産業の発展と地域経済の発展の関係をより明確にすることを掲げ、そのことを通じて、中国が抱える農業・農村問題の解決策について新たな示唆を得ることを本論文の最終目的とする。一方、研究視角については、トウモロコシ産業の政策、生産、加工、流通の4つの部門全体を対象とし、各部門に従事するアクターの活動の実態とアクター間の相互関係を明らかにするとことを目指すと述べる。

第2章では、中央政府と吉林省政府(地域政府)による農業政策とトウモロコシ政策の変遷が、多数の先行研究や政府の政策文書をベースに紹介される。最初に著者は、中央政府の農業政策について、(1)食糧不足期(1949年~1978年)、(2)食糧増産期(1979年~1995年)、(3)食糧不足解消期(1996年~現在)の3つに時期区分した上で、それぞれの時期の政策内容を要約し、それに対応させる形で、吉林省のトウモロコシの生産、作付面積、単位収量の長期トレンドを検討する。吉林省のトウモロコシ生産は全国と同様、1960年代以降増加していったが、とくに同省の特徴は、1970年代以降、種子改良などによって単位面積当たり収量が全国平均を上回り、1998年には全国の1.5倍にまで達した点であるという。

一方、食糧増産期に入ると、トウモロコシの買付と流通体制が、急増する生産に追いつかず、吉林省は「食糧販売難」に陥り、1990年代にはこの問題が深刻化していった。同じ時期、吉林省政府は中央政府の「農業産業化」経営の推進を念頭において、地域独自のトウモロコシ加工産業の振興を図るが、この場合でも、流通部門の改革は対象外であった。その結果、トウモロコシの生産量は増加し、加工業も発展を遂げたが、農家収入の方は向上しないという状況が生まれた。こうした状況を変えたのは、2004年以降に導入された農産物流通自由化体制であり、これによって初めて「生産―流通―加工」の間に有機的な連関が生まれたと、著者は指摘する。

第3章では、4つの部門のうち「加工」を担当する加工業者の実態が、工場訪問調査の結果も踏まえて検討される。著者は、トウモロコシ加工部門を「伝統セクター」(食用と飼料)と「新興セクター」(デンプン、アルコール、燃料エタノールなど化学工業)の2つに分け、双方について生産工程の技術的説明、地域政府の奨励政策の紹介、生産・消費統計の時系列的整理を行ったあと、生産規模の大きい16社の企業について、その資本所有、経営形態、事業の多角化などについて検討を行う。また、伝統セクターを代表する企業として吉林徳大有限公司(タイの多国籍企業CPグループ)と吉林天景食品有限公司の2社を、新興セクターを代表する企業として中国糧油控股有限公司、大成生化科技集団有限公司、吉林燃料エタノール有限責任公司の3社を取り上げ、詳しい分析を行っている。

個別企業にまで踏み込んだ分析の結果、(1)トウモロコシ消費の面では、新興セクターである化学工業が飼料産業をすでに大きく凌駕していること、(2)16社のうち外見上は8社が「外資系」に分類できるものの、外資が経営権を支配しているのは、先のCPグループの子会社と米国カーギル社の子会社の2社のみで、地場資本が中心であること(他のアジア諸国では外国資本の影響が強い)、(3)トウモロコシ加工以外に事業を多角化している事例が多いこと、(4)工場立地がトウモロコシ栽培地に集中していること、以上の4点を加工業の特徴として指摘している。

この第3章には「補論」が設けられており、穀物としてのトウモロコシ(輸出から輸入へ)、飼料・畜産品(純輸入)、トウモロコシを原料とする化学工業品(純輸出)のそれぞれの貿易統計が、時系列的に提示される。とくに穀物としてのトウモロコシの貿易動向については、中央政府の需給調整の影響が大きいこと、2010年以降の輸入の増加は、北部主産地のトウモロコシ価格の上昇に伴い、原料確保が困難となった南部沿岸地域の飼料生産企業に対する政府の支援的側面が強いと指摘される。

第4章では、4つの部門のうち「生産」を担当するトウモロコシ栽培農家の経営実態が、さまざまな農業統計資料と本人による現地での2つの農村におけるアンケート調査をもとに検討される。著者は、1990年以降の農家経営の指標を使いながら、吉林省のトウモロコシ生産農家の収益は全国平均より低かったこと(高い土地生産性を維持するため、より多くの農業生産財を投入)、しかし、一労働日当たりの収益は全国平均を上回り、吉林省内の露地・ハウス栽培よりも高かったことを指摘した上で、2005年以降のトウモロコシ販売価格の上昇のもとで、トウモロコシ生産が吉林省の農家経営において最も重要な活動になっていること、副産物であるトウモロコシの茎が農家の生活用燃料に使用され、これが農家経営の安定につながっていること、さらに、所得の向上を図るために、トウモロコシ生産農家では複合経営や農外活動も行っていることを指摘する。

本章における著者の主張は、吉林省の農民がトウモロコシ生産を続けるのは、もっぱら地域政府の政策の結果ではなく、農家自らが主体的に経営の安定性と所得の向上を目指した結果である、という点にある。ただし、あとで述べるように、こうした状況が2005年以降のトウモロコシ販売価格の上昇によって支えられている点も無視すべきではなかろう。

第5章では、4つの部門のうち「流通」を担当する流通業者が、「経紀人」と呼ばれる仲買人、国有食糧企業、民間食糧企業に分類されたうえで、個別に検討される。とりわけこの章で興味深いのは、農民でありながら農産物流通に係っている「経紀人」の役割である。

著者は、自身の聞き取り調査やアンケート調査に基づきながら、その取引の実態、買付価格と収益、信用関係(ほとんどが現金決済で、金融機関は関与しない)を紹介したあと、経紀人が栽培農家と加工業者を結びつける上で重要な役割を果たしていることを明らかにした。また、2004年以降の農産物流通自由化のもとで、国有食糧企業の役割が、従来のトウモロコシ買付機能から市場価格の底支えや需給バランスの調整に移行したこと、これと並行して、民間食糧企業の数と取引量が増加したことなどが、具体的に記述される。そして、1990年代に深刻化した「食糧販売難」時代に、機能不全に陥った政府の流通体制の間隙を縫って登場した仲買人や民間企業の活動が、その後の農産物流通自由化体制への迅速な移行と定着を助けたという、独自の見解を述べている。

第6章では、第2章から第5章にかけて検討してきた4つの部門の相互関係がどのように発展してきたかが検討される。著者は、(1)政策部門と生産部門、加工部門の間の関係を「政策を通じた相互連関」(政策的連関)、(2)流通部門と生産部門、加工部門の間の関係を「市場を通じた相互連関」(市場的連関)と名付け、2つの相互連関が吉林省のトウモロコシ産業の発展にどのように貢献したのか、あるいはしなかったのかを検討する。

例えば、1980年代後半以降、吉林省政府は「農業産業化」経営の推進という観点から加工産業の振興を進め、そのため原料となるトウモロコシの増産政策をとった。しかし、この「政策的連関」はトウモロコシの増産につながったものの、流通部門の未発達(市場的連関の欠如)のために、農家所得の向上や生産農家の経営の安定化にはつながらなかったと、著者は主張する。そして、吉林省のトウモロコシ産業が本格的に発展するためには、政策的連関と同時に、市場的連関が形成される2004年以降の農産物流通自由化体制の確立を待たねばならなかったこと、逆に、この流通自由化を核とする市場経済化の進展が、生産、加工、流通の間に有機的連関を生み出し、トウモロコシ産業の成長を促したと結論づける。

終章は、結論と今後の課題の説明にあてられている。著者は、序章で提示した3つの課題について、まず回答を与える。第一に、吉林省のトウモロコシ産業の急速な発展は、2004年以降の「政策的連関」と「市場的連関」の同時的な成立によること。第二に、生産農家の所得向上を伴うトウモロコシ産業の発展のためには、生産・加工・流通の各アクターたちがそれぞれの経営目標を実現するうえで多様な選択肢を持つようになり、かつ競争的な環境に置かれたことが重要であったこと。第三に、地域経済の発展との関係では、小規模農家でも加工産業(アグロインダストリー)の発展と流通部門の発展があれば、リスクに自ら対応しえる安定的な農家経営を実現できること。以上の3点である。また、吉林省の農家の半分以上がトウモロコシ生産を選好しているのは、こうした条件が形成されたからであると、著者は主張する。

一方、今後の課題については、本論文で十分検討してこなかった2つの外的要因の存在が指摘される。ひとつ目は、全国的で長期的な食糧需給の趨勢が地域経済に与える影響であり、もうひとつ目は、原料であるトウモロコシの輸入が増加した場合、加工産業のトウモロコシ生産地区から港湾のある沿岸地区への工場立地の移転がもたらす影響である。これらの影響を具体的に分析していくためには、国際的な食糧需給の動向を視野に収めることが必要であるというのが、本論文の結びの言葉である。

以上が本論文の内容の概略である。本論文の学術上の意義と貢献は次の4点にある。

第一は、吉林省のトウモロコシを、飼料産業や化学工業からなる加工部門を含めた「トウモロコシ産業」として捉え、その発展のプロセスと条件を探ることで、地域レベルにおける「三農問題」の解消に一定の政策的示唆を与えている点である。とくに、「農業産業化」経営(アグロインダストリー)の推進が、どのような「条件の成立」(政策的連関と市場的連関)と「環境の整備」(多様な選択肢と競争的な環境)のもとで、地域経済の発展に貢献するのかを明らかにした点は、高く評価することができる。

第二は、中国の農業・農民問題を、従来の研究(とくに中国国内での研究)にしばしば見られる政策側からの検討ではなく、経済主体(アクター)の側から分析し、かつ、政策部門だけではなく、生産部門、加工部門、流通部門を加えた4部門全体として体系的に把握しようとした点も重要である。開放・改革後の中国経済の動向を、中央政府の政策効果の分析に留めるのではなく、企業経営や経営者・労働者の活動にまで踏み込んで分析するのは、現在の中国研究では当然の流れとなっている。しかし、中国農業の研究では必ずしも十分定着していないように思われる。本論文はこの点、生産農家、加工業者、仲買人・食糧流通企業を直接の分析対象としており、市場経済化のもとで中国農業の経済主体(アクター)がどのように変容しているのかについて、新たな情報と視角を提供している。

第三は、本論文が堅実な文献調査と積極的な現地調査(聞き取り調査とアンケート調査)に支えられている点である。例えば第2章の中央政府・地域政府の政策の紹介では、既存研究のほか、多数の政策文書、地域レベルでの研究論文が参照されている。また、第3章の加工部門、第4章の生産部門、第5章の流通部門では、著者自身の現地調査の結果がふんだんに利用されており、分析に説得力を与えている。とりわけ、流通部門の「経紀人」の分析は著者独自の貢献度が高く、実際、本論文の一部としてアジア政経学会の学術誌に掲載された「中国のトウモロコシ流通市場における『経紀人』の役割」:吉林省の事例」(『アジア研究』第56巻第4号)は、2011年度アジア政経学会優秀論文賞に選ばれている。

第四は、本論文に掲載された多数の図表の完成度の高さである。図表の形式とその内容は、研究内容のオリジナリティを具体的に示す指標である。この点、本論文に収録された多数の図表は、他の文献からの孫引きはひとつもなく、それぞれが著者の工夫によって作成されたものである。

以上のような研究上の意義と貢献に対して、本論文が抱える問題点や課題についても、審査の過程で指摘された。主な問題点や課題は次の3点である。

第一の問題、そして最も重要な問題は、国際的な農産物生産の価格動向に関連する。著者が事例とする吉林省のトウモロコシ産業が成長を遂げ、しかも生産の増加と農家所得の安定を同時的に達成した2000年代半ば以降は、原油価格の異常な高騰に牽引されて、コメ、小麦、大豆、トウモロコシなどの国際穀物商品の価格が人為的に上昇を続けた時期と重なっていた。つまり、国内条件ではなく、特殊な国外条件のもとで、吉林省のトウモロコシ産業も相対的に高いトウモロコシ販売価格を享受してきたのである。したがって、この条件が崩れ、トウモロコシの国際価格が崩壊したとき、「トウモロコシ農家の経営安定」という本論文の重要な主張がそのまま維持できるのかどうか、疑問として残る。

第二の問題は、著者が吉林省のトウモロコシ産業の急速な発展を支えた理由として指摘する2つの条件、つまり、「多様な選択肢」(代替案を選択する自由)と「競争的な環境」の形成のうち、前者に係る評価である。氏は2004年以降の農産物流通自由化体制のもとで、生産農家、加工業者、流通商人のいずれにとっても、「多様な選択肢」が生まれたことがトウモロコシ生産の増加を促したと捉えている。しかし、中央政府がいかに市場経済化を進めたとしても、「社会主義国・中国」の基本的な枠組みは変わっていない。つまり、資本主義経済諸国が保障する「代替案を選択する自由」とは大きく異なっていたはずである。この点、氏はアクターの活動の自由について、過大評価をしているのではないかとの疑問が出された。

第三の問題は、吉林省のトウモロコシ生産の急増、とりわけ単位収量の増加がどのように実現したのかに関する理由の説明部分である。本論文ではもっぱら地域政府の政策と、生産・加工・流通の相互連関の重要性が指摘されているが、トウモロコシ生産の中で進展していた「種子改良」「栽培技術の変化」などの記述が不十分であるとの指摘もなされた。

しかし、こうした点は本論文の学術的意義を大きく損なうものではない。先に述べた4つの研究上の意義と貢献を評価し、2頁目の冒頭で述べたように、本審査委員会は全員一致で、本論文が博士号(経済学)を授与するのにふさわしいという結論に達した。

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