学位論文要旨



No 128876
著者(漢字) 山本,尚樹
著者(英字)
著者(カナ) ヤマモト,ナオキ
標題(和) 姿勢転換運動の個体発生・微視発生プロセスの分析
標題(洋)
報告番号 128876
報告番号 甲28876
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第204号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐々木,正人
 東京大学 准教授 遠藤,利彦
 東京大学 准教授 針生,悦子
 東京大学 教授 能智,正博
 東京大学 教授 多賀,厳太郎
内容要旨 要旨を表示する

はじめに:本研究の目的と概要

本研究は背臥位から腹臥位への姿勢転換運動(以下,寝返り運動と表記する)に着目し,実証的データから運動発達という現象にアプローチする。また,理論的にはEsther Thelenの提起する運動発達研究の枠組みに依拠しつつ,本研究で得られたデータから運動発達研究の枠組みに考察を加えることを目指した。

第1章では,運動発達研究の先駆者であるGesell,McGrawの理論枠組みと,Thelenの理論枠組みを比較検討することで,Thelen以降の運動発達研究の理論的主題を見定める。この主題に基づき,第2章では乳児を対象にした寝返り運動の個体発生プロセスを,第3章では成人を対象にした寝返り運動の微視発生プロセスを分析する。第4章では第2章,第3章の結果をまとめたうえで,運動発達研究の理論枠組みに関する考察を行う。

第1章 運動発達研究の歴史的概観と課題

まず,Gesell,McGrawの運動発達研究について,両者の行った研究と理論的枠組みを個別に検討した。次に,Thelenの運動発達研究を初期から順に追っていき,彼女の提起する理論的枠組みをその成立過程から検討した。そのうえで,三者の研究と理論を比較し,類似点と相違点を確認したうえで,Thelenが運動発達研究にどのような理論的観点を付け加えたのかを検討した。これらの検討から,Thelenの提起する,系全体の振る舞いを下位システムの変動から明らかにするといった観点や,発達的変化を引き起こす要素の変動を時間軸上との関係で特定するというコントロールパラメーターの議論は,Gesell,McGrawの理論的視座との類似点が見出されることを確認した。一方で,平均からの偏差として扱われてきた個人差が発達プロセスに関わるというintrinsic dynamicsの議論と,個体発生的な時間スケールでの発達的変化にはその変化を下支えする微視的時間スケールでの微細な変化が入れ子になっているという多重時間スケールの議論は,Thelenが運動発達研究に新たに加えた理論的観点であることを指摘し,これを本研究の主軸にすることにした。

研究の主軸を決定した上で,研究対象と目標を設定した。まず,Thelenらの成熟‐学習などの二項対立的な思考様式を排除する運動発達研究の理論枠組みが,乳児から成人までを包括する発達研究を含意していることを確認した。乳児の寝返り運動の発達過程は,McGrawの研究以降,実証的な研究はなされておらずintrinsic dynamicsを考慮するといった今日的な観点から再検証する必要があることを指摘した。また,成人の寝返り運動には個人間に運動パターンの多様性が示されることが報告されているが,先行研究の結果から個人間の多様な運動パターンを個体発生プロセスにおける発達段階から捉えることは不適切であることを指摘した。以上のことから,本研究では多重時間スケールの議論を理論的な軸とし,乳児の個体発生プロセスに見られる寝返り運動の発達過程と,実験セッションという短い時間スケールで成人の寝返り運動に見られる微視的発生をintrinsic dynamicsの観点からそれぞれ分析することにした。この分析により,乳児の寝返り動作に見られる運動の多様性と,成人の寝返り動作に見られる運動の多様性が,発達プロセスにおいてどのような関係にあるか,見通しをつけることを目標として設定した。

第2章 乳児期における寝返り運動の個体発生プロセス

第2章では,乳児が寝返り運動を始めるまでのプロセスと,寝返りが始まってからの発達的変化のプロセスについて,それぞれ分析を行った。分析には2名の乳児の日常生活の様子を養育者が撮影を行った記録映像を用いた。分析対象となったのは3ヶ月から12ヶ月までの映像資料である。事例数を絞り2名の乳児の発達プロセスを出来るだけ詳細に,また縦断的に分析することでintrinsic dynamicsが発達にどのように関わるかを検討した。また,近年の乳児運動発達研究の動向にあわせ,日常生活の様子から環境知覚が発達プロセスにどのように関わるかを検討した。

乳児が寝返りを始めるまでの発達過程について,背臥位からの体幹の回旋の大きさ,回旋の方向,回旋時の動作パターン,視線との関連の有無,これらの項目から,2名の乳児の発達プロセスの共通点と相違点に留意しつつ,縦断的に分析した。結果,各乳児に観察された特徴的な動作群が各々の発達プロセスに関わっており,寝返りの始まる5ヶ月後半に頻繁に観察された動作から各乳児は寝返りを行っていたことが示された。また5ヶ月後半では両乳児とも周囲を見るなど環境へ目を向けながら体を大きく回旋させるようになっていたが,視線と回旋の向きが一致しない回旋運動が多くなる時期を,両乳児とも経ており,その発達過程は直線的に進んでいないことが示された。これらの結果から,乳児は自らの身体運動のintrinsic dynamicsと環境への方向定位というタスクの相互の関係を数ヶ月単位のスパンで探索しており,その探索過程の延長線上に寝返りを始めることが示唆された。

寝返り運動の発達プロセスについては,引き続き同じ乳児を撮影した映像資料をもとに,寝返りにおける動作パターン,寝返り後の様子,これらの項目から分析を行った。結果,生後1年以内で両乳児が様々な動作パターンを用いて寝返りを行っていることが確認された。また,数ヶ月というスパンだけでなく,2週間単位の短い期間内においても各乳児は複数の動作パターンから寝返りをしていたことが確認された。次に,環境知覚との関係から発達過程を考察した。両乳児とも5ヶ月後半では寝返りをした後ぐずり始め養育者が背臥位に戻したり抱きかかえるという事例が何度も観察されたが,その時期から腹臥位で周囲を見回すなどしていたことが確認された。またその後,リーチングやピボットなど,腹臥位で様々に環境を探索していること,また様々に姿勢を探っていることが確認された。これらのことから,環境の探索活動の様態の変化から,寝返り運動の発達過程を見ていくことの必要性を指摘した。

第3章 成人の寝返り運動における微視発生プロセス

第3章では,先行研究で指摘されている成人の寝返り運動に見られる個人間の多様性をintrinsic dynamicsの観点から捉えなおし,タスクを課したときの寝返り運動にintrinsic dynamicsがどのように影響するかという点と,また実験セッション中のintrinsic dynamicsの微視的変化について,分析した。

被験者は健常成人26名(年齢 M = 24.5 (歳) SD =±3.3),実験手順などを考慮し男性に限定した。乳児の研究で用いた定性的手法では,実験セッション中に生じると予想される微視的な発生を分析できない可能性があるため,動作解析装置Vicon460を用いて身体運動の定量的な分析を行うことにした。右半身の肩,腰に添付したマーカーの位置データをもとに,寝返り運動中の体幹の捻りについて,近似的な指標を求め,これを分析に用いた。寝返り運動の方向は左に限定した。

実験の手順は以下の通りである。15回の寝返りを1セットとし,被験者には全5セット,寝返りを行ってもらった。1セット目は被験者の楽なように寝返りを行うよう,教示した。2~4セット目は,それぞれ異なる運動パターンを教示した。教示の内容は"右腕を左へ伸ばしていく動作","右膝を立て床を蹴る動作","右脚を左に振り出す動作"が,それぞれ先行するようにして寝返りを行う,というものである。どのセットにどの教示を割り当てるかは無作為に決定した。5セット目では改めて被験者が楽なように寝返りを行うよう,教示した。

統計処理から,1セットに見られる体幹の捻りの個人差は2~4セットで運動パターンに教示を与えたときの体幹の捻りの個人差と有意な相関があるが,教示によって相関の程度が異なることが示された。次に,1セットと5セットの体幹の捻りの変化について分析を行った。1セットと5セット間で指標の値に有意な差がある被験者もいれば,有意な差がない被験者もおり微視的変化は被験者間で一様でないことが示された。各教示での寝返り運動の遂行が履歴的に5セット目に影響を与えたという可能性について検証したところ,"右膝を立て床を蹴る動作"の教示のみ,1セット目との相関を除いたうえで,5セット目との有意な相関が認められた。

これらの結果から,intrinsic dynamicsに応じた寝返り運動の調整は教示による動作の制約によって異なることが示された。また,intrinsic dynamicsの微視的変化が教示というコンテクストとの相互作用と関係していることが示唆された。

第4章 総合的議論

第4章では,まず乳児,成人を対象にした本研究の結果と先行研究の知見を総合し,寝返り運動の発達プロセスの素描を試みた。乳児が寝返りを始めた時期には,運動パターンは大きな2つのくぼみを持ったアトラクター・ランドスケープを持っているが,個体発生プロセスが進むにつれ,成人を対象とした実験で示されるような,可塑性のある緩やかな起伏をもったランドスケープへ移行するという個体発生プロセスの大筋を提起した。また,その間の移行プロセスについて,成人に類似した運動パターンの多様性が拡大する時期が,乳児期にあるとの予想を立てた。

次に,運動発達研究におけるintrinsic dynamicsの概念について,本研究の結果から理論的考察を加えた。まず,微視発生,個体発生上におけるタスクとintrinsic dynamicsの関係について,タスクによってintrinsic dynamicsに応じた多様性の発生の度合いが異なるという理論的観点を提起した。また,intrinsic dynamicsが以前の系の状態からの履歴を持ちつつ,その状態から一義的に決定されないような形で変化していくという理論的見解を明示的なものにした。

以上,本研究では寝返り運動の発生プロセスの素描と,Thelenの提起したintrinsic dynamicsに関する理論的考察が得られた。

審査要旨 要旨を表示する

本論文ではヒトの寝返り運動(以下、寝返り)を取り上げ、乳児と成人の発達を異なる時間スケールで解析し、近年、Thelen,E.が提案した運動発達理論を4章構成で検討している。

1章は理論的背景と課題を整理している。Gesell,A.とMcGraw,M.による20世紀前半の運動発達研究の主張を展望し、1980年代以降のThelenの主張と比較し、時間を隔てる両者には、運動系全体の振る舞いを下位システムの変動に求める類似点がある一方、個体の運動に備わる固有な力学特性intrinsic dynamicsが発達過程の基調となるという主張はThelenに独自であるとしている。

2章では、2名の乳児の日常を養育者が撮影した3ヶ月から12ヶ月齢の間、約60時間の寝返り関連映像を用い、寝返り開始の5ヶ月後半までと、その後を観察から縦断的に検討している。方法としては仰向けからの回旋動作を、その大きさ、方向、パターン、視線の共有性の4点で検討し、各児の発達過程を描いている。結果は、全身の伸展、両足の持ち上げなど、各児特有の動作群の個性的な組織化として寝返りが開始されること、また視線と回旋の方向が一致する方向へ変化することにおいては共通性が見られたことを明らかにしている。寝返りがintrinsic dynamicsを環境へと定位させることから開始する可能性を指摘している。また寝返り後の経過の分析では多種の環境探索活動の変化が発達をもたらしていることを発見している。

3章では成人の寝返りの多様性の微視的変化を3次元動作解析装置により分析している。平均24歳の男性26名の右肩,腰に添付したマーカーから体幹の左回旋を分析し、腕、膝、脚からの寝返りを指示する教示と、教示提示以前に記録した各対象者のintrinsic dynamicsとの関連を検討している。結果はintrinsic dynamicsが教示に対応する動作の調整に影響することを統計的に明らかにしている。

4章では乳児と成人を対象にした本研究の二つの結果を総括し、それと先行研究の知見を総合的に検討し、乳児が寝返りを始める時期には運動パターンは大きな2つの深いアトラクター・ランドスケープ(選択の分岐の経路)を持つが、個体発達が進むとより浅い可換的なランドスケープへと移行する可能性があるとしている。さらにタスクが与えられる状況下でのintrinsic dynamicsの役割や、それと運動発達の履歴との関連を検討する必要性について論じている。

本研究は、これまで運動発達領域で比較的研究の少なかった寝返りとその発達を扱っている。寝返り発達の全体像を明らかにするには本研究が得たデータは部分的ではあるが、2事例ながらも乳児の長期の縦断的な観察データを詳細に分析し、寝返りの初期発生過程の一端を示している点、Thelenの提起したintrinsic dynamicsから運動の発達を検討する観点を、リーチング以外の運動発達データに用いる可能性を検討している点などで、この領域にオリジナルな貢献をしていると評価された。よって博士(教育学)の学位論文として十分な水準に達しているものと認められる。

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