学位論文要旨



No 128882
著者(漢字) 辛,素喜
著者(英字)
著者(カナ) シン,ソヒ
標題(和) 行政組織の成長と衰退 : 保健所の個体群生態学
標題(洋)
報告番号 128882
報告番号 甲28882
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第276号
研究科 法学政治学研究科
専攻 総合法政
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田邊,國昭
 東京大学 教授 金井,利之
 東京大学 教授 城山,英明
 東京大学 教授 石川,健治
 東京大学 教授 森田,宏樹
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、行政組織の成長と衰退のメカニズムを探るものであり、膨張志向的官僚制という認識に対する一つの反証を示すとともに、行政組織の成長と衰退が持つ政策上の意味を導出することを目的としている。行政組織の成長と衰退に関する既存のアプローチの特徴は、(1)組織の盛衰の原因を、行政組織の内部管理の問題、政策的目的の衰え、政治的支持の弱化、予算の減少のような単線的な組織の変化だけに注目していたこと、(2)変化する環境に向けた組織の適応努力に焦点を置いたことである。こうした既存の捉え方に対して、本論文の特徴と意義は、(1)行政組織の成長と衰退を複線的に考察することによって、それが持つ政策上の意味合いを導出したこと、(2)組織が有する構造的慣性に注目して、組織の適応努力の可能性と限界を考察したこと、(3)政策的有効性という基準に基づく政策決定機構の選択に焦点を置いたこと、(4)分析対象を組織個体群として捉え、個々の組織には還元されない個体群の変化に注目したこと、に求められる。

以上のような基本的観点を踏まえ、第1章では事例として日本の保健所の成長と衰退に対する問題提起を行なった。公衆衛生および保健政策の第一線機関として戦後急激に拡大し、結核対策や乳幼児死亡率の低下において大きな成果を上げた保健所の数と職員数は、行政重要が減少した1960~70年代ではなく、なぜ1990年代に全盛期の約半数まで縮小したのか。そこで本論文では、以上の問いに答えるために組織理論の個体群生態学モデルに基づいた分析枠組を提示した。本論文の分析枠組みの核心は三つに分けられる。第一に、組織個体群の基本的ニッチが相対的拡大・縮小が組織の資源確保可能性につながる。第二に組織の公式目標、権威の形態、中心となる技術、市場戦略のような組織のコアとなる部分が、組織の成長と存続を担保するものの、環境変化に対する適応が必要な際にはかえって足かせとなり、構造的慣性として作用し、新しい環境への適応を阻害する。第三に、政策決定機構は競争するほかの行政組織が存在する場合、行政組織間の比較衡量を行い、より政策的有効性が高い組織を選択する。以上の分析枠組みに基づいて、本論文は保健所個体群を分析対象とし、保健所個体群が、その構造的慣性の制約のために、環境変化に適応できず「淘汰」され、市町村個体群によって「代置」されたことを論証する。

本論の内容をまとめると、第2章では戦前から戦後にかけて保健所の設立と制度的確立、成長について考察した。結核をはじめとした伝染病を予防、治療し、乳幼児死亡を減らし、社会全体の衛生水準を高めることを主な目的として設立された保健所は、国民体力法の改正によって行政処分権を持つようになり、官公営の各種健康相談所を統合することによって全国的ネットワークを持つ公衆衛生の第一線行政機関として制度的確立をみた。戦後は、GHQの政治的支持を背負って公衆衛生関係の様々な権限が付与され、保健所の業務は量・質ともに拡大し、予算と職員、施設や設備の拡充が行われた。そこで保健所は結核死亡率や乳幼児死亡率の著しい低下を成し遂げるなど甚だしい成果を上げた。

この時期に保健所の制度的確立と成長を可能にした保健所のコアを、本論文では四つ捉えている。それらは、予防と治療を分離して予防に専念したこと、医師や保健婦などのプロフェッショナルにより構成され、保健所長は医師を当てたこと、国庫補助金から財政的支援を得たこと、食品衛生と環境衛生の規制権限をもつ行政機関化したことである。これらの要因は保健所を他の健康相談所や行政機関と区別させる要因であり、これらの要因があってこそ保健所は戦後著しく成長するようになったと本論文は主張する。

第3章では、1950年代半ばから十年間を扱った。保健所の様々な努力の末、結核死亡率と乳児死亡率は激減したが、課題の解決がかえって、保健所の存在理由を問うことになり、またGHQの引き揚げによる政治的支持の喪失とともに、組織危機が加速化することになる。そこで保健所組織は二つの戦略を取ることになる。一つは、結核検診の対象を全国民に広げるなど既存の行政需要を掘り起こし、徹底的に追求することであり、もう一つは、成人病対策など新しい需要に取り組むことであった。しかし臨床医学の発達と民間医療機関の普及、国民皆保険の導入により、保健所の戦略は大蔵省や厚生省の理解を得ることができず、予算確保は一層苦しむようになる。このような保健所の立地の弱化は、社会的にも保健所に就く医師などプロフェッショナルの不足をもたらし、政策決定機構である厚生省は保健所に対する期待水準を低下させることで、保健所の成果低下に対処する。そこで、保健所組織は業務量の拡大、予算の横ばいの不均衡状態となる。

第4章では、1960年代半ばから1970年代半ばまで、新しい環境変化に直面して方向性を模索している保健所について記述する。保健所に関して、組織、運営、財政、職員などすべての側面において問題提起が数多く行われた。厚生省は保健所に対する期待水準を下げながらも、保健所をどこまで活用し、将来的に保健分野・公衆衛生分野における保健所の位置づけをどのようにすべきかをまだ決められず、そのような中で大蔵省の財政硬直化キャンペーンにより、保健所の新設と定員増加が厳しく制限されることになった。そこで結局、厚生省は保健所を拡大するよりは、集約して保健行政の中枢機能を担当するようとし、対人保健サービスは市町村に委譲する基幹保健所構想を発表するが、自治労などの反発によって成功できなかった。一方、現場保健所は限られた予算の中で効率化を図るよりは、行政需要を抑制することで保健需要の増加に対処するようになり、住民らの不信を買った。

第3章と第4章では、保健所の基本的ニッチの相対的比重が縮小する中で、保健所の成長を可能にした四つの要因が、保健所を縛り付けることによって、保健所が環境変化に適切に対処することができなかったことを論証した。疾病構造の変化、国民皆保険の成立と臨床医学の発達に伴う民間医療機関の整備および公的医療の沈滞という環境変化に対して、予防業務だけを集中する保健所の政策的重要性が下がり、その結果、保健所は財政的に積極的な支援を得られず、医師などの職員不足、予算不足に直面した。またそのような中で保健所は保健所に対する行政需要を抑制することによって保健所に対する住民らの期待も下がることになった。

第5章では、1970年代半ばから1980年代末までを取り扱った。成人病の増加、医療費の増加の中で、結局厚生省は市町村を中心とした保健行政体制を作り始める。厚生省は、市町村を中心とした「国民健康づくり」施策を掲げることで、市町村における対人保健サービスの拡大を狙い、1982年には老人保健法の成立によって市町村に老人保健サービスの権限が委譲された。また1980年代の第二臨調を始めとした国と地方の行財政合理化によって、保健所組織は補助金削減など改革を迫られるようになり、その一方で全国各地における自治労の反対運動によって全国に置ける保健所の改革ぶりは地域ごとに異なる様相を見せた。

第6章では、1990年代から現在までを取り扱った。地域保健法の制定によって、ほとんどすべての対人保健サービスは市町村を中心に提供されるようになり、保健所は調査、研究の役割に留まることになった。基幹保健所構想の時から1980年代まで保健所改革について保健所組織の反発は大きかったが、次第に収まり、1994年地域保健法の制定時には特に大きな動きはなかった。さらに地方分権の流れとともに、保健所の統廃合が自由になり、全国各地で保健所の統廃合が行なわれた。

第5章と第6章では、環境変化に柔軟に対処できない保健所が淘汰され、その代わりに保健事業の新しい主体として市町村が登場してきたことを論証した。有病率の増加、高齢人口の増加による医療費の急増に対する対策が急がれ、また1970年代後半WHOで提唱したプライマリ・ヘルスケアがあいまって、保健事業が注目を受けることになった。そして厚生省は、保健事業の主体として、保健所の代わりに、様々な点において相対的優位を持つ市町村を支援することになる。その要因とは、市町村に保健事業を任せることによって、厚生省は国庫補助金増額の圧力から回避することができ、医師などの専門職を雇わず民間に委託することがより自由になり、保健・医療・福祉ともに住民に身近な市町村でそのサービスを提供することができるためであった。

以上、本論文は保健所の成長と衰退過程を追うことによって、保健政策の政策決定機構である厚生省による保健所組織の淘汰と市町村の選択のメカニズムを明らかにした。

公衆衛生・保健行政領域における組織個体群の動きをまとめると以下のようになる。そもそも公衆衛生・保健サービスを行っていた組織は保健所、市町村以外にも多かった。戦前の各種健康相談所、国保、衛生取締りを担当していた府県の警察部などがそうであったが、1947年新しい保健所が制定される際に保健所が政府管掌の唯一の保健機関となったのである。すなわち、保健所は公衆衛生・保健行政領域という基本的ニッチをほぼ独占していた。しかし1950年代後半以降、疾病構造の変化とともに、厚生省の医療保健政策における公的医療機関と保健所の比重が低下し、保健所の予算・職員数が横ばい状態になる。その一方で厚生省の各局は保健所の手が届かない府県と市町村の各地に保健所類似施設を設置してきた。保健所の基本的ニッチが相対的に縮小し、また保健所の現実的ニッチも縮小するようになったのである。これらの各種類似施設は、プライマリ・ケアに対する保健需要の増大を背景に、厚生省の健康づくり対策によって市町村保健センターに統合されるようになり、老人保健法の制定によって対人保健サービスが市町村へ移譲し、保健政策における保健所の役割が市町村に代置されることになった。保健所の基本的ニッチは拡大したものの、現実的ニッチの拡大には至らなかったのである。

そして公衆衛生・保健行政領域における以上のような組織個体群の淘汰と代置は、組織や組織個体群の個別的な動きは無視できないものの、政策決定機構である厚生省の判断と選択による結果である。政策決定機構である厚生省にとって、保健所を整備拡充して保健行政の第一線機関として位置づけを維持していくことは、大蔵省からの圧迫から財政的に難しく、厚生省内部における政策的優先度も低いため、保健所の第一線機関としての位置づけを捨てて保健所を集約し、重装備を揃えて高度の診断と検査ができる「基幹保健所」の方向で進むことを提案したものの、現場保健所の反対は以外に強力で、厚生省は手を打つことが出来ない状況に陥ってしまったのではないかと推測する。保健所を第一線機関として保健事業を行うには体制が脆弱で、しかし改革を進めるにはその制度的制約や現場保健所の反発が大きい。結局、厚生省にとって保健所は扱いにくい政策手段になったと考えられる。そこで財政的側面や民間委託、保健福祉の市町村中心主義の側面から相対的優位を持つ市町村を保健事業の主体として位置づけることになったのである。

最後に第7章では、本論文の行政学の組織研究における意義や保健行政領域における意義を言及し、行政組織一般への適用可能性を論じるとともに、膨張志向的官僚制の収縮の可能性と限界を論じる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、行政組織の成長と衰退に関して、その一例として日本の保健所の成長と衰退に注目して、そのメカニズムを解明したものである。その際に、組織社会学(および組織理論)において展開されてきた個体群生態学モデルを応用し、個々の保健所ではなく、また、保健所制度でもなく、複数の保健所から構成される保健所個体群に着目して、他の代替的な個体群との競争のなかでどの程度の現実的ニッチを占めたのかという観点から、これを解明した。具体的には、保健所個体群は、その組織コアゆえにある時期には成長を遂げたが、後の時期には、その組織的慣性の制約のために環境変化に適応できず「淘汰」され、市町村個体群によって「代置」されたことを論証した。

以下、内容の要旨を説明する。

第1章では、行政組織の成長と衰退という観点から、戦後の1950年代にかけて急成長を遂げ、その後、しばらくは一定水準を維持し、1990年代前半から急減をした保健所を採り上げ、そのメカニズムを解明することを課題として設定した。一般的通念では、行政組織は膨張指向といわれるが、現実には衰退する組織も存在しており、成長と衰退の側面も合わせて解明する必要がある。

まずは、結核問題と乳幼児死亡問題への対処という必要性から、保健所の盛衰を説明することが説明仮説として考えられるが、両問題が解決してからも、なお保健所数や員数は維持され、その相当の後に衰退した点を説明できない。そこで、著者は組織の盛衰に関する先行研究、すなわち、ライフサイクルモデル、組織-環境関係としての環境適応論(条件適応理論・資源依存論・制度理論)、政策廃止論、カットバックマネジメント、を検討した。それらの先行研究の限界を踏まえ、複数の組織を同時に扱う必要性と環境による選択の観点を取り入れるため、個体群生態学モデルを援用することとした。

個体群生態学モデルは、個々の組織ではなく個体群に注目する。個体群は組織コアを有し、それが環境に適合したときには、個体群がその数を維持できる諸環境条件の集合である基本的ニッチのなかで、現実的ニッチを拡大するという意味で成長し、そうでないと衰退する。組織コアとは、当該組織を構成する最も核心たる部分であり、組織の公式目標、権威の形態、中心となる技術、市場戦略などである。組織コアは構造的慣性を有するために中々変化しない。そのため、環境に適応できないと、他の個体群によって「淘汰」され、現実的ニッチを縮小させる。そして、行政組織の場合には、この環境による淘汰と選択は、政策有効性の観点から政策決定機構によってなされることが、企業一般の個体群生態学モデルからの著者の修正である。また、各個体群は単に選択を受けるだけではなく、自ら生存に向けて行政需要を操作することで生存と成長も図っている。政策決定機構は、組織個体群との相互作用のなかで、選択を行う。

日本の保健所個体群は、(1)予防と治療の分離を前提とした予防への専念、(2)医師・保健婦などのプロフェッショナルによる構成、(3)国庫支出金による財源調達、(4)食品・環境衛生での規制行政庁、という組織コアを持ち、これが有利に作用して、戦後には各種健康相談所等を統合して、保健行政という基本的ニッチのなかで成長を遂げた。しかし、その後の進展で、(1)臨床医学の発展による治療の予防に対する優位、(2)医師の臨床医療指向による保健所の医師不足、(3)国の財政難による国庫支出金の抑制、(4)規制行政庁としての住民からの遠さ、によって、(1)(2)プロフェッショナルを有しない(民間委託が容易)、(3)組織成長に国庫支出金を要しない、(4)住民に身近、という組織コアを有する市町村個体群に淘汰されたのである。

第2章では、保健所の設置から1950年代初期までの保健所の成長を記述する。当初は様々な形態で保健相談所的な組織が散発的に設置されたが、1937年の保健所法に基づき保健所の設置計画が開始された。当初は保健所の増加は進まなかったが、戦時体制下で行政機関として保健所が位置づけられ他の組織を統合していき、保健婦規則の制定により保健婦の育成が進むなど、保健所は制度的に確立した。この前史を踏まえて、GHQの後押しを受けて、戦後の公衆衛生状況の悪化に対処すべく、1947年の新保健所法のもと、伝染病予防と乳幼児死亡率低下に資源を集中投下することで、また経営難の国民健康保険から保健婦を吸収することで、保健所は成長をしていったのである。

第3章では、結核死亡対策と乳幼児死亡対策が功を奏し、また衛生状況が改善するなかで、さらに、占領終了によるGHQの消滅のなかで、危機に直面した保健所の対応を分析する。結核と乳幼児という行政需要の低下に直面し、保健所は既存行政需要の徹底追求や、老人保健や対物保健などの新規行政需要の開拓をしたが、大蔵省から充分な資源(予算)を得ることはできなかった。その背景として、基本的ニッチ全体として、皆保険化により医療に向けて政策決定機構である厚生省の選択の比重が傾いていた。こうして、行政管理庁の勧告が出るなど保健所は成果を上げられない危機的状態となったため、厚生省は保健所に対する期待水準を下げ、短期的には具体的ニッチを維持したのである。

引き続く第4章でも、保健所が方向性を模索し続けたことを分析する。様々な協議会・調査会などで検討はされたが、精神衛生や母子保健なども含めて保健所の方向性が定まることはなかった。財政難に直面するなかで、財源・人員などを少数の保健所に集中させる基幹保健所構想が浮上し(保健所問題懇談会基調報告)、対人保健サービスを市町村に代置することを、厚生省は方針として決めたといえる。但し、革新自治体はこの方針には従わず保健所を増設した。結果として方向性は実現されず、保健所は行政需要を抑制するようになり、それがまた住民の保健所への必要性の理解を低下させた。

第5章は、1975年以降の市町村の登場を扱う。第4章の時期に厚生省が決めた方針が、具体的に展開された時期である。医療費高騰を受けて保健・予防による医療費抑制が注目され、保健行政という基本的ニッチは拡大したが、保健所はこの機会を活かせず、現実的ニッチは縮小する方向に向かった。1975年からの「国民健康づくり」対策は市町村保健センターを新設させ、老人保健法により市町村が実施主体として確立された。第二次臨時行政調査会の行政改革の流れのなかで、国庫支出金は一般財源化されていき、府県レベルで保健所の整理統廃合の試みが開始された。現場の職員・労働組合などの抵抗はあったものの、全体的な趨勢を変えることはなかった。

第6章は1990年代以降の保健所個体群が現実的ニッチを明確に縮小していく様子を記述する。1987年の総務庁行政監察では、対人保健業務の多くがすでに市町村によって担われている実態が明らかにされた。地域保健将来構想検討会を受けた厚生省の「ニュー保健所」構想では、基幹保健所構想と同様に資源の特定保健所への集中を目指したが、充分な財源措置はできなかった。結局、1994年の地域保健法で、市町村が保健行政の第一線機関であることを確認し、保健所の管轄人口を大きくする(=保健所の個体数を減らす)方向となった。そして、1990年代後半からの地方分権改革を反映して、各府県が保健所の統廃合を大々的に進め、保健所個体群の衰退が目に見える形となったのである。

第7章は本論文の総括である。行政組織の衰退という観点からは、4つの構造的慣性を有する保健所個体群は、様々な方向性の模索や、期待水準の低下による生存を図りつつも、最終的には、相対的に優位な組織コアを持つ市町村に代置されたこと、そして、その淘汰は政策決定機構である厚生省の選択によってなされたことを確認している。

本論文の長所としては、以下の点をあげることができる。

第1に、保健所という対象に着目し、その成長から模索を経て衰退に至る相当長期の行政史を、見取りのよいコンパクトかつ明解なストーリーによって整理しており、非常に筋の良い論文となっている。保健所行政史を、単なるライフ・サイクルの段階的変化として描写するのではなく、個体群生態学モデルを応用することによって、理論的にメカニズムを解明した点を高く評価することができる。行政学においては組織理論の摂取は非常に重要な学問的伝統であるが、それに新たな1項目を付加することに成功している。

第2に、個体群生態学モデルを行政組織に適宜修正を施して応用しつつ、さらに、保健所という対象に即して、適切な分析を行っている。政策決定機構という、いわば「見える手」を導入しつつ、しかし、政策決定機構の政策選択が万能ではなく、他の個体群との代替関係のなかから選択と淘汰がされることを巧みに描写している。また、(1)予防限定、(2)専門家中心、(3)国庫支出金依存、(4)規制行政庁、という保健所個体群の4つの組織コアを抽出し、それが、ある時期に成長に寄与し、後に、それが不変の構造的慣性として環境への不適応をもたらし、個体群の衰退をもたらしたという説明は非常に説得的である。

第3に、保健所個体群の現実的ニッチを巡る淘汰のメカニズムも、単純に政策決定機構が方針を決めて貫徹できたとするのではなく、緻密な過程を検証している。具体的には、政策決定機構としての厚生省も一枚岩ではなく、特に、医療と保健の基本的ニッチを巡る選択の差異や保健所担当課の微妙な立ち位置、予算を握る大蔵省との関係、保健所側からの生存への対処工夫、府県という保健所の設置(同時に統廃合)主体の動き、現場保健所の職員や労働組合の抵抗、など多角的に論証がされており、厚みのある分析記述となっている。

しかし、本論文にも欠点がないわけではない。

第1に、政策決定機構による選択ならば、結局は、国による保健所制度の制定・改廃によって、保健所という組織個体群の盛衰も規定される見方も成り立つように思われる。個体群生態学モデルの応用であるならば、市町村個体群と保健所個体群が財源などの資源を巡って競争した結果、それぞれの具体的ニッチが形成されたという、ボトム・アップ側面をもっと強調して分析しても、良かったのではないかと思われる。実際、政策決定機構による選択が地域保健法によって明示的になされる前に、市町村個体群が優勢になった実態(総務庁行政監察)が触れられており、この面を深めることができよう。

第2に、抽出された組織コアは基本的には説得的であるが、規制行政庁という組織コアは、むしろ保健所個体群を依然として支えているという見方も成り立とう。確かに、住民からの遠さという点では市町村個体群に劣るが、逆に言えば、市町村個体群が持ち得ない組織コアであるがゆえに、保健所個体群は基本的ニッチを縮小させつつも、一定の数量で生存し続けている側面が記述されていない。保健所個体群は、淘汰されたが、死滅はしていない。あわせて、市町村個体群との競争ならば、市町村個体群の組織コアの制約条件も、明示的に分析する必要があろう。

第3に、本論文では個体群間の競争はゼロサム的なものが想定されているようだが、児童虐待などでは学校・警察・医療機関・教育委員会・児童相談所など各種個体群がそれぞれに拡充するなど、基本的ニッチの拡大と合わせてポジティブサム的なものも想定できよう。保健行政では、なぜゼロサム的競争となったのかの条件を明示する必要がある。あわせて、医療行政という基本的ニッチと保健行政の基本的ニッチの相互関係にも、分析レベルを多層化して解明する余地があると思われる。

このような短所があるものの、これらは本論文の価値を損なうものではなく、これらは今後のさらなる研究の展開可能性を示しているものであると思われる。

以上から、本論文は、その筆者が自立した研究者としての高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

UTokyo Repositoryリンク