学位論文要旨



No 128889
著者(漢字) 伊藤,博
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,ヒロシ
標題(和) 中国保険業における開放と改革 : 政策展開と企業経営
標題(洋)
報告番号 128889
報告番号 甲28889
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1200号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 谷垣,真理子
 東京大学 教授 村田,雄二郎
 東京大学 准教授 田原,史起
 東京大学 教授 荒巻,健二
 東京大学 教授 田嶋,俊雄
 アジア経済研究所 教授 渡邉,真理子
内容要旨 要旨を表示する

本論文では、「保険」を題材として、現代中国における開放と改革のあり方を分析した。

まず、第1に、開放と改革に重要な影響を及ぼした「国内保険業務引受け停止」の原因を追究した。1950年代後半において、中国共産党トップが保険を重視しておらず、監督官庁の財政部には「保険ポケット論(保険は資金を右のポケットから左のポケットへ移すだけで意味がない)」が存在した。これらを背景として、社会で広く強制保険が実施され、保険が資本回収に利用された。地方分権化という社会情勢の中で、保険業務の管理権限が地方政府に委譲された結果、地方政府の決定により「中央国営企業の強制保険引受け停止」が、国内保険業務全般の引受け停止へ拡大された。本件について、1959年当時は、人民公社成立にその原因を求めることが多かった。しかし、本論文の検討によって、地方政府が引受け停止に際して、主導的な役割を果たしたことが分かった。

第2に、保険業における「開放」の展開を分析した。外国保険会社と中国保険業との関係が復活したのは1972年であり、その先鞭をつけたのは、米国のThe American International Group(略称AIG社)であった。当時、中国側も米国保険会社と業務関係を結び、「国内保険業務引受け停止」で途絶えた引受けノウハウを学ぶことを考えていた。AIG社は、1980年に中国人民保険公司(The People's Insurance Company of China、略称PICC)と合弁でバミューダに「中美保険公司」を設立し、同社を通じて、中国本土における営業開始を目指した。しかし、中国政府はそれを認めるつもりはなかった。

1989年の天安門事件により中国は海外からの直接投資激減に見舞われた。その状況を打破し、米国との関係正常化を図るための1つの手段として、1992年にAIG社へ営業認可が与えられた。その後、米国以外の保険会社にも営業認可が付与されたが、それは中国外交における取引材料の1つであった。2001年のWTO加盟によって、外国保険会社の営業範囲が拡大し、中国系保険会社の営業基盤が揺らぐことが懸念された。そのため中国政府は、保険業の対外開放に関して、従来の外交関係尊重の姿勢から、中国系保険会社の営業重視へ軸足を移した。

第3に、保険業における「改革」の進展を分析した。中国の保険における改革とは、「政府が保険を利用する体制」から「企業体や個人が保険を活用する体制」への転換であった。転換を推進したのは、政府による立法措置だった。

PICCにとって、1979年はゼロからの再出発の年であり、政府のバックアップを受けながら、20年ぶりに組織の再建に着手した。中国政府は1985年に暫定的な立法措置(「保険企業管理暫定条例」制定)を講じて、保険業界における競争体制の創出を図った。その結果、PICC・平安保険・太平洋保険の3社鼎立という保険業界の基本的な枠組みが形成され、保険契約者の選択肢が増えた。その後、保険会社の乱立のため市場が混乱すると、1995年に「保険法」を制定し、保険市場の規範化を目指した。1990年代後半、PICCは生損保分離という「保険法」の趣旨を実現するために組織改革を行い、損保・生保・再保・海外の各社がそれぞれグループ経営に乗り出した。これら一連の改革は、WTO加盟による外資系保険会社との競争激化に備えるための措置でもあった。

第4に、PICCを題材として、中国保険業に現れた開放と改革の具体像を検討した。まず、1986年頃から保険会社の多様化に備えるため、PICC社内諸制度の改革が開始された。地方支店において、人事制度を競争的なものに変えた。資産運用は地方主導で進められ、不良債権が残ったと推測されるものの、地方の建設に一定程度寄与した。しかし、1992年の保険市場の対外開放に対して、PICCは逆に海外へ打って出るという戦略を採用した結果、コストが嵩んだ。それに加えて国内では、大きく成長しつつあった自動車保険の競争激化によって、さらに収益が悪化した。

1996年以降、PICCの収益は持ち直し、重要な改革である「生損保分離」に着手した。この段階で、PICCは損保・生保・再保険・海外の4グループに分かれ、各グループがそれぞれ内部に損保会社・生保会社・資産管理会社・医療保険会社・年金保険会社などを抱える保険コングロマリットとなった。各事業領域を比較すると、生保(中国人寿)のパフォーマンスが優れた結果を残した。特に海外における株式上場を通じた資金調達および資産運用を本社に一本化した戦略が功を奏した。

PICCグループは、保険会社の多様化という「改革」に対しては、比較的周到に準備を行い、うまく切り抜けた。しかし、保険市場の「開放」については、対応を誤り、業績を悪化させた。その後、生損保分離という重大な「改革」に際しては、生保戦略を重視することによって、成長を果たした。その陰にあって、損保事業は振るわなかった。

第5に、平安保険(略称:平安)における「開放と改革」のあり方を分析した。全くのゼロから出発した同社は、2006年には総資産が4400億元を超える巨大な金融コングロマリットに成長した。

平安社内には、当初ノウハウや人材などほとんど何もなかった故に、全てのものを外部から調達した。初期の資本不足は、モルガン・スタンレーとゴールドマン・サックスから出資を仰ぐことによって解決した。

平安は生保に注力し、成長の原動力とした。台湾生保業界との接触をきっかけとして、生保の成長性に気付いた。平安に莫大な収保をもたらした「投資連結保険」などの変額保険も海外から学んだものであり、生保収入の大幅増加をもたらした「バンクアシュアランス(銀行経由の保険販売)」は、欧米から導入したビジネスモデルだった。同社が導入した新商品や新しいビジネスモデルは、海外では一般的なものだったが、当時の中国には存在していなかった。それゆえ、平安は同業他社に対して、競争優位を獲得することができた。

平安は、社外からの各種「借り物」をうまく手の内に入れ、それを順次活用することによって、事業の拡大に成功した。1つの「借り物」が数年後に陳腐化したとしても、その間に次の「借り物」を懐で温め、市場に投入し続けることで競争優位の状態を継続させた。ここに平安の最大の強みがあった。

第6に、中国太平洋保険(略称:太平洋)に現れた「開放と改革」の具体像を探った。太平洋は、上海市を基盤とする交通銀行の100%子会社として設立された。交通銀行がそうであったように、太平洋も株式制を採用した。一見すると、金融業における「改革」を象徴する先進的な試みだったように思われた。しかし、交通銀行の支店も太平洋の共同出資者となったことから、同社は現代中国で観察される地方分権的な要素も色濃く帯びた組織となった。太平洋の支店は、本店と同様に法人格を持った。同社は、近代から続く中国独特の利益配分方式の影響を受けた結果、著しい高配当を余儀なくされた。

1998年に総経理に就任した王国良のリーダーシップの下で、赤字経営の支店を黒字に転換させるよう綱紀粛正が行われた。その結果、1997年を底として、経営指標に改善がみられ、2001年と2002年は業績が著しく好転した。しかし、2003年には、損保事業で赤字となった。その原因は、中国政府による急速な自動車保険料の自由化であり、それを契機とした保険会社間の料率引き下げ競争だった。

同社は「改革」の申し子として誕生したものの、「横の管理ライン」からの強力な圧力により、高い配当性向を余儀なくされた。王国良の業務改革は一定程度功を奏したが、生保重視の業界動向に対応しきれず、外資導入による財務体質強化も遅れた。太平洋は、「改革」を体現しようとしたが、近代中国の資金調達における伝統と現代中国が生み出した「横の管理ライン」の束縛によって、「改革」を貫徹しきれなかった。

第7に、PICC・平安・太平洋の経営状況を比較することを通じて、「開放と改革」の現れ方を確認した。その結果、平安保険が相対的に優れた経営パフォーマンスを示していたことが分かった。平安は、「開放」を通じて必要不可欠な経営資源を海外から手に入れ、それらを順次活用することで、競争優位を継続させた。さらに、生保事業にいち早く経営資源をシフトし、国内の金融改革によって利用可能となった資本市場を活用して、投資収益を拡大させた。その結果、損保事業においても、主要種目である自動車保険で料率引き下げ競争をする必要がなくなったため、収益を確保することができた。

第8に、PICCにおける縦横の管理ライン(いわゆる「条々塊々」)のあり方を探った。その結果、保険引受け業務(アンダーライティング)に関して、縦の管理ラインの領導が強かったことを除けば、人事管理・資産運用・利益配分の各分野では、横の管理ラインの領導が強力だったことが分かった。保険引受けと並ぶ「人事」と「財務」という保険会社の最重要業務が、横の管理ラインによって運営されていたという事象に、計画経済期における地方分権的な中国社会のあり様が現れていた。

日本はもとより、諸外国においても、通常、保険会社の基幹業務である「保険引受け」・「人事」・「財務」は本店が集中して行う。つまり、縦の管理ラインが強力なのが一般的である。ところが、中国では、たとえば、「財務」の中核である資産運用業務について、2002年頃までは、横の管理ラインによって業務が主導されていた。その理由は、(1)地方において、膨大な資金需要があり、地方の保険業もそれに対応することを求められた(2)仮に、本店に資金を集中したとしても、当時はそれを有効に運用するための資本市場や金融商品などの受け皿が不足していたためだった。また、「人事」について、横の管理ラインが強力な理由は、中国共産党の人事システムそのものが、いわば「属地主義」的側面を色濃く持っており、その地域の重要な人事は当該地域の党組織部が行っているためである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、現代中国に大きな変動を起こした改革開放政策が、どのように展開されたのかについて、保険業を題材として、その過程を分析したものである。本論文は大きく第I部と第II部に分かれる。第I部では政府のとった政策について明らかにし、第II部では3大保険会社をとりあげ、その経営戦略と実際の経営状況を各社の年次報告書から分析し、3社の経営状況を比較した。

本論文は序章で問題意識を説明した。本論文の問題意識はタイトルに凝縮されている。中国保険業では、開放が改革に先んじた。通常、「改革」が「開放」の前に来るが、本論文は「開放と改革」とした。そもそも、中国保険業では、1959年から1979年までの20年間にわたり、極めて小規模の貿易関連保険を除いて、実質的に保険の引受けが行われなかった。そのため、中国保険業には改革をなすべき対象が存在せず、ほとんどゼロからの再出発を余儀なくされた。一方、開放の側面では、1972年ころから中国の保険会社と外国保険会社との接触が始まり、それに続いて開放の萌芽とみられる動きがあった。

時間幅として、本論文では1949年から2006年までを扱う。本論文は、1959年に起きた「国内保険業務引受け停止」が中国保険業に及ぼした影響を重視する。また、2006年はWTO加盟(2001年)後、中国で保険を含む金融業の保護期間が終了した年であり、「開放と改革」における1つの区切りと考えられる。なお、中国最大の保険会社は、中国人民保険公司(The People's Insurance Company of China)であり、本論文ではPICCと略す。

第I部では、政府の政策の展開を追った。第1章では、1949年のPICCの設立から1959年における実質的消滅までを扱った。1950年代後半において、中国共産党トップが保険を重視せず、監督官庁の財政部には「保険ポケット論」が存在した。これらを背景として、社会で広く強制保険が実施され、保険が資本回収に利用された。地方分権化という社会情勢の中で、保険業務の管理権限が地方政府に委譲された結果、地方政府の決定により「中央国営企業の強制保険引受け停止」が、国内保険業務全般の引受け停止へ拡大された。

第2章では、保険業の対外開放を扱った。外国保険会社と中国保険業との関係が復活したのは1972年であり、その先鞭をつけたのは、米国のAIG社であった。1989年の天安門事件以後、米国との関係正常化を図るための1つの手段として、1992年にAIG社へ営業認可が与えられ、その後、米国以外の保険会社にも営業認可が付与されるなど、保険業の開放は、中国外交における取引材料の1つであった。

第3章では、保険業の改革を扱った。中国の保険における改革とは、「政府が保険を利用する体制」から「企業体や個人が保険を活用する体制」への転換であった。転換を推進したのは、政府による立法措置であった。PICCは1980年に再出発し、中国政府は1985年に暫定的な立法措置で、保険業界における競争体制の創出を図った。その後、保険会社の乱立のため市場が混乱すると、1995年に「保険法」を制定し、保険市場の規範化を目指した。

第II部では中国の三大保険会社(PICC・中国平安保険・中国太平洋保険)をとりあげ、企業経営の実態を分析した。第4章では議論の前提として、保険会社に特有の経理と経営指標について、その特徴や仕組みを確認した。また、比較の対象として、日本の大手保険会社3社を取り上げ、最近の経営指標を見た。

第5章では、PICCグループの経営戦略と経営状況を扱った。国有保険会社であったPICCは、1986年頃から社内諸制度を改革した。しかし、1992年の保険市場の対外開放に対して、PICCは海外進出戦略を採用した結果、コストが嵩んだ。同時期、国内市場では収益の多くを依存していた自動車保険の競争が激化し、収益が悪化した。1996年以降、PICCの収益はようやく持ち直し、重要な改革である「生損保分離」に着手した。

第5章補論では、PICCにおける縦横の管理ラインのあり方を探った。現代中国では、広大な国土と社会を管理し、経済を円滑に運営するために、国務院各部(内閣の各省に相当)が、系列の下部組織を指導する「縦の管理ライン(条々)」と、地方党政機関が、当該地区に所在する各種組織を指導する「横の管理ライン(塊々)」による二元的な指導体制(条々塊々)が生み出された。保険引受け業務(アンダーライティング)について縦の管理ラインの指導が強かったことを除けば、人事管理・資産運用・利益配分の各分野では、横の管理ラインの指導が強力であった。

第6章では、中国平安保険グループの経営戦略と経営状況を扱った。1988年創業の平安は民営企業の性格が強く、創業者・馬明哲が開放の時代のありかたを積極的に活用した。平安社内には、当初ノウハウや保険業を熟知した人材が不足していたため、海外から調達した。また、初期の資金は外資であるモルガンスタンレーとゴールドマンサックスから調達した。平安は台湾生保業界との接触から、生保に注力し、成長の原動力とした。

第7章では、中国太平洋保険グループの経営戦略と経営状況を扱った。太平洋保険は、上海市を基盤とする交通銀行の100%子会社として設立され、株式制を採用した。しかし、現実には、交通銀行の支店が太平洋保険の共同出資者となり、太平洋保険の支店が本店と同様に法人格を持った。同社は、地方分権的な「横の管理ライン」からの束縛がつよく、近代から続く中国独特の利益配分方式によって高配当を余儀なくされた。1998年に総経理に就任した王国良による業務改革は一定程度の成功をおさめたが、生保重視の業界動向に対応しきれず、外資導入による財務体質強化も遅れ、「改革」を貫徹しきれなかった。

第8章では、第5章から第7章までの分析を総合して、3社の経営状況を比較し、「開放と改革」の実像を検討した。その結果、平安保険が相対的に優れた経営パフォーマンスを示していた。平安は必要不可欠な経営資源を海外から入手し、それらを順次活用することで、競争優位を確保した。さらに、生保事業にいち早く経営資源をシフトし、国内の資本市場を活用して、投資収益を拡大した。その結果、損保事業においても、主要種目である自動車保険で料率引き下げ競争をする必要がなくなり、収益確保が可能となった。

終章では、以上をまとめた上で、1959年の国内保険業務の停止の過程のほかに、人事や資産運用において、保険業では「横の管理ライン」がつよく作用していたことを確認した。

本論文の意義は次の諸点にもとめられる。まず、中国の改革開放期の研究において、中国の研究を含めても、保険業についてはじめて包括的にとりあげた点である。特にPICCの成立から国内業務の引き受け停止までの時期は北京市檔案館と上海市檔案館の保険関係檔案を利用した。第二に、PICC・中国平安保険・中国太平洋保険の3社をとりあげ、年次報告を資料にして、各社の経営状況を実証的に分析した点である。3社の分析により、民間企業としての色彩が強い平安の経営パフォーマンスがよいことが確認できた。

第三に保険業において、地方分権がどのように機能していたかが明らかになったことである。現代中国政治の分析において、中央政府が人事を管理して、地方政府に影響力を及ぼすことが指摘されてきた。しかし、本論文では、保険会社の人事については横の管理ラインが強かったことが明らかになった。「二元指導体制」の実例について、これまで指摘されていた状況ときわめてことなる状況が存在することが明らかにされたのである。

審査では本論文の弱点や問題点についても指摘がなされた。第一に、第I部と第II部が分断された印象がつよかった。第二に第II部の企業分析も、3社がそれぞれ独立して論じられており、自動車保険など3社に共通する事例をとりあげて比較した方が3社の差異がよりわかりやすかったのではないかとの指摘がなされた。

第三に中国の保険業を通じてどのように中国の「地域文化」を論じるのか、やや記述不足となっている点である。終章で「中国社会が近代以降抱えていた「資本不足」」や中国保険業の「薄利多売」的特徴などが指摘されているが、これは本文中で十分に議論すべきであった。第四に、経済学の理論を踏まえた検討がやや弱い箇所がみられたことである。国内業務引き受け停止と「保険ポケット論」(第1章)とその後の保険業の復活(第2章)は、中華人民共和国の建国当初の計画経済化・集権化および金融の抑圧と、その後の市場経済化・分権化という大きな流れの中で位置付け、その関連を議論することが有用であったのではないかとの指摘がなされた。

このほか、農村における保険の状況(第1章)やPICCが海外進出した理由(第5章)、平安でマッキンゼー改革がうまくいった理由(第6章)について、十分な説明がなされていないという指摘があった。また、本論文では、保険業が中断されたことを、社会主義国のなかでは、唯一中国で見られたと説明している(第1章)が、旧ソ連や東欧で保険業がどのように継続したのか、具体的な例をあげての説明はなかった。

しかしながら、審査委員会はこうした弱点はあるものの、本論文が中国保険業における開放と改革研究に新次元を開いた実証研究であることを確認し、本審査委員会は全員一致で本論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定した。

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