学位論文要旨



No 128885
著者(漢字) 小笠原,浩太
著者(英字)
著者(カナ) オガサワラ,コウタ
標題(和) 近代日本の社会事業と経済発展
標題(洋)
報告番号 128885
報告番号 甲28885
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第321号
研究科 大学院経済学研究科
専攻 経済史専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡崎,哲二
 東京大学 教授 武田,晴人
 東京大学 教授 谷本,雅之
 東京大学 教授 加瀬,和俊
 東京大学 准教授 中林,真幸
内容要旨 要旨を表示する

市場経済は効率的な資源配分を実現するが,公平性の観点からは,必ずしも望ましい結果をもたらさない.著しい所得格差や貧困が社会の安定を損ない,優れた才能を発揮する機会の平等を保証しない可能性があるからである.所得再分配に関する政策は,このような考えに基づいて正当化されている.しかし,経済活動についての完全な情報を持ち得ない政府は,予期せずして民間による経済活動の効率性を妨げることがある.効率性と公平性の最適なバランスを解明すること.それは,経済学における,きわめて重要な課題である.

このような課題にたいして,日本の歴史的経験は有意義な示唆を持つのだろうか.一般に,市場における供給水準が過小となる公共財の供給には,政策的介入が必要となる.第一次世界大戦後の日本では,社会問題の顕在化を背景に,民間主体を政府が支援することで公共財を供給する社会事業と呼ばれる制度が全国へ普及した.社会福祉の礎石となった社会事業は,防貧機能を備えていたことが特徴的で,貧困化リスクに対する脆弱性を緩和する制度として,戦前日本における再分配機能の一翼を担った.

経済学の視点から,このような防貧機能に着目することは,経済史における新たな実証領域の可能性を示唆する.明らかなように,教育や衛生に関する制度の整備は人的資本の蓄積を促し,健全な投資を保護する法制度の存在は資本市場の発達に寄与する.そして,これら制度を通じた資源配分の効率化は,経済発展を促進する要因となる.すなわち,不確実性に対する経済主体の脆弱性を緩和する制度として社会事業を認識し,それによる資源配分の効率化を検証することは,経済史研究の深化に資する新たな知見につながるのである.

本論文は,戦前日本の社会事業を素材として,経済発展の過程で形成される社会福祉に関する制度が,所得再配分と資源配分に与える影響を明らかにした.

第1 部では,農村部における社会事業の効果を実証した.そこでは,戦間期日本において全国展開した託児施設が,農家の家計内資源配分を効率化することで農業部門に与えた影響に着目した.雇用労働力に依存しない小農経営に基づく日本の農業生産において,家計内資源配分の効率化は経営上の要諦であった.いかに効率的な資源配分を行うかは,農家の生産性に多大な影響を与えたのである.

第1 章では,女性が家計内の労働需要を調整する重要な役割を担っていたことをふまえて,託児施設の利用が女性と子どもに与えた影響を分析した.その結果,施設が女性による育児と労働のトレードオフを緩和し,子どもに良質な保育を与える役割を果たしたことが明らかになった.第2 章では,託児施設が子どもによる人的資本の蓄積に与えた影響を知るために,家計内資源配分の観点から大人と子どもの労働配分を分析した.その結果,農家では女子に不利な労働配分が行われており,余暇や教育投資におけるジェンダー差の存在が判明した.これにより施設の展開は,女性のみならず女子による育児負担を減じることで,余暇や教育におけるジェンダー差を縮小する役割を果たした可能性が示唆された.第3 章では,託児施設の分布と,施設が農業生産に与える効果を分析した.その結果,施設は農村内の共同体によるリスク・マネジメントとしての性格が強く,気象リスクの高い地域や所得水準の低い地域に開設される傾向があることが判明した.さらに,託児施設の開設は,地域の農業生産性を僅かに上昇させる効果をもつことが明らかになった.これらより,託児施設は農家の労働効率を高める労働増加的技術進歩として機能し,離農の抑制と人的資本の蓄積に貢献した可能性が示唆された.

第2 部では,都市部における社会事業の効果を実証した.多産多子から少産少子へ移行するための条件,すなわち人口転換の要因を明らかにすることは,一国の経済発展を理解する上できわめて重要な課題となる.日本の粗出生率は1920 年頃から減少に転じており,乳児死亡率と出生率は両大戦間期に入って持続的な低下を始めていた.そこで,家計内資源配分を通じた教育投資と出生行動の変化,そして社会事業を通じた乳児死亡リスクの減少に着目して,このような低下の要因を分析した.

第4 章では,家計の不確実性に対する耐性を検証した.その結果,当時の資本市場は不完備であり,家計支出は所得変動に影響を受けていたが,教育投資は所得変化に対して頑強であることが判明した.予備的貯蓄に関する分析からは,都市家計が積極的に教育投資を行う一方で,低所得世帯では予備的動機に基づく貯蓄が行われておらず,それら家計のリスクに対する脆弱性を緩和する制度的介入が,資源配分を効率化する可能性が示唆された.第5 章では,教育水準の上昇が女性の出生行動に与えた影響を分析した.その結果,教育投資の拡大を通じた労働市場における期待賃金率の上昇が,出産と育児の機会費用を増加させることによって,初産を遅らせる効果を持っていたことが判明した.第6 章では,出生率の低下を促進する医療機会の獲得に着目し,それら機会が貧困世帯に浸透することを可能にした方面委員制度の効果を分析した.分析の結果,方面委員は社会調査によって貧困世帯を特定し,診療券の交付を通じて妊産婦と罹病乳児を医療機関に仲介する中核的な役割を担っていたことがわかった.そして,これら診療券を通じた医療機会の獲得は,乳児死亡リスクを緩和する上で有効に機能したことが明らかになった.

補章では,第1 部と第2 部で論じた社会事業の補完性を明らかにした.方面委員の履歴書と内申書を用いた分析によると,方面委員への就任と勤続は豊かな人間関係や信頼を必要としており,委員候補者にとって,託児施設の設置は自身のネットワークや信頼性を示すシグナルとして機能していた.戦前日本における社会事業の展開は,そこに含まれる複数の公式・非公式な制度が補完的に作用することによって促されていたのである.

近代日本における急速な経済成長は,その裏面で社会の安定性や機会の平等を損なう所得格差と貧困を生み出した.経済活動の効率性と公平性の追求は相反するものであり,これはまた,市場および政府の機能いずれかに対する過度の信頼が,経済全体の社会福祉を改善し得ないことを意味する.本論文の実証結果は,所得分配と効率性の最適なバランスと,それを実現する市場と国家の積極的な補完性を解明するという課題にたいして,一定の含意を有する.

発展途上の日本において,労働市場における流動性や不確実性はきわめて高かった.しかし,貧困に対する政策的介入の必要性が色濃くなった時点で,政府は貧困層の実態を把握する手段を持たなかった.国家による一元的な社会的安全網の供給が非現実的であった時代において,これに代わるサービスを提供可能な主体は,個々の地域に精通した民間人に限られていた.その結果,戦前日本における多くの公共財供給は,民間による自助的な活動と,それを補完する政策から構成される社会事業によって担われた.公共財供給における市場と政府の失敗にたいして,戦前日本では非営利な非市場的組織が大きな役目を担い,政府はそれら組織によるコーディネーションを後押しする役割を果たしたのである.貧困の探索費用を削減した社会事業は財政負担を減じ,サービス供給の柔軟性を向上させた.それゆえ社会事業は,資源配分の効率化を通じて資本蓄積に寄与したのである.

経済発展の過程で生じる効率的な福祉制度は,資本蓄積を促す効果を持ち得る.本論文の実証結果は,これまで看過されてきた社会事業の経済効果が無視し得ない規模であることを示すと同時に,それが経済発展における公平性と効率性の均整にたいして重要な含意を持つことを示唆するものである.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、第二次世界大戦前の日本を対象として、社会事業に関する制度が経済発展の過程で資源配分と所得分配に与えた影響を検討したものである。論文は次のように構成されている。

序章

第1部 農村部の制度

第1章 農家女性労働と託児施設

第2章 農家内資源配分と児童労働

第3章 託児施設の分布と機能

第2部 都市部の制度

第4章 不完備市場と予備的貯蓄

第5章 教育投資と出生行動

第6章 方面委員制度と乳児死亡問題

補章 方面委員制度と施設投資-制度の補完性

終章

序章では、問題の所在を提示したうえで、論文全体の主要論点があらかじめ提示されている。著者の基本的な関心は、市場経済における効率性と公平性のバランスに置かれている。そしてそのバランスの実現に寄与する仕組みとして、政府の支援を受けて民間主体が提供する社会事業に関する諸制度に焦点が当てられる。

第1章は戦間期に農村部に普及した農繁期託児所が女性の労働供給と子供の保育に与えた影響を検討している。地域別の託児所設置に関するデータと農家レベルの労働時間に関するデータに基づいて労働供給関数を推定することを通じ、託児所の設置が女性の育児労働と農業労働の間のトレードオフを改善するとともに、子供の保育を改善する効果があったとする結果を得ている。第2章は農家における児童労働を対象としている。児童の有業率が国勢調査に基づくこれまでの見解よりも高かったことを指摘したうえで、児童労働の決定要因が家計内の資源配分の視点から分析される。その結果、成年女子の労働供給量の増加が女子児童の労働時間を増加させる関係があったこと等が明らかにされている。第3章は農繁期託児所設置の決定要因と農業生産に与える効果を分析する。米の反収で測られる気象リスクが高い地域ほど託児所の設置確率が高く、また託児所の設置は米の反収を増加させるという結果が報告されている。

第4章では、大阪市・京都市・名古屋市の都市家計の生計費調査に関する個票データを用いて、消費に関する完全保険仮説と予備的貯蓄について検証している。その結果、完全保険仮説が棄却されること、都市家計は所得変動リスクに応じて予備的貯蓄を行っていることが示されている。第5章は、東京府に関する家計調査の個票を用いて、女性の教育と出生行動の関係を分析している。教育投資が女性の賃金を上昇させることを確認したうえで、教育による期待賃金の上昇が初産年齢を遅らせるという関係が示される。第6章では方面委員制度が診療券の交付を通じて貧困世帯における乳児死亡リスクを低下させたことが明らかにされている。補章は、方面委員の履歴の分析を通じて、方面委員への就任が地域におけるネットワークや託児所設置の経験と関連していたことを示している。

最後に終章では、以上の分析結果を踏まえて、戦前日本における社会事業が家計のリスクに対する脆弱性を緩和する制度として捉えられ、それが民間の自助的活動とその政府による補完によって担われていたことが強調されている。

本論文の貢献としては、戦前日本の社会事業について、これまで想定されながら明確に実証されてこなかったその役割を、経済学的な視点から定量的に検証したことが挙げられる。従来、このような分析が行われてこなかった主な理由として、定量的分析に用いることができるデータの利用が難しかったことがあるが、本論文は、独自に発掘した資料を含めて、個票資料から丹念にマイクロ・データを構築してその問題を解決している。これによって、近年進んでいるマイクロ・データによる家計行動の実証研究の知見を戦前日本の経済発展の分析に応用することが可能となった。

いうまでもなく、本論文には残された課題もある。分析の焦点の明確さは本論文の上記のようなメリットにつながっている反面、本論文の視野に限界を与えている。例えば、戦前日本の農家は、農業と家事に労働力を配分しているだけでなく、外部の労働市場に対する重要な労働力供給源であったが、この点は本論文では考慮されていない。また、データ分析に重点が置かれている結果、データに含まれている情報と現実との関係について十分な考慮が払われていない部分がある。例えば、女性の教育の賃金上昇効果について、それが労働市場におけるどのような実態を反映しているかが明確にされていない。また、計量分析についてもさらに改善を検討する余地がある。

しかし、こうした課題は著者の今後の研究によって解決されるべきものと考える。本論文は、独自のマイクロ・データに基づいて、戦前日本の経済発展における社会事業の役割を定量的に分析したすぐれた研究であり、それは、著者が自立した研究者として研究を継続し、その成果を通じて学界に貢献しうる能力を十分に持っていることを示している。審査委員会は全員一致で、小笠原浩太氏が博士(経済学)の学位を授与されるに値するとの結論を得た。

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