学位論文要旨



No 128875
著者(漢字) 高桑,枝実子
著者(英字)
著者(カナ) タカクワ,エミコ
標題(和) 万葉挽歌の研究
標題(洋)
報告番号 128875
報告番号 甲28875
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第911号
研究科 人文社会系
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 教授 長島,弘明
 東京大学 教授 藤原,克己
 東京大学 教授 渡部,泰明
 フェリス女学院大学 名誉教授 森,朝男
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、『万葉集』に収載された挽歌の成立と、その本質を論じたものである。

挽歌は、雑歌・相聞と並ぶ『万葉集』の三大部立の一つであり、通常、この部立「挽歌」に収載された歌々を指して挽歌と呼んでいる。ただし、それ以外の歌の中にも、題詞や左注に挽歌である旨が記された歌が存在する。本論文では、部立「挽歌」に収載された歌々と、題詞や左注に「挽歌」と記された歌をまとめて挽歌と呼び、考察の対象とする。

『万葉集』の中で、最も早く「挽歌」の語を用いたのは、この語を部立名として採用した巻二である。よって、巻二「挽歌」部成立の時点を、挽歌の成立と捉えることが出来る。巻二「挽歌」部には、斉明天皇代の有間皇子自傷歌群(141~146)から「寧(な)樂(らの)宮(みや)」の霊亀元年に作られた笠金村による志貴皇子挽歌(230~234)まで、ほぼ年代順に歌が収められている。しかし、それらの歌の題詞には「挽歌」という呼称が用いられることはない。つまり、巻二「挽歌」部に収載された歌々を挽歌と判断したのは巻二編者であって、これらの歌を詠じた作者に「挽歌を詠む」という意識があったとは限らないのである。集中、最も早く「挽歌」の語を用いた巻二編者は、現在「挽歌」部に収載されている歌々を集め、他の歌は排除した上で、それらの歌にふさわしい総称として「挽歌」の語を選んだ。編者がその作業を進めるにあたって判断基準としたものを知る手掛かりとなる左注が、巻二挽歌冒頭の有間皇子自傷歌群の中に記されている。

右件謌等、雖レ不二挽レ柩之時所一レ作、准二擬歌意一。故以載二于挽哥類一焉。

【右の件(くだり)の歌どもは、柩を挽(ひ)く時作る所にあらずといへども、歌の意(こころ)を准擬(なそら)ふ。故(ゆ)以(ゑ)に挽歌の類に載す。】

この左注からは、編者が歌の分類・収載を判断する際に、「歌の意(こころ)」、つまりは歌の意味内容をも考慮に入れていたことが分かる。歌の意味は、歌表現から読み取り得るものである。編者にその歌を「挽歌」と判断させた歌表現のポイントを知るためには、編者の挽歌観を探ると共に、実際に「挽歌」部に収載された歌の表現と、逆に収載されなかった歌の表現を見ていく必要があると思われる。

本論文は、序章と終章を除き、三章から成る。第一章「万葉人の挽歌観」では、『万葉集』巻二挽歌冒頭に置かれた有間皇子自傷歌群を基に、日本で初めて部立名として「挽歌」の語を用いた巻二編者の挽歌観について論じた。巻二編者は、「挽歌」部の冒頭に有間皇子自傷歌群を置き、巻末に柿本人麻呂の臨死自傷歌群を据えたことから、自傷歌という形態を必要としたことが分かる。それは、自傷歌に死者自身の言葉が歌われていることに因ると思われる。有間皇子自傷歌(141)には「また還り見む」という皇子の強い意志が詠み込まれており、それは、皇子の非業の死を知る者から見れば、死者の心残りとして受け取ることが出来る。自傷歌二首に続いて配列された関係歌群(143~146)は、「また還り見む」という状況を歌表現の上で実現させることにより、その心残りを鎮めようとしていた。よって、自傷歌二首と関係歌群をまとめて記すことにより、《一人の人間の死があり、死者によって思い(心残り)が語られ、その思い(心残り)を鎮める為に残された生者が歌を詠む》という挽歌の形態が示されることになる。巻二編者は、日本に於ける「挽歌」の意味を説明する意図をもって当該歌群を挽歌冒頭に置いたのである(第一節)。当該歌群の中に見える左注「右件謌等、雖レ不二挽レ柩之時所一レ作、准二擬歌意一。故以載二于挽哥類一焉」は、「挽歌」の語の典拠である漢籍に於ける原義を念頭に置いたものであり、挽歌は喪葬儀礼に際して作られた歌であるが、「歌の意(こころ)(=意味)」が通じていれば、それ以外の歌も挽歌として収載していくという巻二編者の編纂方針を示していた。これは、日本に於ける挽歌の定義を示しつつ、挽歌の範囲を意図的に拡大させようとする巻二編者の試みであった(第二節)。また、初めて題詞に「挽歌」と記された山上憶良の「日本挽歌」(巻五794~799)は、日本の伝統的な表現や観念を強く意識して詠まれた作品であり、その長歌中に見える「石木をも 問ひ放け知らず」という表現は、神話や祝詞等に見える日本古来の詞章と共に、巻二挽歌冒頭の有間皇子自傷歌群を挽歌の伝統として意識したものであった(第三節)。

第二章「万葉挽歌表現の考察」では、実際に巻二「挽歌」部に収載された挽歌作品の表現を検討し、作者の詠歌意識について考察した。初期万葉の天智挽歌群に見える姓氏未詳婦人作歌(150)は、死を避けられない運命として受け入れ自らを納得させようとする生者の立場からの歌であり、そこに見える意識はもはや招魂へは向いていないことが確認できた。天智の死を受け入れた上で、死者(天智)が夢に現れたことを「夢に見えつる」と歌うことにより、死者の魂の存在を明らかにし、死者に対して夢に見た歓びを述べると共に死者の意志を解こうとすることで、その魂を鎮めようと図った歌であった(第一節)。また、柿本人麻呂による草壁・高市両皇子に対する殯宮挽歌(167~169・199~201)と、自殺した吉備津采女に対する挽歌(217~219)の考察では、人麻呂がそれぞれの死者の立場や周囲の状況に応じた鎮魂表現を巧みに用いて挽歌を詠じていることが分かった(第二節~第四節)。

第三章「万葉挽歌の周辺」では、死者を悼む心情が歌われながらも「挽歌」部に収載されなかった歌の考察を通して、『万葉集』にとっての挽歌とはどのような歌なのかという問題について論じた。巻八「夏雑歌」収載の石上堅魚と大伴旅人による唱和歌(1472~1473)は、旅人の妻の死と勅使の弔問を契機に詠作されたため、一連の亡妻関係歌の中に含めて考え得る作品であり、二首共に旅人の亡妻への哀慕が詠み込まれていた。しかし、表面上に保たれた季節歌の世界により、二首は「挽歌」部ではなく「夏雑歌」に収載された。つまり、挽歌的要素を含み持つ季節の雑歌と判断されたのである。この二首が「挽歌」部に収載されないところに万葉挽歌の性質が顕れており、死者哀慕を歌う歌すべてが挽歌ではないことが分かる(第一節)。この二首に詠み込まれたホトトギスは、中古以降の和歌世界では冥途や死者に近しい鳥として死者追慕を歌う哀傷歌の題材とされたが、『万葉集』中にはホトトギスによって死者追慕を表現した挽歌は無い。ホトトギスの鳴き声を聞いて故人を追懐する歌は何首か存在するのだが、それらが「挽歌」部に分類されなかったのである。この事象には、ホトトギスという題材そのものが深く関わっている。ホトトギスは漢籍の蜀魂伝説を背景に持ち、「死者追慕」の要素を根源的に含み持つ鳥であった。しかし、ホトトギスを詠むこと自体が作歌の目的となり得る季節の景物であるため、ホトトギスが詠まれた時点で、一首は死者を悼む歌ではなく、蜀魂という漢籍の知識を取り込み季節の景物ホトトギスを「死者追慕」の鳥として詠んだ作となってしまうのである。つまり、ホトトギスは死者を哀傷する挽歌に適さない題材であり、逆に挽歌に適しているのは、日本古来の霊魂観や他界観を連想させる鳥であった。ここから、挽歌は、名称は漢籍由来であっても、内実は日本の伝統的霊魂観に基く死者哀傷の表現を志向していたことが分かる(第二節)。猶、挽歌が単に死者に関わって詠まれた歌ではないことは、非業の死を遂げた有間皇子を念頭に歌われた巻一34番歌や巻九1675・1716番歌が「雑歌」部に分類されたことからも分かる。これらの作は、有間皇子の残した言葉「また還り見む」に応える形で詠まれていないため、挽歌とは判断されなかったと見られる。ここから、死者の思いを問い、その思いに応える形で死者に歌いかける歌が挽歌であったことが分かる。死者の思いを問うことは、その答えを聞き理解することで、魂を正しく鎮めるために必要な行為だったのである(序章第二節)。一方、『古事記』の鎮魂方法は、死者の死を悼む歌謡を記すと共に、所伝の部分で死者の思いを叶える叙述を記すというものであり、ここには死者の思いに応じる志向性を持つ万葉挽歌との類似性が看取できた(第四節)。

以上の考察から見えてくるのは、伝統的な霊魂観や他界観に基き、死者の霊魂や思いを強く意識して詠じられる万葉挽歌のあり方である。挽歌は、単に人の死に直面して湧き起こった悲哀の情を歌う歌ではなく、死者へ訴えかけ、その意志を問い、それに応えることで死者の魂を正しく鎮めようとする観念を根源に持つ歌なのである。挽歌を詠むにあたって死者の思いは常に意識され、表現は死者の魂を鎮める方向へと向かっている。死者の意志を問うということは、それぞれの死者に応じた鎮魂方法を模索することを意味する。これは、古橋信孝氏「挽歌の成立」(『日本文学』第41巻五号 1992年5月)が挽歌成立の契機として挙げた、宮廷社会の成立によって新たに生じた「個別性」への意識に繋がるだろう。挽歌は、それぞれの死者を個として意識し、その意志に添った鎮魂が志向された時に成立したのである。しかし、挽歌は死者へ問いかけ、その魂を鎮めようとする表現を保持しながらも、次第に死という現実に直面して催された自己の悲しみを吐露する方向へと向かい、新たな表現を獲得して行く。この新たな表現が、後代の『古今集』哀傷歌へと繋がっていったのである。『万葉集』の挽歌は、仏教の浸透以前の古代的な他界観や霊魂観に基く死者鎮魂の観念と、宮廷社会の成立によって新たに生じた死者の「個別性」を重んじる意識とが両立し得た時代に、一時的に華開いた文学だったのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、『万葉集』の挽歌の流れを丹念に辿り、そこから挽歌の本質がどこにあるかを考究したものである。全体は、序章、終章を含む五章十三節からなる。

第一章「万葉人の挽歌観」は、有間皇子自傷歌群を取り上げる。自傷歌二首の後に追悼歌が配列されるありかたが、巻二編者の挽歌観を示しており、それは巻二挽歌が同じ構造をもつ柿本人麻呂自傷歌群によって閉じられていたこととも呼応するとする。「柩を挽く際に歌われる歌」という中国の挽歌の原意からは離れて、死者が生じた際に新たに作り出された一回性のある歌が、巻二編者の認識する挽歌であったとする。さらに山上憶良「日本挽歌」を取り上げ、その表現の前提に、記紀・風土記の「石根・木立の言問ふ世界」があったことを指摘して、従来解釈に問題があった「石木をも 問ひ放け知らず」の理解に一石を投じている。これらは新見の提示であり、本論文の成果として高く評価しうる。

第二章「万葉挽歌表現の考察」は、柿本人麻呂「日並皇子挽歌」「高市皇子挽歌」「吉備津采女挽歌」などを考察する。とりわけ注目すべきは、天智天皇挽歌群の「姓氏未詳婦人作歌」の論で、結句の「夢に見えつる」の表現に着目、天智の「夢」が婦人にとって意想外にもたらされたものであることを指摘する。「夢」に現れた天智の意志が何であったのかを探ろうとする歌い手の意識が、天智の鎮魂につながるとする。充分な説得性をもつ論といえる。詠作主体「われ」が、「天の下 四方の人」と重なると説く「日並皇子挽歌」の論、高市皇子の霊魂を完全に幽界の存在として定位したところに、軽皇子への譲位を実現しようとする持統天皇の意志がうかがわれるとする「高市皇子挽歌」の論には斬新な切り口が現れており、いずれも優れた考察になっている。

第三章「万葉挽歌の周辺」は、死者に関わる歌にホトトギスが詠まれることに着目した論三編を置く。ホトトギスが、次代の歌のように「冥土の鳥」として詠まれるのではなく、「死者追慕」をも含む懐旧の情を喚起する季節の景物として歌われていることを指摘する。さらに挽歌の前史として、『古事記』のヤマトタケルの「大御葬歌」を取り上げ、これが〈死→もがり→はふり〉の古代喪葬の観念に基づく「再構成された物語世界」の提示であることを指摘する。いずれも丁寧な論証に裏づけられた新見に満ちた指摘であり、これまたつよい説得性をもつ。

終章「万葉挽歌の実体と課題」は、上記を総合して、死者の思いを受けとめ、それを鎮魂に転じていくところに、万葉挽歌の本質があるとまとめている。

以上のように、本論文は『万葉集』の挽歌の全体像を、歴史的な流れの中に置き、その本質を明らかにすることに成功している。亡妻挽歌など、論ずべき対象はなお残るが、本論文が今後の挽歌研究に大きく寄与することは間違いない。よって審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

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