学位論文要旨



No 128846
著者(漢字) 柳,幹康
著者(英字)
著者(カナ) ヤナギ,ミキヤス
標題(和) 中国仏教における永明延寿の思想研究 : 延寿が再編した仏教観と後世における延寿像
標題(洋)
報告番号 128846
報告番号 甲28846
学位授与日 2013.03.07
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第906号
研究科 人文社会系
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 蓑輪,顕量
 東京大学 教授 斉藤,明
 東京大学 教授 下田,正弘
 東京大学 教授 小島,毅
 駒澤大学 教授 石井,修道
内容要旨 要旨を表示する

本研究は、永明(えいめい)延寿(えんじゅ)(904―975)を、中国仏教思想史を踏まえた上で分析したものである。従来の研究では、文献整理・文献乃至教理の分析・後代への影響の調査等が行われたが、思想史的観点からの分析はほとんど為されていない。だが、延寿は唐代の多元的な仏教観を再編し一元的な仏教観を提示するとともに、後代の人々から高い評価を得た人物である。分析に当たり、思想史を俯瞰する視座に立つことで、従来の個別的研究では見えなかった延寿の姿が捉えられる。

本研究は6章から成る。

1章は「序論」である。

延寿は五代十国の時代、呉越国で活躍した禅僧である。「不立文字、教外別伝」を標榜する禅宗には珍しく、多くの著作を残した。とくに主著『宗鏡録(すぎょうろく)』は100巻にも及ぶ分量で、その思想は教宗と禅宗を統合する「教禅一致」、禅宗と浄土宗を統合する「禅浄一致」として知られる。また、日々108種の修行を実践したと伝えられ、その内容は多岐に及ぶ。では、延寿は如何にして、本来異質な思想を統合したのか。108種もの実践はいかなる整合性を持ちえたのか。なぜ多くの著作を残したのか。『宗鏡録』が100巻にも及んだのは何故か。これらの疑問を提示し、本論への導入とした。

また延寿研究の専著を紹介するとともに、本研究が従来無かった思想史の観点を導入することを述べた。具体的には、延寿が従来の仏教観をいかに再編したのかを4章で、後の人々が延寿をいかに理解したのかを5章で、それぞれ論じる。

2章「延寿の人物像」では、延寿の生涯を祖述した。伝世資料のほか、新出資料「永明智覚禅師方丈実録」を用いた。

「実録」は、霊芝(れいし)元照(がんじょう)(1048―1116)の撰、宋版『註心賦』に収録される。これまで不明であった延寿の詳細な足取りとともに、仏塔建設や印施など延寿の大規模な活動の背後に、国王銭弘俶(せんこうしゅく)(929―988)の支援があったことが記されている。また、銭弘俶が建設した八万四千の仏塔の発案が、延寿にかかるという記載も見える。

各種の伝記資料が伝える延寿の生涯とは、以下のようなものである。延寿は904年に生まれ、34歳、杭州で出家。天台山・金華・東陽・四明山・句章等を巡錫。天台徳韶(とくしょう)(891―972)から嗣法、その年は不明。960年に銭弘俶に招かれて杭州の霊隠寺に住し、翌年永明寺に遷る。975年、同寺で示寂。

延寿が実践した108種の修行には、執筆の一項が見え、法施・教化の行と位置づけられている。つまり、延寿にとって著述は利他行であり、その結果として多くの著作が残されたのである。

3章「延寿の著作」では、主著『宗鏡録』を中心に、本研究が用いた著作について説明した。

『宗鏡録』は、宗(根本)が鏡の如き一心であることを示すため、各種教説を収録した書物である。永明寺住持期間(961―970)に、天台・法相・華厳の学僧の協力を得て成った。編纂にあたり延寿は、読者の理解に資するとして、引用の反復・要文の網羅を行った。その結果、分量が100巻に及んだものと思しい。

本研究が用いた他の著作は下記の5種である。『万善同帰集』3巻、一心を根源とする無数の善行について論じる。『唯心訣』1巻、仏教の要諦が唯心の道理にあることを示し、その観察を勧める。『心賦注』4巻、あらゆる機根のものを対象とし、一心を悟る手掛かりを提供する。『観心玄枢』3巻、一心の観察が仏教の要であることを示す。『授菩薩戒法』1巻、菩薩戒を一心そのものと解釈し、その受戒を勧める。

諸書には、同一の思想構造が通底している。それは、一心が万有を現出し、万有はみな一心に帰す、というものである。その一心を提示するのが『宗鏡録』であり、その観察を勧めるのが『唯心訣』と『観心玄枢』、その看取を促すのが『心賦注』『授菩薩戒法』、それに基づく善行の実践を勧めるのが『万善同帰集』である。重点の置き所こそ違え、これらの書は同一の思想を著述したものと理解できる。

4章「延寿の思想」は、以下の3節からなる。

第1節では、禅宗思想史の視点から、延寿が「宗」に拠える一心の由来を分析した。

『宗鏡録』が一心を「宗」に拠える発想は、直接的には馬祖(ばそ)(709―788)の『楞伽経』解釈を承ける。馬祖は『楞伽経』の教説を「仏語心為宗(仏が語った心が宗である)」と解釈し、延寿はこれを承けて、「心を宗とする」のが仏意(仏の真意)であると理解した。加えて延寿は、「持戒」と「慈悲」の二件を心本来の特質として明文化し、馬祖禅に潜む堕落の危険性を回避している。

第2節では、『宗鏡録』が設定する「趣」(実践過程)を分析した。それは、宗が一心であることを信じ、「漸修」(段階的修行)によって「頓悟」(一心を看取)し、その後「漸修」を経て「頓修」(一念における仏事の完成)に至るというものである。どの段階においても善行の実践が勧められ、その善行には仏教の修行一般が収められる。なぜなら、一切の善行は一心に由来する点で等しく、各段階の人々を利するからである。これにより、一切の実践が一心において統合された。延寿が日々行ったという108種の修行が整合性を持ち得たのも、かかる理論に由る。また、後世において延寿が「禅浄一致」を為したと称されるのも、善行中に坐禅と念仏を等しく収めていることに由る。

第3節では、教判史の視点から、延寿の仏説解釈について論じた。インド仏教には所謂小乗・大乗の二つがあり、その思想は大きく異なる。だが中国には、両者が一つの仏説として流入した。そこで、教相(仏説の様相)を判釈し、仏説の体系化を図る教判が行われるようになった。天台・法相・華厳等において各種の教判が構築されたが、それらはいずれも、特定の経典から仏意を抽出し、それに基づいて仏説を体系化する点で一致している。延寿に先んじて教禅一致を図った宗密(しゅうみつ)(780―841)は、この教判の手法に則って、仏説と禅語(禅僧の言葉)を三層に分類した。その分類の基準として採用されたのが、『円覚経』から読み取った「頓悟漸修」である。一方延寿は、宗密の説を承けつつ、その上に「頓悟頓修」という境界を設け、そこにおいて各種教説の表面的差異が解消されるとした。その理論が「能詮・所詮」論である。能詮は指し示すもの、すなわち教説に当たり、所詮は指し示されるもの、すなわち仏意に当たる。延寿は、教説の外に伝えられた一心こそが仏意であり、一切の教説はそれを指し示す点で同じであると解釈した。これにより、教説の差異を分析する教判が解体される。

5章「後代から見た延寿」は、以下の3節からなる。

第1節では、『宗鏡録』が入蔵するまでの経緯を論述した。『宗鏡録』は、延寿の没後に徐々に忘れられていったが、百年の後に宗本(そうほん)(1020―1099)により世に紹介され、二度の開板を経て1107年に入蔵した。宗本の紹介の後、わずか40年のうちに仏説に準じる権威が認められたことは、当時『宗鏡録』が珍重されたことを物語っている。宋人が『宗鏡録』から読み取った内容は、

・禅僧は仏として法を説く

・仏典を流通させることは仏恩に報じることである

・仏意を伝える禅僧こそが大蔵経を開板できる

等である。木版印刷が盛んとなり、禅僧もそれに積極的に参与した宋代において、当時の問題意識に答える思想の読み取りを、読者に許すものであったことが、『宗鏡録』が珍重された主要な理由であろう。

第2節では、後人が理解した延寿像を、蓮宗祖師と調停者の二種に大別し、それぞれの変遷状況を概観した。

蓮宗は中国の浄土教であり、宋代に盛んとなり、遡及的に祖師の法統を構築していった。延寿は当初、そこに含まれていなかったが、生前に念仏を行じていたこと、没後に極楽往生したという伝説が生まれたことなどから、後に蓮宗の祖師として列せられる。明末の袾宏(しゅこう)(1535―1615)に到って高く評価され、明末清初に行われた浄土劇では蓮宗中興の祖と称されるに到った。

調停者としての延寿像も同様に、時代とともに評価が高まっていった。宋代では教宗(天台・法相・華厳)の諍いを調停したと理解されていたが、明代になると中国仏教の宗派のみならず、釈尊以来の仏教全体を統合した人物であると評価された。清代に雍正帝(1678―1735)はその理解を承けるとともに、延寿を中国随一の導師と称した。一心をもとに従来の仏教を再編した延寿は、後代において人々から広く賞賛を受けたことになる。

第3節では、円爾(えんに)(1202―1280)の『宗鏡録』受容状況に分析を加えた。円爾は日本における禅宗興隆の礎を築いた人物である。入宋して禅宗の法を嗣ぎ、帰国後『宗鏡録』の教禅一致の精神に則って東福寺を開くとともに、後嵯峨天皇や時の関白に『宗鏡録』を進講した。その著『十宗要道記』は、『宗鏡録』の教禅一致を日本の十宗に応用したものである。当時、宗派の垣根を越えて多くの僧侶が円爾の下に参じたことから、その試みが広く受容されたものと思しい。

6章「結論」では、五代において延寿が行った仏教の再編が、唐代仏教と宋代仏教を架橋するものであると結論した。唐代以前は諸宗が並存していたが、宋代以降は禅宗と蓮宗の二大潮流が中国仏教を席巻するとともに、両宗は融合の道を辿った。唐代には多元的だった仏教が、宋代以後一元化したわけだが、その狭間にあって一元的な仏教観を提示した延寿の思想史的意義は大きい。すくなくとも後代の人々は、その転換が延寿によって為されたものだと理解した。延寿を中国仏教の再編者とするのが、本研究の結論である。

審査要旨 要旨を表示する

中国禅宗史上、五代十国の時代に活躍した永明延寿は禅浄一致、教禅一致を説いた人物として知られるが、その主著の『宗鏡録』は百巻にも及び、全体にわたる思想史的な研究はなかった。本論文は延寿の思想が如何なる系譜の上に載り、かつ『宗鏡録』が中国仏教思想史上、どのような位置にあるのかを解明する。延寿に関する研究は既に王翠玲等が先鞭を付けていたが、本論文はそれらの研究を批判的に継承し、唐代における『楞伽経』の受容から始め、馬祖、宗密など五代に至る禅者の特徴を踏まえ、本書全体を総合的な視野に立ち考察する。

第1章では伝世資料を読み込み、先行研究の不備を補い、延寿が生涯、呉越国に活躍した僧侶であったことを明らかにする。本論文の中心は第4、5章であり、延寿に至るまでの禅宗に流れる一心理解の系譜を明らかにする。それは『楞伽経』の「自心現量」の記述に始まり、やがて馬祖の引用になる「仏語心為宗、無門為法門」という『楞伽経』にはない記述が、一心を理解する上で大きな意味を持ったと論じる。ここに心を中心に捉える伝統が生まれ、その上に『宗鏡録』や『万善同帰集』などの延寿の諸著作が存在することを明らかにする。

また、『宗鏡録』に説かれた禅浄・教禅一致の主張は、延寿に至るまでの全仏教を統合する意味を持っていたと論じる。法相や天台、華厳などの教理的仏教が「教」、禅などの実践的仏教が「禅」、浄土教が「浄」であるが、浄は円修の一つとして位置づけられ、その三者が一心を説くものと理解される。また延寿は、表詮(肯定的表現)や遮詮(否定的表現)という宗密の用語を継承し、それらを所詮と能詮という枠組みに発展させた。この点を掘り下げた上で本論文は、表詮と遮詮を含む種々の経典は能詮、それによって表現される所詮は一心として、「教」を同列のものとして意味づけるところに本書の思想的特徴があることを詳論する。さらに『宗鏡録』が延寿没後約百年を経て再注目されたことを指摘し、後代の中国や日本において幅広く受容されたことを、その背景とともに明らかにする。

このように本論文は、『宗鏡録』が人間の心を軸に据えて唐代までの仏教を統合し、かつ宋代に橋渡しをする役割を果たし、また簡易な大蔵経として利用されたことを明らかにした。従来、儒教研究の上では、唐代と宋代の間に質的な差異があることが指摘されていたが、仏教においても同様であり、その転換点となる人物が呉越国の延寿であることを示し、中国仏教思想史上に実証的に位置づけることに成功した本論文は、きわめて意義のある研究成果として高く評価することができる。文章構成や訳語の統一に関して幾つかの問題は残されているが、本研究のすぐれた成果を損なうものではない。

以上の理由により、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するにふさわしい業績であると判断する。

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