学位論文要旨



No 128887
著者(漢字) 新野,和暢
著者(英字)
著者(カナ) ニイノ,カズノブ
標題(和) 皇道仏教と大陸布教 : 十五年戦争期の宗教と国家
標題(洋)
報告番号 128887
報告番号 甲28887
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1198号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高橋,哲哉
 同朋大学 名誉教授 槻木,瑞生
 東京大学 教授 黒住,真
 東京大学 教授 内野,儀
 東京大学 准教授 中島,隆博
内容要旨 要旨を表示する

本研究は、宗教と国家との間に起こる思想の問題について、十五年戦争期(1931年9月18日~1945年8月15日)に日本仏教が行った大陸布教を視座として明らかにする試みである。大陸布教を課題に置く理由は、戦争に協力する「仏教」の思想が顕著に表れているからである。

近代日本宗教史は、明治政府による「神道国教化政策」によって始まった。仏教は「護国」や「勤王」の思想を表明することによって天皇制国家との距離を縮めた。日清戦争以後に起こった戦争の際には、「戦時教学」を打ち出すことによって戦争協力を行った。そして、十五年戦争期に「皇道仏教」を標榜するに至った。「皇道仏教」は、国家の意図に矛盾する仏教教義を駆逐し、仏教と「皇道」とを融合することによって実現した。国体や惟神、東亜新秩序といった概念の延長線上に位置する「皇道」を受け入れた「皇道仏教」は、天皇制国家を無批判に肯定する根拠であり、日本仏教が戦時下の中国大陸で行う「開教」の動機を補完した。帝国日本の大陸進出に仏教が同調した事実と思想の双方向から問うことによって、宗教と国家との相関関係を浮き彫りにすることが本研究のねらいである。

この試みは、「戦時教学」という仏教思想を扱う一方で、「国家神道」という問題を仏教の視点から捉え直す試みでもある。一般的に、「国家神道」は神道の一形態であり、「靖国思想」を中心とする天皇制国家のイデオロギーの形成に寄与していたと理解されている。しかし、仏教も神道と同様に「国家神道」と不可分な関係にあった。その点を明らかにするために大陸布教の視座から検討を加えるのである。この研究方法は、「国家神道」研究を国内的な問題として扱うだけでなく、東アジア的な問題へと視野を広げることにもつながる。こうした目的を達成するために、本論文は大陸布教の思想に関する問題を扱う理論編と、大陸布教の実態を明らかにする実践編の二部構成によって考察する。

第1部第一章の「皇道と侵略思想―軍が用いた概念を中心として―」は、「皇道」という表象の系譜を確認する。「皇道」というタームは、明治維新時にも用いられたが一般化しなかった。その後、大正期半ばから昭和初期に盛んとなった国体明徴運動での論争や、満州事変前後に陸軍大将だった荒木貞夫をはじめとする軍人らの言動によって一般化した。日中戦争期には大陸で展開する部隊への命令の中で用いられ、軍人が持つべき崇高な理念として意味づけられた。「皇道」は、中国で「蛮行」を繰り返す日本軍への戒めの意味を含んでいたが、中国を侵略する大義名分を補完する論理に他ならなかった。

第1部第二章では、「戦争を肯定する仏教―仏教と国家の「相資」関係―」と題して、慈悲や不殺生を説く仏教が戦争を肯定した思想的な問題を取り上げる。大陸布教が盛んになった原点は、軍人への布教や慰問にある。日清、日露の両戦争の際、率先して戦争に協力した真宗教団が「一殺多生」や真俗二諦論を語ることによって、仏教教義と戦争との間にある矛盾を克服しようとした事情を明らかにする。

第1部第三章の「皇道仏教という思想1―惟神と無我を結ぶ禅の思想―」は、大陸布教の思想と「皇道仏教」の関係性に迫る。「皇道仏教」の特徴は、無条件に天皇へ帰依する思想構造にある。その点を明らかにするため、惟神と無我観の一体性を説いた「皇道禅」を考察する。

第1部第四章の「皇道仏教という思想2―天皇に帰一する仏教―」では、国策や戦争を肯定することを可能にした真俗二諦論について検証する。真俗二諦論を放棄して「真俗一諦論」とも言うべき論を打ち立てた「皇道仏教」を明らかにする。大陸布教が国家への奉公であると理解していた開教使の思想構造と「皇道仏教」の接点を探る。

第2部は、大陸布教の実態を明らかにすべく、国家による大陸布教統制と大陸布教の実例を取り上げる。大陸布教を統制した国家の政治的な意図については、第2部第一章の「大陸布教の始まりと日中戦争前後の大陸布教政策」で法制史の視座から論じる。そのうえで、第2部第二章「皇道仏教の大陸展開―日中戦争以後の宗教工作―」にて、陸軍による宗教工作に迫る。大陸布教を宣撫工作に位置づけた国家戦略と「開教」の関係性を問う。

第2部第三章の「租界地天津にみる開教―宗教活動から宣撫工作への転換―」は、租界地天津での「開教」を取り上げる。この地では、早くから大陸布教が行われていたため、日中戦争の前後で変化する活動内容の検証に適している。国家戦略に沿った形の「開教」の姿を追う。

また、本研究が取り上げる十五年戦争期の「宗教と国家」を議論する際、1939年に成立した宗教団体法の存在は重要な位置を占めている。「皇道仏教化」を促進した要素に、宗教団体法の存在があるからである。本論文の趣旨からやや外れるが、大陸布教に限らず、日本仏教の在り方に影響を与え、宗教を総力戦体制に組み込むことを決定付けた同法の立法理念を確認しておくことは重要である。よって、補論「宗教団体法にみる国家と宗教」にて、宗教が神社の補助的機関に位置づけられた経緯を明らかにする。

本論文の課題は、十五年戦争期の仏教の思想構造と、大陸布教の実態を通じて「宗教と国家」の関係の一端にアプローチすることにある。考察によって明らかになった点を次に挙げる。

第1部の理論編では、「皇道仏教」について論じた。「皇道仏教」は、天皇を絶対的な存在として仰ぐ思想である。「天皇教」とも言うべき天皇帰依の姿によって、無条件に国策に随順し、大陸布教を行う大義名分を確たるものへと導いた。そして、「皇道仏教」の特徴は次の三点にあると判明した。まず、仏教を日本で完成させたという理解である。これは、仏教を庇護した聖徳太子の業績を最大限に評価し、皇室を中心とする「日本文化」と仏教が結びついたがゆえに「完成した仏教」になったと捉える史観である。この思想によって、「不完全な仏教」を持つ中国の地に日本仏教を「逆輸入」する必要がある、という発想につながった。次の特徴は、神道の論理を補完する仏教についてである。仏教と「皇道」とを同一の思想と見なした「皇道禅」は、無我観の境地と惟神が同じ宗教性を持っていると説いた。天皇に帰一することによって悟りが得られると説くまでに至った「皇道禅」は、天皇を崇拝する滅私奉公の思想を獲得するプロセスに仏教の無我観が寄与すると主張した。最後の特徴は、「戦時教学」の存在である。真俗二諦論は、仏教と天皇というダブルスタンダードの教えを同時に持つことを可能にする論理であるとともに、戦争反対から肯定へと転換させる根拠でもあった。しかし、「戦時教学」の結論が真俗二諦論ではなく、「真俗一諦論」であったことが明らかになった。「真俗一諦論」は、真俗二諦論を放棄して、真諦と俗諦とを一つの「真実」として理解する論である。「真俗一諦論」という語は筆者による造語であるが、阿弥陀仏と天皇とを一つの信仰対象として融合させる思想は、このタームを用いなければ表現できない。そして、この「真俗一諦論」によって、揺るぎない天皇崇拝が確立されたのである。

第2部の実践編では、先行研究で見過ごされてきた大陸布教法規を概観することで国家のねらいを明かにした。日中戦争期の大陸布教では、宗教が国策を通じて天皇を「補弼」する関係にあった。内地以上に神仏分離が徹底され、神社は特別な存在に位置づけられた。そのことが最も顕著に表れたのが「満洲国」に対する治外法権の廃止(1937年12月1日)だった。この時、全ての治外法権を撤廃する建前であったが、神社と教育に関する行政権だけは日本が保持し続けた。そうすることによって、日本人としての「精神」を「在満日本人」に涵養したのである。そして、「満洲国」の宗教政策が植民地政策の流れの中で行われたことは、「開教」を管理した陸軍の命令からみると一目瞭然であった。日中戦争が始まって以降の中国での「開教」は、陸軍の戦略に組み込まれた。布教活動よりも中国人に対する宣撫活動が優先され、日語学校や医療活動、「日中仏教交流」を行いながら中国民衆の反日感情の懐柔にあたった。つまり、大陸布教は「東亜新秩序の建設」に資するための、占領地政策の一端を担うものであったのである。

このような議論から見えてきた「宗教と国家」の関係は、「国家神道」の構成要素としての仏教である。国家のイデオロギーを自らのものとして「天皇帰一」の思想を標榜した仏教は、大陸布教において「国家神道」を体現したのである。「皇道仏教」が「国家神道」の表象であることを明らかにすることによって、「国家神道」研究に新たな視座を加える目的を達成した。

審査要旨 要旨を表示する

新野和暢氏の博士学位請求論文『皇道仏教と大陸布教―十五年戦争期の宗教と国家』は、満州事変からアジア太平洋戦争終結に至る時代に、日本仏教の「戦時教学」の中に「皇道仏教」なる理念が台頭し、主に中国大陸での「大陸布教」の動機を補完する役割を果たしたことを明らかにして、仏教と日本国家の関係に新たな光を当てようとする意欲的な論文である。

従来、この時期の宗教と国家の関係は、「靖国」思想を中心とする「国家神道」という視座からアプローチする研究が主流であった。「皇道仏教」という用語は戦前早くから使われていたが、先行研究はほとんどない。仏教の大陸布教については、個別の宗派の中で一定の歴史的検証は行われてきたが、仏教全体を視野に収めた先行研究は少なく、とくに国家や軍との関係に焦点を当てた研究は、各宗派内でタブー視されてきたこともあり皆無であった。本論文は、膨大な文献と史料の博捜によってこの欠落を埋め、研究史に新たな段階を画したものと言える。

論文全体は、「皇道仏教」を中心に思想的問題を扱う第1部・理論編と、大陸布教の実態を明らかにする第2部・実践編から構成される。

第1部第1章ではまず「皇道」の用語の系譜が辿られ、本来「天皇の道」として「惟神」と同義であった皇道が歴史的に戦争と密接に関わって使用されてきたことが指摘される。それは、日本軍の戦争を「聖戦」たらしめる崇高な理念として機能し、多くの軍命において軍紀粛清の根拠ともされてきた。第1部第2章では、日清・日露戦争の時代、本来は不殺生や慈悲を説く仏教が、「真俗二諦」論や「一殺多生」論などによって戦争肯定の論理を作っていったプロセスが検証される。

第1部第3章では、「皇道仏教」の流れの一つである「皇道禅」が、曹洞宗の澤木興道、中根環堂、高階瓏仙、臨済宗の山崎益洲、その影響を受けた杉本五郎陸軍中佐らの言説を通して分析される。新野氏によれば、井上哲次郎や河野省三ら国家イデオローグが説いた「惟神」における「滅私奉公」は、神道には欠如した座禅修行による「無我」の境地の達成を必要としたのであり、「皇道禅」の目的は「惟神」を通した天皇への帰一であった。

第1部第4章では、日本仏教の一大勢力である浄土真宗の戦時教学の帰結が、従来の研究で強調されてきた「真俗二諦」論にとどまるものではなく、新野氏の命名する「真俗一諦」論であり、真宗教義の「天皇教」への解消であるという踏み込んだ主張が展開される。分析の対象はここでも、佐々木憲徳、金子大栄、柏原祐義、加藤佛眼、利井興隆、また浄土宗の八木英哉、安西覚承など多岐に及ぶが、とくに真宗大谷派のカリスマ的指導者であった暁烏敏において、「南無阿弥陀仏」と「天皇陛下万歳」の同一性にとどまらず、「平面的に天皇即弥陀ではない」「天皇が奥の院である」と断定されるに至る論脈が詳しく跡づけられる。

こうして第1部では、「皇道仏教」が詰まるところ仏教の放棄に至るという主張が、多数の文献・資料を通して強力に展開される。またその過程で、聖徳太子以来の皇室によって庇護された日本仏教こそ「完成された仏教」であり、「不完全な仏教」を持つ中国にそれを逆輸出する使命があるという教説が、大陸布教の大義名分とされたことも明らかにされている。しかし新野氏によれば、皇道仏教はまさに「日本固有の道」であるとされるがゆえに、大陸布教は中国への「押しつけ」とならざるをえず、破綻を運命づけられていたのである。

第2部は、こうして教義の宣布としては失敗に終わった「大陸布教」が、軍の統制下での「宣撫工作」として行われていた実態を明らかにする。第2部第1章では、初期の大陸布教法規と「満洲国」における実態が、第2部第2章では、陸軍の戦略に組み込まれた「中支」および「北支」地域における宣撫工作の実態が、第2部第3章では、租界地・天津における「開教」の展開が、いずれも先行研究で見過ごされてきた大陸布教法規と史料に基づいて実証的に描き出される。第2部に見られる法制史的観点は、第2部補論「宗教団体法に見る国家と宗教」によってさらに補強されている。

以上のような論述の成果として、本論文は、天皇帰一を標榜した仏教は大陸布教において国家神道を体現したのであり、当時の仏教は国家神道の枢要な構成要素であったのだと結論する。この点を含めて本論文は、十五年戦争期における宗教と国家の関係の議論に新たな可能性を拓いたものとして高い学術的価値を持つと評価できる。

審査においては、大陸布教の全貌を掴むには非エリート層の日本人居留民との関係が究明されるべきではないか、第2部がやや事実の提示に終始している観があるのではないか、皇道仏教が天皇帰一を説いたとしても、阿弥陀仏信仰やもろもろの仏教儀礼などが存続した限り「仏教が放棄された」とは言えないのではないか、などといった指摘や疑問も出されたが、いずれも本論文の高い学術的価値を損なうものではないという点で、審査員全員の意見の一致を見た。

以上により、本委員会は、本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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