学位論文要旨



No 128888
著者(漢字) 松村,智雄
著者(英字)
著者(カナ) マツムラ,トシオ
標題(和) 西カリマンタン華人とインドネシア国家、1945-2012年 : 「国家の外部者」から政治参加への軌跡
標題(洋)
報告番号 128888
報告番号 甲28888
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1199号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古田,元夫
 東京大学 准教授 津田,浩司
 東京大学 准教授 川島,真
 東京大学 名誉教授 加納,啓良
 京都大学 准教授 山本,博之
内容要旨 要旨を表示する

西カリマンタンの華人はインドネシア共和国が独立した当時には「インドネシアの外部」にいた。彼らがインドネシア国家と出会い、その後インドネシア国家当局との間でさまざまな交渉をしつつも、自分たちが華人であることを忘れることなく、インドネシアの政治に積極的に関わるようになるという大きな変化はいかにして生じたのか。

序章では、なぜ西カリマンタン華人を取り上げるのかを述べる。従来の東南アジア華人研究においては、現地化の進んだジャワ華人に関する研究の蓄積が多いのに比べ、ジャワ以外の地域の華人に関する研究は乏しかった。それは第二次世界大戦後の東南アジア研究を率いたアメリカにおいて、東南アジアへの共産主義の拡散への危機感から、独立したばかりの東南アジアの諸国家を率いていく人々、つまり国家の中心にいたナショナリストたちの動きの研究、ナショナリズム研究に関心が集まったからである。華人の中でもジャワ華人が主に研究対象となったのも、彼らがインドネシアのナショナリズムと親和性が高いからであった。

翻って西カリマンタンの華人はジャワ華人と比較してより中国的な要素を保っており、インドネシア華人の中でも周縁的存在(「人的な」辺境)であった。また西カリマンタンという地域も、インドネシアという国民国家にとっては辺境に位置している。西カリマンタン華人という存在はその意味で、二つの辺境概念が交差するところに位置した。彼らの歴史的経験を取り上げることにより、従来の華人とインドネシア国家の関係に対する見方を再検討する。

第1章では、インドネシア独立後、1950年代の西カリマンタン華人社会を描く。当時の西カリマンタンの華人社会は、「インドネシアの外部」に位置していた。当時の西カリマンタン華人の自己認識が表れている当時のメディアの状況と、華人の文化継承と思想的形成に影響を与える教育の諸相を記述する。この時代、インドネシア国家との関わりは限定的であったとはいえ、1950年代末に起きた華人の国籍問題、外国人の商業活動制限を経験することによって、彼らは自らの生活空間とは異なるインドネシアという国民国家の存在を認識するようになる。しかしながら、国家の施策はこの地域に貫徹したわけでなかった。インドネシア国家に対する西カリマンタンの持つ辺境性ゆえである。しかも当時の彼らの中国支持に沸く様子は、「人的な」辺境と呼ぶにふさわしいものであった。

第2章では、西カリマンタン華人に大きな影響を与えた「1967年華人追放事件」に焦点を当てて、この事件が起こった原因、経過、帰結を詳述する。この事件は、西カリマンタン華人の前にインドネシア国家の存在感が明確に登場した契機と位置付けられる。インドネシア国軍は、当時インドネシア、マレーシア国境地帯で活動していたサラワク華人主体の共産主義ゲリラを西カリマンタン内陸の華人が支援しているという嫌疑をかけて、彼らを西沿岸部に追放する。その後、華人はインドネシア国軍によって監視される。この事件は、西カリマンタンという地域および、そこに居住する華人の「辺境性」の別の面を表現している。すなわち、一度辺境地帯が国民国家の中央によって問題化されると、その国民国家の登場は劇的なものとなるという性質である。辺境地帯は必然的に国境地帯であり、「1967年華人追放事件」においては、西カリマンタンはインドネシアの国防問題、ナショナリズムの最前線となったのである。

第3章では、スハルト体制期(1966-1998)に発動された華人同化政策の実施に対して、西カリマンタン華人がどのように反応したのか、その中で自分たちのアイデンティティを、時代を追って進行するインドネシア化の文脈の中でどのように表現しえたのか、ということを考える。当時、たしかに華人文化の公的な場での表出は、インドネシアの統合、インドネシア的な文化に反するとされた。西カリマンタン華人は、インドネシア人としての地位を受け入れた上で、その枠組みを用いつつ国家勢力と交渉をし、自前の華人文化を保持した。この動きの例として、シンカワンの黄威康という人物による、華人の廟をインドネシア公認宗教である仏教の施設として、その実質は変えずに残すという運動を取り上げる。またスハルト期の与党ゴルカルへの華人の動員策についても述べる。

また、1967年華人追放事件の余波もあり、地元に産業が乏しい西カリマンタンからインドネシアの首都ジャカルタに西カリマンタン華人が大挙して移動し、そこで一大コミュニティーを築き、成功者を輩出する過程についても記述する。

これはとりもなおさず1950年代には西カリマンタン華人がそれほど意識していなかったインドネシアの存在が彼らにとって前景化していく過程でもあった。しかしながら、スハルト期の同化政策の実際の実施過程に関しても中央の思惑がそのまま西カリマンタンで実現したということはなく、結局在地の、国家勢力を代表する機関と華人社会との間での具体的な人と人との交渉の中で落としどころが決まっていくという過程が進行した。これも西カリマンタン地域の地理的辺境性ゆえのことであり、これによって、西カリマンタンの華人も、同化政策の影響を直接に受けることを免れ、彼ら自身の生活に根差した華人文化を保存することが可能となった。

第4章では、ポストスハルト期(1998-)に西カリマンタン華人の間、また西カリマンタンの華人とその他の民族との間で起きた変化について記述する。内容は多岐にわたっているが、スハルト体制期に課せられていた華人に対する諸制限が緩和されたことにより、西カリマンタン華人の政治参加が加速したことを中心に記述する。その政治参加の一つの頂点が、2008年の華人市長、および華人の西カリマンタン副州知事の誕生であった。これに対して、華人の政治参加に危機感を募らせる動きも見られるようになった。

そのような不安定な状況の中で政治のかじ取りを行うことになった、シンカワン市長ハサン・カルマンは、華人という存在、華人文化を斬新な方法で表現した。具体的には、西カリマンタンを構成する要素としてムラユ人やダヤク人と並び華人も重要な要素として、シンカワンはこの3民族の民族協和が特徴であり、これはインドネシアモットー「多様性の中の統一」の表現でもあるとしたのである。1950年代においては「国家の外部者」であり「多重の辺境」であった西カリマンタンの華人が、スハルト期にはインドネシアの文化にそぐわないとされていた華人文化、しかも彼ら自身の生活に根差した華人文化によって、「インドネシア性」を表現したのである。この試みはインドネシアの政治的、文化的権威からも承認、歓迎された。

それと同時に彼は華人としての側面を基盤にして、台湾との関係も強めている。このようなことが可能となったのも、スハルト体制下に文化的な同化が起きず、ある意味で文化的には現地化=インドネシア化がならなかったが、地位としてはインドネシア国民となった彼らの特殊なあり方のためである。

第5章は、これまでの時系列の記述とは異なり、ポストスハルト期に発表された、現在のシンカワンの華人の生活を題材にした3つの映画を分析する中で、シンカワン華人自身の主観的なアイデンティティの表現と、外部者から見たシンカワン華人のイメージの間に立ち現われる華人像を分析する。

これらの映画はいずれも、シンカワンで盛んであった、華人女性の台湾人や香港人との結婚を描いている。結婚した後、彼らは台湾や香港で暮らし、シンカワンの実家の家計を助けることになる。シンカワン出身でないインドネシア人の監督による映画作品においては、華人とインドネシアナショナリズムとは必ずセットで考えられており、台湾に渡っていくのは、たしかに経済的理由から合理性があるものの、インドネシア華人としては、できるならば避けるのが望ましいという考えに回帰している。これに対して、シンカワン在地の監督による映画においては、同じ主題を描いていながら、インドネシアナショナリズムに関する問題は後景に退いている。そこで中心的主題となっているのは、国際結婚が花嫁になる女性と周囲の人々を苦しめることにはなるが、結婚は確実に実家の経済的上昇をもたらすという事実である。

ここでナショナリズムを問う必要がないのはなぜなのか。彼らは文化的にはインドネシア化されることなく、華人としての自己認識を保持し続けているが、これが現実の生活の中ではインドネシア人としての意識と結びつかないからである。「それでもなお」彼らはインドネシア人なのであり、そのようなあり方も、ポストスハルト期においては許容されるようになったことが新しい動きであった。

結論では、全5章の内容を整理した上で、スハルト体制期の華人同化の考え方に対して、西カリマンタン華人という「多重の辺境」に位置する人々の分析からどのようなことが言えるのかを考察する。西カリマンタン華人は、辺境に位置したために、スハルト体制が望んだような文化的同化、「インドネシア化」の過程を経ずしてインドネシア国民となった人々であった。彼らは、インドネシア国民であることを基盤としているが、華人であることも強調し生活している。そして特にポストスハルト期には、華人の存在、華人文化も含んだ形で、その「インドネシア性」を表現するという試みもなされた。このような彼らの経験から、従来のインドネシア華人へのまなざし、すなわち、「インドネシアへの忠誠」か、そうでなければ「中国志向=インドネシアに対する裏切り」という二項対立的な思考枠組みを相対化できるのではないか。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、インドネシア建国当初の1950年代にはインドネシア国家との接点をほとんどもっていなかった西カリマンタンの華人が、その後の9.30事件、スハルト体制、ポスト・スハルト期の改革の時代を経た現在、華人性を維持しつつもインドネシアの政治に積極的に参加するようになる軌跡をたどったものである。

論文は、序章と本論5章および結論から構成されている。序章では、なぜ西カリマンタン華人を取り上げるのかが説明されており、インドネシア華人の中で周縁的存在であるのに加えて、インドネシアという国民国家にとっての辺境に居住するという、二重の辺境性をもつ西カリマンタン華人が、インドネシア国家と華人の関係を検討する上で、新しい視座を提供するであろうという展望が、先行研究の整理をふまえて提示されている。

第1章では、1950年代にあっては、西カリマンタンの華人は、「インドネシア国家の外部」に位置する存在であったことが述べられている。

第2章では、西カリマンタン華人に大きな影響を与えた「1967年華人追放事件」が検討されている。これは、インドネシア国軍が、当時マレーシア国境地帯で活動していたサラワク華人主体の共産ゲリラを西カリマンタン内陸の華人が支援しているという嫌疑をかけて、彼らを西沿岸部に追放した事件で、その過程でおきたダヤク人による華人襲撃の背景にも、国軍の存在があったことが指摘されている。この事件は、西カリマンタン華人の前にインドネシア国家の存在感が「軍服を着て」暴力的に立ち現われた事態と位置付けられる。この事件はまた、一度辺境地帯が国民国家の中央によって問題化されると、国防問題、ナショナリズムの最前線に転化することを示したとされている。

第3章では、スハルト体制期(1966-1998)に発動された華人同化政策の実施に対して、西カリマンタン華人がどのように反応したのかが検討されている。当時、たしかに華人文化の公的な場での表出は、国家によって強い制約が課されていたが、西カリマンタン華人は、華人廟を仏教施設と説明することで、その機能を維持しようとした黄威康の試みのように、インドネシア人としての地位を受け入れた上で、その枠組みを用いつつ国家勢力と交渉をし、自前の華人文化を保持した。また、地元に産業が乏しい西カリマンタンから首都ジャカルタに西カリマンタン華人が大挙して移動し、そこで一大コミュニティーを築き、成功者を輩出する過程についても言及されている。この時期には、中央政府の同化政策がそのまま西カリマンタンで実現したということはなく、在地の国家勢力を代表する機関と華人社会との間での具体的な人と人との交渉の中で落としどころが決まっていくという過程が進行したことが指摘され、そこにも西カリマンタン地域の地理的辺境性が反映されており、それが華人文化の保存を可能ならしめたとしている。

第4章では、ポスト・スハルト期(1998-)の動向を扱い、スハルト体制期に課せられていた華人に対する諸制限が緩和されたことにより、2008年の華人市長、および華人の西カリマンタン副州知事の誕生に象徴される、西カリマンタン華人の政治参加が加速したことが検討されている。シンカワン市長ハサン・カルマンは、西カリマンタンを構成する要素としてムラユ人やダヤク人と並び華人も重要な要素として、シンカワンはこの3民族の民族協和が特徴であり、これはインドネシアのモットー「多様性の中の統一」の表現でもあるとしたが、これは、以前は「国家の外部者」であり「多重の辺境」であった西カリマンタンの華人が、彼ら自身の生活に根差した華人文化によって、「インドネシア性」を表現したものと位置付けられている。

第5章は、ポスト・スハルト期に発表された、現在のシンカワンの華人の生活を題材にした3つの映画を分析する中で、シンカワン華人自身の主観的なアイデンティティの表現と、外部者から見たシンカワン華人のイメージの間に立ち現われる華人像の分析が行われている。

結論では、以上の本論をまとめて、西カリマンタン華人は、辺境に位置したために、スハルト体制が望んだような文化的同化、「インドネシア化」の過程を経ずしてインドネシア国民となった人々であり、ポスト・スハルト期には、華人の存在、華人文化も含んだ形で、その「インドネシア性」を表現するという試みを、インドネシア華人の中でも先駆的に行っているとして、このような西カリマンタン華人の経験は、従来のインドネシア華人へのまなざし、すなわち、「インドネシアへの忠誠」か、そうでなければ「中国志向=インドネシアに対する裏切り」という二項対立的な思考枠組みを相対化できることを示しているとしている。

本論文の意義は、次のようにまとめられる。まず第一に、国際的に見ても本格的な研究業績の少ない西カリマンタンの華人社会の動向を、精力的なインタビュー調査を含む新しい資料の開拓により、その「辺境性」を軸として、1950年代から現在に至るまで通して描いた点は高く評価できる。第二に、その中では、9.30事件後の「1967年華人追放事件」の実態にせまったこと、華人にとって厳しい政策がとられたスハルト体制期に行われた、ゴルカルを活用しての華人性擁護の試みやジャカルタでの商業拠点の形成などの、華人の能動的な動きを解明したこと、ポスト・スハルト期に華人の地方首長の誕生や華人文化の積極的表出に西カリマンタン華人が先駆的な役割を果たしたことの解明など、本論文のオリジナルな成果が随所に見られる。第三に、ポスト・スハルト期のインドネシアに関しては、「民族・宗教紛争」の表面化が指摘されているが、そうした中で西カリマンタンで華人、ムラユ人、ダヤク人の協和の試みが存在していることを華人に即してではあるが指摘したことは、意義があろう。第四に、こうした成果を通じて、本論文は、インドネシア研究、華人研究にも、新たな知見をもたらし貢献をしている。

審査では、本論文の弱点や問題点についても指摘がなされた。主なものは以下のとおりである。第一に、先行研究との関連での本論文の立ち位置の提示が、必ずしも説得的とはいえず、先行研究の未消化や、やや強引な整理も見られる。第二に、国家と華人の相互作用を重視した論文であるにもかかわらず、スハルト体制期の華人政策が、「インドネシア化」という概念の定義が明確とはいえないタームを使って、かなり単純化して描かれており、政権内部の様々な思惑と華人の動向の交差が形づくるダイナミズムを描き切っていない。第三に、西カリマンタン華人に対比されている「ジャワ華人」が、ステレオタイプ化して描かれている面があり、また西カリマンタン華人における「インドネシア性」と「華人性」の両立という論点も、アイデンティティの多重性という東南アジア研究でもしばしば指摘されている議論と比べて、どこに固有の特徴、積極的意義を見出しているのか、必ずしも鮮明でない。第四に、「華人性」「中国人性」が、客家や潮州人に伝わる伝統文化、中国ナショナリズムとの関係で成立した文化、地元の諸民族との交差の中で形成された独自の文化などの、どれを意味しているのか、必ずしも明確でなく、「西カリマンタン華人」という集団は存在しないとしつつも、議論は「西カリマンタン華人」を主語に展開され、客家や潮州人という枠組みにこだわった分析が十分とはいえない。

しかしながら、審査委員会は、こうした弱点はあるものの、本論文が現代西カリマンタン華人研究に新次元を開いた実証研究であることを確認し、本審査委員会は全員一致で本論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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