学位論文要旨



No 128853
著者(漢字) 鈴木,徹也
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,テツヤ
標題(和) ウィトゲンシュタインの三つの思考の系譜と『確実性の問題』
標題(洋)
報告番号 128853
報告番号 甲28853
学位授与日 2013.03.08
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1197号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 野矢,茂樹
 東京大学 教授 信原,幸弘
 東京大学 准教授 石原,孝二
 東京大学 准教授 梶谷,真司
 東京大学 准教授 古荘,真敬
内容要旨 要旨を表示する

『確実性の問題』は、ウィトゲンシュタインが死去する2日前までに至る、彼の最晩年の一年半の時期に書いた草稿の中から、彼の遺稿管理者のアンスコムとフォン・ウリクトとが、知識や確実性といったテーマに関する内容を含む諸節を抜粋したことで生み出された書物である。このような経緯もあって、同書にはもともと本人が公表する意図を持っていなかった様々な考察が、本人による編集を受けない未整理のままの形で時系列に従ってそのまま収録されている。このこともあり、同書でどのようなことが主張されているのかということについては、比較的明快な議論のなされている同書の前半に関してこそある程度のコンセンサスを得られた解釈(私はこれを「標準解釈」と呼ぶ)が存在するものの、後半の箇所についてはいまだ多様な議論がなされ続けている。

本論においても『確実性の問題』の解釈を行っていくが、その際私は、上記のような事情を考慮し、次のような、いままで試みられていなかった新たな手法を導入する。――とくに後期ウィトゲンシュタインには、異なった様々な思考の対象に対し、その対象の違いを超え適用されているような三つの典型的な思考の様式が存在するが、このような三つの思考の様式を『確実性の問題』以前の後期ウィトゲンシュタインの著作から取り出し、それに即して最晩期の著作である『確実性の問題』を見ていくのである。『確実性の問題』の中のかなりの部分においてウィトゲンシュタインは、世界における事柄などについて我々がみな共通して抱いているような確信(これを本論では「公的」確実性と呼ぶ)がどのような性質を持つのかということについて議論を行っており、また上記の「標準解釈」もこのような「公的」確実性に関して『確実性の問題』中でどのようなことが述べられているのかということについての標準的な解釈となっているわけだが、私の導入する手法からは、『確実性の問題』の後半においてウィトゲンシュタインが、「公的」確実性に関する考察において、従来標準解釈で捉えられていた範囲を超えてさらなる実りある成果を導き出していたのだということが明らかとなる。

またこれと同時に本論においては、『確実性の問題』の終盤においてウィトゲンシュタインが、「公的」確実性以外に、"各個人により、その人物自身の判断によって命題に付与される"という特徴を持つ「私的」確実性についても考察を行っていたということが示される。この「私的」確実性については従来ほとんど顧みられることがなかったが、我々の所有している確実性がどのような性質をもつものであるのか、ひいては我々の行っている言語ゲームとはどのようなものであるのかを理解するのに、この「私的」確実性に関する考察は必要不可欠なものであると私は考える。

本論の議論は以下の順で行われていく。

まず「第一部 ウィトゲンシュタインの三つの思考の系譜」で、後期ウィトゲンシュタインの三つの思考の形式を取り出すため、規則のパラドックスを検討する。規則のパラドックスはクリプキがウィトゲンシュタインの『哲学探究』中に見出した懐疑的問題であるが、これに対するクリプキ自身や他の哲学者の議論を検討することで、そこからウィトゲンシュタインの三つの思考の系譜――すなわち、「共同体説」的思考の系譜、「自然本性説」的思考の系譜、「沈静主義」的思考の系譜――が浮き彫りとなってくる。また、『哲学探究』自体はウィトゲンシュタインの後期の主著であり『確実性の問題』に先行する時期に出されたものであるが、この三つの思考の系譜は単に『哲学探究』中に登場するにとどまらず後期ウィトゲンシュタイン哲学に持続的に存在するものであるということが示される。

ついで「第二部 『確実性の問題』の先行研究」では、これまで他の論者たちによって提出されてきた『確実性の問題』解釈を、本論の第三部以降の議論において必要となってくる範囲で概観していく。ここではまず『確実性の問題』が公表された直後に提示され、いまだに同書の解釈としては主流なものとなっている「標準解釈」がどのようなものであるかが示される。ついでその後、より近年になって公表された、それぞれ異なった方向から「標準解釈」の枠を超えた独自の内容を持つ二種の解釈――すなわち、マルコムおよびストロールらの解釈と鬼界の解釈――が示されることとなる。

「第三部 『確実性の問題』の解釈(1)――「公的」確実性」では、四部からなる『確実性の問題』中のおおよそ第四部中盤くらいまでの議論を検討する。ここでは、同書をその書かれた順に冒頭から読解して行きながら、「公的」確実性およびそのような「公的」確実性を持つ諸命題(これを本論では「公的」枠組命題と呼ぶ)についてウィトゲンシュタインがどのような議論を行っているか、また同書の議論が進むにつれこれらの概念に対するウィトゲンシュタインの見解がどのように変化していくのかを詳細に見ていく。そして同書において「公的」確実性が、当初は標準解釈で捉えられているような形で考えられていたのに対し、最終的にはそれが、三つの思考の系譜の内、「共同体説」的思考の系譜と「自然本性説」的思考の系譜という二つの思考の系譜が合流することによって説明されるようになるということが明らかとなる。

「第四部 『確実性の問題』の解釈(2)――「私的」確実性」において、『確実性の問題』第四部後半での議論が検討される。そこでは、我々が判断の枠組として「公的」枠組命題の他に、各人が自分の決断によって枠組としているような「私的」な枠組命題も所有しているということが示される。またこれらの考察を経て、最終的に、ウィトゲンシュタインが『確実性の問題』において、各人が「公的」枠組命題と「私的」枠組命題という二種類の枠組命題、「公的」確実性と「私的」確実性という二種類の確実性の領域を所有しながら行っていく言語ゲームをどのようなものとして捉えようとしているのかを明らかにしていく。

最後に「付論 『確実性の問題』の解釈史」において、これまで『確実性の問題』に対して示されてきた諸解釈や同書を巡って行われてきた議論を提示していく。これについては第二部でも行われていたが、第二部では本編での後続の議論に必要な範囲でのみ簡潔に記されていたのに対し、この付論ではその範囲を超えて、より詳細な記述・検討を行っていく。

審査要旨 要旨を表示する

鈴木徹也氏の「ウィトゲンシュタインの三つの思考の系譜と『確実性の問題』」は、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの最晩年の草稿『確実性の問題』に対して新しい解釈を提示する論文である。ウィトゲンシュタインの哲学は、通常、『論理哲学論考』に代表される「前期」と『哲学探究』に代表される「後期」と呼ばれる時期に区分されるが、近年、最晩年の『確実性の問題』がクローズアップされ、「第三のウィトゲンシュタイン」と呼ばれるようになってきた。鈴木氏はそうした潮流とまさに同時並行的に研究を進めてきた。その成果をまとめたものが、本論文である。

『確実性の問題』の解釈における鈴木氏の独自性を、細部はともあれその大まかな方向においてあらかじめ述べておくならば、次の二点が挙げられる。

(1) 後期ウィトゲンシュタイン全体を視野に入れ、そこに三つの思考の系譜を見て取り、従来そのどれか一つの系譜だけから『確実性の問題』を読み解こうとするものがほとんどであったのに対し、鈴木氏は特定の思考の系譜上に『確実性の問題』を位置づけるのではなく、総合的に捉える。

(2)『確実性の問題』は、われわれの認識の確実性において独特な確実性の領域があることを問題にした著作であるが、従来その独特な確実性はあくまでも「公的な確実性」、すなわち、なんらかの実践を共有するメンバー全体、換言すれば、共同体全体に共有される確実性であるとされてきた。これに対して鈴木氏は、『確実性の問題』の後半においてウィトゲンシュタインは「私的な確実性」と呼びうるものに着目し、考察を進めようとした、と考える。

こうした鈴木氏の新たな方向性については、審査委員全員が高く評価した。以下、論文の内容に沿いながら、評価すべき点といまだ不足であると指摘された点を述べる。

全体は三部から構成されている。第一部では、後期ウィトゲンシュタイン全体を視野に入れ、そこから三つの思考の系譜を取り出す。そのさい鈴木氏がとった方法は、後期ウィトゲンシュタインにおいて中心的とみなされる「規則のパラドクス」と呼ばれる議論に焦点を当てるというものである。鈴木氏は、規則のパラドクスに対する多数の二次文献を分析し、それらの文献において「共同体説的」「自然本性説的(自然主義的)」「沈静主義的」と呼ばれうる三つの論じ方を取り出し、さらにそれをウィトゲンシュタイン自身のテクストに即して検証した上で、それぞれが後期ウィトゲンシュタインに見出せる思考の系譜であることを確認する。それらの考え方が鈴木氏が論じるほど明確に区別しうるのだろうかという疑問も出されたが、しかし、この三つの思考の系譜を明示的に取り出し、俯瞰的に整理してみせたことは、本研究の為した貢献の一つである。

第二部では、『確実性の問題』の解釈における先行研究の批判的検討が為される。『確実性の問題』には、すでに「教科書的」と言ってもよい解釈が存在するが、鈴木氏はそれを標準解釈と呼び、それを踏まえつつも、その標準解釈を越えた『確実性の問題』解釈の新しい潮流を分析、検討する。そしてそこから標準解釈には見られない新しい方向性として、『確実性の問題』を自然主義的に解釈するという方向と、『確実性の問題』の内に「私的確実性」と呼ばれうる独特な確実性の領域を見出し、重視していく方向を取り出す。しかし、それらは別の論者によって別々に論じられているにすぎず、そうした方向を統合した統一的な解釈の必要性が課題として確認される。ここにおける鈴木氏の先行研究の扱いは目配りの利いた手堅いものであり、それを踏まえた課題設定も妥当なものと認められる。

第三部と第四部では、以上を踏まえて鈴木氏自身の解釈を提示していく。第三部では、「公的な確実性」について、『確実性の問題』がしだいに共同体説的思考と自然主義的思考という二つの系譜を統合する形で展開していくと指摘し、自然本性と共同体における承認とをともに組み込んだ形で、鈴木氏自身の統一的解釈を提示するに至る。ここでは、共同体説で言われる「共同体」というものがいったいどういうものなのか、また、自然主義的な考え方において言われる「自然本性」とはどのようなものであるのかについて、より踏み込んだ考察がほしいとの意見もあったが、本論文が設定した『確実性の問題』の解釈という点においては、十分な成果があげられていると評価できる。

第四部は、共同体のもとに見て取られる公的確実性に対して、個人のもとに見て取られる「私的確実性」について論じられる。この論点自身は鬼界彰夫氏が指摘し、論じるところでもあるが、鈴木氏は、私的確実性を公的確実性の基礎におこうとする鬼界氏の議論を批判し、むしろ逆に公的確実性から私的確実性へというルートで、ウィトゲンシュタインの考察を辿ろうとする。

私的確実性という議論は、これまで鈴木氏と鬼界氏以外の解釈者たちによっては論じられてこなかった新しい問題であり、きわめて重要な問題であると言える。しかし同時に、私的確実性という問題はウィトゲンシュタイン自身が死ぬ間際まで進めようとしていた考察であり、テクスト上はあまり多くのことが語られていない。それゆえ、テクスト解釈として論じうることには限界があり、本論文は解釈としては十分な達成をみたと言えるが、そこからさらに、ことがらそのものとして、私的確実性がいかなるものであり、それはどのような意味をもつのかということが論じられていかねばならないだろう。審査委員会でも、そうしたさらなる問題が指摘された。逆に言えば、本論文はそうしてわれわれの前に刺戟的な新しい哲学問題の扉を開いて見せたのだと言えよう。

これまで記してきたことを含め、審査委員から出された疑問や要求はそのほとんどが本論文の先に開ける哲学問題に関するものであり、鈴木氏にとっては今後の課題となるものであった。そして、本論文において設定された問題の枠組の中において本論文が十分な成果をあげていることは、審査委員全員の認めるところであった。

以上より、本審査委員会は、鈴木徹也氏の学位請求論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものであると認定することに、全員一致で合意した。

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