学位論文要旨



No 128884
著者(漢字) 田中,光
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,ヒカル
標題(和) 近代日本における大衆資金の形成と運用 : その金融ネットワークと地域経済
標題(洋)
報告番号 128884
報告番号 甲28884
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第320号
研究科 大学院経済学研究科
専攻 経済史専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡崎,哲二
 東京大学 教授 伊藤,正直
 東京大学 教授 谷本,雅之
 東京大学 教授 中村,尚史
 東京大学 准教授 中林,真幸
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、近代期に日本経済と社会の中に構築された、個人零細貯蓄の集積として形成される大衆資金が、どのような社会的・経済的システムの中、収集され運用されたのか、そしてそれが地域経済にどのような影響を持ったのかを、実証的に分析するものである。

先行研究が指摘するように、日本の近代化は決して都市部や大規模工業の成長によってのみ支えられているものではなかった。それは農業を含む中小規模の産業、ひいては地域経済の発展に基盤を支えられていた。また20世紀初頭以降の日本経済の中には、相対的に少額な零細貯蓄を集積して形成された大規模な大衆資金が存在するようになり、近代化達成の資金源となりうる貯蓄率の上昇が見られた。こうした貯蓄をどのように日本社会は集積するに至ったのか、そしてこうした個人貯蓄由来の資金が、その運用によって日本社会とその経済発展にとってどのような影響を与えたのかを分析することが、本論文の課題である。

資金の集積過程においては、近代のごく初期に設立され他の金融機関に先駆けて全国規模のネットワークを持ち、その後も単一の貯蓄集積機関としては最大の規模を誇った郵便貯金の普及過程を見ることによって、大衆的な貯蓄行動の性質を分析した。なお、郵便貯金の大衆的普及はちょうど日本の貯蓄性向に変化が見られる20世紀転換点前後に生じており、郵便貯金の普及そのものが貯蓄性向の変化と軌を一にしていることも指摘できる。

20世紀初頭前後に活発化した個人貯蓄形成の動きとは、それは政府による貯蓄奨励政策の浸透の過程であると同時に、近代以降の小学校・郵便局・役場といった組織の活動を通じて、それらの組織やそれに影響を受けた近世来の社会組織の活動が貯蓄形成に向けて活性化される過程でもあった。貯蓄性向の上方への変化、個人貯蓄の形成の背景には、様々な社会集団の中の組織的活動の一端として、貯蓄行動が行われたことがあった。日本の金融部門における貯蓄はそのような、集団的性質を持つ貯蓄や、集団に影響されて貯蓄を行うような、集団的性質を一部持つ個人零細貯蓄によってその基盤を支えられ、成長していったのである。

また、近代において活性化し再編された地域社会の様々な経済行動は、貯蓄形成を行うだけに留まらなかった。たとえば産業組合は、貯蓄や資本を集積しただけでなく地域経済に少額金融の機会も提供した。こうした少額金融を行う地域組織が地域経済の中に形成されたことはどのような意味を持つのか、また地域社会の中でこうした組織はどのような性質を持つものであったのかを分析するために、本論文では産業組合の地域社会における具体的な活動実態と社会経済的性質を、長野県小県郡和村の事例から明らかにした。

和村の中で和産業組合は、貯蓄を形成した他の団体と同じように、近世来のネットワークを引継ぎながらもそこに近代的制度を持込み、その共同体性を破壊するのではなくむしろ維持・強化するものとなった。そして和産業組合はただ社会的な結合機能を持つだけでなく、産業組合として少額金融を行い、地域における金融の円滑化を図り、地域産業の発展と共に成長した。こうした動きは和村だけに限ったものではなく、開国以後の世界市場とのリンクに伴う市場の拡大と流動性に対応する形で、日本各地で起こった流れだった。

このような社会的結合を持つ少額金融組織が各地の地域経済の中に形成されたことは、産業組合による地域内での大衆資金の集積とその利用のためだけでなく、郵便貯金の中に集積された大衆資金の、地域に対する還元のためにも大きな意味を持った。郵便貯金に集積された貯蓄が増大するほど、その運用の問題は重要になっていく。戦前において、郵便貯金の資金の運用は、大蔵省預金部制度の中で行われた。本論文はこの預金部制度による大衆資金の運用の、地方還元制度部分の形成と実態について注目し取り扱った。郵便貯金を取り扱う制度としての預金部は既に1885年には発足していたが、その資金の地域における還元が重要な課題となっていくのは、郵便貯金の拡大を待ち20世紀に入ってからのこととなった。

大蔵省預金部資金は1909年以降、その地方還元制度を恒常的なものとして制度化した。その地方還元には、毎年供給される普通資金と臨時的な特別資金という二つの枠組があったが、危機時の臨時供給とはされたものの、特別資金も実質上はほぼ毎年支出された。そして1914年の第一次世界大戦勃発時の貿易途絶に伴う金融梗塞の発生により、特別資金は天変地異以外の経済危機に対しても供給される、制度的端緒がつけられた。こうした制度の展開は、天災ほどには被害の見えづらい経済危機の地方経済に対する影響と救済の必要性が、それまで天災被害を報告し救済を求めてきた地方自治体によって、中央まで伝えられる情報伝達過程があったことにより実現した。

このように戦間期以前に天変地異以外の危機への救済資金の動員可能性が預金部制度に組み込まれたことは、第一次世界大戦後に日本経済の状況が変化し、農業における生産性上昇の鈍化や長期不況によって、地域経済と社会が危機に直面した際、より重要になっていった。

戦間期の預金部制度と産業組合制度は、連携を強化する形でより展開していく。戦間期においては、既に戦間期以前に整備されていた、預金部資金の勧銀・農工銀行を通じた資金供給ルートが、貸し付けを行うにあたってその範囲に限界があったため、預金部にとって産業組合をより積極的に利用し、資金不足に悩む地域経済の中小事業者に対して、資金供給できる裾野を広げていくことがより模索された。なお先行研究において注目を集めてきた1925年の預金部改革は、原資の安定という預金部の運用基本理念と、地方還元制度の実態そのものを変更するものではなかった。

1923年には産業組合の中央金融機関である産業組合中央金庫が、大蔵省預金部との連携をあらかじめ視野に入れた上で設立された。もっともその連携は、実態としては設立直後から成立したわけではなかった。1927年の金融恐慌の最中に生じた長野を中心とした広域の大規模霜害に対する救済融資は、産業組合中央金庫を初めて本格的に、預金部による地方資金の供給ルートに組み込んだという特色を持っていた。既に産業組合は勧銀・農工銀行を経由して預金部資金を受け取るルートを確立してはいたが、中央金庫を経由することにより、産業組合の系統と預金部はより強力な金融ネットワークを確立したと言える。これ以後預金部による特別資金の供給において、中央金庫を経由機関として利用し産業組合の系統金融に供給することは、預金部から勧銀・農工銀のルートと同じく慣例化していく。

戦間期、地域社会に存在する各産業組合は、預金部からの資金を中央金庫経由で低利で確保し、あるいは系統金融機関からの資金を頼ることができ、それを組合員に相対的に低利で貸し付けることができるようになった。この時期、産業組合は発達した地域では既に全村加入を実現している地域もあり、組合員への少額金融の可能性が開かれるということは、すなわち村内でも高所得者以外への低利資金供給の道を開くということを意味した。

こうした資金ルートの存在は、それまで産業組合の設立とは無縁だった地域にもその形成を促し、戦間期を通じた産業組合の普及と発達を促進し、戦前における産業組合の完全な全国的普及を達成した。1930年代にはこのルートは預金部を含めても含めなくとも積極的に用いられるようになり、こうした金融ネットワーク構造の中で、預金部は第二の中央銀行とさえ評価される機能を果たすようになった。

戦間期において預金部を基盤とした大衆資金運用システムは、システムの形成期に経験した成長型の経済状況でなく、長期不況と恐慌に直面した。その中でこの大衆資金運用システムは、産業組合の系統金融のルートを強化していくことを通じて、緊急時における救済の迅速化と手続きの簡略化を図り、資金供給される範囲をより中小事業者へと広げた。

こうしたルートは、日銀を頂点としたいわゆる重層的金融構造がカバーしきれない、中小経営と地域経済をフォローするものとして形成された。そしてこの資金ルートの経由過程で機能した産業組合や各種の地域連合組織は、その組織自体に貯蓄と資金の集積能力があり、更に追加的に大衆資金を地域経済へと利用していくことが可能となった。

こうした金融システムを形成し整備し、地域社会をネットワークとして再編していったことが、近代日本経済の成長期における地域経済の資金需要を満たし、近代日本の経済成長の相対的均等性を支援したものと本論文は考える。また、それは経済成長を支援しただけでなく、不況期に経済的苦境から生じる社会的危機への対処となり、近代における日本の地域社会の、その社会的安定にも一定度貢献したと考えられるのである。このような社会的ネットワークと経済的システムの存在こそが、日本の近代化を安定させその経済発展を持続させる、基盤の一つとなったと本論文は結論づけるものである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、近代日本において、大衆の零細資金を貯蓄として収集し運用するシステムがどのように形成され、地域経済においてどのような役割を担ったかを、実証的に検討したものである。論文は次のように構成されている。

序章 日本の近代化とその基盤

第1章 地域社会における大衆貯蓄収集システムの形成-郵便貯金の普及過程からの概観

第2章 地域経済の発展と産業組合の発達

第3章 大衆資金の再配分機構としての大蔵省預金部資金地方還元制度の構築

第4章 戦間期における大衆資金運用システムの展開

終章 大衆資金の形成と運用による日本社会・経済への影響

序章では、日本の近代化が大企業の成長だけでなく、農家を含む中小事業者の発展にも担われていたという見方に立って、これら中小事業者の地域における発展を資金面で支えた仕組みはどのようなものであったかという問題が導かれる。

第1章では、大衆零細資金の収集機関として郵便貯金に焦点が当てられる。マクロ的な貯蓄率が上昇した20世紀初頭に、郵便貯金の普及と小口化が進展した。本章はその理由として政府の貯蓄奨励政策の地方への浸透に注目し、それが小学校や村役場等の近代的機関だけでなく近世に由来する伝統的な自治組織にも支えられていたと論じている。

第2章は、地域で収集された大衆零細資金の地域における利用とその機能を検討するためのケースとして、長野県小県郡和(かのう)村の産業組合を取り上げる。和産業組合は通年では基本的に内部的循環で資金を充足する一方、資金需給の季節変動には外部の金融機関との取引で対応し、肥料資金の貸付を通じて同村における養蚕業の発展を支えたとされている。

第3章では、郵便貯金を通じて地域から大蔵省預金部に集中された大衆零細資金を、地方に還元する制度の形成と運用が取り扱われる。預金部資金の地方還元は1909年に「普通資金」と「特別資金」として制度化されたが、本章は、自然災害に対応して支出されていた特別資金が1914年以降、経済危機に対しても適用されるようになったことに注目する。そのうえで、1914年の長野県のケースについて、特別資金が勧業銀行・農工銀行と産業組合を通じて、貿易途絶の影響を受けた養蚕業の救済のために用いられたことを明らかにしている。

第4章は、1920年代に形成された預金部資金地方還元の新しい仕組みとして、1923年に設立された産業組合中央金庫を通じた資金供給ルートを取り上げる。預金部から産業組合中央金庫を通じて産業組合に至る資金供給ルートは、1927年の金融恐慌下で生じた長野県の霜害の際に利用され、地域経済の安定に寄与したとされている。

終章は、本論文での実証分析の含意として、近代の日本で、地域における大衆資金の収集と運用のための社会的ネットワークとシステムが整備され、それが日本の近代化過程における社会的安定性を確保して持続的経済発展を可能にしたことを指摘し、あわせて戦時期・戦後期への展望について述べている。

本論文の貢献としてまず、戦前日本において、地域の大衆零細資金が郵便貯金や産業組合等の近代的制度を通じてどのように収集され、それが再び地域においてどのように利用されたかを、丹念な資料収集に基づいて具体的に明らかにした点が挙げられる。特に和産業組合の内部資料を用い、産業組合が他の金融機関との取引を通じて地域経済を外部の市場と連携させ、資金需給の変動に対応したことを示したのは重要な発見といえる。また、預金部資金の地方還元融資が持った救済機能を具体的ケースに即して明らかにした点も有意義である。

いうまでもなく、本論文には残された課題もある。戦前日本における地域金融については金融史と農業史の分野で多くの研究蓄積があるが、本論文は、結果の含意をこれらの文献と関連づけて検討していない。また、日本経済における地域間の資金循環の大きな枠組みの中に本論文の結果を位置づけることも必要である。この点は本論文で視野の外に置かれている地方中小銀行等の地域金融における機能とも関連している。また、地域内の人々の階層性に関して考慮を払う必要もある。

しかし、こうした課題は著者の今後の研究によって解決されるべきものと考える。本論文は、戦前日本の地域における資金の流れとその機能について、実証分析に基づいて新しい知見を加えたすぐれた歴史研究であり、それは、著者が自立した研究者として研究を継続し、その成果を通じて学界に貢献しうる能力を十分に持っていることを示している。審査委員会は全員一致で、田中光氏が博士(経済学)の学位を授与されるに値するとの結論を得た。

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